#5.冬眠雪歩
冬のカルナスは、カオルにとって平和そのものであった。
一時こそ姫君が突如街を訪れた事や主席衛兵隊長が出世して城兵隊長として王城に招かれた事など、民を驚かせることも多かったが、雪の多く降るこの深冬ともなると、人々の心は次の春を待ち望むばかりで、穏やかながら、降り積もりゆく白を眺める日々に傾倒していった。
カオルもまた、王城で馬車と共にもらい受けた大金を元にこの街で一軒家を購入し、そこで暮らしていた。
国家の英雄の家としては随分控えめな一般家屋。
そんなものでも、カオルにとっては一世一代の買い物のように思えて、胸を高鳴らせたものである。
あくまで暖かくなればオルレアン村に戻るつもりとはいえ、ここでしばらくサララと暮らすのだ。
初めての冬ではあったが、暖炉もあり、冬を越せる家屋にありつけたことが何より有り難く、のんびりとしたひと時を過ごしていた。
「ふわ、あぁ~……あふ」
だらしがなく暖炉前の絨毯上で寝転がるのは、他でもないサララである。
お姫様のはずのこの少女は、カルナスに戻ってからはいつもどおり、ただのサララになっていた。
自分の国に戻りたがらないのかとカオルが問うても「別にいいですよぉ、寒いですし」と興味もない様子で、目下、この暖炉の前が定位置となっている。
そして、家の掃除や皿並べの時を除いて大体眠っている。寝過ぎである。
「相変わらずだらしがねぇなあ」
そんな大切な少女の有様に呆れながら、安楽椅子の上、自分もちょっとだけ眠くなってきたカオル。
欠伸こそ我慢していたが、頭がふら、と揺れたことを自覚し、意識が落ちる前に椅子を立った。
向かう先は、近くのソファである。
ひざ掛けに使っていた毛布を手に、腰掛けてすぐにも横になろうとしていた。
「うに? お昼寝ですか?」
「ああ、サララ見てたら俺も眠くなってきた」
「ふぁぁ……そういう事なら――」
先程の欠伸からクテっとしていたので、てっきりそのまま眠っていたのかと思ったカオルであったが、サララは気だるげに起き上がり、カオルの方へとよろよろ歩いてくる。
そうして、ソファに横になったカオルの腹の上にとん、と、倒れ込んできた。
「うぉっ」
「えへへー、あったかいですよ~……ふぁ」
そして、毛布をかぶったかと思いきや、そのまま眠りに落ちる。
衝撃の所為で眼が冴えてしまったカオルだったが、サララはその胸の上で構いもせずスースー寝息を立てていた。
「……あの? サララさん?」
「むにゃ」
「マジかよ」
サララさん、まさかの添い寝である。
というより、体のいい敷布団扱いであった。
カオルもこれには困惑である。
いくら小柄でも、突然腹の上に人間一人の体重がのしかかれば相応に衝撃もあり、重圧も掛かる。
腹に妙な重さが掛かるのもカオルにとっては不快だったが、何より眠気を阻害するのは、首下から香る少女の匂い。
(……花の匂いか……? シャンプーかな?)
そのなんとも言えないいい匂いに妙な気分になりそうなのを我慢しなければならず、すぐにでも寝落ちしてしまおうと思っていたのに、眠るのに眠れなくなる。
(なんかあったかい……サララって体温高いんだな)
そうこうするうちに段々と温かな体温が伝わってきて、眠るどころではなくなる。
匂いも体温も、一度意識してしまうとたまらなく異性を感じさせてきて、精神的にはまだ年頃の彼にとって、これ以上ない誘惑となっていたのだ。
「……ちくしょうが。悪戯しちまうぞ」
聞こえてもいないであろう相手に悪態をつきながら、その小さな体に手を這わせるようにして動かす。
そろそろと、ゆっくりと。
そのまま抱きしめてしまおうかと思ったカオルだったが、猫耳がぴくぴくと動いているのを見て、びくりと手を引っ込めてしまった。
(起きてるのか……?)
不安になり、苦しい姿勢ながらサララの顔を見るが、その顔は安らかである。
「ふにゃ……ごろろ」
「めっちゃ猫だ」
やはりというか、人間の女の子要素を除いたら猫にしか見えなかった。
そして抱き締めるのはやめたが、次の瞬間、カオルがサララに抱きしめられていた。
油断していただけに完全に不意打ちで、思わず声をあげそうになる。
(ちょっ、おまっ――)
「ふぁぁ、ん……むに」
とても幸せそうな顔で胸に頬ずりされ、カオルは抵抗を諦めた。
――このまま敷布団なり抱き枕なりになるのも悪くないか。
もう悪戯しようという気もなくなっていた。
というか、悪戯などせずとも十分なほど密着できてしまっていた。
カオルとしてはもう、何かを考える余裕すらないのだ。
ただひたすらに熱くなっていく密着面に興奮しながら、それを抑えようとしながら、ひたすら耐えるのみ。
ある意味拷問めいていたが、それとなく好意を抱く少女からこんな事をされ、嬉しくないはずもなく。
(ああ、柔らけぇなぁ……女の子すげぇ)
ぼーっと、恍惚感に満ちたなんともいえない幸せな気持ちのまま、やがて睡魔が訪れて意識を落としていった。
そうして目が覚めると、ちょうどサララが自分の方を見ている事に気づくのだ。
視線が合うと、すぐに逸らされてしまう。
「……サララ?」
「あの」
「うん?」
「忘れてください」
何やらそわそわとしていて落ち着かない。
視線も右往左往しているし、耳もいまいち方向が定まっていなかった。
「忘れるって、何を?」
「その……私、寝ぼけてたみたいで」
「そうなのか?」
「はい」
今一不明瞭ながら「確かにサララは良く寝ていたし、そういう事もあるのかな」と、その言葉を否定するつもりもなく、カオルはそれとなく受け入れようとしていたのだが。
当のサララは、カオルが何か問わずとも勝手に耐えかねていたようで、更に言葉を重ねてくる。
「あのですねっ、私、別に、その……やらしい気持ちとかないですからっ!」
「あ、うん、そうだな」
「恥じらいもなく男性と添い寝とか、そういうサービスを自分からする事とか、別にですね……サララは別にふしだらな訳では……っ」
無茶苦茶に恥ずかしがるサララに、カオルは思わずキュンと来てしまった。
すごく可愛かったのだ。
あれだけ大胆に抱き着いておいて、無防備な寝顔を晒しておいて。
目が覚めた途端こんな事をのたまうこの猫耳少女が、愛しくて仕方ない。
「サララはめっちゃふしだらな女の子だよな」
「ち、違いますっ」
「でも自分から男の上に乗っかって眠っちゃうくらい無防備だよな」
「ですからあれは……そのっ、寝ぼけていただけでっ」
「でも自分から抱き着いちゃうのが寝ぼけてる時のサララの癖なんだろう?」
「そ、それは――確かに抱き着いたり、目覚めにぼーっとしててついキスとかしちゃったりしてましたが――」
「えっ?」
「えっ?」
沈黙。
混乱の余りに妙な事を口走っていたサララに、カオルが疑問を投げかけ、サララも困惑の色に染まる。
しばし、両者の間に謎の空気が流れ――直後、恥じらいの共倒れとなる。
「キスって、サララ、お前っ」
「ち、違いますって! キスってあれですよ!? ママが赤ちゃんにするような、その、ちょっとした……『ちゅっ』ていうだけのものでっ」
「つまりしたのかっ?」
「し、してませんっ、してませんよっ!?」
「したんだなっ?」
「してませんったら! 根拠もなく変な事言うのはやめてください!」
「でも実は俺起きてたぜ?」
「えっ、嘘!? あぁぁぁぁぁっ! ち、ちちち違うんですっ、アレは親愛の証というかっ、つい朝だからこれくらいいいかなあって思っちゃっただけというかっ!」
語るに落ちるとはまさにこの事であった。
パニック気味なサララとは逆に、カオルは今、妙な達成感と優越感を同時に感じていた。
いつもはいいように弄り回されているカオルが、今は一方的にサララを弄っているのだ。
そしてそれをやってもサララが起こっていない。最高に無敵な時間だった。
「つまりやったんだな?」
「いやその、ですから――」
「言い逃れしない」
「――はい、ごめんなさい」
言葉責めに抗い切れなくなり、しょんぼりと耳を落としながら、サララはうなだれてしまう。
何故か正座したまま。がっくりと。
(ていうか、むしろご褒美なんだけどな)
サララとしてはちょっとした悪戯か愛情表現のつもりだったのかもしれないが、カオルにしてみればご褒美以外の何物でもなかった。
ずっと可愛いと思ってた子から、ほっぺたとはいえキスされたのだから。
嬉しくないはずがない。むしろ興奮のあまり目が一気に冴えてしまったほどだった。
「いいかサララ。俺から言う事は一つだ。よく聞け」
「はい」
「意識が無い時にされても寂しいから次からは意識があるときにお願いします」
「はぃぃ?」
なぜかお願い口調になっていた。敬語である。
カオルはやはり、女の子相手に強気に出られなかった。
「だから、その、なんだ。来るから正面から来いやぁ!」
「な、なななな何を言ってるんですかカオル様ぁっ!? 私から行かないとダメなんです!?」
「いやそれは」
「カオル様がいつまで経っても来ないから――いやそうじゃなくて! ずっと待ちの姿勢はどうかと思います!」
「そ、そうなの……か?」
気が付けば形勢逆転していた。
サララ強い。やはりカオルはサララには勝てなかった。
「いいですもう! カオル様がそういうスタンスでいくつもりだったなら、この冬の間に徹底的に調教して差し上げますから、覚悟していてください!!」
「ちょ、調教ってお前――人を犬か馬みたいな」
「貴方にはもっと目上の男性として威厳や自信を持つ必要があると思うんです! それがないからいつまでもそんな待ちの姿勢になるんですよ! もっとがっつりいきなさい! 気に入った女の子街で見かけたら思わず浮気しちゃうくらいにがつがつするのです!!」
「お前、前に言ってた事と言ってる事違ってないか? がつがつしてるのは好きじゃないって――」
「えっ、そのことを覚えてた……んですか?」
そのまま眼の据わったサララの勢いに負けそうになっていたカオルだったが、どうやらカオルの一言がサララの歯止めとなったらしく、急にしおらしい態度に戻る。
忙しすぎる少女、サララ。
「えーっと……そ、そうですか。その時のサララの言葉を覚えててそうなったのなら仕方ないですねぇ。うん。全く、カオル様ったら、変なところ律儀なんですから」
やれやれ、と、目を泳がせながらそっぽを向き、そのまま歩き出す。
「カオル様、お外の雪が止んだみたいですから、私、ちょっと買い出しに行ってきますね」
「あ、待てよ。荷物持ち要るだろ? 着替えるから待ってろって」
「ええ、それじゃ、お買い物デートと行きましょう」
背を向けながらも、尻尾がぴん、と立っているのを見て、カオルは「ある意味解りやすいよな」と、のそのそ立ち上がる。
犬派のはずのカオルも、気が付けば猫娘万歳になっていた。
「カオル様、やっぱり寒すぎます」
「コート貸してやるからもうちょっと頑張れよ」
雪の積もる街の中。
寒さを笑うようにわざと寒がる猫耳少女に、カオルは当たり前のようにコートを掛けてやり、のんびりと歩き出した。
「……えへへ♪」
その自然な仕草に「今のは高得点でしたよ」などとのたまいながら、猫の姫君は華の様な笑顔を見せる。
白雪に舞う雪花の如きその笑顔。雪の中にありながら、どこか陽の光のように暖かで、カオルには優しく感じられた。