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嘘つき女神と0点英雄  作者: 海蛇
17章.うたかたの夢の先に
301/303

#9.幸せのかけらが失われた時

 魔王グラチヌスが倒れ、世界が平和になってから、百五十年ほどが経過した。

人間の知り合いはすべてが亡くなり、カオルにとっての顔なじみは、新しくできた者たちを除けば、その大半は獣人か人外か神様とその眷属かくらいで、子供たちですら、半数以上が亡くなった後だった。


 たくさんの悲しみを乗り越えてきた。

たくさんの苦しみを耐えてきた。

けれど、喜びも多く、また、幸せもたくさん見てきた。

孫が生まれ、その子が、更に孫が。

血は繋がり、血族は紡がれ、地に満ちた。


 けれど、我が子の、孫の、その子の死すら見たサララは、すっかり、年老いてしまっていた。

アイネも、ヘイタも、ステラも、ラッセルも、リリナもクラウンもミラーも。

親しい人も近しい人も、皆が死んでしまった。

聡明なサララは老いてもボケこそしなかったが、それでもため息の多い日々を送るようになってしまっていた。

そして、そうなってからそう掛からず、その時はきた。


「――カオル様は、本当に、老いないんですねえ」


 ベッドの上、横たわる妻の手を取りながら、カオルはその顔を覗き込む。

若さのすっかり失われた、皺の多い顔。

若い頃には想像もできなかったくらいにお婆ちゃんになってしまった、愛する妻の顔だった。

そんな妻が、困ったように眉を下げ笑おうとしていた。


「昔……ほら、ティリアさんに占ってもらった時に、あの人も困っていたじゃないですか」

「ああ。懐かしいな。そんなこともあった」

「あの時私は、自分の方がどうやっても長く生きるから、カオル様には長く生きていてほしいと思っていたんです……まさか、カオル様の方が長生きだなんて」

「まだ解らんさ」

「解りますよ。自分のことですもの」


 若かったころの、一度死に至ったときと比べ、今の自分には根本的に若さが足りず、生きるための力もなかった。

老衰とはこういうものなのね、と、活力の失われつつある自分を感じ、にへら、と口元を緩める。

若かったころは大層可愛らしかった笑みだった。


「……なあサララ。もし俺が竜の血を取ってきたら……」

「もう、あれに耐えられる身体ではありませんよ。それに、あまり世の中の決まりに逆らうのも、よくありません」

「そう、か」


 人の命は天の決めたもう事。

本来ならば若かりし日に死ぬはずだった人生。

あるいは猫のまま短命に終わるはずだった自分が長く生き、皺くちゃのお婆ちゃんになれたのだ。

これ以上望むのは高望みと、サララは小さく頷いて見せる。


「こんな外見に、なってしまってお恥ずかしいのですが……」

「そんなことはないぜ。年相応になっただけだろう? 俺はむしろ、うらやましい。一緒に、年老いたかった」

「ふふ……私も。ですがカオル様。カオル様はどうやら本当に老いないようですし、もしかしたら不死身なのかもしれませんね。ずっとずっと生きられる、という意味でも」

「……こんなもの、いらねえよ」

「そう仰らずに。愛した殿方が、自分より先に死ぬことほど、女にとって辛いことはないですよ。子供の半分を失って、孫やひ孫まで死ぬのを見て……それでも、貴方が生きていたから私は、狂わずにいられたのですから」


 私はきっと、幸せなのですと、最後まで笑顔を見せてくれた。

そんな妻に、カオルはもう、それ以上の弱音は吐けなかった。


「それにほら、楽しいこと、いっぱいありましたよね。色んな所を旅しました。その間にたくさんの人が亡くなったけれど、それでも、たくさんを見て、たくさんを知って」

「ああ」

「ふふ、海の向こうにも行きましたよね。リリーマーレンのリコゼの港町は、中々活気があって、アイスクリームも美味しくって」

「ついつい食い過ぎて腹を壊しちまったな、俺」

「うふふ、そうでしたね。あの時は『何をしてるんですかこの人は』って思いましたけど……でも、今思えば楽しかったんです、それですら」


 いい思い出は、振り返ればいくらでもあった。

だからこそ乗り切れた。だからこそ乗り越えられた。

今はそう、乗り越え切った後の、最後の大団円なのだから。

だから、笑っていてほしかったのだ。満足していてほしかったのだ。


「ねえカオル様。子供たちやその後に続く子達、カオル様自身のこととか、キューカのこととか、私にはまだまだ、気がかりなことは一杯あるのですが」

「うん」

「それでも、割と満足しているんですよ? 貴方が、傍にいてくれたから。今の私の傍に、貴方がいてくれるから」

「……いつまでだって、一緒にしてやるさ。だから」

「だから――」


 掴んでいてくれた手を自ら離し、残った精いっぱいの力で手をあげていき……サララは、カオルの目元を拭う。

涙で一杯になった。今すぐにでも泣き出してしまいそうな、そんな夫に、精一杯の笑顔を見せる。


「サララ……」

「――だから、サララと一緒にいてくれた事、今までの事、忘れないでくださいね? フランさんみたいに、ずっとずっと忘れないでいて? そうすればきっと、貴方は乗り越えていけます。ずっと、生きていけますから」

「サララ、それは俺にはつらい」

「それでも。それでもです」


 死にゆく者の我儘は、生きているものにとってこの上なく苦痛かもしれない。

それでも、覚えていてほしいのだ。

最愛の人に、人生全て捧げた相手に、自分と一緒にいた幸せを、ずっと覚えていてほしいのだ。忘れないで欲しいのだ。


「いっそ全て忘れてぼけてしまいたい。何もかも失って、命すら失って死んでしまいたいんだ」

「それでもいきてください」

「俺も、お前と一緒に死んでしまいたいんだ」

「わたしは、みたくないから」


 愛する男の死ぬところなんて、見たくない。

そんな我儘が、当たり前の我儘が、カオルにはあまりにも辛くて。

拭われた端から涙が溢れ、感情が止まらなくなってしまう。


「いやだよ。俺、覚悟なんてできないよ。サララと離れるなんてできねえよ。辛すぎて耐えられねえよ。お前が傍にいない毎日なんて想像もしたくねえ。考えたくもねえ! お前のことが好きなんだ。婆ちゃんみたいな顔になっても愛してるんだ! 歩けなくなっちまってもいい、ボケちまってもいい、おかしくなっちまってもいい、だから死なないでくれよ! 俺は、俺はお前なしじゃ生きていけないんだよ!! 頼むよ、サララ!!!!!」


 爆発した感情は、そのまま抑えられぬ声となり。

死に際したサララをほとほと困らせてしまう子供のような我儘を、聞かせてしまっていた。


「……嬉しいですよ。そんなに想われて。今まで、生きてきてよかった」


 みっともない、情けない夫の姿を見て、それでも。

それでも愛しいという気持ちが溢れ、嬉しいという気持ちで一杯になり、最後に感謝が全てを満たしてゆく。


(ああ……この人と、結婚してよかった……色々あったけれど、幸、せ)


「サララ……? サララ、おいっ」

「かおる、さま……ありがとう、ございました」


(どうか、かおるさまが、わたしなしでもしあわせになれますように)


――事切れた。

最後に愛する夫の長久の幸せを願いながら、サララは逝った。


「……う、う……ふぐっ……ひっく……っ」


 叫び声すら上げられず。

ただただ嗚咽を漏らすばかりであった。

かつては英雄なんて言われた男が、今では妻の死の前に無力感に苛まれ、泣くことしかできずにいた。

まるで、ただの男のように。

どこにでもいる、普通の男のように。

カオルはようやくにして、妻の死を前にして初めて、自分がただの人間なのだと、思い出したのだ。




 サララの死は、故郷であるエスティアに伝えこそしたが、新たな知人達には伝えず、葬儀も身内だけで静かに行った。

泣く者も多かったが、子孫のうちいくらかはサララがどんな人かもよく知らないという者も多く、ただ血の繋がりがあるというだけで参加した者は、言葉ばかりのお悔やみを伝えるばかりだった。

それはそう。今の世代の者たちにとって、自分達の世代はもう、遠く過ぎ去った過去の者達なのだから。

むしろ「大婆様はまだ生きていたのか」と、人間として生まれた子孫たちは驚きや戸惑いの方が多かったのだから。


「こんなもんか」


 葬儀が終わった後、不意に出たつぶやきに、自分でもびっくりするくらいに空虚に感じていたのが解って、カオルは無常感に肩を落とした。

あれだけ愛した妻の葬儀が、終わってしまえばやけにあっさりとしていて、当たり前のように受け入れられてしまったのだ。


――死は慣れるもの。


 長く生き続け、当たり前のように感じていたそれにこそ、カオルは驚愕していた。

どれだけ愛した者であっても、親しく感じた者であっても、死んでしまったらもう、なんとも感じなくなってしまったのか。

自分がどこまで無感情な、無感傷な人間になってしまったのかと、恐ろしく感じたのだ。

それこそ、かつて自分が恐れた、化け物にでもなってしまったかのようで。


(……俺、は)

「あの、お父様……?」

「うん……? お前は……シャーリィ。どうした?」


 長女だった。最初に生まれた中で唯一今まで生きていられた、猫獣人の娘。

今では『学院』の学長として、大陸中に魔法の力が広がり過ぎないように管理するのが役目なのだと言っていたが。

その娘が、カオルに声をかけてきたのだ。


「はい。お母様が亡くなられて……力を落とされていると思いまして」

「ああ……ああ、そうだな。確かに、どうしたもんかと思っちまってる」

「でしたら、私達と暮らしませんか? 私はともかくとして、娘のスニィル、孫のアリシアも猫獣人です。きっと、お父様を寂しくはさせませんわ」

「……それは楽しそうだが」

「でしたら」

「だが、俺はいい。もう、なんか、疲れたよ」


 娘の提案は、自分を(おもんばか)ってのものだった。

それが解るから、解っているから、受け入れられなかった。

優しさが、人を苦しめる時がある。

今のカオルにはもう、人の死を乗り越えられるだけの強さがなかった。

だから、誰とも関わりたくなかったのだ。


「でも、お父様――」

「いいかシャーリィ。お前ももう、自分の夫や子供の死を乗り越えたはずだ。だが、死は慣れてしまう。悲しみも感じよう、苦しくもなろう。だがな……だが、慣れすぎると、それすら乗り越えてしまうんだ」

「――えっ」

「俺はな、どうやらもう、人間らしい感性が失われつつあるらしい。あれだけ愛したサララのことを、あれだけ大切に想っていたサララの死を、あれだけ悲しんだあの日あの瞬間を、俺はもう、乗り越えられてしまっているんだ」


 当たり前のように。

過ぎ去った日々のように。

まるでそれはそう、日常のように。

それが、カオルにはもう、怖くないのだ。

そんな風に感じられる自分が、恐ろしくすら感じられなくなっていた。

それが、当たり前なのだから。


「――強がらないでくださいっ」


 それは、突然のことだった。

俯き、何を考えたかと思った矢先、突然シャーリィが肩を掴んできたのだ。

カオルは抗うこともせず、力なく笑いかける。


「強がりなどではないんだ」

「嘘ですっ、強がりです! じゃなかったら、じゃなかったら、お父様がそんなになるはずがありません!」

「慣れたからだ」

「慣れてなどいません! だって、私は、私は今でも、あの人の事を、あの子たちのことを、乗り越えられていませんものっ」


 失われたことに、慣れることなどない。

辛いものはつらいままで、苦しいことは苦しいままで、ただただ、痛いはずなのだ。

人は、痛みになれるというが、そうなのではない。

痛みを、受け入れられるだけなのだ。


「お父様は、諦めてしまっているのです、生きるという事に。人と共にあるという事に!」

「諦めて……?」

「そうです! 辛い気持ちになり、悲しい気持ちになり、耐えられなくなって、苦しくなって、だから、諦めを受け入れてしまったのです、ただそれだけなのです」

「……そうなのかも、な」


 諦めが人を殺す。

サララが病に倒れた時も、周り皆が、サララ本人ですら諦めていた中、カオルが諦めなかったからこそその命は繋がったのだ。

ならば、今回も諦めなければ、サララは死なずに済んだのだろうか。

あるいは、この悲しみすら受け入れずにいれば、こんな風にならずに済んだというのか。

訳が分からなくなり、娘の手を振りほどく。

かよわい娘の力など、今のカオルであっても余裕で外せた。


「……お父様っ」

「シャーリィ。だとしても、人の死は受け入れなければならないんだ。長く生きれば、それは必ず来る。猫獣人ですら、いずれ必ず」

「ですが私には、お父様を見捨てておくことはできません。そんな風になってしまったお父様を、私は――」

「それでもな、それでも……俺は、もう、嫌なんだ」


――これ以上、大切な者の死に何も感じないだなんて思いたくない。


 恐らく、そうかからずシャーリィも亡くなるのだ。

その娘も、孫も、生き続ければ必ず、その死に立ち会わなければならなくなる。

何せ不老不死である。むなしくなるばかりであった。


「なあシャーリィ。泣かないでくれよ。優しい娘だなお前は」

「だって……だってお父様、お父様の歩もうとしている道は――」

「……そうなる前に、いくつか試したいことがあるんだ」

「ひっく……試したい、こと、ですか?」

「そうだ」


 どうあっても自分の提案を受け入れる気のない父に、その孤独に涙を流していたシャーリィであったが。

唯一、とでも言えるような前向きな提案に顔をあげる。


「実は、今カルナスでクロムという男が、ホムンクルスについての研究を行っているんだ。こいつは先代の錬金術師から技術を継承し、その研究を引き継いだ奴なんだが――魂に関する研究が、もうすぐ終わるらしい」

「魂の、研究……それは、魔道においては禁忌とも言えるものです」

「うん? そうだったのか? それは知らなかったぜ。悪い。必死だったんだ」

「……お父様のすることですから。ですが、それが……?」

「ああ、うん」


 禁忌と言われるなりの何かがあったものなのだろう、とは簡単に推測できたが。

今のカオルには、もうそんなことはどうでもよかった。

人の決めた法など、最早彼には何の意味も為さないのだから。


「サララを助けられるかもしれないと思っていてな。サララが老い始めてからそんな研究について思い出して……そしてまだやってる事を知って支援していたんだ」

「一体、どんな研究をさせていたのですか? その、魂に関する研究というのは」

「魂の入っていない空のホムンクルスに、人間の魂を移すことで、本来の寿命を超えた生存が可能になる、というものだ」

「……っ! それが完了していたなら、お母様は……」

「ああ。まだまだ生きられたかもしれない。もっとも、サララが死んだ時点でそれは完了しなかったし、そもそもサララが延命を望まなかったしで、徒労に終わったんだが」


 足掻いてはいたのだ。

彼は、サララのことに関してだけは諦めたくなかったのだ。

最後の最後まで。

サララが生きることさえ望んでくれるなら、たとえ世界を敵に回してでも、たとえまた魔族と対立しようと、竜の血を得るため古代竜を狩る事すら考えていた。

それでも、結局は受け入れることになってしまったが。

だが、その研究はもうすぐ完了するのだ。

世界を変えられる技術ではあった。


「魔族王アルムスルト、知ってるな?」

「ええ……面会したことはありませんが、魔王グラチヌスを討伐した際にもいらっしゃった英雄の一人だとか。今も遠い極東の地で、魔人や魔族らを統べているのだと聞きますが……」

「彼を救う手立てになるかもしれないんだ。正確には彼の愛する女性の、だが」

「……お父様は、この研究を、その方達を救うために使いたいと?」

「俺だってこんな技術、やみくもに広めるべきものじゃないのは解ってる。使わなくても、時間の経過でアロエ様が彼らを救うんだろうな、ともな」


 それは本来、なくてもいいものだった。

やらずともよくて、やらなくともいつかは、そういつかはアルムスルトとバゼルバイトが救われるのは解っていたのだ。

女神アロエは、約束に対して真摯である。

彼女がアルムスルト達の問題をなんとかすると約束したのだから、それはいつか必ず履行されるはずだった。


 だが、それがいつになるのかは解らないままだった。

女神の感覚で「ちょっと待って」というのが、数年先なのか百年先なのか、あるいは千年以上先なのかなど、彼には分らなかったのだ。

だから、どうせなら早めた方がいいのではないかと、そう思えたのだ。


「まあ、ただのお節介だ。方法は多いほうがいい。だから、研究が完了したら、それを彼らに伝えてやってくれ。選ぶのは彼らに任せるさ」

「……私が、伝えるのですか?」

「俺はもう、動きたくないからな」

「お父様……他の、試したいことというのは?」

「俺が、自分がどんな状態にあるのかを自分で試したいだけだ。お前の手を煩わせるようなことはない。自分でやれる。一人でひっそりと試すさ」

「……それ、は」


 よくよく考えてみれば、と、カオルは口元を歪めていた。

彼は、自分がどんな生き物なのか、よく解っていなかったのだ。

人の形はしている。人らしい生き方もしてきた。子も作った。

けれど、彼は自分が人間であるなど、今まで一度も確かめたことがなかった。

どのようなことをされても死なず、人をはるかに超えて長寿なはずの猫獣人の寿命すら超え、姿が変わらぬままの、青年のような姿のままの自分が、人であるはずがないのに。


 だから、試したかったのだ。

本当に自分が人間なのか。本当に自分は、人間だったのか、と。


 何をするつもりなのかなど、娘に言えるはずがなかった。

だが、察してしまったのだろう。

母親譲りに賢い娘だった。

言葉に出さないところまで含めて、聡明な血は受け継がれていた。


「お前は優しい娘だ……きっと、俺の願いを叶えてくれるはずだ」

「……はい」


 だから、それが自分の願いだなどと言われれば、きっと断れないであろうことも。

反対できないであろうことも解っていた。

尊敬する父親の言う事なのだから。

どこまでも親のことを大切にする、孝行娘なのだから。



 その後カオルはオルレアン村で、やれることを試し始めた。

アルムスルト達がどうなったかなど、カオルは気にもしなかった。

それはそう、選択肢は与えたのだから、その後のことは彼らがどうするか決めればいいだけで。

カオルはそもそものところ、感謝されたいなどと思ってもいないのだから。


 首を吊ってみても、苦しくは感じても、死んだ気になれても、何度でも甦れてしまった。

窒息では死ぬことはできないのが解り、自分の手で首や心臓を何度も突き刺し絶命してみた。

だが、すぐに回復してしまう。そもそも痛みなど何も感じなくなっていた。

細胞を破壊する猛毒を服用しても、身体に浴びてもすぐに身体は再生した。

スライムに飲み込まれてみても、身体は溶かされていく端から修復されていってしまって、完全に溶けきることがなかった。

あれだけ恐れたスライムは、つまりはカオルを完全に殺しきることなどできなかったのだ。


 誰もいない山の中、棒切れカリバーを自らに突き刺し続け、壊れた時空に自らの体を投げ込み続けた。

発生したブラックホールじみた超重圧の中圧壊させられ続け、だというのにもう、怖くも痛くも無く当たり前にそれを受け入れている自分がいただけだった。

時空の崩壊に巻き込まれても、世界の修正力に飲み込まれても、彼はそれを乗り越えてしまった。

だから、彼は悟ったのだ。

――これは不老不死なんかじゃなく、『死』がなかったことになってるんだな、と。


 例えるなら、死に至るまでの出来事が全て逆再生され、元の状態に戻っただけとでもいうべきか。

死なないのも老いないのもつまりは、彼の中の死に関する時間が何一つ進まないからなのだろう、と結論付けられた。

では、なぜ労働をしていて苦にならなくなったのか、なぜ喧嘩もろくにできない自分が魔人や古代竜と戦えたのかと言えば、それは経験によるものが大きかったのだろうと結論付けられた。

常に最高の状態の肉体のまま、時間を重ねればそれだけに、努力をすればそれだけに経験値が積み重ねられて動きにフィードバックされてゆく。

強いはずだった。強くなって当然だった。

努力をすればしただけ上手くいくなら、それが失われずにただ積み重なってゆくなら、誰だって努力するだろう。


 何をしても死ねないのなら、最早これ以上試す必要などなかった。

彼は、サララの後を追いたかっただけなのだから。

感情ではもう割り切ってしまっていても、感傷など何も感じなくなっていても、それでも。

それでも、彼は妻との日々を思い出すたびに、戻りたくなったのだ、あの頃に。

戻れなくなった日々を思うしかできなくなった人はどうなるのか。それを実践しただけである。


 人は、過去には戻れない。

人の身にそれができないというなら、それはもう、神にでも縋るしかないのだろう。

だが、時空を操ることのできる女神は今は、酷く疲弊し力をまともに扱えないでいる。


(そういえば……昔、元の世界に戻る方法を、聞いたことがあったっけか)


 この世界に来る前に、その直前だったか。

自分がどうすれば元の世界に戻れるのか、『女神様』から聞いたことがあった。

その方法は――


(確か……自分がこの世界にきて最初に降り立った場所で、寝転んで――)


 それを思い出し、いてもたってもいられなくなり、屋敷から飛び出す。

深夜だった。辺りには誰もいない。

駆け出し、かつてよく入り浸っていたヘイタのいた詰め所へと足を運ぶ。

かつては村の中心にあった詰め所が、村が発展した今では、村の大分外側になってしまっていた。

今衛兵の詰め所は、新たな村の中心部に建てられている。

打ち捨てられたかつての詰め所は、かつての親友が使っていたその時のままの配置で、ぼろぼろになったまま放置されていた。

埃もたまり、獣の糞や虫よごれがそのままになった部屋を歩き、寝室に入る。


「やあ、ここだここだ」


 かつて自分がこの世界に来た時に、最初に見た光景。

それは、この部屋の、ベッドの上だったはずだった。

懐かしむものの、その時の光景が思い出せないくらいに古くて。

そして今のこの場は、そんな事思い出せないくらいに、色あせて古びてしまっていた。


「時が、経ったんだなあ」


 つくづく、そう思わされる。

かつて彼は、この部屋でヘイタと出会い、そして自分を英雄だとか勇者だとか言って彼を唖然とさせていた。

甘すぎる麦茶に文句をつけ、機嫌を損ねたりもした。

けれどもう、そんな事すら断片的にしか思い出せない。

ヘイタが死んでから、もう百年も経過したのだから。


「なあ兵隊さん。あんたに助けられてから、俺はずっとあんたに認められたくって、がむしゃらに頑張ったけどよ……」


 一人ごち、深いため息とともに、どこか清々しい気持ちにもなり。

カオルは、埃まみれの、汚らしいベッドの残骸に横たわる。

ばきり、ベッドの骨組みがへし折れるが、かまわずに横たわるのだ。


「――ちょっと、頑張りすぎたみたいだよ。疲れた」


 背中はぎちりと痛くなり。

天井から崩れてくる砂のようなゴミが目に入りこれも痛かったが。

だが、それでも見た。

最後の光景だと思ったから。

最初の光景と、同じもののはずだから。


 そうして彼は目を瞑り、呟いた。


「もう、いいや」






 沈黙が続いた。

それで戻るはずだった。

どう戻るのかわからなかった。

この世界で死んでから戻るのか、それとも今の姿のまま戻るのか。

けれど、何も起きなかった。

どれだけの時間瞑り続けたのかわからない。

どれだけの間無言だったのかもわからなかった。

けれど、けれど、何も感じず。

そうして恐る恐る目を開いた彼の前には……やはり、汚らしい天井が広がっていたのだ。


「なんで、だよ」


 世界はそのまま。

自分もそのまま。


「これで、戻れるんじゃなかったのかよ」


 涙が溢れた。

目が痛いからではない。

最後に縋ったものにすら、突き放されたような気がしたからだ。

これで、もう終わりにできると思ったのに。

彼は、終われなかったのだ。


「女神様……あんたは、どこまで嘘つきなんだ」


 悲しみに暮れ、カオルはもう、どうにもならないものだと思ってしまった。

もう、どうでもいいや、と。



 その日から、カオルはオルレアン村から姿を消し、いずこかへと隠遁した。

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