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嘘つき女神と0点英雄  作者: 海蛇
17章.うたかたの夢の先に
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#8.取り残されてゆく者達


 時間が経過していけば、それだけ多くの死を看取ることになる。

老いることのないカオルは、青年の姿のまま、親しい者たちの死をその後も幾度も目にしてしまう。

ある者は満足そうに笑いながら、ある者は悔しそうに涙を流しながら。

しかし、多くの者はカオルに「ありがとう」と礼を残し逝った。

それが、カオルには悲しかった。


「俺は……あと何人の死を看取ればいいんだ……?」


 死を見続け、その度に涙を流し悲しみに暮れ、だというのに、終わりが全く見えない。

人と親しくなればなるだけ、多くの人と関わりを持てば持つだけ、それを知ることになり、それを看ることになり。

次第に、カオルは疲れ始めてしまった。




「私としては、カオル様とゆったり過ごせる今は大変すばらしいと思うのですが」


 オルレアン村の外れに構えた屋敷で、サララはそんなカオルに笑みを向けていた。

愛想笑いなどではない。本心から思ってのものだった。

たくさんの死を見て疲れたカオルの話を聞き、尚も笑顔で相対できる、唯一の存在。

同じくらいに悲しみを背負い、同じように死を見てきたはずの妻はしかし、自分と違ってお気楽に生きているように見えて、それが不思議でならなかったのだ。


「なんで、サララはそう思うんだ? 俺は、結構辛い思いばかりしてきたような気がして、きついんだけど」

「んー、そうですねえ。確かに辛いし悲しいですし、毎度のように泣いちゃいますけど。でもカオル様、その人との思い出は辛いことばかりでした? その人は、辛いことしかなくって死んじゃったと思います?」

「……いいや」


 サララの問いに、カオルは思案し、そしてすぐに否定した。

自分と出会った人たちが、生前、辛いことしかなくて死んだなんてことは、ほとんどないはずだった。

少なくとも自分と出会えた人は。自分と仲良くなった人は。

だってそれは、思い出せばずくに解る事なのだから。


「笑ってたよな。楽しそうにしてた。笑顔を、向けてくれてた」

「そうでしょう? フランさんのように辛い人生を歩んでいた人ですら、私や貴方と一緒にいて、笑ってくれたりしていたのです」


 それこそが大事なのです、と、人差し指を立てながらにサララは首を傾ける。

まるで「解りましたか?」とでも聞くように。

カオルもまた「ああ」とそれに応え、静かに頷く。

確かにこの時はそう思えたのだ。納得ができた。

だから、この時から少しの間、カオルは悲しみも苦しみも、死にゆく者たちとの間に生まれた友情や、楽しかった日々を思い出せば、いくらかは抑えられたのだ。




 だが、サララの教えですら抑えられない悲しみが、カオルを襲った。


「……ナオト」

「父さん……俺、ここまでみたいだ」

「バカなこと言ってるんじゃない。お前、親を残して死ぬ気か?」

「……はは、そうだよな。まだ、死なないよな、俺」

「……ああ」


 それは、久しく自分の元を離れていた長男だった。

たまたま旅先でその地域の農業を手伝っていたところで毒蛇に噛まれた。

最寄りの村は無医村。

直近のギルドの支部には血清が一つだけあったが、たまたま折り悪く同じタイミングで同じ蛇に噛まれた子供がいた。

支部は子供の親を説得し、英雄の息子を助けようとした。

けれど彼は、「俺は英雄の息子なんだから」とそれを拒否し、子供に血清を譲った。


 人を助けよ、人に優しくあれというカオルの教えを、長男は誠実に守った。

だが、その結果手遅れになり、血清のある街まで運ばれた時には、既に全身に毒が回り切り、息も絶え絶えのあり様であった。

こうなるともう血清を打っても間に合うものではなく、教会の奇跡でも助けることはできない。

都合よく竜の血がある訳でもなく、カオル達が彼の元に来た時にはもう、生きているのも意識があるのも不思議な、いつ身罷(みまか)ってもおかしくない状態になっていた。

そうして今は病室のベッドの上、最期の時を迎えていた。


「俺さ……自分が生き残るより、自分より幼い子供が生きてる方が、いいって思っちゃったんだ。俺は、長男だしさ、結構、父さんの息子っていうプレッシャーもきつかったけどさ」

「……そんなプレッシャー、感じなくてもよかったんだがな」

「父さんはそういうけど、子供からしたらきつかったんだよ……でもまあ、子供は間違いなく助かったよ。父さんが俺の立場でも、同じことしただろ?」

「ああ。間違いなくした」


 だってそれはそう。

自分なら、毒蛇に噛まれようと死ぬことはないと解っていたから。

自分の取った英雄的行動の大半は、絶対に死なないという女神様の祝福あってのもの。

そう思っていたからできた事ばかりだった。


 だが、この息子は違うらしい。

今この瞬間にも命の灯は消えそうで、呼吸は荒くなり、視線をとりとめることもおぼつかなくなり。

やがて、焦点が合わなくなってゆくのだ。

息子の手を取り、なんとか笑いかけようとするが、笑えない。

最期の笑顔になるのが解っているのに。

笑えないのだ。笑ってやれないのだ。


「そんな……悲しそうな顔するなよ父さん。人の役に立ったんだぞ? 俺、子供の命を救ったんだ。平和な世の中で、戦いも争いもなくて、そんな事できるなんて……ほんと、すごいこと」

「ああ、ああ……お前は立派だよ。自慢の息子だ」

「……へへ」


 だというのに、息子は笑いかけてくる。

最後の力を振り絞って、最期の最後に笑顔を見せるのだ。

この父を悲しませないように。この父を苦しめないように。


「お前は……できた息子だよ」


 鼻を啜るように、しゃっくりが止まらぬようになり。

しかし、別れを告げるのは彼だけではなく。

カオルは後ろで待つ妻と入れ替わる。


「ナオト……っ」

「母さん……ああ、会いたかった。ずっと」

「私もですよ。よくやりましたね。貴方のおかげで、幼い命が救われたんですよ」

「ああ。今日はすごい日だな。母さんまで俺のことを褒めてくれるなんて。いつもがみがみうるさかったのに」

「それは……ええ、今日この日のために、ずっとうるさかったんですよ?」

「母さんには、叶わねえや」


 サララは、ずっと笑顔だった。

息子が死ぬのが解っていても尚、誇らしいとばかりに息子を褒め、その頭を撫でる。

もう何も感じられなくなっていた長男は、しかし顔を綻ばせ喜んだ。

奥に控える父ともども、消えゆく光を感じながら「ああ、やっと二人に褒められたぜ」と、満足げで。


「旅先で、すごく頑張り屋な女の子を見つけてさ……俺、その子の役に立ちたかったんだよな。その子は親を亡くしてて、弟たちを養うために一人で頑張ってて……母さんみたいな美人じゃねえけど、どっちかってーとブスなんだけどさ」

「まあ、口の悪い」

「でもね、役に立ちたかったんだ……生きて、麦刈り、手伝わなきゃ」

「そうですよ。きっとその女の子だって待ってます」

「うん……う、ん……」


 力が抜けてゆくのが、カオルからでも見えた。

サララが咄嗟に手を握りしめ、意識を保たせようとして……けれど、その手はもう、サララの手を握り返すことはなかった。

握り返せなかったのだ。


「……死にたく、ねえなあ」


 ぽそり、よく耳を傾けなければ聞こえないほど小さく声を漏らし。

長男ナオトは身罷られた。


「……ぅ」


 間近でそれを見てしまったサララが、どれだけの悲しみに襲われたのか。

それが解るから、カオルはサララの背を優しく撫で、後ろから抱きしめる。

カオル自身、涙が止まらなかった。


 夫婦にとって子供の死は、初めてではなかった。

出産に際し、やはり回数を繰り返すごとに、ダメだったこともあって。

失われた命が生きた命より多くなり始めてから、二人は子供を作るのをやめた。

サララの心が耐えられなくなる前に、カオルがそう言いだしたのだ。

だが、生き延びた子供たちが死ぬのは、これが初めてだった。

心血を注ぎ育て上げた子供が死ぬのは、サララにはより耐え難い苦しみとなった。


「乗り越えていこう」


 カオルは、その悲しみを一人で背負わせる気なんてなかった。

悲しいのだ。苦しいのだ。辛いのだ。

それでも、それでも乗り越えなければならない死だった。

生んだのだ、育てたのだ。ならば、死だって当然あるはずだった。

たとえ健やかに過ごせたとしても、猫獣人として生まれた子供はともかくとして、人間として生まれた子供達は、母であるサララよりはるかに早く、寿命を迎えるのだから。

その死を、覚悟しなければならないのだ。

耐え続けなければならないのだ。


「サララ。旅をしないか?」

「……旅、ですか?」

「ああ。旅行しよう。世界中を回ろう。引きこもってばかりは、やっぱりよくないから」

「……そう、ですね」


 辛いことばかり抱え込んでいけば、人は必ず弱ってしまう。

どこかで発散させなければならない。

悲しみは、苦しみは、喜びや幸せで上書きしなければならない。

ならば、旅に出よう。

自分達の人生の大部分は、青春の日々は、そこにこそあったのだから。

大人になり、ひきこもってはいたが、それでも。

楽しい時間を過ごせば、いくらかは楽になれるから。


「……カオル、様」


 そんな主を、付き添いで訪れた猫耳の生えたメイドが、静かに見守っていた。




 わが子の葬儀を済ませたカオルは、悲しみに暮れるサララを連れ出し、旅に出た。

世界中を旅する、のんびりとした、懐かしい日々を思い出すような旅。

変わってしまった世界を、変わる前のかつてを思い出しながら観光して回る、静かな時間だった。


 カルナスはかつて住んでいた頃よりも賑わいが増していたし、教会は聖女様に代わり、ベラが仕切っていた。

かつてヘイタに黄色い声をあげていた若い娘たちは、今は自分の娘たちが色男に黄色い声をあげているのを見て「やれやれ」とため息をつくようになっていた。

ギルド本部は建物として大分くたびれ始めていて、代わりにカオル達がかつて暮らしていた町はずれの館に本部を移すのだという話だった。


 王城では王となったヘイタやステラ妃と歓談した。

城仕えとなった六男リーディルは、大臣の一人となったゴートの下、陰ひなたに役人として忙しない日々を送っていたが、時たま親友であるニコル王子と悪だくみをし、二人してゴートからお説教をされているらしく、カオル達と会った時にはちょっと居心地が悪そうにしていた。


 ニーニャは観光都市として、そして港町として繁栄し、多くの人で賑わっていた。

町長は代変わりしたが、町のために全命を掛けた先代を越えるべく、使命感に燃えているらしかった。

幽霊提督となったアルメリスは、変わらぬカオルとサララを歓待してくれたが、最期の部下の船がたどり着いてから大分経ち、ものいえぬ寂しさを感じていると語っていた。

『海鳥の止まり木亭』は、立派な女主人となったリシュアが、元観光客だった旦那と息子たちを上手くまとめ、旅籠として繁盛していた。

姉のハーヴィーもたまたま同じタイミングで泊まりに来ていて、懐かしの対面に思わず泣き出してしまったハーヴィーを皆で笑顔になりながらなだめていた。


 海の王の巫女リームダルテは、変わらぬ姿のままカオルたちを出迎えてくれた。

一緒に暮らしていた灯台守は二代も代変わりしていたが、カオル達が訪れた時には二人して灯台の掃除をしていた。

かつては厳しい言葉をカオルに向けはしたが、生きているサララを見、実際に話しているうちに「あの時はすまなんだ」と、謝罪を述べ、妻のため奔走したカオルを「立派な亭主よ」と認めた。

カオル達が旅の経緯を話すと、「長く生きていればそんなこともある」と、掃除に精を出すまだ若い灯台守を見つめながら、神妙な顔をしていた。

先達のありがたい話に、夫婦はしばし真面目に聞き入り、自分達のその先の身の振り方を学ぶことにした。


 エルセリア王都リリーナは変わらず賑わいを見せてくれていたが、流行が大分変わったのか、街娘はかなり短いスカートを履くようになっていた。

それを見てサララは「今はこんなのが流行なのですか」とため息交じりに見つめていたが、カオルの「でも似合いそうだよな」という言葉には赤面して「流石にもう無理ですよ」と、そっぽを向いて恥ずかしがった。


 レナスは民衆を中心にした統治形態に変容し、ギルド支部を中心に、王家からのバックアップを受けた『半民主制』が実験的に導入されていた。

カリツ伯爵亡き後のレナスの貴族たちは、ギルド支部からの粘り強い説得を受け、今では政治的なものの見方がまだまだ育っていない民衆の教育係として協力するようになっていた。

リーナ王女はこのレナスで、学者として夫エドラスと子供たち、そして侍従らとともに暮らしていた。

エドラスは今は政治家としてレナスの中心人物となっていたが、かなりの部分妻の尻に敷かれており、以前ほど過激なことは口にできなくなっているのだと聞き、カオルも「やっぱりそうなったか」と、控えめながらも頭の回る妻を持つ者同士、妙なシンパシーを感じてしまっていた。


 ラナニア王都コルッセアは見事に再興されたが、かつてのように昼夜で街が隔てられることなく、かつて夜として扱われた街の住民たちも、復興の中で昼の一部として認められるようになり、それまでの格差は大幅に改善されていた。

『偽りの花園』は、亡くなったマダムの代わりにリーダー格だったイザベラが仕切っていたのだが、何故か受け付けと経理はその妹のミリシャが請け負っていた。

ミリシャ曰く「勇者様もお帰りになられたので」とのことだが、勇者一行の従者が娼館の受付をしていたのはカオルもサララも驚きを隠せなかった。


 エスティア城では、里帰りを果たしたサララが驚く光景が広がっていた。

女王フニエルとバークレー第二王子だったラッセルが結婚し、子を成したことを切っ掛けに、城内で猫のままとどまっていたエスティアの王女らが「私も子供欲しい」と思うようになり、王子らも「そろそろ飽きたから」という理由で人の姿に戻ったのだ。

先代エスティア王だけは猫の姿のままでいたが、「孫達に猫としていじられる日々も悪くない」とのことで、これに関してはサララとフニエルを呆れさせていた。


 バークレー王室は、フニエルとラッセルとの間の子供を、バークレー王レオンの子供と婚約させる事が決定され、俄かに沸き立っていた。

猫獣人の姫君が嫁いでくるというニュースは、王家の人間にとってこれ以上ない吉報だったらしい。


 かつて女性を奴隷として囲い込んでいたウォルナッツ卿は、長きにわたる拘留を終え、それに合わせエスティア支部の支部長を辞した娘・アイビスと再会し、辺境伯として返り咲いていた。

老齢に達し、既に余命知れぬ身ではあったが、娘ともども、静かな余生を過ごしていた。



 かつて魔王グラチヌスが支配していた極東地域は、今では入植者が集い、新たな街が生まれていた。

まだまだアウトローの多い、先行きのはっきりとしない地域ではあったが、そんな地域でもギルド支部を中心に、人々の暮らしが息づいていた。

プリシラは相も変わらず森を守り続けていたが、時折姉が戻ってくることで、以前よりは落ち着きを取り戻し、付近のまともな人間とも交流できるようになっていた。

ティリアは未だ復讐のため各地を転々としているらしいが、「それでもいつかは会えるから」と、大人びた目をしていた。


 もう一つの極東、魔族らの世界もまた、魔族たちの独自の秩序の元、穏やかな暮らしを始めていた。

魔王とその側近たる魔人達、そして竜族の恐怖であるガンガンディーエによって魔族世界は好く統治され、一つの平和の時代を築き上げていた。


 聖地リーヒ・プルテンでは、女神アロエを中心に、犬獣人たちが心穏やかな日々を送っていた。

封印の聖女・アイネも、ヘイタとの間に生まれた子供が問題なく育っていくに従って、すっかりお母さんになっていた。

アロエはというと、グラチヌス討伐後、「念のために」と言いながら結構長いこととどまっていたカオリがとうとう故郷に帰ってしまった為、退屈な日々を過ごしていたようで、カオル達が顔を出すとまるで犬のようにはしゃぎながら歓迎していた。

その後一週間は帰るのを許してくれず、夫婦はしばらくの間聖地で静かに過ごすことを余儀なくされたが、アロエだけでなくアイネやその支配下に置かれたままのゲルベドス、日替わりで訪れるヘイタもいたので、二人はそこまで退屈はしなかった。


 世界中を回った。

かつて旅をしたこともない地域も、海も山も全部。

たくさんの時間がかかった。

その間に亡くなった者もいた。

その間に会えなくなった者もいた。

それでも、それでも二人は、旅をしたかったのだ。

旅先で新たな出会いがあって、旅先でたくさんの喜びと悲しみを見て、経験して。

そうして夫婦は、「ああ楽しかった」と、屋敷に戻れたのだ。

オルレアン村に。二人の故郷に。




「キューカ、屋敷を出たんだな」

「申し訳ございません……止めたのですが、どうしてもと言うので」


 二人が帰還した時、既にキューカは屋敷からいなくなっていた。

メイド長であるリリナは伏目がちに、「ですが彼女の意志ですので」と、その突然の出奔に理解を求めるように懇願した。


「いつ頃?」

「お二人が旅に出て少しして……」

「……そうか」

「あの人も、何か思うところがあったのでしょう。ナオトとだって、遊んでくれたことがあったのですから」

「そうだな」


 カオルにとってのキューカは、サララに頼れない時に甘えられる、癒してくれる、そんな存在だった。

サララほどではないにしろ、かけがえのない、自分が寄りかかれる女性だった。

だが、寄りかかられるキューカにしてみればどうか。

そう考えると、カオルには「負担だったのかな」と、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。


「私達がいれば、引き止めに抗えないと思ったのでしょう。探さないでいてあげるのが、キューカにとってもいいのかも」

「んむ……せめて、健やかに暮らせればいいが」

「頂いていたお賃金はほとんど貯金していたようですから、生活に困ることはないかと。安息の地にたどり着けていることを祈るばかりですわ」


 故郷のエスティアに戻るのか、それとも全くの新天地で暮らすつもりなのか。

それすら定かではないが、今はキューカのしたいようにさせてやりたい、という意見で二人は納得した。


「……」


 リリナは一人、そんな夫婦を見て胸が締め付けられる。




「――ずいぶんと、遠くまで来てしまったわ」


 遥か遠くの異国、港町にて。

わずかばかりの荷物を手で引きながら、猫耳の若い娘が一人。

丸く膨れ上がっていたお腹を撫でながらに、かつての主人とその妻を想う。


(申し訳ございませんカオル様、シャリエラスティエ様。この子は……諍いの元になってはいけませんので……)


 カオルへの愛もあった。

だが、サララへの忠誠心もあった。

二人が健やかに過ごせるよう、そして子供たちとともに暮らせるよう。

その子供たちの邪魔にならぬよう。

カオルとの間にできた子供を、そのまま誰にも知られずに流してしまうという手もあった。

けれど、母になった彼女には、その選択肢は選べなかった。

苦渋の末選んだのは、離別すること。

上司であり、長年同じ屋敷で働いた友人でもあったリリナに気持ちと覚悟を伝えた。

それと同時に「お二人には本当のことは言わないでください」とお願いし、リリナはそれを承諾した。

その日の夜の内に準備を整え、リリナだけが見送ってくれる中、彼女は屋敷を出たのだ。


(大丈夫……きっと大丈夫だから)


 改めて思うと、やはり不安しかなかった。

気の弱い自分に、果たして自分ひとりで子供を産めるのか。

見知らぬ土地で、子供を抱え生きていけるのか。

貯めていた賃金はかなりの額あった。

上手くやりくりすれば、この先100年は働く必要がないくらいには余裕がある。

だが、人生とは何が起きるかわからないもの。

せめて健やかな環境で暮らしたい。静かに、誰にも邪魔されずに。


 そう考え旅をし、とうとう海のはるか先まで来てしまった。

最初の船に乗るまではそこまで大きくなかったお腹が、今ではかなり重い。


(この子がいずれ、元気に育ったら……立派な大人になったら、母として胸を張れるように。あの方の子供を、育て上げられたのだと、満足できるように)


 その為には、弱い自分と決別しなくてはならなかった。

ここからが自分の頑張りどころ。

もう十分、ぬるま湯に浸かったのだから。

幸せな暮らしから逃げ、辛くとも頑張り続けなくてはならない日々か始まるのだ。


 それでも、新たな風は吹き、海鳥たちは歓迎するように鳴いてくれていた。

海は、まるで子守歌のように心地よいリズムで波打つ。


(ここなら、きっと……きっと、それができるはずよ、キューカ)


 自分に言い聞かせるように、そして今一度お腹を優しく撫で、キューカは歩きだした。



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