#7.別れの始まり
「もうそろそろ……か、のう」
エルセリアの王城、王の寝室にて。
不安そうな王妃と愛妾ソフィアに見守られながら、王はベッドに横たわっていた。
皺がれた顔に力なき声。
これがかつて、賢王として世を束ねた男の姿である。
「陛下……」
「すまんのう、一人にしてくれるか?」
「ですが、陛下」
「一人にして差し上げましょう? ソフィア」
「……はい」
王の頼みに、ソフィアは不安から思わず食い下がってしまったが、王妃からの言葉を受け、悲しげに俯き、従う。
二人して部屋を出ていくばくか。
一人になった部屋で、王は時を待った。
王の寿命は、間もなく尽きようとしていた。
無理もない。生きて50年という世界で、90近くまで生きたのだ。
大往生と言っても過言ではない。
既に王としても相当無理が出ていて、最近では娘の夫で補佐を任せていたヘイタ、そして息子であるアレクに政務の大部分を任せきりになっていた。
「……きた、か」
既に身内には覚悟を決めさせ、死後の意向も周囲に伝え、別れまで済ませ。
ずっと待ち続けた相手がいた。
「ああ、来たぜ。遅くなって、すまねえ」
それは、友だった。
老いてからできた、初めて対等に付き合える友人だった。
気が付けば自分など追い越し、世界の英雄となり、世界に影響を及ぼす化け物となり。
それでもやはり、彼にとっては友だったのだ。
「やれやれ……危うく眠ってしまうところであった」
「許してくれよ。友達の葬式に行ったばかりだったんだ。気付くのに遅れちまった」
「トーマスか」
「ああ。あっちはあっちで満足そうだった。元気なうちにステラ様の子供とも会えたし、な」
「……ふん。あ奴め、最後までステラの騎士のつもりであったか。困った奴よ」
だが、ありがたい、と、心底思ってしまっていた。
いついかなる時も、国が為、王族が為生きてくれたトーマスを、王は片時も忘れた事はない。
自分が若かりし時、魔王の討伐に向かおうとした時もやはり、トーマスは国の為戦に出向き戦っていたのだ。
彼もまた、英雄と呼ぶにふさわしい存在だったと、王は思う。
「ああいう人も、いてもいいと思うけどな」
「だが、子も成せなんだ……ワシは事あるごとに結婚しろ子を作れをせっついたのだがのう。そもそものワシが晩婚だった所為か、いつもいつも『私などより陛下がお先に』と……全く、ああいえばこういう、小うるさい奴だったわ」
「もしトーマスさんに子供がいたら……その子供もきっと、トーマスさんみたいになったんだろうなあ」
「だろうなあ。やかましい奴がもう一人増えるだけであったか……ふん、だが、ヘイタもなんだかんだ、腕の方はトーマスと変わりなくなってきおった……あれは、英雄になれる器じゃ」
王にとって、先に逝ったトーマスの事は、既に過去であった。
そして今は、娘婿であるヘイタに想いを馳せる。
皺まみれの顔が緩んでゆく。
「王としては、危なっかしいがのう」
「アレク様だって補佐してくれるっていうし、大臣も従うんだろう? 心配はないと思うけどな」
「くくく……甘いのうカオル。政治というのは、そんなに上手くいくものではないのだ……満点を取れる才に、満点を取れる経験があろうと、0点になる事すらあるのだ」
「そいつはおっかねえなあ」
「時代、というものがあるからのう……風を読めねば、いかに優れた船乗りとて船を座礁させるのと同じじゃよ……王とは、常に風を読み流れを読み、自分の船を守り続けねば、ならぬ」
「……王様、俺は王にはならないぜ?」
それは、王の中の不安を読み取ってか。
あるいは、王が聞かせてくる言葉から先を読んでか。
カオルは、王の言葉の先を回り込むようにして、自らの意思を伝える。
だが、王は表情一つ変えぬ。
死の間際にあって尚。自らの死を悟って尚。
「なあカオルよ。ワシはな、お前が怖かった」
「……ああ」
それは、王の独白だったのかもしれない。
ただ聞かせたいだけの言葉だったのかもしれない。
だが、分かってはいても今まで聞くことのなかった、聞かせてほしくなかった一言だった。
それでも、王の最後の言葉ならと、友人の最期なのだからと、カオルは素直に頷いて見せる。
「どんどん世界に影響を及ぼし、今では世界すら手中に収められるようになりおって」
「そんなつもりもないんだけどな」
「バカ者め……善意だけで世界を取る奴があるか。お前がどれだけ善良なのか、どれだけ多くの者を助けたくてそれをやったのか……それくらいは、解るわ……だが……やりすぎだ、バカ者」
何事にも加減というものがある。
王は、それをこそ言いたかった。
人間の握っていい権力にも限度というものがある。
大国の王、それですら人の身には苦痛この上ないというのに、この男はこの若さで、それを優に超える権力を持ってしまっている。
それがどれだけ恐ろしいものなのか。どれだけ苦痛を受けるものなのか。
王は、恐ろしいのだ。この友人が、そんなものに飲み込まれてしまうのが。
「最早、その構造を変えろとも言えぬ……せめて今のまま、オルレアン村に引きこもっておれ。表に出てはならぬ……お前、それは、破滅の道ぞ……」
「王様には、そう見えるのかい?」
「ああ。そう見える。お前だけでない、シャリエラスティエ姫やお前の子供たち……周囲の者を巻き込む、やがてこの世界そのものを巻き込む、破滅に繋がるわ」
「……そう、か。だから、怖いのか」
「怖すぎるじゃろう……気が付いたら無害な青年が、魔王よりも厄介な存在に育っているんじゃぞ? 全く、死の間際に、友に向けてこんなことを言わされる身にもなれ」
自重しろ、と、深いため息とともに王は視線を天井へと向ける。
まだ、迎えは来ないようだった。
もう一言くらいは言えるか、と、震える唇を開く。
「のうカオルよ。ワシもな、長く生き過ぎた。生きれば生きるだけ、多くの者の死を見ねばならぬ。それはとてつもなく辛く、悲しく、苦しいものじゃ」
「……ああ。それは俺も思う。今ですら、辛いからな」
「そう、辛いのじゃ……なあカオル。辛くてもいいんじゃよ。辛いからこそ、人は悲しめる。辛いからこそ、人は苦しみ、乗り越えようとする」
「……だが」
「悲しみのない世界などあり得ぬ。あってはならぬ。ワシはいろんな悲しみを見たが、だからこそ、王などやっていても人間のままでいられたように思う。ワシは、お前を化け物のように思いたくはない。口ではどういっても、やはりお前は、まだ人間なのだ」
まだ。だが、いずれは。
それが解っているからこそ、王はこの時を使った。
最期の最後、子や孫や妻たちに囲まれ身罷る事もできただろうに、その最後を、友のために使うことにしたのだ。
「人間の、ままでいてくれぃ……それが、ワシの、最後の……ねが、い――」
「……っ」
だが、言いたいことは言えた。
それだけでもう、満足。
そう思わせる、力の抜けきった顔がそこにあった。
戦中から戦後、そして魔王討伐後の世界を生きた王の、安らかな眠りだった。
カオルは、その場に膝まづく。
王の最後。
だが、彼にとっては王としてではなく、友人として付き合ってくれた彼が、最後まで友人として自分を気にかけてくれた事が、じわり、胸を強く締め付けていた。
「最後まで俺の事を考えてくれるなんてな……ほんと、読めない王様だよ、貴方は」
自分がどれだけ権力を持とうと、どんな力を持とうと、そんなものは関係なく、彼にはこの王様が、何を考えているのか読み切れなかった。
だから、最後の別れもどう受けたものか、わからなかったのだ。
こんなの、想像だにしていなかった。
自分が思っていた以上に、王様は自分のことを気にかけてくれていたのだから。
「くそ……俺って奴は、ほんとに、化け物みたいになっちまったのかな。人の気持ちも解らねえ、人の心も読み切れねえ、怖い奴に」
独白に答えてくれる人なんていない。
だが、胸からあふれ出てくるモノは止め処なく。
吐き出してしまわなければ、どうにかなってしまいそうだったのだ。
「俺みたいな若造が、色んなことを知った気になって、何でもできる気になって、たくさんの人を救える気になって……なのに、友達一人の気持ちも解らねえなんて、情けねえよな」
――王様の本心を見抜ければ、人の気持ちを理解できていれば、もっと早くに、王様が亡くなる前に、その心配事の一つも減らせただろうか。
そんな後悔があふれ、カオルは目の端から零れ落ちる涙を拭うこともできぬまま、床をドン、と叩く。
それくらいしかできない。
英雄だのギルドマスターだの化け物だの言われても、死した王を前に、彼にはそれくらいしかできなかった。
結局、フランが死んだ時と変わらないのだ。
死んでしまった人を前に。死を前にして彼ができるのは、それくらい。
「……無力だな、俺って」
結局、自分ひとりの力なんてそんなものなのだ。
涙がどれだけあふれても、死んだ人間は生き返らない。
王は、既に眠った後なのだから。
「王様。今までありがとうな」
トーマスと続いて、王の死も見届け。
カオルは立ち上がり、別れを告げる。
それは、彼の人生の中でも、フランの死に並んで重く、辛い別れ。
(……いいや)
違うのだ。
こんなことが、ずっと続くのだ。
出会いがあれば別れもあり、生もあれば死もあるのが人生なのだ。
そして、だからこそ、辛いことはたくさんあって、悲しいことはいくつもあって、苦しむことばかりなのだ。
目の前の王は、それをこそ、それがあるからこそ、人間の生なのだと教えてくれたではないか。
そう思い、カオルは立ち上がる。
「辛くても、ちゃんと受け止めるぜ」
人の人生など、いいことばかりじゃないのはいい加減解っていたつもりだった。
だが、世の中には受け止めねばならぬ辛さというものがある。
どれだけ嫌でも正面から向き合わねばならぬ悲しみというものがある。
それがどれほどの苦痛だろうと、飲み込まねばならぬ苦しみがある。
それらを受け入れた先に、人間らしさが生まれるのだとしたら。
これからの自分がどう生きるべきなのか、それを、王は自らの死を以て教えてくれたのだ。
カオルは、ようやく自分の弱さを受け入れられたように感じていた。
ずっとなくしたいと思っていた、目を背けていたものに、ようやく目を向けられた。
そうしなくてはならないと、そう思うようになっていた。
人は、どうやっても死ぬのだから。