#11.その頃の城内
白亜の城から姫君がいなくなって、既に二週間あまりが経過しようとしていた。
城内の状況は、しかし姫君の想像とは裏腹に悪化の一途をたどり、その空気は重苦しく、痛々しい物へと変貌していた。
「……このままでは」
城内の一室。奥ゆかしさを極めたかのような灰色のドレス姿の婦人――侍女長エリザベスが一人、ドレスミラーの前で佇んでいた。
私室であるこの部屋は、彼女の主である王妾ソフィアと第一王子アレク以外には容易に入る事が出来ない部屋。
平素は彼女だけの部屋である。
鏡に向かってため息をつくその顔は、明らかな疲労が見て取れた。
腰ほどまでの長い銀髪はまだ瑞々しさも残しており、多少年増ではあるものの、まだ女として十分通用するその美貌はしかし、深い心労の中、錆びついているようにも見えた。
『城内の状況が思わしくないようね?』
そうして、彼女以外に誰もいないはずの部屋で、彼女以外の、涼やかな女の声が響いていた。
だというのに、エリザベスは眉一つ動かさない。
「――マグダレナ」
『そうよ、マグダレナよ。私の可愛いエリザベス。折角策を授けてあげたのに……お姫様が逃げてしまうなんて、残念ね?』
「黙りなさい」
『ふふふっ……怒った顔もプリティよ? 素敵。ドキドキしちゃう』
好色めいたからかい口調に内心では苛立ちを感じながらも、エリザベスは、表向き表情一つ変えず、鏡を見やった。
そこに映るのはあくまで自分の顔。
ただし、いやらしい顔つきで嗤う、自分でも見た事もないような表情の女であった。
そう、女の貌をしていたのだ。
「一体誰が邪魔を……あの大人しい姫様に、ここまでの行動力があったなんてとても思えないわ」
姫君不在の城内は今、混迷を極めている。
何故、何時、どのようにして姫君が城を出たのか。
城内で唯一それを知りうる城兵隊長トーマスまでもが城から兵を連れ出しどこぞへと出撃してしまった為、今城内に残された者達の間では、どのような状況からそんな事になったのかも解らぬまま、ただただ疑惑と憶測とが飛び交っていた。
特にエリザベスにとってよくないのは、『姫君が候補者二人を毛嫌いするあまりに抗議の為城から出た』という噂が広がりつつあるというもの。
元々あまり自身の婚姻話に関していい顔をしていなかった姫君ではあったが、そのような状況からこう推測する者が目立ち始めている。
そうして噂は、エリザベスやその派閥の者がどのように対応しようとも、瞬く間に広まってしまっていた。
これにはステラ派の者達も少なからず裏で糸を引いているように思え、エリザベスは余計に焦ってしまう。
『城兵隊長の入れ知恵ではなくて? あるいは、王妃が何か気づいたのか――』
「私と貴方の関係に気づける者が城内にいるとは思えないわ。後はそう……魔人を倒したとかいうあの英雄。なんと言ったか――その男が、姫様の相談に乗って連れ出したのかもしれない」
『魔人を……ねぇ?』
「貴方の仲間の事でしょう? 何か知っているのではなくて?」
マグダレナと呼ばれた鏡の中の女に対し、エリザベスは怪訝そうな視線を向ける。
鏡の中の女はしばし思案顔になった後、「さあ」と、あっけらかんとした表情になり、笑った。
『魔人と言っても一枚岩ではないもの。私みたいに方々で好き放題やってるのもいれば、魔王復活の為真面目に色々企んでる奴もいる――ただ一つ言えることは、私達魔人の中で、ゲルべドスは破格の力を持っていた。それを倒すことができる人間がいたなんて、とても信じられないくらい』
「……つまり、お城に来たという英雄はそれだけ強かった、という事かしら?」
『倒したという話自体がよくできたペテンでないのなら、そうなるかしらねぇ。貴方は知らないんでしょうけど、確かにその英雄とやらはお姫様の逃亡に一役買っていたようね』
「なんですって……?」
突然先ほどまでの発言をひっくり返すが如き言葉に、エリザベスは眉をひそめた。
『ふふっ、今、城内の者の頭の中をスキャンしたのよ。あのうすぼんやりした見るからに無能そうな王はスルーしたけど……ま、城内でそれを知っていたのは、王妃だけね。それも、あくまでその可能性に気づいただけっていう』
「つまり、王妃が英雄に指示したわけでも、姫様に入れ知恵したわけでもない、と」
『恐らくはね。だけど、状況を利用できると踏んだんでしょうね。実際お姫様はお城から居なくなり、結婚話を進めることはできなくなってしまった。後は王妃が、かねてより険悪な関係だった候補者二人を煽って対立を激化させれば……潰し合いになるのは目に見えているものね?』
「いくら陛下が無能だったとしても、流石にそこまで酷い状況になれば無視はしないでしょうが……貴方の考えた『無能な男を姫様の夫として王位につけさせ、姫様の継承権を台無しにする』という策は使えなくなるわね」
『そうねえ。どこから策が潰えるのか解ったものではないわねぇ。これが現実かぁ。ああ、嫌になるわぁ』
いやだいやだ、と、頬に両の手をあてながら首をふりふり。
相応に歳を重ねたその外見としてはやや痛々しい仕草の為か、エリザベスはため息混じりに口を開く。
「――私の顔で歳に似合わない仕草を取らせるのは、やめてくれないかしら?」
『えー? いいじゃない。貴方まだまだ若いわよぉ? 乳母なんてやってたから老け込んじゃったけど、まだ30いってないでしょう? 子供だって産めるでしょうに』
「もう産めないわよ」
解ってる癖に、と、ここにきて初めて露骨な嫌悪を見せる。
そんなエリザベスに、鏡の中の女は同じ顔で「くくく」と笑うのだ。
『そうだったわねぇ。ごめんなさぁい? 貴方の大切なモノ、私が代償に貰っちゃったものねぇ? でもその貴方の覚悟に私、すごく感銘を受けちゃったんだから。これからも頑張ってお手伝いしてあげるからねぇ?』
「……当たり前よ。私はアレク様の為なら何だって差し出すわ。さあ、つまらないお喋りはいいから、これからどうすればいいのか教えなさいな」
あえて地雷を踏み抜いていくスタイルのマグダレナに呆れながらも、その力こそは買っているのか、エリザベスは話の先を求めた。
人ならば作れぬ話でも、魔人ならばそれは可能だから、と。
『ステラ派の支持者の中にも、ちらほら良くない噂を持った者が現れ始めてきたわぁ。それって、上手く使えば有効なスキャンダルになると思わない?』
「……なるほど。それは確かに使えそうね?」
『うふふふ……嬉しい事、悲しい事、辛い事、忘れたい事、キモチいい事――人間って沢山の感情を頭の中に忘れたままにするんだもの。解りやすくって……大好き★』
「……」
『特に人間ってキモチいい事に弱いのよねぇ。そういう傾向が強い奴を教えてあげるから、上手く活用なさいな』
「そうさせてもらうわ」
『うふふ……楽しみ。ああ楽しみ。もっともっとカオスになればいいわぁ。人の不安、人の困惑、人の苦悩、人の欲望! ああ、なんと甘美な負の感情。沢山の魔力が、お城という神殿じみた魔力拠点から排出されず、どんどん蓄積され、それが人の心を惑わし蝕み増幅させる――ふふふっ、ふふ、あははっ』
愉しくて仕方がないとばかりに口を押えながらも笑いを堪えない鏡の中の美女に、エリザベスは少なからぬ不気味さを覚えてはいたが。
それでも、今の状況を覆せるのならばと、その策に乗るしかなかった。
数日後、王妃の私室にて。
「――なんですって!? ミルギム男爵が失脚した――!?」
「はい……行儀見習いとして登用されていた年少の侍女相手に、その……不義理な行いをしようとしていた事が露見し――」
優雅に取り巻き達と紅茶など親しみながら、姫君不在の城内の自勢力を如何に動かすかを考えていた王妃にとって、側近よりのこの報告は相当にショックな出来事であった。
「そんな……男爵は姫の有力な支持者だったというのに」
「罠でしょうか……? 確かにあまり聞こえの善くない方ではありましたが、どちらかというとお年を召した女性の方が好みだったはずですし……」
「そうに違いないわ。おのれエリザベス。謀ったわね!」
悔しげに歯を噛みながら、どん、とテーブルを叩き、立ち上がる。
その肩はわなわなと震えており、整った顔立ちも、怒りの為に皺まじりとなっていた。
「テリア様、これはもはや戦争ですわ! これ以上姫様の不在に好きにさせては、我らの派閥が散り散りになってしまいます!」
「今すぐ侍女長を排斥すべきでは!?」
「王妃殿下!」
取り巻きの侍女らも、上司である侍女長ではなく、自らが主と認める王妃こそが正しいと思っている為か、その口調はとても強いものとなっていた。
皆、幼いころから王妃の傍仕えとして尽くしてきた者達である。
後から城に入ってきて、王の妾への寵愛の恩恵を受けてのし上がっただけにしか見えないエリザベスは、彼女達古参の侍女からしてみれば突然湧いた眼の上のコブでしかなかった。
そんな彼女達の怒りに王妃も心強さを感じてはいたが、興奮した様を見て逆に冷静になり、「いいえ」と首を横に振る。
「――一旦落ち着きましょう。相手が攻勢を強めているという事は、それだけ焦らせることができているという事。候補者の二人さえ潰す事が出来れば、エリザベスが何をしようと姫の王位継承権に傷がつくことはないのよ」
「ですが、今のままでは姫様支持に回っている貴族や有力者がアレク派に寝返る可能性も――」
「なんとか繋ぎ止めるしかないわね。手段は段々と選べなくなっていくわ」
「……」
ごくり、喉を鳴らす音は誰ものものだったか。
沈黙の重苦しい空気は、王妃も、そして取り巻きの侍女らにとっても熾烈を極めるであろうこれからの日々を覚悟させていた――
そうして、それとは別に、両者の対立に挟まれ、憂う勢力もあった。
城内奥向き。
この生活エリアは、国王の寵愛を受けし王妾ソフィアの暮らす領域であり、城内においては唯一と言っていい、平穏なままの空気が感じられる世界であった。
「……やはり、このタイミングで動き出しおったか。いやはや、困ったものじゃのう」
控えめながらも品を感じさせる食卓は、主である王と美しき妾を並び座らせ、その溜息を響かせる。
静寂に満ちた狭い部屋はしかし、こつり、こつりと、ヒールを鳴らしながら静かにやってきた『本日のゲスト』を迎えていた。
「――そなたも、そう思うであろう?」
王の視線は隣に侍るソフィアではなく、正面の席に腰かけようとしていたそのゲストに向いていた。
雪の如く真白のドレスを纏った、黒の姫君へと。
「さあ、どうでしょうか? 私は城内の事には疎い立場ですので」
「然様か。それにしても、城内がこのような状況下でそなたが来るとはなあ。これも女神の思し召しか、あるいは――」
「私はただ、ある方への恩義に報いるが為、想い寄せる方の役に立ちたいという、その一心のみで参っただけですわ。女神アロエ様の事など無関係です」
「そうであったか。いやはや――姫君は美しくなられた」
美辞麗句も要らず、ただただ自らの想いのまま現れたこの『姫君』に、王はいたく感服したような、懐かしい気持ちを覚えるような、複雑な心境のままに笑い掛けていた。
隣に控える王妾も、微笑みを湛えながらに姫君を見つめる。
「――本日は、陛下の真意をお聞かせ願いたくこうして参りました。どうぞよしなに」
スカート端をちょこんと持ち上げながら、小柄なその姫君は、大人びた薄紅の唇を、に、と吊り上げた。