#12.英雄は疑念に気づく
世界を動かすのは、一人の勇者ではなく、数多の異世界人だった。
女神によって呼び寄せられた多くの異世界人は、その力を活かし世界に影響力を与え、よりよい方向へといざなってゆく。
今この世界を動かしている異世界人たちの中で、誰よりも世界への影響を与えているのは、ほかならぬカオルだった。
「マスター、報告事項が一点、発生しました」
カオル達がカルナスに人助けギルド『ミリオン』を開設してからはや半年。
もう間もなくサララが出産か、という時期だったが、カオルはここ数日、まともに屋敷に帰ることもできず、ここ、ギルドマスターの執務室にてデスクワークに釘付けにされていた。
今日もまた、書類仕事が片付き、帰ろうとした矢先に男性秘書が報告に来る。
「帰ろうと思ってたんだけどな」
「失礼しました。それでは、報告は明日に回しますか?」
ため息交じりに着こもうとしていたコートを肩にかけ、「いや、いい」と、再び席に座りなおす。
少しばかりくたびれた表情をしていたが、それでもまだ、生気は残っていた。
「報告を聞かせてくれ。急ぎなんだろ?」
「ありがとうございます。実は、錬金術師のラターが、郊外で奇妙な実験をしている、という報告が入りまして」
「ああ、ラターが……あいつが変なの作ってるのはいつもの事だろう?」
「それが、いつになく奇妙というか、不気味な女の声などが聞こえてくるのだとかで……周辺住民からは『錬金術ではなくネクロマンシーにでも手を染めたのでは』と、不安そうな声も出始めていまして」
問題になったのは、かねてよりよく問題を起こす錬金術師についてだった。
錬金術そのものはこの世界においては割と広まっている部類の学問で、貴族や商家の子息が趣味に選ぶことも多い。
今この世界に広まっている薬剤や衣料品、兵器も一部はこういった錬金術から開発されたものなのだという。
ラターもまた、過去には疫病の特効薬を開発した実績を持つ優秀な錬金術師だった。
同時に、爆弾の製造も時折行い、爆発事故を起こす困った錬金術師でもあったが。
そんな人物なので、カオルも「またか」と思いながらもそれほど重大な出来事とは思っていなかった。
「ラターの言い分は?」
「はあ、様子を見に行かせたところ、『世紀の大発見をした』との事なんですが……直接確認もさせてもらえず」
「世紀の大発見なあ……あいつのすることだから本当にその可能性もあるってのが面倒だ」
「はい。とりあえずは周囲の不満解消のために話を聞き、なだめるだけなだめはしたのですが……」
この秘書は、ギルドが開設され、カオルが代表に収まった後にサララがあてがった人材。
元々は役人のトップであるマシューの部下だったらしいのだが、サララが選んだだけあって実に優秀で、カオルが煩わしい思いをせずに済むよう、煩雑な判断の大体のところは勝手にやってくれる。
だが、妥当な判断をするのには優秀ではあるが、今回のように「常識的な判断ではどうにもならない事」は手に余るらしく、それだけはカオルが自分で判断する必要があった。
「んじゃ、俺が見てくるよ。あんたはもう帰っていい」
「いえ、私もご一緒します。マスターに何かあると困りますので」
「残業になっちまうだろ?」
「慣れております」
カオルなりに気を遣い、「できるだけブラック企業みたいにならないようにしないとな」と考えてはいるのだが、この秘書、ブラックな環境には実によく慣れていた。
加えて、サララから何か申し付けられたのか、とにかくカオルの安全には常に目を光らせていて、護衛のようなことまでしてくれる。
カオルとしては自分は不死身だろうし、むしろ優秀な人材である彼に何かある方がよほど困るのだが、それはそれとして職務熱心な彼にはおおむね満足もしていた。
「……まあ、すぐ終わるだろう」
無理に帰れと言うのも悪い気がして、「そこまでいうなら」と、カオルは再びコートを手に、部屋から出ることにした。
「相変わらずラターの工房は煙たいなあ……」
「毎日のように何かしら焼いているようですからね。工房の中心には大きな錬金窯もあって、何やら煮込んでいるようですし」
「俺としては『いかにも』って感じで嫌いじゃないんだけどな。あいつの工房はいつもいろんなものが置いてあって面白いし」
ギルドを開設してから半年。
最初は彼を頼ってカルナスを訪れた異世界人が中心だったギルドも、次第に彼らの活躍の話を聞いて現地人が参加するようになっていた。
ラターもその中の一人で、「私の研究が多くの人の役に立てるように」と、人の為になる研究成果の宣伝と伝搬を目的としていた。
カオルとしては向こうでゲームなどでよく見たフレーズの職業が現実にあった事が妙に嬉しくて、彼の工房にはよく顔を出していたのだが。
秘書としては、その工房はあまりに無軌道すぎて、今一好ましくないらしい。顔に出ていた。
「私としましては、片付けがあまりなされておらず、見ているだけで疲れてしまうのですが」
「まあなあ。綺麗好きな人には辛いかもな、あの工房は。俺も掃除したくなっちゃうもん」
「マスターもですか……ラター自身は確かに優秀なのでしょうが、どうにもがさつすぎるというか……」
そのままラターの愚痴が始まりそうなので「まあそれはいいとして」と話を止め、外観から来る工房の変化などを確かめる。
異常は、特にない。
「ぱっと見だとこれといって問題はなさそうだけどな。その、不気味な女の声ってのは、毎日毎度聞こえてくるものなのか?」
「夜に聞こえることが多いようで……ですが、今のところは聞こえてはきませんね?」
「ああ。時間的にはもう聞こえても不思議じゃないのか。だが、苦情が出るような声は――」
『――すけて』
「――ひっ!?」
「うん? 今の声は……」
「お、女の声……? マスター、今、女の声が聞こえませんでしたか!?」
「ああ、聞こえてきたな。なんか、『助けて』って言ってる様な」
そんな声ないじゃないかと言おうとした矢先に聞こえてきた不気味な声。
一瞬だったが秘書はびくりと背筋を震わせ、落ち着きなく周囲を見渡す。
対してカオルはさほど驚いた様子もなく、「落ち着けよ」と秘書の肩をぽんぽんと叩いた。
「ま、声の原因がそこにあるのは分かってるんだから、とりあえず入ってみようぜ」
「あ、はい……すみません。取り乱したようで」
「いいっていいって。誰にでも苦手なものはあるだろうし」
幽霊などが苦手なのかもしれない、とあたりをつけ、適当に流そうとする。
当の本人は焦ったように「そんなことは」と弁明しようとするが、カオルは聞きもせずすたすたと歩きだしてしまうので、彼もまた、言い訳を諦めカオルに続いた。
「ラター、失礼するぞ」
声をかけながら扉に手をかけ、鍵がかかっていないのを確認してそのまま開けてしまう。
玄関口には誰もいない。
『――だから早く私を外に出せって言ってんでしょ!?』
『いや、でもそれは――』
『良いからっ! 早く出してよっ』
奥から聞こえるのは口論のような声。
片方は男のものだが、これはカオルも秘書もラターのものであると判別できた。
だが、女の声はやけにキンキンとした声で、二人には聞き覚えのないもの。
『――でも、まだ君が外の世界で生きられるかは』
『そんなのどうでもいいの! ああっ、私はもうこの場所しか飛べないのがつらいのっ!』
『もしその辺の鳥にでも狙われたら――』
『その過保護が私にはいやなのよぉっ』
部屋に入れば、そこには疲れた様子のラターと……小さな羽の生えた少女人形のようなものが、顔を突き合わせ口論していた。
「よう、ラター。その、なんだ……取り込み中のようだ、な?」
「はっ……ギルドマスター!? い、いつこちらに――」
「いや、今しがた。なんか周囲から苦情が来ててさ。それで……その子はガールフレンドか何かか?」
この世界では初めて見るが、カオルはその小さき少女が何なのか、なんとなく当たりがついていた。
これはそう、妖精とかそういう感じの生き物である。
小さくて、背中に虫のような羽が生えていて、きらきらとした鱗粉のようなものを落としながら宙に舞う、愛らしい少女。
それが、「なになに?」と、好奇心いっぱいにカオルたちの周りを飛び回っていた。
対して、ラターはカオルの興味がこの少女に向いているのを察して、怯えたような表情になる。
「そ、その……この子は……私が作った、ホムンクルス、でして」
「ホムンクルスなあ。妖精とかじゃなかったのか」
「いえその……マスターは、妖精をご存じで?」
「いや、向こうでそれっぽいのを知ってたというか。で、ホムンクルスって?」
「錬金学的な手法で生み出された疑似生命です。人に極めて近い、人を模った生き物でして」
今一はっきりと伝わってこない話に、カオルは首をかしげる。
(ホムンクルスは、研究こそされていますが実際に生み出すことのできた例が極めて少なく……もしこれが本当だとすれば、その手法は間違いなく世界にとどろく成果となるはずです)
都合よく秘書がこしょこしょと耳打ちしてくれたため、カオルもラターのしたことのすごさに気づけたが、それはそれとして疑問が残った。
「そんで、そのホムンクルスを作ることができたのは分かったんだが、なんですぐ報告しなかったんだ? 件の女の声って、この子のだろ?」
「いえその……この子を生み出した手法が……あまり人に言えないようなものでして」
「モラル的な意味で?」
「わ、私の恥じらい的な意味でっ」
「……なんだそりゃ」
カオルは最初、彼が人に言えないというところから、あるいは最初のネクロマンシーに手を染めたという周辺住民の誤解に近いやらかしをしたのではないかと危惧したのだが。
幸いというか、彼はその辺り善良であったらしかった。
「ホムンクルスの製造には、生命力の塊を利用するという手法がありまして。私は最初、自らの血液によって生み出そうとしたのですが……それでは難しく」
「ふむふむ」
「その、自らの生命力では無理なのかと考え、色々なものを試して……あの、偶然」
「偶然?」
「ああもうまどろっこしいわねぇ! 私が生み出されたのは偶然机に転がってた馬糞がそこの瓶に落っこちちゃったからなのよ! 私は、馬糞で生み出されたわけ!!」
「ほうほうなるほ……えっ、馬糞!?」
今一要領の掴みにくい話し方をするラターに、内心「良いから早く要点を言えよ」と思い始めていたカオルだったが、要領よくホムンクルスの方がイラついてはっきりと伝えてくれたため理解し……そして理解してから我が耳を疑った。
「そうよ、馬糞よ。私はうっかりで混ざった馬糞で生まれたの! この創造主様は、そんなことを恥じて私の存在を隠そうとしたのよ!? 色々理由つけて! 『世紀の大発見だ』とか喜んでたくせに!!」
「それは……うーん、でも、別に臭くないよなこの子」
「ええ、臭くはありませんねえ」
「当たり前じゃない! 搾りたてのミルクのような甘い香りがするはずよ! バカにしないで!!」
とても気の強いホムンクルスだった。
だが見た目はとても可愛らしい。
「まあ、生み出せたならすごいじゃないか。ただ、この子が作れたらどうなんだ? 何かすごいことになるのか?」
「いえ、この子自身はそんなには……非力ですし、ある程度の知能はありますが寿命も短く……三日ほどで尽きる儚い存在なのですが」
「三日ねえ……作り出したのはいつさ」
「三日前ですので……そろそろ……」
「えっ、そんなの初めて聞くんですけど!? 三日ってなに!? 私そんなにはやく死ぬの!? いやよいやっ、がんばってもうちょっと生き永らえさせてよ!! 私いい子になるからっ、おねがいだか――きゅうっ」
自分の余命は知らなかったのか、ホムンクルスは早口でまくしたて――そして、突然ぐらりとバランスを崩し、そのままはたりと床へ落ちてしまった。
そのまま動かず、数秒。沈黙が部屋を支配する。
「――寿命のようです」
「儚いなあ……」
「儚いですね……ホムンクルスを生み出せた数少ない成功例でも、やはりすぐに死んでしまうのだとかで、本来の役割を果たすことができなかったそうですが」
秘書ともどもその短命さ、儚さを嘆くが、そのままと言うわけにもいかず、カオルはラターに疑問を向ける。
「なあ、こんなに早く死ぬから発表できなかったとか、そういうアレか?」
「勿論それもあるのですが、ホムンクルスの製造は、ある目的の為ですので、それを果たせなければ生み出す意味はあまりないのです」
「目的って?」
秘書も『本来の役割』と言っていた辺り、重要な何かしらがあるのだろうとは思えたが。
ただ、これに関しては思うところあるのか、ラターは神妙な面持ちになりじ、とカオルを見つめ、数秒。
「――生命の成り立ち。魂の在り方。そのものの探求です」
ホムンクルスが居なくなったから、だけでなく、工房がシン、と、静かになった。
「ホムンクルスを作ると、それが解るのか?」
「ええ。ホムンクルスはその探求の為に非常に重要な存在なのです。人間では決してできない……非人道的な実験もできますから」
「……それって」
人体実験。あるいは解剖か。
いかに錬金学に疎いカオルでも、そこまで言われればある程度察することくらいはできた。
つまりは、人に対してできないことを、人に近い存在に対し行う、という事なのだ。
「例えば、従来人に近い存在として、エルフなどの亜人や獣人がいますが……これらは多くの場合、法的には人として扱われ、多くの人間がこれを実験台にすることを非道と批判するわけですが」
「まあ、そりゃな」
「ホムンクルスは、人造的に生み出せる存在の上、存在そのものがあまり認知されていない為、法の上での問題になりにくい、という意味でとても有意義なのです」
人にできない実験でも、ホムンクルスに対してならば非道とならない。
それは、カオルにしてみればあまりいい気はしない発言ではあるが、確かに筋の通った話ではあった。
「そして何より重要なのが、ホムンクルスは製造法さえ確立してしまえば、実験の上で大変都合のいい要素を、自在に付加できる……という点でしょうか」
「どういうことだ?」
「例えば、ある薬の被検体を用意するとして、人間ならばまず男女の違いがあり、年齢の違いがあり、人によって特徴の差がありますよね? ですが、ホムンクルスならば意図した特徴をあらかじめ持たせたまま生み出すこともできます」
「つまり、先天的な病気持ちの人間の治療薬を作る際に役立つ、と?」
「病気に限らず、例えば障害だとか、あるいは精神的な性向なども、ですね。これを改善する為には当然その性質を持った人が必要な訳ですが、ホムンクルスを使えるなら、その点は大分楽になる訳です」
被検体の用意が容易になる。
これは、錬金術的な意味だけでなく、薬学的な意味でも臨床医学的な意味でも重要な要素だった。
それがすごいことなのは、カオルもなんとなくでも解るくらいに。
「加えて、ホムンクルスは人間と比べ非力ですし、いくらでも生み出せるので、同じ実験を繰り返ししたい時に有用なのです……と、ここまで言うとメリットだらけのようにも思え、私も研究していたのですが……致命的な問題が、発生しまして」
「致命的な……? 開発コストとかか?」
「それもあります。ですが何よりも……そう、何よりも辛いのが……」
そこまで話し、ラターは下を向いてしまう。
言葉に詰まったのではない。
その視線の先には、死んでしまったホムンクルスが居た。
「……命が、失われてしまった。そんなものを見て、人間が正気でいられるはずがないんです」
「ああ、まあ、な……」
「これが獣や魚ならば、哀しい気持ちにはなっても使命感があれば耐えられるかもしれない。けれど……人と同じように話し、人と同じようにころころと表情を変え、わがままを言ったり笑いかけてくれたり泣いたり怒ったり……人間と、何も違わないのですよ」
「辛いよな、それは」
「はい……辛いです。今も、ギルドマスターがいらっしゃらないなら泣いてしまっているかもしれません。これは……辛すぎる」
生命の神秘。魂の在り方。
それらは、確かに解明できれば世界を揺るがす発見となるのだろう。
だが、それを解明するためには、命を奪い続けなければならないのだ。
神でもない存在が神と同じ知識を得ようとするならば、常人ならざる何かしらを成さねばならない。
ラターには、それができなかったのだ。
できないと、痛感してしまっていた。
「私は、ホムンクルスを生み出し、これを利用すれば、今を以って誰も知ることのない『魂がいかにして存在しているのか』『魂を蘇らせる方法はあるのか』など、真理に近づくことができるのだと思っていました……ですが、この子がこのように死んでしまうのを見て、それができるのか、と言うと……」
「じゃあ、その実験はやめようぜ」
「ギルドマスター?」
秘書の視点では、落ち込むラターを、カオルがばっさりと切り捨てた、ように見えた。
だが、カオルはにかりと笑い、ラターの肩をぽん、と叩き、顔を上げた彼に笑いかけるのだ。
「俺が次の方針を決めてやるよ。ラター、あんたは、そのホムンクルスを、できるだけ長く生き永らえられるように考え続けろ。そして、次に生み出す子が少しでも幸せを謳歌できるように、人として生きられるようにしてやれ」
「……人として」
「そうだ。俺から見てもこの子は、人とそんなに違いがないように思えた。話せるし、好奇心も旺盛で、よくしゃべる子だと思った。そう、人格が備わってたんだ。だから、この子は人間だ。あんたもそう思ったんだろ? じゃあ、人として扱ってあげなきゃ」
生命の尊さ。
それはラターにだってわかっているはずだった。
だが、それでも尚、彼の研究には意味がある。
新たな生命を生み出す、それだけで既に重要な意味があったのだ。
「墓は増えるかもしれねえ。あんたには辛い研究かもしれねえ。でも、生み出せたなら、生み出したことに責任を持て。そして、生み出せるなら、幸せに生きられるように作ってあげなきゃいけないぜ?」
「幸せに……そうですね、ええ。私は、自分の手で生み出したものならば大丈夫だと思ったのですが。ですが、今の自分の気持ちの方が本心なのですよね……確かに私も、この子には少しでも長く生きていてほしかった」
すでに死んでしまったホムンクルスは、取り返しがつくものではない。
だが、その死に意味があるとするなら、決して無駄な死ではなかった。
生きている者には、そう思うくらいしかできないのだ。
そうやって死に意味を見出すことこそが弔いなのだと考えるしかできないのだ。
(そっか……死にも意味はあるんだな。死ぬことにだって、意味が)
自分で言いながら、しかし、カオルは少し不思議な気持ちになっていた。
ここ一年随分と平穏で、戦いから離れたせいもあるだろうか。
死が、途方もなく遠い存在のように思え始めていたのだ。
自分とは無縁の、関りの薄いもののように。
実際今のカオルの言葉は、だからこそ抱けた感想でもあり、超然とした存在だからこそ他人視点で見られた事でもあった。
人の形をした人そのままの小さな生き物が死んだのだ。
かつてのカオルなら多少なりとも取り乱しただろうに、それがなかったのだ。
(俺って、なんか、おかしくなった……か?)
人の死に鈍感になっていた、ように思えた。
ラターほどではないにしろ、もう少し嫌な気持ちになるなり、短命に造ったラターに怒りを覚えるなりしてもよさそうなものなのに、驚くほど自分が痛みを覚えていないことに、気持ち悪さを覚える。
「……っ」
「マスターっ? 大丈夫ですかマスターっ」
「あ、ああ、大丈夫……ちょっと無理したから」
不意にぐらつき、秘書に支えられ、ラターが運んできた椅子に腰かける。
すぐに調子は良くなったが、自分の中の不安は溢れたままだった。
(だんだんと……人間離れしている、のか? 俺、どうなって――)
身体だけではなく、精神までもが、何か違うような気がしてしまう。
だが、そんな事誰かに言える訳もなく。
少しして、「もう大丈夫だ」と二人に笑いかけ、立ち上がり。
そしてふらつきもなかったので、そのまま帰ることにした。
(俺って……まだ人間、だよな?)
その心の内からの疑問に、しかし誰も応える事などできず。
内に芽吹いた疑念は、少しずつ、だが確実にカオルの中に根付いていった。