#4.英気を奪う者
ラナニア海軍提督アージェスを味方に引き込んだ勇者一行は、提督の率いる艦隊がいるのだという軍港セレンに移動し、早速旗艦へと乗り込むこととなった。
海軍の軍縮が続いていた時代もあり、エルセリアの最新式の魔導鉄鋼船と比べるとやや見劣りはするものの、それでも黒を基調とした艦隊は雄大にして優美なシルエットを港の人々に見せつけている。
「早速、古代竜のいる海域へと向かいたいと思いますが……準備はよろしいですかな?」
「提督、頼んだ手前悪いけれど、一度向かってほしい場所があるの」
配下に状況を説明し、事情が許す限り速やかに航路を走らせようとしていた提督だったが、アロエはそれに待ったをかける。
勇者カオリも不思議そうな顔で首をかしげていた。
「すぐに古代竜の元に向かうんじゃなかったの? 何かすることある?」
「海は私の影響下にないから、まずは海の王の祠に向かってほしいのよ。自然界の事は自然界の王に頼らないと」
「海の王の……しかし、この辺りというと、大幅に戻ることになりそうですが……」
「ニーニャに向かって頂戴。あそこなら、直近に海の王の祠があるわ」
丁度、アージェスの部下が海図を広げ始めたところで、アロエが指さし示す。
皆が一様に、その指先の示す地域を見ていた。
「ニーニャ、ですか……」
「そうよ。昔は軍港だったけれど、今は普通の港町ね」
「……」
ラナニアの提督であるアージェスとしては、そこは今いる軍港セレン以上に胸に重く感じる場所であった。
即答はしないアージェスに、アロエは「どうしたの?」と問いかけるも。
彼は首を振りながら「いいえ」とだけ答え、周囲の部下を見渡す。
「向かう先はニーニャだ。各自、迅速に事を進めよ」
「アイ・アイ・サー!!」
「出航だ、出航するぞーっ!! タラップをはずせーっ」
指示を下せば、手慣れた水兵達が即座に各々の役割を果たそうと動き出す。
速いもので、アージェスが指示を下してからものの数分で、巨大な黒の艦隊は動き出したのだ。
「……私共は今回、ラナニア艦隊ではなく、女神アロエ様、そして勇者殿に協力するために動くと決めたのです。私情は挟みません」
「そう。何があったのかはともかく、そういうスタンスならこれ以上は聞かないでおきましょうか」
「でもさあアージェスさん、こういうのって、普通は自分の国とかに聞かないとまずいんじゃないの? しょばつ……とか、されない? 大丈夫?」
「女王陛下からも、出国の際には『国益の為最大限の努力をせよ』と命を下されましたので、今回の航海も問題ないはずです」
「そうなんだ」
いつ自国に襲来するかわからぬ古代竜を討伐することは、間違いなく国益にもとる行動と言えよう。
軍人である以上、自国の脅威を事前に防ぐことは何ら問題ないはずであった。
「ですが、ニーニャの辺りは海流が複雑になりますので、一度ニーニャに停泊するといくらか……時間がかかるかもしれません。あの辺りは潮流の流れに癖があるようで、時間によって航行速度に大幅な違いが生じるのです」
「その辺りは分かっているつもりよ。それでも尚、海の王に話を通しておくことは大事なのよ。今後の為にもね」
「その、海の王って、そんなにすごい人なの? 私、アロエの様子から割と急がないといけないと思ってたんだけど」
カオリの問いに、アロエは遥か遠き航路を見つめる。
「アンジーレブラムは危険な古代竜よ。アレは、覚醒状態で放置すると世界中が堕落してしまうから」
「だ、堕落……? おかしくなっちゃうの?」
「そうよ。古代竜は、各々が概念の力を内に貯め込むようになっているの。例えばレトムエーエムは人の内面にこびりついた負の感情……絶望、怒り、悲しみといった概念そのものを喰らうのだけれど」
「精神的な……? 確かに、あの古代竜はそういったなにがしかを操る力があったかもしれないと、女王陛下が仰っておられました」
「アンジーレブラムの場合は英気。生物ならやる気や頑張ろうっていう意思ね。そういうものを喰らっていくの。ただあいつの場合メンタルだけではなくて、もっと物理的に、進歩を感じさせるものや技術、文明そのものを喰らい尽くすのよ」
人間に特化した化け物。
そうとしか言えない生物だった。
前に進もう、よりよい暮らしを得ようという者が居るからこそ、文明は進化する。
では、その気概を、そして成果物を食らい尽くされれば、人間はどうなるのか。
「……衰退し、前を進もう、という意識を奪われる……?」
「そうよ。実際には命の危機という意味では、アンジーレブラムは他の古代竜より遥かに緊急性が低いわ。でも、アンジーレブラムを放置すると、人類は何もする気がなくなって、次第に衰弱死していくの」
「何をしてもその成果を奪われたら……そりゃ誰だってやる気なくすもんね。『もういいや』ってなっちゃうだろうし」
「人類から勤勉さを奪ったら、みんなが猫獣人みたいになってしまいますわ……猫獣人はどれだけでも眠れるでしょうけど、人間がそんなことになったら、腐ってしまいます」
自分たちが今から相手をしようと言う相手がいかに危険な相手か、放置しがたい脅威なのか、というのがよく伝わっていた。
けれど、カオリはまだ、自身の疑問に答えてもらえてないような気がして、「でも」と続ける。
「それが、海の王に祈りに行くのと、何か関りがあるの? 直接的な危険はないんでしょう?」
「カオリ。私は確かに、覚醒状態の古代竜を見つける力はあるのよ。でもね……それって、例えばこの海図みたいな視点なのよ。座標は分かるの。上から見て、それがどこなのかでね」
遥か海の先から視線を戻し、今度は海図へと意識を向ける。
するとぽう、とかすかな光がアンジーレブラムのいる海域を示す座標に現れた。
「だけど、これで解るのって『どこにいるのか』だけで、『どの深さにいるのか』が解らないのよね」
「深さのほうまで知るには、海の王に聞くのが早いってこと?」
「それが一番の理由ね。だけど、古代竜相手だからね、海の王の加護も最大限つけもらわないと、最悪の事態になりうるから」
あいつ面倒くさいのよね、と、ため息交じりに目を閉じて。
そうしてかつてを思い出す。
「強さは……古代竜でも真ん中くらいなのよ。レトムエーエムみたいな雑魚はカオリなら多分瞬殺できるんだけど、アンジーレブラムくらいになると数回斬らないと倒せないくらい」
「レトムエーエムで、雑魚、なのですか……?」
「勇者の力は次元が違うからね。レトムエーエムは人間的に見たら間違いなく化け物だけど、魔王や魔人と対する私達から見たら言い訳しようのないくらいの雑魚よ。勇者どころか成人した猫獣人か犬獣人が複数いたら碌な抵抗もできないまま完封されるレベルだから」
アレは良心的よねえ、と、かつて戦った時のことを思い出しながら鼻で笑う。
その余裕に、命がけで対峙したアージェスは喉を鳴らす。
――女神と勇者ならば、我らとそこまでの差があるのか、と。
「で、アンジーレブラムの何が厄介かっていうと、あいつ海にしか現れないのよ。完全海特化。だけど世界の脅威なの。なんでかわかる?」
「……ものすごく大きいとか?」
「何か、強大な魔法を使う、とかでしょうか?」
答えを知らぬカオリとアージェスは、それぞれ自分の考える脅威を想像する。
だが、アロエは満足そうに頷くばかりで答えは言わない。
そうして、ミリシャを見て笑顔になった。
まるでそう、「答えていいわよ」とでも許可しているかのように。
少なくともミリシャはそう解釈し、小さく頷いて返す。
「――アンジーレブラムは、その巨体によって大陸そのものを沈めてくるのです。かつて戦った私共の先祖の残した記録では、今でいうバークレー王国辺りまで大津波が届いた時期があったのだとか……」
「正解。あれはね、覚醒するととにかくスケールが大きいのよ。大陸を自分の身体だけで包囲できるくらい。だけど、あいつが活動するのは海なの。海の王の領域なの。だから、常に海の王の力の影響下にあるのよ、あいつ」
「影響って、どれくらい?」
「かつて最後にあいつが覚醒した時……ミリシャが話してた記録の頃の話ね。その時に、海の王は自分の許可なしに勝手に他の自然界の王の領域を侵して自分の領域を広げたことに怒って、アンジーレブラムを裁いたの」
「裁く……?」
「そう。もう絶対に目が覚めないってくらいに強力な封印をほどこしておいたはずなのよ。まあ、それくらいに自然界の王と古代竜の間には絶対的な力の差があったの」
正確には属する場所が大事なのだけれど、と、したり顔で説明を始める。
こうなるともうノリノリであった。楽しそうだった。
女神様は知識自慢がお好きなのだ。
「でも、本来は目覚めないくらいの封印なのに、目が覚めちゃったのよね?」
「そこなのよねえ。なんで目が覚めたのかしら? 自然界の王が許したのか、あるいは何か別の要因によって封印が解かれたのか……その辺りの事情も知りたいのよねえ」
「まあ、なんで海の王の加護が必要なのかは分かったわ。古代竜を一方的に封印できちゃえるくらいの力だものね。そりゃ加護してほしいと思うわ」
「それくらいの認識でいいわよ。加護さえもらえれば船だって沈められにくくなるし、一撃くらいは攻撃を耐えられるようになるから」
開幕薙ぎ払いで全滅は避けたいしねぇ、と、波打つ海の蒼を見つめため息。
この、板一枚下には水しかない世界を意識させられ、一同、緊張に身体が動かなくなる。
怖いのだ。海とは絶望の世界。過去多くの者がこの海に出て、そうして帰らぬ者となったのだから。
「ミリシャ、泳げる?」
「ふぇっ、わ、私ですか? その……犬かき、位なら」
「……泳げないよりはいいかなあ」
「そういう勇者様は……?」
「かなづち」
「かなづち……?」
「泳げないって事よ。あーあ、こんなことになるならクロールくらいは覚えておくんだったなあ」
緊張感の抜ける様なやりとりが仲間から聞こえ、アロエも「まあそんな硬くならないで」とアージェスの肩をぽん、と軽くたたく。
それだけで、自らを支配していた呪縛が解かれたかのような、安らぐ気持ちになってゆく。
一人そうなると、船員らも一様に、金縛りを解かれたように頬を引きつらせながら、だが笑みを浮かべるようになった。
「大丈夫よ。まだアンジーレブラムは全力を出せないはず。私が知覚してから500時間くらいはまともに動けないはずだから」
「タイムリミット的なものがあるの?」
「ええ。それくらい経たないとやる気が出ないのよ。あいつ自身もかなり怠惰だから」
「つまり、それまでにたどり着く為の機動力が重要な訳ですか」
「仮に動き出しても、すぐに大津波を起こすようになるわけじゃないけどね。少しずつ、少しずつ、鉢合わせた有人島や船を喰らいながら大陸に近づいてくるの。猶予はある。けれど、急ぎたいのも事実ね」
被害を少しでも減らしたいという気持ちはアロエにももちろんあった。
だが、急ぐにしても急ぎ方というものがあるのだと示しながら、今一度その場の全員を見渡す。
「だから、いい? まずは海の王の加護をもらうわ。そしてできるだけ協力してもらって……ここからが肝心よ。『近づいても絶対に起こさないこと』」
「起こさない……?」
「そう。多少の物音では目を覚ましもしないけど、寝ている状態のあいつなら大した脅威でもないわ。船を横づけさえしてくれれば、カオリの力でどうにでもなる。でも、目を覚ましたら相手は海の化け物よ。暴れられれば相当な手間になるし、もし取り逃がしたら……追跡はかなり難しくなる」
相手のフィールドは海全域。
大陸などより遥かに広大な距離を、鈍重な船で追い回さなければならないのだ。
それも、相手はいかような深度でも潜める中で、浮いてくるのをひたすら待たなくてはならないという制約付きである。
「大きな音を出さない。勇み足で砲撃とかは絶対にしない。ミリシャも……大丈夫かもしれないけど、直前まで絶対に加護とか使わないでね。神々は古代竜を知覚できるけど、古代竜側も、魔法や奇跡を知覚できるのよ」
「承知しました。全艦隊員に厳命しておきます」
「今までのように事前に付与するのもダメなんですね……気をつけますっ」
あくまで艦隊の存在は接近のための足、そして万一目覚めさせてしまった際に抗戦するための戦力でしかないのだ。
先制攻撃は優位とはいえ、それは艦隊の砲撃などより、勇者の一撃のほうが遥かに重いのだから、これを活かさない手はない。
これに関して無駄にプライドなどから言い淀んだりしない辺り、アージェスも現状は飲み込んでくれているのだろう、と、アロエは素直に安心した。
一時的とはいえ手を借りる相手なのだ。できるだけ信頼したいが、どこまで信頼できるかは見てみないと解らなかった。
彼のこれまでの行動、生き様は、アロエから見ると半分は納得できるもので、半分は首をかしげるものだった。
敬愛する祖父の遺志を継ぎ、海軍将校として国の為尽くすことを選んだ半生は、アロエとしては筋が通っていたように見えていたが。
反面、人間関係を構築するのはあまり上手ではなく、特に女性相手では失敗ばかりしている、人の気持ちを考えられない人のように思えていた。
少なくとも今までに祝明のミサの際に彼の内面を見た限りでは、想い人に対して行っていたことと想っていたことがあまりにも乖離していた。
これは心の歪みと相手との立場の差からくる優越感などが原因の、いわば不等な関係にある相手への押しつけがましい独占欲から来るものとアロエは分析していた。
そうして押し付けていたものは、押し付けられたものにとっては苦しみでしかない、酷く理不尽なものだったことからも、「この人は人の気持ちが解らないのね」と理解するに容易い根拠となりえた。
ただ、今回に関しては人付き合いの下手さなどは関係ないので、アロエは「度外視してもいいかなぁ」くらいには考えていた。
少なくとも先ほどまでのやりとりで、彼自身が職務や軍務、そして軍人としての責任感などに忠実であるのは分かったし、そも自分と対峙してつまらぬ媚を売ったり何かをごまかしたりしない辺りから、プライベートが関わらなければ誠実な相手として付き合えるのは実感できていた。
少なくとも好意の対象にさえならなければ、こういった手合いは存外まともなのだと、アロエは知っていた。
こうして艦隊は航路を一転ニーニャへと寄港し、そこから古代竜を討伐へ向かうすることになった。
それからしばらくして、実際のアンジーレブラムはというと、未だに南西の海域の洋上、ぽかぽかとした陽ざしの中深い眠りについていた。
島に避難した兵隊さんらはというと、当初の絶望感はともかくとして、とりあえずその島で避難生活を始めていた。
事前調査が功を奏し、真水が飲める水面とある程度まとまった食材が島の奥にある森から確保できることが解っていた為、温暖な今の時期ならばなんとか、一団が生活するには事欠かぬ状態となっていた。
エルセリア主力艦隊の生存者、百名足らず。
最初こそ無傷のままのステラ王女の指示の元、規律ある生活を維持していたが。
「イワゴオリ様ぁ? 今日もまた、海を見ていらっしゃるんですのぉ……?」
島と海との境界。
断崖からそう遠からぬ位置で、今も尚眠り続ける巨大な化け物を睨むように見つめる兵隊さんに、後ろの方からのんびりとした、気の抜けきった声が聞こえた。
「姫様……こちらは、危険ですので」
「そうですわねえ。危険ですから……今日はもう、眠りませんかぁ? わたくし、あさからねむくてねむくて……」
「……っ。まだ、昼過ぎですよ? 昼寝にしても、先ほどまで眠ってらっしゃったでしょう?」
まず、ステラ王女の様子がおかしかった。
旗艦上で艦隊員に指示を下していた時の勇ましさ、リリーマレンとの海戦の模擬演習では「これがあの姫君なのか」と、普段の可憐さがまやかしだったのではないかと思うほどに的確な、そして総司令官としての威厳に満ちたカリスマを感じさせていたあの姫君が。
今では、寝ぐせすら直そうとせず、緩み切った表情で自身に腕を絡めてくるのだ。
一日、日を置くごとに姫君は、だらしがなくなっていった。
「そうなのですけどぉ……イワゴオリ様は、そうはならないんですのぉ? わたくし、ふぁぁ……ああ、ごめんなさい、お恥ずかしいところを……」
強すぎる眠気に、理性が機能しなくなりつつあった。
抑えなければならないという気持ちが弱くなると、どうしても本能からの行動をとろうとしてしまう。
今最も彼女を支配している本能は……眠気だった。
「兵の間にも、見るからに士気が落ち、規律が保てなくなりつつあると聞きます。ですが、我々だけでもそれを維持しなくては……姫様?」
「すぅ……すぅ……」
話の途中だというのに、姫君は眠ってしまっていた。
無防備なまま、自身の背に身を預けたまま。
以前から、気にかけられている自覚はあった。
事あるごとに名を呼ばれ、手を握られ、笑顔を振り向けられれば、好意を向けられている自覚くらいは流石にできた。
だが、ここ数日の姫君は、そんなものではない。
ただ、幼稚に……幼くなっているように、彼には感じられたのだ。
それは、年相応と言えるものなのかもしれなかった。
様々な重圧から解放され、カリスマであることを求められず、ただ一人の少女として考えるなら、決しておかしな所作ではなかった。
ただ姫君であったが故に。
王位継承者だったが為に少女らしくあることができなかったというなら、これはある意味、正しき姫君の姿だったのではないかとすら思えた。
だが、それはやはり、ありえないことだった。あってはならぬことだった。
(……やはり、この状況は異常だ。あの古代竜……一体何を……)
こんなことになるのはなぜかと考えれば、元凶と思しき存在は目の前にいた。
先日の、艦隊が襲われた時の事。
あれ以降、この海の化け物は未だ眠ったままである。
そして直近の島であるここに逃げ込んで以来、自分たちはどんどんとおかしくなつているのだから。
(あいつを倒さないと、私達は……私達は、どうなってしまうのだ……?)
そら恐ろしかった。
熟練の水兵すら、一部で堕落するものが現れ始め、規律が保てなくなりつつある。
今はまだ辛うじて、全員分の食事を供与するだけの活動はできていた。
活動拠点となる簡易的なキャンプ地もある。
生きることはできた。生きる事だけは。
(……早く。早く脱しなければ。このままでは、私達、は……)
崩れ落ちそうになっていた姫君を抱きとめ、そのまま抱きかかえ、キャンプ地へと戻る。
自身も強い眠気に侵されながら。
そうして……腕の中の姫君に、よからぬ欲望を抱きそうになりながら。
「……っ、私と、したことが」
そんな事は首を振ればすぐに消え去る。
自らの職務。そして姫君に仕えるという責任感を放り出して、何が兵か。何が城兵隊長か。
そうして己を律すれば、この程度の事はなんとでもなる。なった。
「ん……?」
「城兵、隊長殿」
「へへ……すみませんねえ、姫様は、俺たちが預かりますよ」
戻ろうとした彼の前に、三人の水兵が立ちはだかる。
手にはカットラスと短銃。そして彼らの顔は、下卑た欲望に染まっていた。
「預けて、どうするつもりだ? いいから持ち場に戻れ」
「そうはいきませんぜ。城兵隊長殿は、姫様を独り占めするおつもりのようだ」
「許せませんねえ。こんな状況下で。自分だけいい思いするなんて」
「お前たち……まさか」
彼らの口調を聞けば、彼らが何を望んでいるのかは想像に容易かった。
この状況下、女性は姫君のみなのだから。
だが、それが解るからこそ、それを実行に移そうとしているこの水兵らに驚きを禁じ得なかった。
「正気か。お前たちは、自らの誇りをどこにやった?」
「誇り? ははっ、何言ってんですか城兵隊長殿ぉ! もう生きるか死ぬかって状況で、今更格好つけて何になるってんですかい!」
「そ、そうだそうだ! どうせ俺たちだって、いつかはあの化け物に喰われるか……そうじゃなきゃ、助けも来ないまま、こんな島に閉じ込められて、逃げる事すらできないまま仲良く犬死ですぜ!?」
「それなら、少しでも楽しんでから死にたいってだけじゃねえか! 俺たちにも、気持ちいいことをさせてくださいよ、城兵隊長殿ぉ!!」
彼らにはもう、自分が姫君を手籠めにしていて、また楽しもうとしているようにしか見えていないのだと理解し。
姫君をそっとその場に寝かせ……黙ったまま、腰の剣をすらりと抜いた。
「やる気かよぉ! バカだなあんたも!」
「俺たちは一緒に楽しみたいってだけなのによぉ!」
「抵抗しなきゃ死ぬことだってないだろうに、そんなに独り占めしたいのかよ! この強欲隊長がぁっ!」
一向に口調を改めないこの愚か者の群れを見て、兵隊さんは「せめて姫様が眠っていらしてよかった」と、深いため息をついた。
自らの部下がこんな体たらくで自分の身体を狙っているなどと知れたら、姫君はどれだけショックを受けてしまうだろうか。
そんなことになる前に、こんな輩は消さねばならなかった。
「許せ。こんなことにならなければ。あるいは、あのまま死んだほうがお前らには幸せだったか」
「じょ、冗談じゃねえっ! 死ぬのはあんただよ!」
「消えなぁっ!!」
まるで賊のような三下じみたセリフだな、と、呆れたように笑いながら。
兵隊さんは、自らに襲い掛かってきた三人を、一瞬で斬り捨てた。
「……へっ」
「あれ?」
「なに……が……」
相手にもならない。
短銃など撃たれても当たらないし、カットラスなど振るわれる前に腕ごとばっさりと斬り捨てたのだから。
忘れられがちだが、城兵隊長とは、国一番の猛者に与えられる役職である。
忠義者であることは前提として、強くなければなる事は許されぬ立場であった。
(陸上ならば、あのような化け物相手でも戦える自信はある。だが……海の上ではな)
モノ言わぬまま倒れ伏した三人を歯牙にもかけず。
兵隊さんはまた姫君を抱きかかえ、そうして、再び海を見た。
海の先の、途方もない化け物。
あればかりはどうしようもないと、そう思った直後。
『グギ……グ、グ……グギャァォァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!????』
突然、その化け物の方角から、耳をつんざくような大声量の悲鳴が響き。
雷かと思えるようなその音に、姫君も「えっ」と、すぐに目を覚ました。
「あ、あの……イワゴオリ様、いったい、何が……?」
「解りません。ですが……何かが、起きたのでしょう、か?」
見れば、巨大な竜がブクブクと沈んでいき……その先に、黒の艦隊が見えた。
「あの黒い艦隊……あ、あの、イワゴオリ様、望遠鏡をっ」
「あ、はいっ」
何かあった時の為携帯していた望遠鏡を姫君に手渡し。
自身も、遠方ではあるがなんとかそれを把握しようとする。
「間違いありません……あの海軍旗、ラナニア海軍です!」
「ラナニアの……? しかし、なぜラナニア海軍が」
「解りません……わかりませんが、とにかく、この状況を脱するチャンスですわ!」
兵隊さんの驚きは、化け物が消え去ったことだけではなかった。
さっきまで幼く感じていた姫君は、今ではここに来る前の、王族としてのカリスマを取り戻していたのだから。
「姫様……もとに……」
「イワゴオリ様……? きゃっ、わ、私、なんて顔で……髪も、恥ずかしぃ……」
そうして正気に戻るや、自身のいでたちのだらしがなさに気づき、赤面して縮こまってしまう。
抱きかかえられたままというのも姫君にはまだ恥ずかしいらしく、愛らしく照れてしまっていた。
「良かった……元に戻られたのですね。ほんとうに、よかった……」
何が起きたのかはまだ分からないが。
ただ、状況が好転したのは間違いなかった。
恐らく、ラナニア海軍が何かして、あの化け物を倒したか、撃退したのだろう。
その結果、姫君が正気に戻ったのだ。
もしかしたら水兵らも戻ったかもしれない。
だとすると……いましがた斬り捨てた三人が、急に哀れに思えてしまった。
(もしかしたら……助かったのかもしれないのに。すまないな)
こんなことがなければ、栄光あるエルセリア艦隊の艦隊員として生きられたはずなのに。
自ら斬り捨てたとはいえ、不憫としか思えなかった。
「イワゴオリ様……?」
「戻りましょう。そして狼煙を上げるのです。確かに今がチャンスですから」
「はいっ!」
(真実は、伏せておかないとな)
今は遺体を埋葬してやる暇すらないが。
ここで起きた事は、すべて忘れてやるくらいのつもりでその場を立ち去った。
こうして、古代竜アンジーレブラムは、人知れず討伐された。