#1.罪と罰と悔
光差さぬ監獄。
王城の地下にあるこの黒の世界は、そこに収監される者達にとって、絶望ばかりが色濃く映っていた。
檻の中は地上部から滴り落ちてくるぬめった水の所為で湿気が高く、光差さぬ空間をわずかばかり照らす燭台も、空気から酸素を奪い息苦しさすら感じさせる。
蝋燭の炎など冬場の監獄の寒さを和らげるに何の貢献もするはずもなく、収監者らは皆入った時のままの衣服と、体臭がこびりついた毛布を身に包み、震えるばかりである。
極めつけは、先に収監された者達が発する、何と例えればいいかも解らぬほどのすえた臭い。
これを嗅いでいるだけで、不慣れな者は嘔吐してしまうのではなかろうか。
「うぅっ、出してくれっ、俺は、俺はまだ死にたくねぇっ!」
「早くここから出してっ! 私は何も悪いことはしてないのっ! あの女に騙されただけっ!」
入り口に近い牢から聞こえてくるのは、まだ比較的人らしい理性を取り留めている者達だった。
収監されて日が経たぬ者か、罪の軽さ故、いずれ解放されるのが解っている者。
こういった者達は心までは蝕まれておらず、盛んに叫び声を発し、己の正気を証明していた。
「……あは、ふふっ、くふふっ――くひっ」
「ひっく、ぐすっ……もう、もういやあ……こんなところ、こんな、こんなこんなこんな……きひっ」
壊れてしまった者達も、ここでは比較的幸せな者達として扱われていた。
理性など失くしてしまえば、このように毎日狂喜乱舞し、ひたすら笑い続けられる日々を送れる。
理性を保つ者にとって、こういった者達の姿は心に迫るものを感じさせ、自らの正気を保つ為の「ああなりたくない」「あんな風になったら終わりだ」と思わせる負の見本となっていた。
「……」
そうして、最奥。
重罪人や逃げられては困る政治犯などを捕らえる牢に、『彼女』は居た。
かつては王城にて侍女長として、王子アレクの乳母として権勢を誇っていたエリザベス、その人である。
かつての地味な衣装からすればある程度華美ながら、喪服じみた黒のドレスを身に纏い、一人牢の中、ベッドに腰かけぼんやりと虚空を眺めていた。
一時こそは主人であるソフィアの危機を知りパニックに陥り、王妃相手に刺し違えようとまで考えた彼女であったが、今ではすっかり毒の抜けた様子で、ただただ、自らのした行いを省みるだけの日々を過ごしていた。
(私は、一体何をしていたのだろう……?)
噂には、ステラ王女の婚約者にとけしかけた王の弟と大臣の次男の両名は、それまで行った悪事が露見し、王の逆鱗に触れ処刑されてしまったのだと聞いていた。
処刑の間際、二人が二人とも「魔人に操られていたのだ」と声高に叫んでいたが、そんな世迷言を信じてくれる者など最早どこにもおらず。
様々な方向に迷惑をかけ続けた愚か者二人は、今では土の下で仲良く眠りについているのだと、彼女は牢番から聞かされていた。
(……あの二人が処刑されたことは、何一つ心が痛むことはないけれど……何故私は、まだ生きているのかしら?)
両名が自分と同じように魔人に誑かされていたというのは初めて知ったことながら、自分だけがただ、牢に押し込められているだけで済んでいるのが不思議でならなかったのだ。
本来ならば首謀者として真っ先に首を刎ねられてもおかしくないというのに。
『随分と不思議そうな顔をしているわねぇ?』
考えを巡らせているうちに、彼女は再び、『魔人』の声を聴いた。
それは、鏡を介してではなく、自らの脳内に響く声。
耳を塞いだとて止められぬ、狂気の響きであった。
「――マグダレナ」
『ウフフフッ、そうよ、貴方のマグダレナよ、エリザベス?』
その甘美ながらも狂気を隠さぬ口調に、エリザベスを目を見開き戦慄する。
また。
そう、今日もまた、始まったのだ。
『どうしてそんなところにいるのかしら? 早く牢番を誘惑して、牢のカギを奪っちゃえばいいのに。貴方の美貌ならそれも可能なはずよ?』
「そんな事をしても何にもならないわ。私はもう、貴方の甘言には乗らない」
『あらそう、それは残念ね……』
寂しくなるわ、と、エリザベスの脳内で、さほど寂しくもなさそうに呟く。
その声が響く度、頭が割れそうになるほどの激痛と、視界がぐらつくような幻覚に苛まれる。
「ぐ……ぁっ」
『とっても苦しそう。でも大丈夫よ? あの二人のように欲望に呑み込まれてしまえば、これすらも甘美に聞こえるはず』
「あの、二人……? やはり、貴方はあの二人にも――っ」
『ええ、もちろん貴方の想像通りよ? 噂か何かで聞いているのでしょう?』
何が愉しいのか、謡うように語り始めるマグダレナ。
エリザベスは激痛が走る頭を何とか抑え、脳髄で響き渡るその声を、なんとか聴きとろうとした。
『くふふ……王様の弟は、自分がどうしても王様になりたかったっていう欲望もあったし、幼い頃に失った許嫁がずっと忘れられず、その子と一緒に過ごした日々を想うあまり幼女や少女にしかセックスを感じられず、歪んでしまったの。お姫様はまだロリ可愛いから、無茶苦茶に犯して背徳セックスを愉しみたかったみたいね。あの男の城の地下には、こっそり誘拐した村娘や、婚姻を控えて旅に出たはずの豪商・貴族の娘なんかが囚われてて、皆お人形みたいに無反応になっているの。素敵な願望よねぇ』
「……」
『大臣の次男は……ずっとお姫様と結ばれたいって強く想ってたのもあるけど、他の兄弟が優秀過ぎて自分だけが才能に恵まれない事にひどくコンプレックスを抱いていたわぁ。「今の僕では姫様には釣り合わないから」って諦めようともしてた。だから、毎晩頭がおかしくなっちゃうくらいお姫様といちゃらぶセックスし続ける夢を見せてあげたの。すぐに自分がお姫様から相手にされていない現実を直視できなくなって、性欲に狂ったわ』
「……っ」
両名に対し特別感情を向けていた訳ではなかったエリザベスでも、嘲るように語るマグダレナの言葉には、強烈な嫌悪を抱いた。
それが真実なのか、あるいは自身を惑わす為の狂言であるのか。
どちらであるか考えようとして、それを必死に頭を振る事で振り払おうとする。
どちらであろうと、関係などないのだから、と。
「貴方の目的は、なんだというの……? 私一人を誑かすならまだ解る。でも、その二人は貴方に何を与えたというの……?」
『とっても甘美な負の感情よ? 特に私は他者が理性をかなぐり捨ててまで悦楽に溺れるその様を見るのがとっても好きなの。純白のお姫様を無茶苦茶に穢したいっていう男達のどす黒い願望は、私にとってとても魅力的なモノに映ったの』
「……そう」
事実がどうであるかなど、エリザベスには確認のしようもなかった。
ただ、エリザベスにとって、このマグダレナのもたらす言葉のみが唯一、まともに得られる情報なのも確かで。
そうして、欲望に狂った両名が、狂う前の時点で本心から姫君の身体を求めていたというなら、それはもう、疑う理由すら彼女には持ち合わせていなかったのだ。
元々、同情の余地もないほどにダメな男達だったのだから。
『貴方にとってだって、あのお姫様には壊れてもらったほうが良かったんでしょう? 大好きなアレク王子が台頭する為には、賢く美しく、民衆のみならず貴族や文官にも人気があるお姫様がまともなままで居られては困るはずだもの』
「……そこまでは願っていなかったわ。ダメな男が夫になれば、一時でも王になれば、その失政を理由に姫様を引きずりおろせる。そう思っただけだもの」
『いっそ男達を使ってお姫様を強姦させてしまえばよかったのにね。王女なんて、傷物になればそれだけで価値がなくなるのに』
「私はそこまで外道じゃない」
『自分の身体の一部を魔人に差し出した貴方が? 面白い事を言うのね? 世間では貴方のような女を外道と呼ぶのよ?』
「……うるさい」
『ねえエリザベス。つまらない事を考えるのはやめて、もう一度私と手を組まない? 今度は身体の一部を差し出せなんて言わないわよ? とってもお手軽に、お城を乗っ取れる方法を教えてあげちゃう★』
「結構よ。私はアレク様を王にしたかっただけ。お城を乗っ取りたいと思ってた訳でもなければ、権威を誇りたかったわけでもないわ」
じりじりと脳内を侵してゆく魔人の声に、エリザベスはうんざりとしながらも、必死に耐え続ける。
今一度魔人の甘言に溺れれば、自分も処刑された二人と同じように、どこまでも堕落し、身を滅ぼしてしまう。
いいや、既に一度身を滅ぼしたも同然。何故かつながった命をこんなところで無駄遣いするつもりは、彼女にはなかったのだ。
『どうしても駄目……? 私、すごく悲しいわ。貴方の事、本気で愛していたのに』
「私は貴方など愛していないわ」
『そう、フラれちゃったのね、私……じゃあ、しょうがないわ――』
一瞬弱くなる頭痛。
いつもはこれで終わるので「今日も耐えきれた」と、安堵してしまうエリザベス。
しかし、間を置いてマグダレナの息づかいがまだ、脳内に響き渡っていた。
「――マグダレナ!」
『ウフフフフッ、残念だわぁ。すごく残念。残念だけど仕方ないわねぇ。貴方が傍に居てくれないなら、もうあの子には意味もないし』
「まさか……まさか貴方っ、アレク様にっ!?」
『今度はあの王子様を狂わせて、その脳髄に湧いた甘い汁を啜り尽くしてあげる。うふ、うふふふ、うふふふふふっ』
「やめなさいっ、そんな――アレク様がっ、アレク様がっ!!」
番兵は、最奥の牢が騒がしいことに気づく。
最近収監した、元侍女長エリザベス。
最近はすっかり落ち着いたはずの彼女が、今日ばかりは俄かにやかましく騒ぎ立て、檻を幾度も揺らしたり叩いたりしながら、絶叫していた。
「――お願いっ、今すぐここから出して! アレク様が、アレク様がこのままでは――っ!!」
「お静かに! いくら陛下から荒っぽく扱うなと言われていても、あまり騒がれれば口をふさぐことになりますぞ!」
すぐさま牢に駆けつけた二名の番兵は、酷く取り乱した様子のエリザベスを見て、「この方も壊れたか」と呆れたような眼で見下ろしていた。
「お願いよっ、話を聞いて! 私を出さなくてもいい、アレク様が大変なの! 今すぐ、今すぐにでも兵を向かわせて頂戴! お願いよ、お願い!!」
「ああ解った解った。話なら後で聞くから、とにかく今は落ち着いていただきたい」
「そのように興奮していると他の収監者にも悪い影響が出ます故……」
「ふざけないで頂戴! 早くっ、早くアレク様を――」
「全く……以前は楚々としていてお美しい方だったのに、こうなってはもう台無しだな……」
「見る影もない。無様なものだな……」
やれやれ、と、呆れたように去ってゆく番兵たち。
取り付く島もない。
自分の言葉など全く意に介してくれず、エリザベスは絶望した。
「お願いよっ、私の話を聞いて! お願いだから! どんなことをされてもいい、どんな罰でも受けるわ! だから、アレク様を……アレク様を、守って……お願い……」
声は聞こえなくなった。
マグダレナは、既に彼女の中には居ない。
次の目標は、愛しきアレク王子へと向いてしまったのだ。
全て自分の犯した罪が元となり、最愛の王子が、マグダレナの触手に絡みとられていってしまう。
(そんなの……そんなの、酷すぎる……!!)
何を捨ててでも王位につけたかった、あの愛らしい王子が。
あのような得体の知れない魔人に狙われてしまったことが、彼女にはこれ以上ない罰のように思えた。
それでいて、自分は檻の中で何もできず。
ただただ、自らの無力さを思い知らされるばかり。
その絶望たるや、どれほど深い物か。
深淵たる牢獄の中、かつて侍女長だった女のすすり泣くような声が、延々響いていた。