#1.兵隊さんとの出会い1
「う……ん……?」
次に気が付いた時には、カオルはもう、どこか解らない場所にいた。
少し遠い、木でできた一面の何か。
しばし見つめ、よく解らずに顔を横に振ろうとして――ようやく、カオルは自分が横たわっていたことに気づく。
「よっ……しょっ、と」
手をついて起き上がる。部屋だった。見知らぬ木造の部屋。
粗末なベッドの上に寝かされていた。
妙に軽い身体に違和感を感じて、気づく。
(あれ、制服じゃないや……)
身にまとっていたのは、ちょっとぼろい肌着とシャツ、それからズボンだけ。
(ていうか、パンツがねぇ。どういう事だこれ?)
まさかの感触に困惑した。スースーしていたのだ。
「……棒切れはあるのか」
見回してみて、ベッドの横に棒切れが立てかけられていた。
――そう、さっきまでのあれは、夢でもなんでもない現実だったという、その証拠。
「へくちっ」
くしゃみが出る。肌寒いのだ。
さっきまでそんなに寒さなんて感じていなかったはずなのだが、どうにも寒く感じて、掛けられていた布団を被る。
カサカサで柔らかさの欠片もない布団だったが、これがカオルの最後の砦であった。
鼻水が垂れる。癖でティッシュ箱を探すのだが、ベッド周りのどこにもそれらしいものは見つからなかった。
(ベッド周りにティッシュ箱がなかったら不便じゃんかよ……どうしてるんだろ)
ないものはないので仕方ない、と、手の甲で鼻を拭く。
それから、改めて部屋を見渡した。
ちょっと狭めの、木造の部屋。
自分が暮らしていたマンションとは明らかに違うが、カオルでもそれは理解できた。
コンクリート製のそれとは違い、ほのかに香る匂い。
臭い訳ではないのだが「これも木の香りって奴なのかな」と、小さく首を傾げる。
窓からの陽射しはあまり強くない。もしかしたら、もうすぐ夕暮れなのかもしれない。
ベッドの堅さといい、この奇妙な部屋の作りといい、女神様の言っていた『異世界』っぽい趣を、カオルは敏感に感じ取っていた。
「気が付いたようだね」
どうしようか、と、ベッドから降りるでもなく、布団を被ったまま部屋をぼーっと見ていたのだが。
開いたままのドアから、若い男が一人、入ってきた。
見た目25歳ほどだろうか。
茶髪で、凛々しく整った顔だち。
背こそ高く細身に見えるが、水差しを持っている腕なんかはカオルとは比較にならないくらいに筋肉質で、相応に鍛えられているのがカオルにも解った。
「全く、驚いたよ。村の巡回をしていたら麦畑で倒れてるんだものな」
何事かと思ったものだ、と、爽やかに笑いながら水差しを置き、ベッド傍の椅子に腰かける。
カオルにとって大変ありがたいことに、事情の説明までしてくれる親切さであった。
「お兄さんが俺を助けてくれたのかい?」
妙な声だな、と、自分の声に違和感を感じながら、その若い男の様子をうかがう。
「ああ、そうだよ。行き倒れならどうなるかと思ったが、思ったより元気そうで何よりだ」
声は変であったが、自分の出した言葉がちゃんと通じていて、相手が返答してくれたので、カオルはひとまずは安堵する。
「お兄さんは誰なんだ?」
ちょっと直球過ぎるかな? と思いはしたものの、カオルは構わず問いかける。
何せここがどこなのか解らないのだ。相手が誰なのかすら解らない。
社会経験の乏しいカオルにだって、目の前の、この人のよさそうな青年くらいしか頼れる人が居ないのは解っているのだ。
「私かい? 私はこの村に常駐している衛兵だよ。村の人からはヘータイさんとかヘイタイさんって呼ばれたりしている」
「なるほど、兵隊さんか」
どうりでよく鍛えられている訳だ、と、太めの腕を見ながら納得する。
それからよくよく兵隊さんのいでたちを見直すのだ。
カオルと違ってそこそこ小奇麗なシャツを着ているし、胸なんかは薄い皮のベルトのようなものが巻かれている。
ファンタジーで兵隊と聞くとカオルは鉄製の鎧をまとったいかにもな格好を想像したが、実際にはこのベルトっぽい何かが鎧なのかもしれない、と思い至り、「思ったより現実はしょっぱいんだなあ」と、また一つ現実の切なさを学んでしまっていた。
だが、腰に剣を差しているのは格好良かったし、余計な事は口走らない。
「君の名前を聞かせてもらってもいいかな? 呼ぶにも『君』ばかりでは不便だしな」
カオルの遠慮のない視線にも嫌な顔一つせず、兵隊さんはにこやかに笑いかける。
男のカオルには意味がないが、村の若い娘くらいならコロッと落ちてしまう爽やかフェイスである。
「俺か? 俺は――」
ここで、カオルは名乗ろうとしたのを一旦止め、わずかな思考に入る。
どうせなら、と、異世界風の、格好いい名前を名乗ってやろうと思ったのだ。
「……あー」
だが、少し考えてすぐに別の思考が入る。
それほど長い時間ではないが、沈黙と妙な空気が部屋に流れ、兵隊さんは首を傾げた。
「どうかしたのかね? まさか思い出せないとかか?」
心配そうに見つめてくる兵隊さんに「いいや」と、手を前に出しながら苦笑いする。
「俺の名前は……その、カオルっていうんだ」
残念ながら、カオルにはそれほど格好いい名前というものが浮かばなかった。
あれやこれや考えて思いついたのは、アニメやゲームなんかで主人公の名前に使われるものばかりだったし、それなりに格好いいのはいくらかあったが、残念ながら今の自分には不釣り合い過ぎだと気づいたのだ。
どんなに格好いい名前を思いついたって、釣り合わなくては名前負けしてしまう。
アニメやらゲームやらの主人公の名前は、カオルという少年にはいささか格好良すぎたのだ。
「カオルか。いい名前じゃないか」
「……ああ、ありがと」
社交辞令なのか、それとも素で言っているのかがカオルには解らなかったが、兵隊さんは機嫌よさげに笑っている。
カオルにはそれがむず痒く……そして、ちょっとだけ嬉しかったのだ。
カオル的には女っぽくてあまり好きではない名前だったが、褒められるのは悪い気がしなかった。
「カオル。一応、仕事柄教えてもらいたいんだが……君はどこから来たんだい? 仕事は、何をしている?」
一旦間を置き、部屋の外から木のコップを片手に戻ってきた兵隊さん。
カオルの前にカップを置き、椅子に腰かけながらじ、と、カオルの顔を見つめていた。
「……これは?」
出された飲み物の匂いを嗅ぐと、どこか懐かしい香り。
不思議な気持ちになりながらも、その中身を問うカオル。
「麦茶だよ。粉にしない分の麦を炒ったんだ」
「ふーん……」
案外飲み慣れたものの名前が出たので若干驚きながら「異世界にきてまで麦茶が飲めるとはなあ」と、一口。
「ぶはっ」
直後、噴き出した。
「ちょっ、甘っ! な、なんなんだこれ!?」
「なんだって……麦茶だと言っただろう」
「甘すぎるだろうっ!」
「砂糖が入ってるのだ。甘いに決まってるじゃないか」
――砂糖!? 麦茶に砂糖!?
カオルは驚愕した。
彼の人生において、麦茶が甘いなどという事は一度たりともなかったのだ。
彼にとって麦茶とは、清涼感溢れる、若干の香ばしさを感じさせてくれる、甘みのない飲み物であった。
彼の世界にだって地域によってはそういったものもあるはずだが、そんな事知る由もなく。
ただただ、驚愕と疑念の眼を、兵隊さんに向けてしまっていた。
そして次に出たのは、理不尽な憤りである。
「麦茶馬鹿にしてるのかあんたは!?」
「何を言ってるんだ君は! 麦茶に砂糖を入れるのは当たり前の事じゃないか!?」
狭い木造の部屋を、二人の怒号が交差する。
カオルは思った。「ああ、やっぱここ、異世界だわ」と。「異世界人、訳わかんねぇ」と。
「……そんなに口に合わないのなら無理に飲まなくてもいい」
カオルの文句がよほどに腹立たしかったのか、兵隊さんはちょっと不機嫌になってしまう。
折角持ってきてくれたコップも、片付けようとしてしまう。
「いや、その……ごめん。片さないでくれ、飲むから」
カオルはカオルで、そんな兵隊さんを見て「これ、俺の方が悪かったよな」と、反省していた。
折角出してくれた飲み物なのだ。それを馬鹿にするのは、さすがにダメな事だと気づいたのだ。
その場で平謝りし、じ、と、兵隊さんを見つめる。
「――私も大人げなかったようだ。君の住んでいる地域では、麦茶は甘くないのか?」
その態度に、どうやら機嫌を直したらしい兵隊さん。
カオルも心底ほっとした。
折角新しい世界に来たというのに、そこで初めて出会った人といきなり仲たがいなんて、最悪すぎる。
しかもその理由が麦茶の味だなんて、あまりにもバカバカしいと思ったのだ。
「ああ、俺の住んでる世界だと麦茶は甘くなかったな。どっちかっていうと香ばしい、すーっとする飲み物だったんだ」
機嫌を直したらしい兵隊さんは、真面目な顔で頷こうとして……カオルの言葉が引っかかるのか、首を傾げる。
「世界……?」
「どうかしたの?」
なんで兵隊さんが呟いたのか解らず、同じように首を傾げるカオル。
「いや、私の聞き間違いだろうか。世界がどうとか言っていたような……」
んん、と唸る兵隊さんの疑問に、「なんだ、そんな事か」と、カオルは笑う。
「聞き間違いじゃないぜ。『俺の住んでる世界は』ってちゃんと言ったし」
それはそれは明朗に、はっきりとそう答えたのだ。
「……それは一体?」
今一要領のつかめていないらしい兵隊さんは、ますます不思議そうな顔をする。
――異文化コミュニケーションって、結構大変なんだなあ。
カオルは小さくため息をつき、置かれたままのコップを再び手に取り、一口。
甘ったるい風味が口の中に広がるが、今度は構わず飲み下す。
味自体はまだ慣れないが、飲んでみれば飲めない味ではなかった。
麦の香ばしさと砂糖の甘さが奇妙な組み合わせのように感じるが、慣れてしまえば案外美味しいのかもしれない。
そう、案外、飲んでしまえばイケるのだ。「ああ、こういうもんなんだな」と、カオルは気づく。
それから自分で小さく頷き……にか、と、笑いながら兵隊さんに向け、身体ごと姿勢を正す。
「俺、女神様に頼まれて異世界から来たんだ」
できる限りの笑顔を見せながら。
できる限り元気そうに見せながら。
これこそが俺なんだ、と見せつけるように。
そして、何か言おうとして……大切なことを思い出せず、適当に頭の中に浮かんだ言葉を口に出す。
「英雄になる為にな!!」
これが、彼のこの世界での、初めての自己紹介であった。