#8.救いの本質
「……あれは」
渇望の塔から一瞬見えた、歪んだ空間。
時空そのものを歪め、世界の隙間に生み出されたそれは、しかし蜃気楼のように平常へと包み隠されてしまう。
(やっぱり、あそこで何かあったのね)
女神アロエは、街で話す老人と、人外じみた外見のシスターとを遠目で発見し、一人、その後を追いかけていた。
相棒の勇者も従者の犬獣人の娘すら連れず、一人で。一人で知りたかったから。
カルナスの街に女悪魔が居ることは、実は彼女はすでに知っていた。
祝明のミサの折、他でもないカルナスの聖女が、報告事項として伝えてくれていたからである。
自らの親友が悪魔となってしまったこと、それについての弁明と擁護を、細かに至るまで伝えてくれたからこそ、街で悪魔の気配を感じても、特に何かをする気はしなかった。
そも、彼女は悪魔という存在に対し、さほど敵意も嫌悪感も抱いていなかった。
悪魔と言えば聞こえが悪いが、それはつまり、人ならざる道に進んでしまった、人間なのだ。
悪魔になるには深い絶望、人間であることを諦めてしまう諦観など、負の感情がつきものであるが、これも人間だからこそ抱く、人間らしい一面であると女神は知っていた。
だから、悲しくは思っても、直接敵対しようとしなければ、敢えて討伐しようとも思っていなかった。
どちらかといえば、彼女が気になったのは商人姿の老人の方であった。
その姿には見覚えがあり、確実に気にしなくてはならない存在だったから。
一方、塔の頂上、異空間に封印されてしまったベラドンナはというと、途方に暮れてしまっていた。
(……私、は、どうしたら……どんな顔で、カオル様達に顔を合わせれば……)
カオルたちの所為で、自分の手助けの所為で、世界が変わってしまう。
それは、今やベラドンナにとって途方もない恐怖に感じられていた。
変わってはいけないことが変わりつつあるのではないか。あるいは、もう変わってしまっているのではないか。
強烈な悔悟に精神が不安定になっていき、自然、身が震えてしまう。
――あれは、圧倒的な存在だった。
震えながらに、ベラドンナは自分が対峙していたのが途方もない存在――化け物だったように感じられた。
魔人でも、古代竜でもない、もっと別の……根本的な脅威。
人類が相対してはならないような、そんな存在のように思えたのだ。
そんな存在と話し、自分の主が、目をつけられていた事を知ってしまった。
そうして、自分が、そんな化け物に世界変化の元凶であるかのように言われ……途端に恐ろしくなったのだ。
(私は……カオル様を、サララさんを、助けてはいけなかったの……? お手伝いしては……)
全てが過ちだったのではないか。
自分のしたことは、すべて間違いだったのではないか。
カオル達の行いが全て間違っていると断ぜられない以上、断ずることができるのはもう、自分しか残っていなかった。
そう、自分を全否定してでも、カオルたちは正しいと、間違ってなどいなかったのだと、そう思いたかったのだ。
そう信じたかったからこそ、ベラドンナは余計に苦しみの鎖に囚われてしまう。
(私は……私、は……っ)
思い起こせば、自分を取り巻く環境は異常と言うほかなかった。
人間の頃は幸せの絶頂で不幸になり、そのまま絶望し自殺し。
死んだ後は女悪魔となり街の人々を苦しめ、英雄によって討伐され、命と心を救われて英雄の使い魔として生きようとして。
けれど、それは出来過ぎたストーリーだったのではないだろうか。
今の自分を取り巻く環境は、あまりにも自分に優しすぎたのではないだろうか。
本当はもっと、絶望的な、酷い末路の方が正しかったのではないか。
自分など、惨めに死んでいた方が良かったのではないか。
心がどんどんと後ろ暗い世界へと堕ちてゆく。
祈ればあれほどに心澄み渡ったかつてと比べ、些細なことで心に闇が生まれる。
これはそう、そうしなくてはいつまた狂ってしまうか分からなかったから。
その身は未だに悪魔のままで、この心は未だに人ならざるものへと変貌したままだから。
そうならぬよう、人の側にいられるよう、気を張っていたに過ぎず。
ベラドンナは、また――
「あーあー、やっぱりやられちゃってるわねえ。危ない危ない」
――不意に、世界に光が満ち溢れた。
それはあまりに神々しく、けれどベラドンナにはあまりにも温かな、救いのような光。光明。
「え……あ、あ……っ」
それは、幼い頃絵本で読んだことのある女神様だった。
それは、少女時代に友達と一緒に読んだ聖書に書かれていた女神様だった。
それは、大人になってからの毎日のように祈りをささげた、あの女神様だった。
彼女が信じていた、そして裏切られたと感じた、けれども捨てることのできなかった、女神様だった。
そんな女神様が、当たり前のような顔で自分の前に居て、自分の前に立っていた。
何が起きたのかわからなくて、ベラドンナはぽかん、と声にならぬ声をあげながらに見上げる。
後光の指す、なんとも愛らしいそのお顔。
「めがみ、さま……?」
「そうよ、女神様よ。貴方よね、ベラドンナって言うの。今まで助けてあげられなくて、ごめんなさいね」
地べたに縛り付けられたかのような身体が、不意に軽くなる。
そうかと思えば、その身体が急に力を失い、弱っていくのを感じた。
――浄化される。
それを感じ、ベラドンナは顔を上げようとするが……女神アロエは事もあろうに、自らしゃがんで視線を合わせた。
「安心なさい。貴方はそれ以上にもそれ以下にもならないわ。これはあくまで、貴方の心の内に巣食う、自身では決して解消できない負の感情を取り除いてあげてるだけ――ちょっとだけ、気が楽になったでしょう?」
「……は、い」
「貴方はカオル君の傍にいてくれたのよね。あの時の馬車にも居たでしょう? まあ、気づかないフリはしてあげたし、カオリも気づいてなかったでしょうけど」
意外と鈍感なのよねあの娘、と、軽い口調でベラドンナの頭へと手を向ける。
「私は貴方が大変だった時に、確かに手を貸してあげられなかった。貴方の心の慰みもできないまま、貴方を死なせてしまった。それすら知ったのは、あの街の聖女が教えてくれたから」
「女神、様……?」
「私が……魔王の事にかかりっきりになってばかりいるからそんな不幸が生まれてしまうの。全部私の所為よ。憎んでくれてもいいし、嫌ってくれてもいい。でも、私はそんな貴方達だって見捨てたりしないわ」
まるで慈母のような温かな手が、冷たくなっていた髪に触れ、優しく温めてくれる。
それはまるで親友の聖女のようで、何より、自分がずっとほしかった『救い』でもあったように感じられて。
「……っ、私、は……っ」
ずっとしまいこんでいた、辛い感情がどんどん表に出てきてしまうのを感じていた。
言いたいこともたくさんあった。
怒りたかった。叫んで聞かせてやりたかった。
自分がどれだけ辛い思いをして、自分がどれだけ悲しい気持ちになり、どれだけ絶望し、どれだけこの世界を憎んだのか。
自分が自分であることすらもうどうでもよくなった瞬間に、女神への敬意すら消え果て、ただただなにもかもどうでもよくなってしまった自分が、そんな自分が、だけれど、不甲斐なくて。情けなくて。みじめで、哀しくて。辛くて。
――なのに、そんな感情が、女神に触れられて薄れ、消えていくのを感じてしまい、ベラドンナは怖くなったのだ。
今まで自分を形成していたものが、ベラドンナがベラドンナとして生きていた事すべてが、消えてしまうように感じられて。
「怖がらなくていいのよ。貴方はもう、辛い時の貴方ではないのだから。今触れて分かったわ。貴方は、もう今の自分を得ているもの。幸せを得ている。居場所を得ている。そして何より――見守りたいと、そう思っている人達が居る」
「……はい」
「見守ってあげればいいわ。悪魔となった以上、人と同じ時間は生きられないでしょうが……それでも、見守れる限りは見てあげて頂戴。私は、多分それどころじゃなくなるからね」
上を向き、空を見上げながら。
けれど、すぐに視線を戻し、にこりと微笑む。
愛らしい、けれど何より慈しみを感じさせてくれる、優しい笑顔だった。
この世界のすべての人類が敬愛するその存在が、自分の為に微笑んでくれていた。
「……はいっ」
だから、嬉しかったのだ。
認められた事が。自分に微笑んでくれたことが。
女神に祈りながらも、それでも自分は背教行為をしてしまったと。
人々を傷つけ、沢山の不幸を生み出してしまったのだと、自覚していたから。
赦された気持ちになれたのだ。ようやく、完全に。
「これからも、カオル様達の為に、生きて……いいんですね、私、は」
「勿論よ。私が保証してあげるわ」
「悪魔であっても……女神様は、赦してくださるの、ですね」
「そりゃそうよ。悪魔は……人の一形態に過ぎないもの。人はね、生まれながらにして天使にも悪魔にもなれるの。ただ、心のバランスがどちらかに極端に偏り過ぎてしまうと、きっかけ一つでそうなるのよ。貴方の場合、自殺がその直接のきっかけね」
「……」
「勿論、悪魔になって人を傷つけ、死なせ……あまりそういう事を繰り返していれば、討伐もされるでしょうし、私の邪魔になれば当然容赦はしないけれど。でも、改心したものまで責める気はないし」
ちょっと放任気味で悪いけれど、と、大人びた表情を見せながら、視線を遠くへと向ける。
「私は……確かにダメな神様なのかもしれないわ。一つ事にばかり注力して、結局多くの民が傷つき、苦しんでいるのは放置してるも同然だから」
「……なぜ」
「ん?」
「なぜ、そのお力を私たちに使ってはくださらないのですか……? 私だけでなく、助けることができれば、哀しい気持ちにならなくてもいい方も、至る所にいるようで……」
「そうねー。そういう人たちがいるのも知ってる。私に恨み言聞かせたい人も、沢山いるだろうね。『何が女神様だ』って」
「それは……その……」
「いいのよ、それでもいいの」
ぺたん、とその場に座り込み、ベラドンナの頭を今一度撫で。
そうして、「座っていいわよ」と、対面することを許し。
複雑そうな気持ちで正面に、膝をついたまま坐するベラドンナを見て、にこりと微笑む。
「私は結局、神様としては半人前なのよ。力こそ確かに強いわ。それだけはお父様とお母様とも負けてないと思うけれど……結局、私はお母様の尻拭いを全て終わらせないといけなくって」
「……尻拭い、ですか」
「そうよ。魔王と魔人、古代竜の対処。この世界を平和に導くなら、何よりこれを優先しなくちゃいけなかったの」
「世界が滅びてしまうから」
「そうそう。ほっとくと滅びちゃうのよね、確定で。だから、なんとかしなくちゃいけなかった。今回もそのつもりで異世界から勇者を呼び出し、魔王を討伐する……つもりだったんだけど」
そこまで話して、深く息を吐き。
そうして、女神アロエは目を瞑る。
過去に想い馳せるように。これからを考えるかのように。
「本当に正しかったのかなあ、って、思い始めてもいるのよね。だって、人々は私が思った以上に傷ついている。今のままじゃ、耐えられなくなっちゃう人も増えちゃう」
「私のように……?」
「貴方のようにね。私は、人間っていうのはもっと強い生き物なんだって思ってたの。そう作ったから。そう作られてるはずだから。だから、そう信じていた……でも、それは私の思い違いだったの」
「……思い違い、ですか?」
「うん。思い違いよ。人は、私達神々が思っていた以上に繊細な生き物だった。確かに力はあるわ。知恵も働く。沢山数を増やして、地上の覇権を握れるくらいには強くなった……けれど、同時に人間の心はどんどん複雑になり、私達でも読み切れなくなっていってしまったの」
過去の自分の失敗を思い出しながら。
自分が傷つけ、歪ませてしまったかつての女勇者を思い出しながら。
その心の複雑さを読めなかった女神は、悲しみに睫毛を濡らす。
「私はね、結局神様としては、まだまだなのよ。だから、沢山学ばないといけない。なのに、学ぶべき両親を自分の手で追い出して、仲間は魔王との戦いで失われ、結局私は、独りぼっちになってからそんなことに気づいて……独力でなんとかしなくちゃいけないの。失敗だらけよ。その失敗の所為で貴方達は辛い気持ちにもなるし。最悪でしょう?」
こんなこと聞かせられても困るわよね、と、無理して笑おうとして、けれど笑いきれなくて。
自分の弱音を創造物に語り聞かせることがどれだけ情けない事なのか解りながらも、女神アロエは語るのを止められない。
「カオル君の言う『女神様』ね、多分、私の知ってる人だわ。あの人も、ただいたずらに魔王を復活させるだけじゃなく、自分の好きな人を……愛した人を、取り戻そうと頑張ってるの。なのに、私は今までと同じように、ただ魔王を倒し、その力を……概念そのものを消してしまえばいいと、考えていたから」
それが正しいのか間違っているのかはまだ分からない。
けれど、違う方法ももしかしたらあったのではないか。
それこそ大変な手段かもしれないけれど。難しい手段かもしれないけれど。
それでも、かつての相棒があれだけ傷つき涙することなく、幸せに魔王だった男と結ばれた世界もあったのではないか。
そう思えばこそ、アロエの後悔は尽きない。
過ちは誰もが犯すもの。神とて例外ではない。
けれど、それでも尚、自分だけでもちゃんとやりたいと思っていたからこそ、その失敗は、とても重かった。
「だから、協力してほしいのよ。貴方にも、カオル君にも、サララちゃんにも……みんなに手伝ってほしいの。助けてほしいの。私だけじゃ、私達だけじゃもう、同じことしかできなくなってしまうから」
視線が合わさり、そして、手を握り締め、胸に引き寄せ。
間近になった視線が、目と目とが互いを見つめ合い。
ベラドンナは、ただただ驚きと、そして胸が熱くなるような、そんな気持ちになっていった。
「私、達が……女神様、の……?」
「そうよ。私はもう、自分だけじゃどうにもならないと思っている。世界は変わったわ。確かに、変わっていたの」
そんなことに気づくまで、いったいどれだけ失敗したのか。
そのたびにどれだけ傷つき、どれだけの血が流れ、どれだけの不幸が生まれたのか。
それが解るからこそ、女神アロエはもう、人間に頼ることを躊躇わない。
ベラドンナもまた、すぐにでも頷きたい気持ちにあふれたが……だが、女神の言葉の中に、不意に、さっきのコルルカの言葉と同じものが混ざり、不安を覚えた。
「教えてください女神様。あの人は……あの、コルルカという人は、一体何なのですか? あの人は、カオル様とサララさんが影響力を持つことを恐れていたように思えます……世界が、変わってしまった、と」
「……彼の言う事は事実よ。あの結婚式を見たでしょう? どれだけのこの大陸の要人が集まったと思ってるの。超大国二つの王と王族がその場に現れただけでもすごいのに……勇者と女神まであの場にいたのよ?」
「はい……それは、すごいことだと私も思いました。けれど……」
「例えばあの場でどちらかの王や王族が殺されていたら、戦争が起きるわ。ううん、殺されなくても、例えば『ちょっと肩が当たっただけ』でも、大陸そのものを巻き込む戦争に発展することもあり得る。そういう場だったの」
怖いわよね、と、自嘲気味に笑いながら、カルナスのあったほうを見やる。
「カオル君は、そんな人たちとばかり知り合い、ただの知り合いではなく、『友達』になってしまったの。すごい事よ? 異世界から来た人って、大体は地位や名誉、お金を望むんだけどね、彼は、この世界のトップランクの人たちと友達になってしまったの。これは、この世界そのものを構成する存在になってしまった、と言っても過言ではないの」
「構成する……」
「彼ら自身が、カオル君なしでは存在できないピースとなってしまったの。彼らは自分たちの人生の中のいくつかに、カオル君が存在してしまうようになった。貴方もそうよね? もう、カオル君なしでは人生を振り返れない」
そう、今の自分の人生の起点には、カオルがいた。
それは、ベラドンナにも思い当たることで。
だからこそ、その影響力を今更のように、そして再度認識させられる。
「この大陸は半ば、カオル君に支配されているようなものなの。彼の些細な行動が、大陸そのものを揺るがしかねないくらいの影響力になってしまっている。皆が彼を気にする。皆が彼と友であろうとする。だって、王様と友達な人と友達になれたら、得しかないように思えるでしょう? 人間ならきっと、必ず友達になろうとするわ」
だってお得なんだもの、と、身も蓋もないことをのたまいながら小さなため息。
そうして、胸元に引き寄せていた手を離し、今度はベラドンナの両耳と角の上あたりに両手をあてがい、正面から見据える。
それは少し強引な仕草にも思えたが、自然、ベラドンナは抵抗する気にはなれなかった。
「じゃあ例えば、そんな彼が『皆で魔王討伐しようぜ』って言ったら、どうなると思う?」
「それは……」
「友達でいるために、みんなが魔王を討伐しようとするわよね。それで、勝てればいいわ。負けてしまったら?」
「……」
「ただ負けるだけならまだいいの。でも、お友達でいたい人は、多分死ぬ気で戦うわ。あるいは裏切ってでも生き延びようとする人もいるでしょうけど。じゃあ、その時にカオル君はどんな気持ちになると思う? すごくつらい気持ちになるわよね。きついわよね、きっと」
「私の時など比較にならないほどに……やめてください。カオル様に、そんな気持ちを」
「想像だってしたくないわよね。そう、あの人も、きっとそうなのよ」
「あの、コルルカという方が、ですか」
自分をこの塔に封印した、あの化け物が。
けれど、彼は何と言ったか。
カオルの事を気に入っていて、そして、だからこそ彼が目立ちすぎるのを、活躍し過ぎるのを慮っていたのだと、彼自身が言っていたではないか。
彼は、カオルの味方のつもりで、そして、あくまでカオルの事を思っていたのだ。
あんな、途方もない化け物が。
「あの人は……そう、『この世界で一番古い監視者』。この世界の行く末を幾度も見届け、失敗した世界も含めあらゆる世界を観てきた、傍観者のような人よ。神とも魔王とも違う、別の意味で超越的な力を持った……概念そのものみたいな人」
「悪意ある存在ではなく?」
「どうかしらねえ? 正直私にもよくわからないのよ。ただの傍観者かと思えば、突然介入して、魔王の側近なんかやってたと思えば、その魔王を裏切って弱体化させちゃったりしてたし……意味分かんないわ」
「ええ……そ、そんな方が、カオル様がたを……?」
「あの人はあの人なりに気になる何かがあるんでしょうけどね。ま、今のままいくとカオル君がダメになるぞ、みたいな警告もしたかったんでしょう」
それは間違いないことだから、と、頭からも手を離し。
そうして、「よいしょ」と言いながら膝に手をやり立ち上がる。
「私もね、カオル君の影響力の強さはシャレになってないと思う。だから、直接助けてって言うのは避けたいの。カオリは言っちゃったけど、当面は、幸せに暮らしてほしいとも思ってる」
「では、なぜ私に……」
「もしカオル君が迷ったら。カオル君がその時に、どうしたらいいか困っていたら、その背中を押してあげてほしいかな、くらいのつもりよ? 彼は間違いなく強いし、多分傍にいるだけで、カオリはめっちゃ奮起するだろうし」
「勇者様が、ですか?」
「そうよー。なんか知らないけど気に入っちゃったみたいね。面白い人だし、なんだかんだあの子も不安なんでしょ。だから、頼れるお兄さんが傍にいると安心できる」
そのくらいの感情よ、と、にこり、愛らしく微笑みながら。
女神アロエはベラドンナに手を差し伸べる。
「――カオル君達は、しばらく幸せに生きてくれればいいわ。今さっき街で変な国王の弟のゾンビが湧いたけど、他に気づかれる間も無くカオリが瞬殺したから安心して。さっきの爆発も、ただの花火みたいなもの。貴方はコルルカに何か言われて不安になったでしょう? でも、そんなの貴方を不安させるためのブラフだから」
「ブラフ、ですか……では、お二人の結婚式は」
「つつがなく終わったと思うわよ? というより、まだ続行中? 二次会か三次会か、とにかくにぎやかなままよ。貴方が抜け出した事すら、誰も気づかないくらいには」
ただそれだけが。
それだけが気がかりだったのが、何事もないと解り、安堵し。
そうして、差し出された手を、安心して掴むことができた。
「――ねえベラ。貴方の夫が、最後に何を願っていたか、知りたい?」
「女神様……私の、名前――」
「貴方の夫はね、カルナスに残る貴方の心配ばかりしていたわ。もし自分に何かあって帰れず、一人残してしまったらどうしよう、とか、貴方の身に何かあったらどうしよう、とか。浮気の心配はしていないけれど、身体の心配ばかりしていた」
「……そう、ですか」
「生きてあげなさい。もう死んじゃったけど、悪魔としては生きられるんだから。貴方の夫が愛した貴方が元気に生きてこそ、その慰みになると思わない?」
もう捨てたと思っていたかつての自分の名前。
聖女様すら呼ばなくなった……いいや、忘れ去られてしまった過去の自分の名前。
誰からも呼ばれなくなり、きっと消え去ったのだとばかり思っていたそれを思い出し、心の、深いところにしまいこんだままだった夫への愛情が途端に溢れ出て。
「はい……はいっ」
誰かの為に生きようと思った彼女は、ようやくにして今、自分の為に生きられるような、そんな気がしていた。
あふれる涙と喜びに満ちた心は、ここにきて解放され、浄化される。
(人の心は悪魔にもなるし天使にもなるのよ……貴方だって、悪魔のままじゃいられないでしょうからね)
再び彼女が女神と共に元の世界に戻った時。
ベラドンナの角は消え、翼は、純白の羽毛へと変わっていた。
英雄の傍にいるに相応しい、慈愛に満ちた天使・ベラ。
彼女が自分の変化に気づいたのは、街の人々に「天使様だ」と驚かれてからであった。