#15.女神様気づく
いざ戦いが始まると、それまで静かだった地域にも、にわかに兵らの怒号が響き渡る。
魔王グラチヌスの軍勢との戦い。
決戦の地に至るまでの道のり、当たり前のように人間や魔物、動物らが集合し、人類軍を迎え撃つ。
しかし、やはりというか、魔王グラチヌスに操られているだけの軍勢は勢いに欠け、また、その数の少なさもあって初戦では大被害を受け、押し込まれてゆく。
「……強いな敵軍は。忌々しいが……時代が変わったって事か」
「は、はあ……」
帝都の中心、魔王の居城にて。
新たに据えられた玉座におわす魔王グラチヌスは、自分の正面に立ち尽くす側近ボーディに呟き聞かせる。
戦況は圧倒的に不利。
自らも復活したばかりで力が万全とは言えず、明らかに先行きが見え透いていた。
「このままだと敗北確定だが」
「う……」
「それでもボーディ。お前はおいらについてくれるのか?」
今のままでは絶対に勝てない。
遠からずまた、勇者がこの地に訪れ、自分の首を切り落とす。
前回がそうだった。
いけ好かない若造が三人ばかり。
カットラスに宝石のついた高価な剣をつけた取り巻きどももなかなかの腕利きだったが、何より危険だったのはやはり勇者だった。
命がけで自分を殺しに来た。
叩き潰すために大量の配下で出迎えたところに、犬獣人が横合いから聖域化の奇跡等を発動させ、挙句にエルフがバックアップまでしていたのだ。
問いかけられボーディは困惑し、目をうろうろさせ……しかし、覚悟の決まった顔で「はい」と頷いて見せた。
「もう、俺に行く場所も、逃げる場所もありはしません。王様。俺のことを助けてくれたのは、王様だけです……この命も魂も、なんだって使ってください」
「ありがたい話だ……お前のような部下が俺にもいたなら……もう少しまともな戦いになったか」
魔王としての力など、勇者の力によって容易に打ち消されてしまう。
どれだけの力を持っても、勇者がこの場に来れば、後は非力な行商としての力しか持っていないのだ。
あまりにも無意味すぎる。ただ強いだけの力など、使いこなせない力など。
しかし、自分には無理でも、この男なら可能性があるかもしれない。
特に根拠などない。だが、信頼できる駒が今この瞬間に一つある。それだけであった。
「聞け、ボーディ。この近くにな、エルフの村がある。西の方角だ」
「エルフ……ですか?」
「そうだとも。前の戦いの折、勇者一向をバックアップした、エルフの魔法使いが数多く住んでいた村だ」
「つまり、王様の、敵ですか」
「ああ。敵だ。そいつらがいなければ、おいらももう少しまともな戦いができていたはずだ。奴らの村を潰してこい」
力を分け与える前提で。
だが、今一つ試したかった。
本当に彼がそれに足る人物なのか。
自分の国民として、部下として生きてくれるのかを。
ボーディは突然の抜擢に迷いながらも、しかしやはり同じようにうなづいて見せた。
「……頑張ります」
「奴らは強力な魔法を扱える。呪いも使える。今のお前では死ぬぞ?」
「それでも、王様の敵なら、俺は……俺は……っ」
目を見る。
恐怖からか、左右に細やかに揺れていた。
しかし、反らそうとはしていなかった。
恐らくは戦えまいと思ったグラチヌスだが、「ほう」と、喜びが腹のうちから湧いて出てくるような感覚を覚え、口元をにやけさせる。
「おいらの為なら、死んでくれるのか」
「それが、王様の願いなら……」
「……いいな。そういうの。そういう部下が、俺もずっと欲しかったよ」
自嘲しながら立ち上がり、目の前の弱そうな男を見やる。
グラチヌスから見ても明らかに戦力外の、情けない男だった。
だが、そんな男でも自分を王として認め、部下として仕えてくれる。死んでくれる。
一度敗れ、国すら失った自分を盲目的に信じてくれる。
そんな男に、無駄死になどさせる気はなかった。
「――おいらの商売の師匠が言うにはな。魔王の力と言うのは、この世界の人間に降り注がれると、途方もない力が得られるのだという」
「へ……?」
「魔王というのは勇者とぶち当たると、その瞬間に勇者の力によって魔王の力を打ち消されてしまう。つまり、どれだけ力を持っていても意味がないんだ」
「それじゃ……それじゃ、どうやって勝てば」
「本来なら魔人が、魔王の側近として、そして力を失った魔王の代わりに勇者を討ったりするのが正攻法なんだろうがな。あいにくと頼りになる魔人は一人もいねえ。かといって、今から集めようとしても間に合うはずがねえ」
「……」
「だから、お前においらの力を分けてやる。正気を保てよ」
「へっ……あ、あああああああ!!!!!!」
ぐい、と、左手で肩をつかまれ、そのまま右手が鳩尾にあてがわれる。
何事が、とボーディが思った直後、腹の底から強烈な、味わったことのない様な熱を覚え、まるで内臓を焼き尽くされるかのような激痛が走る。
それがやがて全身へと伝搬し、狂ってしまうのではないかと言うほどの魔力の暴走が引き起こされた。
ぶちりぶちりと全身の血管が耐え切れずにちぎれ、無理やり魔力で再生されてゆく。
血管のように全身に新たに生まれた魔力のラインが、心臓と脳髄に突き刺さってゆき、それまでの血管や神経の機能を乗っ取ってゆく。
「うっ、うがっ、がっ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!!」
絶叫が城内にこだまする。
魔王グラチヌスは転げまわるボーディを見やり、満足げに口元をゆがめた。
「ちぎっ、からだっ、ちぎれっ、あっ、あつっ……あついあついあついぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
「それが新たな再生だよ。魔王の力を受け入れるとな、並の人間ではそうなってしまうのだ。だがお前はついている。たいていの奴はそれに耐え切れず、注ぎ込んだ直後に死んでしまうのだ。ここまで耐えればもう大丈夫。お前は、俺の部下として才能があるよ」
聞くに堪えない悲鳴を上げ、全身を痙攣させるかのようにばたつかせ、口から、鼻から、耳から目から血を流し。
失禁し脱糞し、体中からあらゆる体液が吹き出し。
しかしやがて、生まれるのだ。
魔王の力を持った、魔王の部下が。
「あ、あ……ああっ」
30分ほど経っただろうか。
最後に一度、より大きくびくりと強く体を跳ねさせ、絶頂がごとしその動きに魔王は「よくやった」と誉め言葉を向ける。
絶望の時間は終わり、希望の時間が訪れた。
「……おう、さま」
「ボーディ。よく耐えたな。新たなお前におめでとう」
「新たな、俺……?」
そう言われても全く実感がわかなかったが。
しかし、玉座の間に飾られた大鏡を見て、自分の今の姿を理解した。
背丈こそ同じままだが、全身は筋肉質で、骨太で、そして顔つきから何からたくましくなっていた。
腕や足、首の太さなどは今までの倍もあり、顔つきはかなり厳めしい。
耳は縦にとんがり、目はまるで猛禽のそれのように鋭くなり、背中には羽も生えていた。
見るからに人外。けれど不気味さよりはすらっとした、まるで神話の世界の存在かのような。
そう感じ、ボーディは改めて主をみつめる。
「これ、は……?」
「まるで天使か何かのようだなボーディ。その背中の羽は、空を飛ぶのにも使えるんじゃないか?」
「羽……羽の、羽ばたかせ方は……お、おおっ!?」
主に指摘され、改めて背中の羽に意識を向け。
どうしたらいいかわからず肩甲骨の辺りを動かそうと試みて、ばさり、翼がはばたく。
その瞬間、ふわり、と、いかつい身体が宙に浮いたのだ。
ボーディは興奮した。
「す、すごいですこれ……空が、飛べて……っ」
「魔法も使えるはずだぞ? 試してみろよ」
「は、はいっ」
指さされた先の家具に向け、迷いなく手のひらを向け、力を籠める。
《シュゥゥゥゥゥゥゥ――バシュゥッ!!》
目に見えるかどうかという速度で魔法弾が放たれ、家具は見るも無残に爆散した。
それを見て、ボーディはまたも「すごい」と、目を輝かせた。
こんな力。こんな圧倒的なパワー、初めてだったのだ。
それが自分の身体から出る。こんな事、夢にも思えなかった事である。
「すごいです王様! これなら……これなら、エルフの村もつぶせますよ!!」
「ああ、そうだろう。やってみろよ。失敗したって怒らねえから」
「失敗なんて!! 絶対に、絶対にうまくやって見せます!! 見てろよエルフども……皆殺しだぁっ!!」
こうして、魔王グラチヌスの側近ボーディは、西へと飛んだ。
「廃墟じゃない」
「うん、そうね……廃墟になってる」
勇者一向はというと、アースフィルの西、まさにボーディが向かおうとしていた村に到着していた。
一晩の休息の地として。
しかし、そこはすでに廃墟になってしまっていた。
勇者カオリが「どうなのこれ」と疑念を女神アロエに向けるが、アロエはさほど気にした様子もなくすいすいと前に進んでしまう。
合流したメンバーらも顔を見合わせながら「ここでいいの?」といった不思議な気持ちになるが、女神は気にしない。
「グラチヌスを討伐した時、その時の私たちは、この地に住まう亜人――エルフに力を借りたの」
「エルフ? エルフってあの……耳のとんがった?」
「カオリ様、よくご存じですね……ですがエルフは、グラチヌス討伐とほぼ同時期に」
「ええ、そう――多分だけど、暴走したグラチヌスによって滅ぼされたのよ。エルフはかねてより人口減少がひどくてね、その村に寄り集まっていた数少ない生き残りが、それでほとんど全滅みたいになって……」
思い出しながら、しかし悲しげに眉を下げ、語る速度はとつとつとゆったりし。
そうして、村の中心とも言える場所で足を止める。
女神の視線を向ける先は、広場の片隅。
大量に並ぶ墓石群だった。
「あれは……」
「お墓よ。戦いが終わった後私たちはここにまた訪れたの。お礼を言うためにね。まさかグラチヌスの攻撃にさらされていたなんて知らなかったから……生き残れたのは、200歳ほどの若い娘と、生まれてまだ20年っていう幼い女の子だけだったわ」
「……200歳で若い娘さん、ですか。ドワーフみたいですね」
「まあね。長命で内包する魔力が高いのが特徴の種族だから……でも女だけになってしまった種族に未来はないから……エルフは特に、長命が故に安定しちゃってて繁殖意識が乏しいから多種族との間の混血を望むのも難しくって……絶滅確定? みたいな感じだったのよね」
それすらも、今もまだその二人が生きていればと言う話で、アロエとしては半ば諦めている話でもあった。
エルフは女神信者ではなく、自然信仰を主としている種族の為、年末にアロエに祈ることもしないので動向も把握できない。
結果、こうして目で見るまで、生き残った二人が生きているのか死んでいるのかすらわからなかったのだ。
そして実際に見て、おそらく死んでしまったのだろうと、アロエは考える。
「こうしてキャンプ地を設営し始めても出てこないあたり、その生き残りの人たちももう?」
「多分ねー。名前でも聞いておけば呼ぶこともできたかもだけど、私ってその時は結構消耗しちゃっててそれどころじゃなくってねえ」
「消耗って……? あ、やっぱり魔王の封印の為に?」
「そうね。先代の勇者がグラチヌスを倒してくれた後に、魔王の力を消そうとして……だけど、思ったより力の方向性が歪められていたというか、その時では間に合わなかったの」
今まで一度たりとも、魔王が完全覚醒し、世界を滅ぼしたことはない。
それは、今まで必ずアロエが勇者とともに魔王を討ち取ってきたからに他ならないが、同時にそれだけの回数、アロエが魔王としての力を、消せなかった事の証左でもあった。
「じゃあ、今回も同じようになるかもしれないの? その、アイネさんもいるけど」
「今回はいけるわよ。今までずっと失敗したのだって、過去にそれをいじった娘――リエラの書き換えた術式を修正することに費やしたからだから……次こそは、必ず」
「そうなってくれなくては困るがな」
勇者と女神の会話であったが、いつの間にか近づいたのか魔族王アルムスルトも会話に混ざってくる。
勇者も女神も突然だったので「わっ」と驚き、抗議じみた視線でにらむ。
「不意打ちは趣味が悪いわよアルムスルト。女子のトークに混ざるのは空気読めてない」
「流石に今のはびっくりしたっていうか……いたっていうなら教えてくださいよーっ」
「ははは、それはすまなかったな。何せ若い娘の流行り廃りなどは私にはとんと分からぬことであるから」
「全く……それで、わざわざ会話に混ざってきたのは何?」
のらりくらりと抗議をかわすアルムスルトに「相変わらず食えない奴ねえ」とため息を漏らしながら。
わざわざ絡んできた用事がそれだけとも思えず、女神は問うたのだ。
「やはり気づいていなかったか。いやな? この廃墟に来てから、ずっとこちらを伺っている者がいるようでな……レイアネーテとその相棒に探索させているのだ」
「こちらを……? 相手の偵察隊かしら?」
「いや、一名だけだからそうとは……戻ったか」
『みぎゃーっ、放して、放してよぉっ! 私別に何も悪い事なんか……っ』
アルムスルトがちら、と広場の一角に目をやるや、まるでそれに合わせるかのようにやかましい声が響く。
何事、とアロエらが見やると、そこにはレイアネーテとティアに両脇を抱えられた、見覚えのない娘が一人。
必死にじたばたと足を振っていたが、両脇をがっちりと捕まれていて身動きがとれない様子であった。
「あーっ、あーっ! 放してったらぁ!!」
「うるさいなあ……あ、今戻りましたー」
「戻りましたけど……この子であってたんです? アルムスルトさん」
「ああ、その娘であっているようだ。魔力の性質も方向性も、私が感じ取ったものと変わらぬ」
でかした、とばかりに目を伏せる。
女神様は、どこか面白くなさそうだった。
「ていうか、いつの間にかギルドの人たちをこき使ってるの? 大丈夫?」
「いや、なんとなく従わなきゃいけない気がして……」
「君たちは忘れているかもしれんが、一応私も『ミリオン』のメンバーだからな。カオルから、レイア……の後見とメンバーの安全を頼まれている」
「そ、そうなんだ……大胆な人選ね」
無理やりにでも彼をここに連れてくる名目が必要だったとはいえ、魔族の王をギルメンにしてしまうその胆力は、女神から見ても「カオル君すごくない?」と困惑するほどであった。
「それで、この娘の処遇だが……」
「ああ、その娘ね……エルフだから、解放してあげてね」
「えっ、いいんですか? ずっと私たちの方伺ってたみたいですけど」
「逃げ足とかすばしっこくて捕まえるの大変だったんですけど……」
「いいのいいの。あんまりいじめると呪われるからすぐに放してあげて」
呪いというフレーズにティアは顔を真っ青にして手を放してしまう。
レイアネーテもそれに合わせてぱ、と手を放し、エルフの娘はようやくにして開放された。
「う、うう……ひどい目にあったわ」
「久しぶりねエルフのお嬢さん。お姉さんは元気?」
「やっぱり貴方、女神様だったのね……グラチヌス討伐のつもり?」
「そのつもりだけれど……」
「……」
目の前にいるのが女神アロエと知っても尚、エルフの娘はじ、と、アロエを睨んでいた。
「グラチヌスは、私たちには無害だったわ。それを無理に討伐しようとして、見逃されていたはずのこの村は、グラチヌスから攻撃を受けた……生き残ったのは、私とお姉ちゃんだけだったのに」
「それは……」
「また私たちに協力しろって言うの? 私たちは人間からこんな大陸の隅っこまで追いやられて、静かに生きていただけだったのに! それでも、前の戦いのときは大人がみんな協力したじゃない……もういいでしょ? 貴方達だってそんな、ぞろぞろとたくさん仲間を連れてるんだから、エルフの力なんて要らないでしょ!」
早口でまくし立ててくるこのエルフの娘を前に、アロエはそれを抑えるための反論もしようとしなかった。
というより、できなかったのである。
協力はさせた。けれどその結果種族は絶滅の憂き目である。
怒りをぶつけられたって仕方ない事になってしまったのだから。
「私は、貴方には協力は頼まないわ」
「当たり前よ! ここにキャンプを作るのだってやめてほしいくらいだわ! ここは私に残された住処で、お姉ちゃんが帰ってくるための場所なんだから! 勝手に踏み荒らさないで!!」
「……貴方の姉も、まだ生きているのね?」
「当り前じゃない! だけど……お姉ちゃんは旅に出てしまって、滅多に戻らなくなって……私は、一人ぼっちで」
見覚えのなさから、アロエは当時20になったばかりの方の子供が成長したのだろうと思っていたが。
やはりというか、200歳の娘の方はこの村にはいないらしかった。
「なんであの娘は、貴方を残して村を? 逃げるなら、貴方も連れて行くでしょうに」
「……復讐の為よ」
「復讐?」
「そう。お姉ちゃんは、村を滅ぼした魔王に……その部下だっていう魔人に、復讐するために村を出たの。その力を得るために、強くなる方法を探すためにって」
「……魔人? この村は、グラチヌスに滅ぼされたんじゃなかったの?」
「グラチヌスに滅ぼされたのよ! あいつが部下の魔人をここに寄越して、全部無茶苦茶にしたんだから!! お姉ちゃんがそう言ってたもの!!」
それは、アロエにとっては初耳なことで。
驚きとともに「どうして」と、目を見開き困惑してしまった。
あの時、村が滅びた直後。自分たちが訪れた時に。
その、生き残りの二人のうちの、若い娘はなんと言っていたか。
『グラチヌスが、村をこんなにしたの』
そう伝えてきたはずだった。
魔人が、自分たちが魔王を滅ぼした後に村を襲撃したことになる。
そう考え、「どうして」と、疑問がいっぱいにあふれてきたのだ。
「つまり、グラチヌスの力でこうなったのではなくて、配下の魔人が暴れてこうなったって事?」
「そうみたいね……私、ずっと思い違いをしていたわ。死ぬ寸前のグラチヌスの力の影響でこんなになったんだと思ってた。何が起きたのか……」
「私にだってわからないわよ! お姉ちゃんだって詳しく教えてくれなかったし……」
「……魔人と魔王を倒すための旅なら、それは子供は連れていけないよね」
ただ一つ分かったことは、この娘が姉のように呼んでいるもう一人の生き残りが、魔人や魔王を倒すために一人、旅に出たということくらい。
自分以外の生き残りのこの娘を危険にさらしたくないからか、あるいは足手まといに思ってか、一人置いて村を出たのだ。
カオリは、どちらかといえば「この子を気遣ってそうしたんだよね」と信じたかった。
「ねえ、貴方はなんていうの? 私はカオリ。勇者とかやってるの」
「……なんで名前なんて聞かせないといけないのよ。出て行ってほしいのに」
「だって不便じゃない? アロエの事は知ってるだろうけど、私たちとは初対面でしょ? だから、自己紹介」
「……プリシラよ。勇者様が聞いてもつまんない名前でしょ。もうほっといて」
ふてくされたようにその場に座り込み、そっぽを向いてしまうエルフ娘。
その、プリシラという名を聞いて、勇者もアロエもミリシャも、互いに顔を見合わせてしまう。
「カオリ様、アロエ様……プリシラさん、です」
「うん、プリシラだね」
「こういうこと……? えっ、カオル君、どうして……」
それが何を意味するのか。
ミリシャもカオリも解らず混乱していたが、アロエは「もしかして」と、その可能性に行き当たる。
(カオル君がバゼルバイトの杖を持っていた理由……それに、ヘイゲンやこの娘の名前を知っていたこと……カオル君は、もしかして……未来の私たちを、知っていた?)
それは、本来あり得ない話だった。
時とは本来、時の女神にしか操れぬもの。
魔法や何らかの異常で時空が乱れる事自体はあっても、それを思うまま操作することができるのは、かつて時の女神だったバゼルバイトにしかできなかったのだ。
そして今、女神ではなく魔人へと堕ちたバゼルバイトは、時の力を使えばそれほどにその身体が砂へと変わり果ててゆく。
身体が、絶大な力の行使に耐えられないのだ。
手慰み程度の力の行使でも指先から溶けてゆくように砂になってゆく。
これが故、最強の魔人であるはずのバゼルバイトは、過去一度たりとも全力で戦闘をしたことがなかった。
全力ならばアロエと拮抗するか、それ以上の力を持っているはずなのに、である。
だが、そんなバゼルバイトの力を以てしても、異世界から他者を過去の世界に転移させることまではできないはずだった。
世界そのものを過去に戻すには絶大な力が必要となる。
それは、今のバゼルバイトでは、たとえ命を費やしたとしても不可能に等しい奇跡。
つまり、バゼルバイト単独では不可能なものだった。
(カオル君は……私以外の女神にこの世界に送られたって話してたわ。そしてバゼルバイトの杖を持っていた……彼の持つ力は間違いなく非凡だけれど……バゼルバイトのような規格外なものではない。でもそれって……)
自分がこの世界に連れてきた異世界人は、なにがしか女神の祝福が得られるように取り計らっていた。
それは多く、生活に窮しないだとか、なにがしか素敵な相手と巡り合えるだとか、超個人単位の祝福に過ぎないものだったが。
自らの神器を授けるなどという事は今まで一度もしたことはないし、そんなパワーバランスを崩すようなことは絶対にしないだろうと思えた。
ではバゼルバイトならどうか、と言われれば、間違いなくそれもありえないと断言できた。
そう、それはあらゆるものを破壊しかねない、危険極まりない賭けになってしまうから。
例え過去を変えようと思っていても、そんなものを異世界の青年に委ねるのは、あまりにもリスキーすぎる。
(だけど、実際にカオル君はこの世界にきて、そしてこの世界を変えた……? 彼は、私たちがヘイゲンや、このプリシラと一緒に魔王を討伐しようとしていた世界か何かを知っている、という事? それが変わって、今、私たちは……)
どれだけ内心であり得ないと思っていても、事実カオルという英雄は存在し、この世界ではヘイゲンもプリシラも仲間にいない今があった。
では未来はどうなるのか。
少なくとも、その両名が居る状態のこの世界とは違う何かが起きるのだろう、と。
では、その時に相手をしていたのは、果たして誰だったのか……
「……ん? 私の顔に何か?」
隣にいたアルムスルトを見れば、なんでもない事のように首を傾げられる。
ほんの少し前まで、殺し合いになるかもしれなかった相手だった。
いいや、出会えば確実に殺し合いをしていた相手だった。
ヘイゲンとプリシラの二人が仲間だった世界では、あるいはこの男と熾烈な戦いを繰り広げていた可能性もあったのだ。
(……そうならなくてよかった)
もしそうなのだとしたら、カオルの存在は自分が思っている以上に重要なキーとなっていたのかもしれない。
そう思い、その考えにいたり、改めてカオルという英雄を想ってしまう。
(なんでカオル君は、こんなに……)
あまりにも世界に対して与える影響が大きすぎる。
あり得ないくらいに大きく、あり得ないくらいに絶大に。
もう、この世界はカオルなしでは存在すら難しくなってしまうのではないか。
それくらいに、依存してしまいそうなくらいに、カオルと言う存在がこの世界を動かし続けていた。
始まりは、おそらくは些細なものだったはずなのに。
「アロエ? ねえ、アロエ、大丈夫?」
「お疲れなのですかアロエ様? 顔が真っ青ですが……」
「あ、うん……ちょっと、疲れた、かも」
アルムスルトと戦うことになっていた可能性に気づいたからではない。
なんとなしに接していた英雄が、自分が思った以上に異常な存在だと気づかされたから、怖くなったのだ。
ただ存在するだけで、ただ行動するだけで世界が動いてしまう英雄。
そんな過大な影響、自分ですら与えられないというのに。
そんな存在が、自由意思で以て生きているのが、何のしがらみにもとらわれず好きに生きられるのが、とんでもなく恐ろしかった。
(あれ……これ、詰んでない……?)
気づいてしまったのだ。
カオルのいないこの世界に。カオルがいなかったこの世界がどうなったのかに。
そう、居るから変わったのではなく、居なかったから滅びたのではないか、と。
今自分が居るこの世界ではなく、数多くある可能性の世界のその全てが、カオルがいなかったから滅びてしまったのではないか、と。
そういう道を、歩んでしまったのではないか、と。
そして今、彼女は分かってしまったのだ。
そんな絶大な影響力を及ぼす存在が、人間のまま、人間として生きている事の恐ろしさに。
人は、決して愚かなばかりの生き物ではない。
賢くも、強くも、やさしくも生きられる、愛するに足る生物だった。
だからアロエは信じたし、護った。
けれど、人間はどれだけ賢くとも、いずれは老い、愚かにもなる。
今優秀な人間が晩年にも優秀である保証などなく、どれだけ賢明と呼ばれたものでも暗愚な行いに走ることもある。
もし、カオルがそうなったなら。もしカオルが暴走したなら。
果たしてこの世界は、どうなってしまうのか。
(違うわ……)
そう、違った。
この世界がどうなるのか、ではなく。
カオルが、どうなるのか、である。
既に主軸は世界ではなく、カオルという一人の人間に変わり果てていた。
彼なしに、この世界は成り立たない。
故に、彼がどう在ろうと、運命の女神たる彼女に、今更どうこうすることなどではなかった。
(この世界はもう、カオル君なしに存在できない。誰が望んだの……? 一人の人間を、世界の軸に据えてしまうなんて、あんまりだわ……)
絶望した。
魔王がどうとか、そんな次元の話ではなかった。
世界はもう、変わってしまったのだ。
たった一人が、世界を回すことができるようにされてしまった。
誰がそんなことをしたのか。なんでそんなことをしたのか。
なるほど、コルルカが気に入ったのも解る。取り込まれたのも解る。
ようやく理解して、自分ですら驚愕したのだ。
こんな存在を知ってしまったら、他の生き物などどうでもよくなるはずだった。
(いったい誰が、どんな未来を望んでこんなことを……? 運命は、自らの力でしか変えてはいけないはずなのに、こんな――)
女神としての領分を、明確に侵されていた。
だというのに、それに全く気付かないまま世界はそうなっていた。
女神アロエは脱力する。
膝から力が抜け、その場にぺたん、と座り込んでしまったのだ。
「アロエっ」
「アロエ様っ」
「な、ど、どうしたのだ……女神殿?」
「アロエ様っ!! ちょっ、どうしたら……」
(そっか……私、きっとまた、呆れられたんだ)
一つ浮かんだのは、その失敗した世界では、自分はもう、呆れ果てられ、見捨てられたか、可能性を感じられなくなったのだろう、という事だった。
運命の女神として、この世界の主神として。
そういう自分を、もう望まれなくなったのだろう、と。
少なくとも彼をこの世界に連れてきた人は、そう考えていたのだろう、と。
それがあんまりにショックで、女神は、涙を浮かべながら倒れてしまった。
「こんな女神に頼っても、救いなどどこにもないという事を、理解できたか?」
「バゼルバイトさん。アロエ様は」
「死んではいまいよ。だが力の大半は失っただろうな。とはいえ、この身ももう保もつまい。差し違え同然だが、二度と陛下に仕えられぬくらいならば……そう思い、全力を果たした。私にも、次はなかったからな」
「……そう」
「そんな……アロエ様が……」
「……」
「だが、そんなことはどうでもいい。封印の聖女よ。お前は本当にこんな結末でいいのか?」
「……いいはずないじゃない」
「アイネさん……ダメです。その人の言葉に耳を貸しては……っ」
「黙っていなさい猫娘。私はね、お前がそこの、死んだ男を愛していたのを知っている。私にも愛する方がいた。この身を賭してでもお護りしたかった方がいた……護れなかったが」
「……私もそうよ。私のこの力は、この人が……ヘイタイさんが生きててこそだったのに。私たちの未来の為の、力だったはずなのに」
「では、失われた今はどうなんだ?」
「虚しいばかりよ……何も楽しくない。何も、嬉しくない」
「そうだろうな……私も虚しい。このまま消えていくばかりだなどと、考えたくもないくらいだ」
それだけ言って、魔人バゼルバイトは聖女の肩をつかんだのだ。
「お前は後悔しているな? 過去に戻りたいと思わないか? 愛する者のいた頃に。生きている頃に」
「ダメですアイネさんっ! 放してっ、放しなさいバゼルバイトっ! アイネさんから離れてっ!」
「……ずっと後悔してたの。村のみんなが殺されて、ヘイタイさんと村から出て……ずっと、国の兵隊に追い回されて。勇者様たちに協力してさえ、辛い事ばかりで……それでも、未来に希望を見ていたはずなのに……結婚、できると思っていたのに……っ」
「ならば、私の手を取れ。私の力を受け入れよ。そして……お前が私の代わりに、世界を変えるのだ」
「そうすれば、この人と会えますか? また、笑顔のヘイタイさんを、もう一度……今度こそ、幸せに……」
「もしやしたらお前以外の女と結ばれるかもしれんがな」
「それでも……それでもいいんです。愛した人が死んでしまう世界なんて要らない。私は、私は――っ」
封印の聖女は、魔人バゼルバイトの手を取ってしまった。
流れ込む魔力、魔人となった彼女の体内に残されていた時の女神としての力。
記憶、人格、あらゆるものが流れ込み、自分の全てが飲み込まれてゆくのを感じ。
それでも尚、彼女は上書きされず、自分を保っていた。
「ああ……なんてこと、アイネ、さん……」
「ごめんなさいサララちゃん。私は……私は、もう、愛した人のいない世界には耐えられないの」
「ダメです……たくさんの人の犠牲の上に、ようやくだったんですよ……? 勇者様だって傷ついて――」
「だからって、死んでほしくない人が死んだ世界なんて嫌じゃない。耐えられないじゃない」
「みんな頑張って、ようやく魔王を倒したのに――」
「いいよ、アイネさん」
「え……勇者様っ? なんて……」
「やっちゃって、アイネさん。もうこんな世界、どうでもいい」
「……そんな」
「ごめんねサララちゃん。私も、耐えられないわ。こんな世界、救ったって辛いばかりなんだもん」
「サララちゃんは、きっと強い娘だから……だけどね、ごめんなさい。私も耐えられないの。だから――」
「――こんな世界、巻き戻しちゃうね」