#6.友人にすら恐れられてしまう男・カオル
「――レナス支部で支部長がやらかしたって?」
三年後の話である。
相も変わらずオルレアン村でのんびりと暮らしていたカオルだったが、本部をまとめていたかつての秘書、現マスターからの手紙により、カルナスの本部へと顔を出していた。
今は、ギルドマスターの執務室で、現マスターの話を聞いているところであった。
「この件が発覚したのは二週間ほど前の話です。当初はよくある汚職、という事で彼を罷免して、関係各所を締め付ければ解決、と考えていたのですが……」
「思ったよりでかい問題になりそうで、すぐに切ることができなかった、と」
「……はい」
現ギルドマスターは、長年自分のそばで自分の采配を見てきた腹心である。
その彼をして手に余るという事は、それだけ厄介な事案という事。
かつて自分が座っていた椅子に座り、だというのに気弱そうに俯くかつての部下に、カオルは「そいつは大変だな」と、にやけ顔で皮肉る。
「それで? そのレナスの支部長はどことつながってたんだ。貴族……はレナス伯がまとめてるからないだろうし」
「いえその……実は、それ以上、でして」
「それ以上っていうと……」
「えぇ……リースミルム女王が」
「まじかよ」
冗談だろと言いたくなるような大物であった。
一国のトップが、レナス支部長に直接のつながりを望んだのだ。
「無論、女王も懐柔するためだけにレナスの支部長に手を伸ばした訳でもないようでして、実際問題、女王からのお墨付きを得て、彼も相当無茶な改革を成し遂げた、とは聞くのですが」
「やり方が問題だったってことか?」
「そのようで……本来レナス伯をはじめ、近辺の貴族の協力なしにできないような土地の権利に関わる改革に着手し、結果貴族らと対立してしまったようです」
「政治問題に首突っ込んじまったのか。無茶しやがるぜ。必要だったのかもしれんが」
改革、と一言で言っても、それを成し遂げるのは生半可なものではないのは、カオルもよく知っていた。
何せラナニアでは、かつてその国をまとめる王族の一人が国民を扇動し、改革を行おうとしていたのだから。
そう、王族でもなければ容易には成し遂げられないはずの改革を、いくら市民の支持を集めているからと、ギルドの支部長が独断で行っていいはずがないのだ。
当然、土地の貴族らから猛反発を受けるはずであった。
「カリツ伯爵は?」
「なんとかまだ、交渉の場には出てきてくれていますが……ほかの貴族を抑えるのも限界、といった様子で」
「まだあの人は怒ってないのか……いや、表向きそう見せないだけで、怒ってはいるんだろうな」
「……おそらくは」
「やれやれ。困ったもんだな」
レナスの支部長は、市民から選出された男だった。
リーナ王女の改革運動の際にも参加していたという事でカオルのことも遠巻きながら知っていたらしいが、直接の面識はなく。
現マスターが「能力的に見て問題ない」と評価したことで気にしていなかったが、このような問題になるのはカオルとしても想定外であった。
ただまあ、「たまにはこういう事もあるか」と、深くは気にしなかったが。
「申し訳ございません……私の目が行き届いていないばかりに」
「いや、仕方ねえよ。その支部長も、女王からのお話じゃ無視はできなかったんだろう。ちょっと行ってくるよ」
「で、でしたら私も――」
「いい、いい。ギルドマスターがおいそれと動いたら全体にかかわるだろ。今は俺は部外者ってことにしてるんだから、俺が動くほうが都合がいいんだ」
ギルドマスターを連れてレナスになど向かえば、それはラナニア女王の采配に、ギルドが面と向かって対抗しようとしている、と受け取られかねない。
国家という権力に対し、いくら力を持っているからと、ギルドが対立するような芽は芽吹かせてはならないのだ。
今のカオルにはそれがわかるから、手を振り振り、軽い調子で笑って見せる。
「たまにはそういうミスもあるさ。大丈夫、それくらいなら笑って済ませられる」
「マスター……」
「今はマスターはお前だろ? ま、同じことはほかの国でも起こりうる。これは、支部を使って市民に反感なく改革を進めようっていう、王族の介入だろうからな」
「……ええ。以後、このようなことがあった際に対応するためのマニュアルを作成するよう、部下に命じています」
「それでいいよ。なんでもマニュアル通りうまくいくとは限らんが、何もない中で支部長が独自に判断するよりは、幾分対応しやすくなるだろうからな」
困ったときは本部に問い合わせろ、という指示は下してあるが、実際にそのようなことが起きた際、どう判断すべきか、なんてマニュアルはないので、このようなことになった。
こういう失敗は今後もあるかもしれないのだから、起きないよう対策・対応マニュアルを用意しておくことは大事である。
先んじてそれをやっている現マスターは、カオルをして「これくらいできれば問題ないやな」と信頼がおけるくらいには優秀だった。
だから、安心して後を任せているのだから。
こういうどうにもならない時に自分が出張るのは、仕方ないとも思えたし、居るなら居るなりの役目を果たそうと思っただけであった。
その後、カオルはラナニアに向かい、レナスの支部長とも面談し、更に女王とも面会することにした。
こちらに関しては元ギルドマスターとしてではなく、あくまで女王の『友人』として。
「――ふぅん。貴方がマスターから退いてから、そうすぐには出てこないと思ったけれど……思ったよりは早く出てきたわねえ?」
友人との面会など、大仰に玉座の間ですることはなく。
バルコニーのテラスで、妹であるリーナを交えてのお茶会、という形でそれは叶った。
「……お茶会したいからこんな問題起こした、とかじゃないよな、女王陛下?」
「あら、私はてっきりその意図を汲んでくれたからここに来たのかと思っていたわ。違ったの?」
「あーあー、そうじゃなきゃと思ってたよ。そうだったか」
そんなことはないだろうと信じたかったが、大変迷惑なことにこの女王のわがままに付き合わされた、という形になる。
大変迷惑である。カオルは深いため息をついた。
「ふふ……ですがカオル殿、決して姉様も、遊び半分でカオル殿を呼び寄せたわけではないのです」
「まあ、そうなんだろうがな……いや、ほんとにそうなのか?」
「一応はねえ。レナスの支部長……カルロって言ったかしら。彼はかつてリーナのやっていた『運動』の参加者なんだけど」
「ああ、俺のことも知ってたってな。だとしたら、女王陛下がけしかけた地権に関わる『改革』ってのは、やっぱり?」
リース女王のやろうとしていた、そして王族が直接かかわったという事にしたくなかった『改革』。
それはカオルの読んだ通り、貴族との対立が起きかねない危険なものだった。
「でもね、私は解ってるの。貴方は貴族と、殊更にレナス伯と対立したくないって思ってるんでしょう?」
「まあね。前に世話になってたし、あの人ももう結構な年だ」
「ふふ、まあそうね。私も女王に即位してから大分経つけど、あの人ももう年配って言っても差し支えないお年頃だものね」
「カオル殿はお年を取りませんが……私たちも、ですよ姉様?」
カオルが配慮したのはレナス伯だったが、年の話などすれば目の前に座る女王も、もう熟女といって差し支えない年齢になっているし、リーナ姫もまた、年増と呼ばれても不思議ではない域に達しつつある。
だが、妹の皮肉にも女王は「あら」と、今更気づいたように口元に手を当て余裕ぶって笑っていた。
「私、そんなにお年を召しているように見えるかしら?」
「いいや、見えないね」
これはお世辞ではなく。
ラナニア女王リースミルムは、年齢の割には全然その美貌は衰えず、むしろますます色気が増した、とカオルが感じるほどであった。
肌艶など初対面のころと比べても血色がよくつやつやとしており、昼間だからいいが、夜にでも会っていればその色気によからぬことでも考えてしまいそうなくらいで。
本来熟女など興味の範囲外のはずのカオルをして「なんでこの人こんなに色気があるんだ」と視線を逸らさざるを得ないほどである。
とはいえ、カオルの返答に女王は気をよくしてか「あら、ありがとう」とにっこり微笑むばかりである。
「女は愛されるといつまでも美しくあるものよ? リーナだって――」
「わ、私は……本や書物が恋人のようなものですし」
「寂しいわねえ。とはいえ、最近は本や書物以外の浮気相手もいるようだけれど」
「う、浮気だなんてそんな……姉様っ」
まあ、恋多き女王として男も女も構わず手を出す女王陛下はともかくとして、その妹たるリースにも、相手らしい相手はできたようだった。
「リーナ王女の相手ってなると、どっかの貴族の?」
「そうだと思ったんだけどねえ、どうにも尻尾をつかめないというか。多分貴族じゃないのよね。商人とかでもないようだし」
「そ、そのような事は……気にしなくてもいいのです。私は、本や書に埋もれ、学者として生きているのですから」
「いつもこんな風にごまかすのよ? 私としては、可愛い妹が行き遅れたままっていうのは可哀想かなあと思うのだけれど」
姉としては本心から心配しているのだろうが。
だが、妹としてはその姉の心配からくるお節介精神がとにかく迷惑なのか、なんとか話題を逸らそうと必死であった。
「……まあ、リーナ王女は、本人が話題を逸らしたがってるからいいとして」
「そうですそうです。別に逸らしたがっているわけではありませんが、カオル殿もお話ししたくてこちらにいらしたのでしょう? 姉様、ちゃんとお話を聞くべきですわ」
「そうねえ。私としては、リーナのお話に話題が逸れてる方がありがたかったのだけれど」
姉の心妹知らず。
実際には女王にとっては、カオルの意識が妹に向いてくれていたほうが都合がよかったのだ。
それは解っていたので、カオルもそれ以上は女王の望み通りにはさせない。
「そちらにもやりたい政治改革ってのはあるのかもしれないけど、うちの支部は政治的には中立にさせときたいんで、あんまり支部長とかを使うのはやめてくれないかね」
「ええ、貴方がそういうのなら仕方ないわ。別の手段を考えないと」
「……まあ、解ってくれるならいいんだが」
一言言いに来た、とはいえ、本当に一言で引っ込んでくれるとは思っていなかったので、女王があっさり引き下がったことに意外なものを感じていたが。
だからと無理に追求し、いらぬ面倒を引き起こすのもバカらしい、と、カオルも素直に受け入れる。
「ねえカオル、あの支部長はどうなっちゃうの?」
「もちろん罷免だぜ。女王からの言葉を無視できないのは解るが、こちらに相談もなしに土地の貴族と争いを起こしたんだ。大問題さ」
「……それって、あの人がそちらに相談していれば、問題にはならなかったって事になるのかしら?」
「その時点で責任があいつじゃなく本部に、もっと言うならギルドマスターに移るはずだからね。それをせず独断でやらかしたんだから、責任はあいつにある」
逆に言うなら、本部のギルドマスターが判断したのなら、それはもう『ミリオン』の総意、是なのだ。
レナスの支部長、カルロの失敗は、この一点のみに集約されるといって過言ではない。
そしてその一点が、最もミリオンにとって都合が悪い部分であった。
「できれば、そういう諮り事は、今度からはうちの本部を通してほしいね」
「気を付けるわ。でも、本部の方はこういう悪いこと、嫌がるんじゃなくて?」
「悪いことならな。でも、今回のことは本部だって突然のことで混乱したんだ。本当にその土地にその改革が必要なら、ギルドが前に立って土地の貴族達を説得したって良かった。これじゃギルドの名に傷がつくし、市民と貴族との間にまた溝が生まれちまう」
「なるほど」
その溝は、かつてラナニアを侵していた大病であった。
この女王が即位し、復興のため善政を敷くことで今でこそ鳴りを潜めてはいるが、潜在的にラナニアの一般市民に植え付けられたその芽は、今だ消え去ることなく根深い部分に残ったままである。
女王とて、それが解っているからこそ直接王政の中でそれを行わず、市民主導の、市民にとって拠り所である支部にそれをやらせたのだ。
あくまでそれは、市民の意思による行動であると貴族らに思わせるために。
だが、それは貴族から見て、唐突すぎて、何の相談もないことのように思えたのだ。
貴族らとて、ギルドのことは信頼してくれていたというのに。
「こんなやり方、信頼してくれた人を背中から不意打ちするようなもんだぜ。これはいけねえよ」
「……政治的なお話もできるようになったのね。貴方も」
「したくねえなあ。できればお茶の時間には他愛ない雑談や子供たちの話を聞かせてやりたいくらいだぜ」
「私も、貴方からそんな難しいお話、聞きたくはないわねえ」
女王としても面白くはないのだろう。
友人からの意見という体だからこそ無碍には扱わないが、この国の最高権力者である自分が、国と直接関係ない相手から説教など、されたくないと思うのは当然である。
それでも、国の英雄で、自分の友人だからこそ、つまらないと思いながらも聞いてくれるのだ。
心底ありがたいと思いながら、申し訳も思いながら、カオルはぺこり、会釈する。
「――そんなつまらない話を、長々と聞いてくれて感謝しますよ、女王陛下」
「何それ、皮肉のつもり?」
「俺が貴方に皮肉なんて聞かせると思うかい?」
「思わないわ。貴方のことだから、本気で感謝してるんでしょうね。でもなきゃ、私が人の話をまともに聞くわけないじゃない。でも、いい気はしないわね」
女王としては名案のつもりだったのだろう。
実際、地方の治政に介入するならば、相応にその地域を治める貴族らと正面切って戦う必要があるのだから。
そして政治的に考えても、先代の時代から愛国者として名を馳せ、エルセリア王とも親交のあるレナス伯カリツは、この女王をしてやすやすと説得されてくれるような軽い石ではなかった。
そんな難物を相手にまともに論戦を続ける愚を犯すくらいなら、支部を利用して内部から突き崩したほうが、王家への、国政への貴族らの反発が少なくなるのは、カオルだって解るのだ。
今の彼ならば。
「……ねえカオル。さっきも話にあったけれど、貴方は外見はずっと変わらないわよね。だというのに、中身はずいぶんと変わったように思えるわ」
「それは、関係性って奴が変わったんでしょうよ。俺の立場や、貴方の立場、互いのやりたいこと、理想やなんかが」
「そうかもしれないわね。異世界人って皆そうなの? それとも貴方だけ?」
「さあ。俺以外だと魔人になった連中くらいしか、そうなってる様子もないけど」
異世界人として外見的に老いがこないのは、魔人を除けばカオルだけに起きている現象であった。
ギルドに所属している異世界人たちも、こちらの世界の住民と同じく、多少元の世界にもよるとはいえ、年を重ね、成長したり老いたりする。
だから、カオルのいた世界がよほど特殊でもなければ、それはカオルが特別なのだと誰もが思う。
そう、彼の友人も、部下も、知り合いも、皆が彼の特徴に気付くのだ。
――カオルは、老いることがないのだと。
だが、それはあくまで外見だけの話で。
中身のほうは相応に、修羅場をくぐっただけの、そしてこの世界の、ある意味先端部分で生きた分だけの経験が染みた、油断ならない見識深さがあった。
一国の女王すら油断ならないと思わせるくらいに思慮深い、そして隠していたはずの真意すら読み取られる恐ろしさ。
これは、親しいからこそ気付ける部分であった。
「……エルセリアの王様も、そんな顔をするようになったなあ。俺の顔は変わらないはずなのに、なんでみんな、俺のことを油断ならないみたいに思うんだか」
「怖いからよ。貴方の興した組織は世界に繋がり、貴方自身の影響力は国すら容易に動かしてしまう。そして貴方は……既に、私やエルセリア王すら読み解けないほどに難解な人物になってしまったから」
「そんな大人物になったつもりもないんだがなあ」
カオル自身としては、今はもう田舎に引っ込んで妻といちゃいちゃしているだけの人生でもいいくらいだった。
今回だって、必要があったからギルドの手伝いをするくらいのつもりで前に出ただけで、そうでもなければ、現マスターの手に余る問題が起きない限りは本当に何も手出しする気などないのだ。
だが、そんなカオルの気持ちも、友人のはずの女王には汲み取れなかった。
そんなに大きなショックはなかった。
それは、普通のことなのだから。
どれだけ友人だと思っていても、人は所詮、相手のことなどすべては解らない。
そんなのは、妻との暮らしでも解っていたことだった。
相手のことを知りたいと思っても、相手のことをどれだけ愛しても、信頼しても、すべては解らなかったのだから。
今でもきっと、サララのことは全部わからないし、サララをして、自分のことなど解らないことだらけなのだろうから。
「なあ女王陛下。俺さ、偉い人たちがいらないことしなきゃ、出てくるつもりもないんだ。そっとしておいて欲しいぜ」
「それは……」
それは、何なのだろうか。
リースミルム女王は、本来思慮深く、話し合いなどでも粘り強く相手と交渉し妥協点を見いだせる優秀な女王のはずだった。
そんな女王をして、思わず口走りたくなる衝動が前に出て。
けれど、それを慌てて無理やり押さえつけるように黙りこくる。
カオルもまた、女王がそうしたのを見て、「そうか」と、何かに納得したように席を立った。
「いいお茶会にしたかったぜ。次は、頼む」
「ええ。次はいいお茶会にしましょうね」
かくして英雄と女王は別れる。
次に会うのはいつになるか。そもそも会うことができるのかすら解らないが、それでも、この約束には意味があるのだと、そう互いに思いながら。
「姉様……」
「行ってきてもいいのよ? 貴方は自由なんだから」
「……はい」
自由ではなかった女王には、それ以上は言えなかった。
せめて自由な妹が傍にいてよかったと女神に感謝しながら、女王は冷めきった紅茶を口に含む。
喉がカラカラだったのだ。
彼女にとって、友人のはずのカオルは、緊張感なくして対面できない相手となっていた。
それはそう、各国の王どころか、主神である女神アロエですら「カオル君は特別」とみなしたのだから。
人の身である女王ごときに、正面からまともに戦うことなどできるはずがないのだ。
去ってゆく妹の背を見ながらに、リースミルム女王は深いため息をつき、一人ごちる。
「――ごめんなさいねカオル。私はもう、貴方の友達ではないのかもしれない」
友人に対して、恐れを抱くなんてあってはならないこと。
本来ならば笑顔を以て迎え、腹が立てば怒ったって良かったはずだった。
だが、彼女はできなかったのだ。怒れなかった。
怖かったのだ。一言一句、一挙手一投足が世界中に影響を及ぼし、世界中を支配しているかのように至る所に支部を置く巨大組織を立ち上げたあの男が。
彼がその気になれば、ラナニアなど容易く転覆させられる。
それこそレトムエーエムなど比較にならぬほど容易く、短期間で、この国は滅ぼされるのだ。
彼がそんなことはするはずはないと、そう心から理解しているはずなのに、信じているはずなのに、どこかで、女王は彼を信じ切れていなかった。
万が一怒らせれば、全てが台無しにされかねない生きている災害。
女王からの今のカオルという存在は、そのように見えてしまっていた。
女王だからこそ、そう思わずにはいられなかったのだ。
国をまとめる存在だからこそ。
「私は……私は、最低な人間だわ。彼は何も悪くないのに」
勝手に恐れを抱いているだけ。
勝手に敵になったらとんでもないことになると考えてしまっているだけ。
そんなの可能性としてもありえないくらいの確率のはずで、議論すらことすら愚かだと誰が聞いても思うはずなのに。
なのに、彼女は一度そう考えてしまうと、眠れなくなってしまうほどに恐ろしく思えてしまったのだ。
可能性があること。それそのものが問題なのだ。
一般市民ならば、その辺の貴族ならば気にならないことでも、王族ならば、そして国を統べる女王なら決して無視などできない。
わずかでもその可能性があるなら、わずかでもそうなってしまうかもしれないなら、それは恐れなくてはならないことのはずだった。
「貴方は……貴方は身勝手だわ。突然現れて、突然上から『こうしろ』って言って。どんな反発を抱いても、私たちが逆らえないのは解ってるでしょうに……貴方は、ずるいわ」
既に力関係は逆転していた。
かつて英雄として接していたころはまだ、『夫にしてもいい相手』くらいにしか思っていなかった。
そのほかには「多大な功績をあげた、国のために頑張ってくれた人」くらいで。
だというのに、魔族の王と関わりを持ったり、女神アロエと友人のように付き合ったり、そのアロエにすら特別扱いされるようになったり、いつの間にか女王のはずの自分は、この国のトップだったはずの自分は、彼の前にはただの格下に成り下がったのだ。
かつて父である王を上に戴いていた頃でも、父に対してそんな感情は抱かなかった。
別に、カオルが自分のことを見下した訳でもないし、命令したわけでもない。
だというのに、高いところから見下ろされているように思ってしまうのだ。怖いのだ。勝てないのだ。
それが、女王である自分のプライドをひどく傷つけ、そして女王という存在を軽くしてしまっているように思えてならなかった。
悔しさよりも、やるせなさのほうが強かったのだ。
あれだけ覚悟して女王になったというのに。
ずたずたにされた国土を、国家を立て直すために必死になろうとしていたのに、必死になっていたのに、気が付けば、友人のはずの英雄殿に、その苦労すら、覚悟すら薄れさせられ、復興は成ってしまったのだから。
(でも、これは全部私が……私たちがいけないんだわ。彼を英雄にしてしまったのは、私たち皆の罪。業。皆が、彼を途方もない存在に仕立て上げてしまった……)
恐らく。
恐らく、彼がまだ人間として、国家の長と対等かそれ以下の存在として扱われていたのは、魔王が討伐される前後まで。
そしてその時、彼の役目を、立ち位置を大きく変える出来事が、確かにあった。
そう、魔王討伐のために、ミリオンを討伐隊に加えようと目論んだこと。
これがなければ、ミリオンはあくまで市民のための、都市のための組織のままだったはずだった。
あくまで魔族や魔人の相手は、そして魔王討伐は軍隊がやることとしていれば、カオルの影響力とて限定的なものに収まるはずだった。
それを、ほかならぬ彼女たちが、してしまったのだ。
(私は……私たちは愚かだったんだわ。表舞台に引き出してはいけない人を、都合がいいからと、有利になれるからと引っ張り出してしまった。彼は、愛する人と一緒にいたいだけだったのに)
後悔が止まらなかった。
もう、国などよりよほど上手く、『ミリオン』は地域の政治に介入できてしまえる。
その為の、それを見極めるために敢えて行った諮り事だった。
そしてそれは、いともたやすく為せてしまった。
国など、自分など交渉の場に座る必要すらない。
それこそ「市民が望むから」で貴族すら無視してごり押しできてしまえるだけの力が、彼らにはあるのだ。
そんな巨大組織、たとえ有益だからと無視できるはずがない。
だというのに、排斥するにはあまりにも遅く、そして巨大組織過ぎた。
「……そうか。これが民主主義。数の暴力なのね」
そして思い至ったのは、かつて妹が持ち出そうと、かつて民衆が暴走したときに声高に主張していた、ありえない思想だった。
それの、完成系がミリオンなのだ。
その力、まさしく強力であった。
(私は……私だけでなく、世界中の王が、この力を知ることになる。もう、王が一人で決めるような世界ではなくなっていくのね)
時代の変化はあまりにも急速で。
だからこそ、自らの老いを感じずにはいられなくなっていた。
そう、確かに自分は老いたのだ。
老いて、手腕もまた熟したからこそ気付けたのかもしれなかった。
無知だったころの、若かった頃の自分ならば気付けもせず、無邪気にカオルのことを英雄殿ともてはやしていたかもしれない。
だが、今はそうではなかった。
ともあれ、カオルに「やるな」とは言われなかった。
その変革は市民が求めていたもので、必要なものだったのだから。
ギルドとは対決することなく、それは実に影響少なく、無事な形でまとまったのだから。
後は、ギルドと貴族が話し合いをしていい感じにまとめて終われば、国家には、国政には何の憂いもなく物事は進んでいくはずだった。
それが、一層やるせない。
(……考えるのやめよう)
バカバカしくなってしまう。
そんなことを考えている暇があれば、恋人の男の子か女の子に癒されたほうがいいに決まっているわ、と、女王は現実逃避し、席を立った。
「申し訳ございませんカオル殿。姉様が……その」
「悪意があってのものじゃないだろうし、気にしなくてもいいよ」
城を出るところまで付き添ってくれたリーナ王女が深々と頭を下げる。
だが、カオルも気にはしていないのだ。
だから、いちいち謝られても困ってしまう。
「次に来た時は、楽しいお茶会にしような。俺も、息子とか娘とか連れてくるから」
「はい……その時までには、私も子供を授かれているといいのですが」
「やっぱそういう相手はいるんだな?」
必死に隠そうとしていた、話題を逸らそうとしていた王女は、しかし今は隠すこともなくはばかりなく前に押し出していた。
はにかみながら「実は」と、切り出す。
「ま、まだ結婚などは……まだ、なのですが」
「プロポーズとかはしてもらってないわけか」
「今一相手の方が真面目過ぎる、というか、目的に一途な方でして」
「それは苦労する奴だな。女のほうから積極的にいかないと難しくないか?」
「そう……なのですが、私も、男女のお付き合いというのがどのようなものか、その、お恥ずかしながら、この年まできて、不勉強でして」
王族としては恥ずべき事らしく、本当に恥ずかしそうに頬を赤く染めるが。
まあ、そうじゃなくとも控えめなこの王女がそういった相手に迫れるかといえば難しいのもわかるので、カオルも曖昧にぼかすように「ああな」とそっぽを向く。
「参考までに知りたいのですが、カオル殿としては、やはり私くらいに歳のいった女性は、興味の範囲外になってしまうのでしょうか?」
「んー……いや? 別にリーナ王女は十分魅力的だと思うぜ? 俺にはサララがいるから浮気する気にはならんが、大概の男なら……まあ、体型的な趣味とか、後は性癖にもよるが」
「そ、そうですか……ありがとうございます。そうなると、やはりあの方は……特殊な……」
愛した男が特殊性癖持ち、というのはショックかもしれないが、その辺りは考えたこともあるらしく、比較的穏当に受け止めたようでカオルも安心する。
「でもそれって、それに合致さえすれば浮気の心配は減るって事でもあるだろうし」
「そうですね。必ずしも悪いことではないですものね。後は……私自身の覚悟次第、でしょうか」
「まあ、そうなるかね。上手くいくことを祈るぜ」
「はい、ありがとうございました」
その時は他愛のない恋愛相談、くらいのつもりで答えたカオルだったが。
後日、リーナ王女が王族としての立場を捨て、元革命家の一般市民と結婚したと聞いた時は、流石にカオルも「そっちの覚悟かよ」と驚いたのだった。