#2.へいわになったせかい、なのになぜ?
魔王グラチヌス討伐から十年経った『記念日』にて。
世界をさらに大きく変える出来事が、エルセリアで起きていた。
それまで対立していた人類と魔族とが、和解をしたのだ。
各国が協調路線を強めていく中、目下問題となったのは魔族と魔物の存在だった。
極東に拠点を持ち、かつて魔王ともなった魔族王アルムスルト。
これまで脅威とはならなかったからこそ目先の協調を重視していた人間の国の王たちが、ようやく状況が落ち着いたのを見て「これをどうすべきか」と話し合ったのだ。
そんな中、和平を結ぶ事に大いに賛同したのが、女神アロエであった。
かつて魔族と対立していた主神の賛同である。
当初は「そうは言ってもかつては魔王だったのでは」「また魔王として暴れだすのでは」と困惑した王もいた。
だが、かつて魔王と対峙した経験もあるエルセリア王の「ワシの知っている魔王とは違うようだ」という言を受け、結果として人類はまとまり、魔族もまた、これ以上の争いを望まぬというアルムスルトの考えから、和平へと急速に進んだのだ。
アルムスルトの命により、大陸に隠れ潜んでいた傘下の魔物や魔族らは極東に移り、地域を困らせていた野良ドラゴンなども現存最強の古代竜ガラガンディーエに従うようになる。
集落の外の危険性が大幅に下がり、旅人が行き来しやすくなったが、同時に賊も発生しやすくなり、国家の目下の課題はこれの討伐、という形になってゆく。
だが、その賊もミリオンにより逐次討伐されていき、危険性のある存在は大幅に減っていった。
そうなると地域ごとの交流も増していき、文化も花開いてゆく。
伝聞された異世界の文化も相まって、大陸は東西南北、人魔合わさり様々な文化に色づいた。
「カルナスも随分変わったな」
「ええ……ここ数年で、様々なものが変わっていきました」
夜ににぎわう街は祭りの最中。
かつての冬祭りとは違う、けれど皆が楽しそうに笑っている光景を、カオルは悪くない顔で眺めていた。
隣に控えるのはサララではなく、キューカ。
最近体調を崩しがちなサララに代わり、頼まれてついてきていたのだ。
「悪いな、仕事もあるだろうに無理についてこさせて。サララも無茶ばかり言うだろう? あれで心細いんだ」
「いいえ……私はそんな……大それていると、思うくらいで」
「大それている?」
「……ええ」
広場に並んだ椅子に腰かけ見上げてくるカオルにキューカは目を細め、そして胸元できゅ、と手を握り締める。
「私などが、サララ様の代役だなどと……恐れ多いと」
「そんなことはないぜ? 俺はサララが一番美人だと思うけど、キューカだって十分美人だし、品もいいし」
「そ、そんな……っ」
屋敷にきてもう10年以上経つが、それでもまだカオルから褒められることに慣れてはいないのか、頬に朱が差し猫耳がぴょこぴょこ動いてしまう。
サララとは違う、けれどとても愛らしい仕草だった。
「まあ、あんまり褒め過ぎるとよくないようだが、俺は君が隣を歩いてても文句はないし、十分代役を果たせてると思うがな」
そもそもサララが代役を立てたのだって、本来なら一緒に祭りを楽しむ予定が、体調を崩したせいで無理になったから、というもので、わざわざ代役としてきたこの娘には何の非もないのだ。
カオルだって楽しみにはしていたし残念ではあったが、サララから「どうか楽しんできてくださいね」とにっこり笑顔で見送られ、キューカと一緒にいる事にもストレスは感じない。
だから、素直に楽しみたいと思ったのだ。この瞬間を。今を。
「今は祭りを楽しもうぜ。祝うべき人と魔族の和睦の記念日だ」
「……はい」
長い白髪を指先でくるくると弄って視線をそわそわさせ。
けれど、想い人からの肯定の言葉はとても心地よく。
熱くなる頬を空いた手で押さえながら、キューカは空を見上げた。
「――夜空がとてもきれい、です」
「ああ。こんなに明るい夜も、結婚式以来かね」
「そう、ですね……あの夜は皆さん遅くまで……とても楽しい夜でした」
「ほんとにな。こうやって皆、酔いどれ朝まで騒いで……幸せな朝を迎えられればいいんだ。ずっとずっと、定期的に」
祭りとは幸せの回顧。そして繰り返しである。
楽しかった思い出をまた繰り返すことで、何度でも楽しめる、そんな過去を紡いでゆくのだ。
何事もない日常の中、時としてつらいこともある日々の中、それを思い出し、そして「また今年もああなるんだ」と期待を込め、希望を抱き、人々は祭りを毎年のように行う。
それでいいのだ。そうやって、何度でも繰り返し、文化となり歴史となり、人々はそれを愛するようになる。
「そうやっていく内に、皆幸せになれれば……いいんだが」
「……私は、幸せです」
「そうか?」
「はい。こうして旦那様のお傍に立てて。そして、そのお言葉を聞けて。お顔を見られて」
幸せは、まだ全ての人にはいきわたっていないように思えた。
だから、まだ頑張らなければならないはずだった。
けれど、傍に立つメイドが、何より真っ先にそれを伝えてくれたのだ。
幸せだと。それを聞けただけで、カオルは嬉しかった。
心が癒された。そう、癒されたのだ。
「……なあキューカ。サララは、大丈夫なんだろうか」
「……それ、は」
年々、サララが健康でいられる日は減っていった。
身体を気遣い、子供を作らなくなってから三年が経とうとしている。
年齢的にはまだまだ全然子供を作れるはずだが、それ以上にサララ自身に身の危険があると医者は言っていた。
人間の医者が、ではない。
エスティアから呼び寄せ屋敷に常駐させている、猫獣人の医者が言うのだ。
サララ自身は、健康に気遣った、かなり身体を労わった生活を送っていたはずだった。
だから子供はどんどんと産み続けられたし、そこまで負荷はかからなかった。
だが、たまたま一度かかった季節性の風邪が原因で、体力がどんどんと失われていっているらしい、と医者は言っていた。
「俺はな、すごい不安なんだ。こんな不安なことは初めてかもしれない……いいや、初めてではない、か」
その時はすぐに過ぎ去ったが、と、過去を想い馳せる。
それは、かつてラナニアで、サララが命を狙われた時。
その時こそサララは死ななかったが、その時の不安はその後の人生を変えるくらいには大きく、恐ろしかった。
それが今、際限なく続いているのだ。
ベッドで力なく甘えてくる妻を見て、自分の無力さを思い知らされる日々が続いていた。
そんなサララを、少しでも元気づけたいからこそ、祭りを一緒に見ようと約束したのだ。
だというのに、それはやはり叶わず。
妻の前でなら張れていた虚勢が、どうしても維持できなくなる瞬間があった。
つい、弱くなってしまったのだ。心が。
「もし、もしもサララが……サララの身に何かあったら……俺は、俺はどうしたら……どうすればいいんだろう」
「旦那様……」
そんな主人を見ているのが、キューカはとても辛かった。
ずっと幸せになってほしいと思う相手だった。
結婚前夜、サララから胸の内を指摘され、とても恥ずべきことだと自戒したくらいには、二人には幸せな人生を歩んでほしいと願っていた。
今、それが崩れようとしていた。
それがキューカには、たまらなく悲しい。
けれど同時に、自分がなぜここにいるのか、という理由にも気づいていた。
サララはずっと分かっていたのだ。
自分が、ずっと我慢していたことを。
忘れられぬ想いを抱えながら、恩義を背負ったまま、そんな自分に、解放する機会を与えてくれたのではないか。
そうすることで、自分の代わりに支えられる誰かを、夫の為に用意しようとしたのではないか。
それは酷く自己中心的で、身勝手で、けれどとてもサララの考えそうなことであった。
だから、キューカは黙って傍に立っている事などしなかった。
「――キューカ?」
「旦那様。大丈夫ですから。大丈夫ですから」
主人の前に立ち、屈み、手を取り。
そうして、その手を自分の胸に当て、ぎゅっと握りしめる。
「その不安な気持ちは、皆が抱いております。私も、屋敷の皆も。けれど、私にできることは、サララ様の代わりをすることですので……」
「その『代わり』は、しなくてもいいんだぞ?」
「いいえ、させてください。今だけでも楽しめますように。今だけでも気を楽にできますように」
それは、キューカの願いでもあった。
自分の存在で、少しでもこの主人が笑えるならいいと思えた。
自分が主人を癒せるなら、その方がいいと思えた。
それが例え報われぬ思いの先にあった行動だとしても、それで少しでも救いになればいいと、本気でそう思っていた。
「旦那様……カオル、様。どうか、今宵だけでも私を、お傍に」
「……すまない、な」
それは、主従の関係を超える事を意味していた。
大きな花火が鳴り響く。
けれど、それが気にならないほどに胸が強く打たれ。
キューカはにこり、愛らしく笑う。
それはとても美しい笑顔だった。
素直に愛らしいと思える表情だった。
だからカオルは、今だけは辛い気持ちを忘れられた。
そんな夜があってもいいと、思ってしまったのだ。
「いやあ、困りましたね。ほんとに」
「サララ」
魔族との和睦から一年が経過した頃。
カルナスの屋敷は、シン、とした、とても静かな空気に満ちていた。
サララの寝室では、部屋の主が力なくベッドに横たわり、自分に寄り添う夫に手だけ握ってもらっていた。
「今年に入ってからもう、まるで動けなくなって……私、どうしちゃったんでしょうね。お医者さまも、体力的には回復しているって言ってくれているんですが」
「医者じゃどうにもならないことも、あるかもしれないからな」
「そうですね……でも、日が経つにつれて起きていられなくなっちゃって。今朝も、一度起きたはずなのに、何度も起きたはずなのに、気が付いたら眠くなっていて……お昼が過ぎて、夕方で、今はもう、夜で」
「今は、起きていられるな?」
「多分……えへへ、寂しくて、眠くなってしまうんでしょうか」
「そうかもな。でもほら、サララって前からよく寝る子だっただろ? たいしたことはないさ」
浅い眠りが何度も訪れ、覚醒していても眠気が強くなり意識を保っていられない。
病気としてそんなものは存在せず、呪いか何か、外因があるのではないかと医者は言っていた。
けれど、そこから先が分からない。
カオルも部下に方々を調べさせつつ、自身もあらゆる手を使って調べているが、いまだに理由が分からなかった。
だから、今できることは妻を元気づけることくらい。
自分自身が絶望感に満ちていたが、それでも手を握り、笑顔を見せてやるくらいしかできることはなかった。
「まあ……こうやってゆっくり眠って、カオル様と手を繋いで、笑いかけてもらえるのは……妻の特権みたいなものですし? 割と今のままでも幸せではあるのですが……子供が作れないのがちょっと寂しいかなあ」
「まあ、今はな。でも猫獣人の寿命は長いんだろう? なら、元気になればいくらでも作れるだろ? 俺もまだ元気だし」
「そうですね……ふぁぁぁ……また眠くなってきてしまいました。カオル様、夢の中でも、サララを守ってくださいね?」
「勿論だ。夢の中の俺は超格好良くお前を守ってやるさ。さ、ゆっくりお休み」
「……はい。おやすみなさい」
まるで子供をあやすように。
けれど、眠りを促すとサララはすぐに寝入ってしまう。
そのまま、すぅ、すぅ愛らしい寝息を立てているのを聞き、カオルはふるり、身を震わせた。
(……時間がねえ、な)
日に日にサララはやせ細っていく。
体力は回復しているはずなのに動けなくなっている日があまりにも多く、心の方が弱くなってしまっているのだ。
かつての気丈な、気の強い妻の姿はどこかへと消え、今はただただか弱い姿のまま。
命は繋いでいても、こんな状態が続けば心の方が原因で他の病気まで併発しかねない。
少しして、そっと握っていた手を放し、寝室から出る。
「……旦那様」
「キューカか。悪い、出かけてくる」
「こんなお時間に……? 分かりました。リリラさんにお伝えしてきます」
「ああ」
――辛い今の自分の顔を見たのがキューカでよかった。
部屋の外に控えていたのがキューカだったのに安堵しながら、屋敷の外へと向かう。
もしかしたら慰めようとしていたのかもしれない。
そそくさと背を見せ走ってゆくキューカに「悪いな」と思いながらも、カオルは今、もうサララの事しか考えられずにいた。
思い当たる場所など、そう多くはない。
(少しでも……少しでも可能性のある所にいくしかねえな)
医者に治せない病気でも、医者以外になら治せるかもしれない。
医学にない知識でも、錬金術ならばあるいは。
藁にも縋る気持ちとはこのことか、と、上がる心拍数を抑えるように、カオルは思い当たるのある錬金術師の元へと向かった。