#3.名乗り出た男
「……貴方は」
見た感じの風体は怪しいことはなく、小奇麗な背の高い男だった。
着ている軍服も下士官程度のものではなく、上級将校を思わせる厳かな雰囲気を感じさせるものだったが、男自身の雰囲気はそういった感じもなく、柔和な印象すら受ける。
そうして彼の顔を、アロエは見知っていた。
「ラナニア海軍の幹部が、なんでエルセリアの、しかも王都にいるのかしら?」
「……一目で見抜かれるとは。犬獣人の娘を連れているのを見る限り、ただものではないと思いましたが、貴方がたは?」
「どうかお控えを。こちらは女神アロエ様と勇者様ですよ」
座ったままに問うアロエに驚きを隠せない男――ラナニア海軍提督アージェスは、ミリシャの返しにますますもって驚かされてしまう。
素性が知れるや、一歩引き、恭し気に身を低くかがめて「これは失礼を」と会釈して見せた。
「まあ、あまり騒がれても面倒だからほどほどに。それはそうと、私の質問に答えてほしいわね」
「はい。我が祖国ラナニアは、先日、強大なる古代竜と戦ったのですが……その際、無防備となった国境近くの街や村々を、古代竜の脅威から守ってもらった、という事で、その感謝の書簡と、今後の軍事活動の協調を視野に入れた会談の為にこちらに」
「なるほど……大陸を代表する大国同士、仲よくしようって思ってる訳ね。それはいいことだわ」
なかよしはいいわねえ、と、屈託なく微笑み、満足そうに何度も頷いて見せる。
素朴ないでたちだが、彼女が見せるその純な柔らかさはどこか母のそれにも思え、アージェスは「これが女神様なのか」と、不思議な感覚を覚えていた。
「それで、そのてーとくさんが私達に話しかけてくれたのは、私達の話題が気になったからよね? こっちは簡単な話よ。南西の海に古代竜が発生したらしいから、それの討伐に行ける軍の船が欲しいんだって」
「なるほど……確かに古代竜を相手どるとなると、相応に練度の高い水兵も必要となるでしょう。商船の船員では、どうあっても古代竜相手ではパニックに陥ってしまうでしょうから……」
かつて船上で見た古代竜の脅威。
自らの頭上の空から降り注ぐ巨大な岩の塊を見せられては、それすらも笑えたものではないが。
少なくとも、訓練された兵でなくては平常心を保てないのは間違いないと思えた。
「私自身、古代竜を相手どり死を覚悟した身です。幸い、辛うじて巨石に押しつぶされずに済みましたが……」
「あらそうなの? レトムエーエムはまあ、人間にしてみれば間違いなく脅威でしょうからね。でも、生きててよかったじゃない」
「はい……ですが、女神様と勇者様の御一行とあっては……そして、またあのような強大な化け物が現れたとあっては、看過するわけにも参りません」
地獄のようなレトムエーエム戦を経て、提督アージェスはその脅威を生で実感していた。
だからこそ、それがまた祖国に襲い来るようなことは……あってはならないと思ったのだ。
生きているだけで災厄をまき散らす人類共通の仇敵。
今この少女めいた女神と勇者が挑むというなら、それを聞いてみすみす放置する訳にもいかぬ。
愛国心が為戦った者の末裔を自負する彼にとって、いつか祖国に到達するやもしれぬ化け物を退治することは、決して他人事ではなかったのだ。
「どうか、御一行のお手伝いに、我が艦隊を役立てることができますれば」
「え……? いいの? ねえアロエ、これって……」
「ええ。ようやく足が確保できたわ。ありがとうね、アージェス提督」
多少時間はかかってしまったが、少なくとも他のルートを探すより遥かに早く目的地にたどり着ける。
しかも精強なラナニア海軍の艦隊が使えるとなれば、古代竜の討伐難度も大幅に軽減するはずだった。
海戦において重要なのは、即死させられない程度には頑丈な船なのだから。
「向かうは南西の海域。挑む相手は古代竜アンジーレブラムよ。覚悟してね」
「はっ! 万事、我がラナニア海軍にお任せを!!」
頬杖をつきながら、少し楽しくなってきたアロエに向け、アージェスはびしり、海軍式の敬礼をして見せた。
偶然とはいえ、心強い味方である。
こうして、勇者一行は無事船足を確保し、古代竜討伐へと向かう。
一方その頃、既に古代竜アンジーレブラムと遭遇していたエルセリア艦隊は、兵隊さんの考えた作戦が見事奏功し、近隣の島へアンカーを打つことに成功。
これにより徐々に互いの距離を離し、旗艦の逃げ道を作るところまでは上手く行っていた。
島の近くという事もあり、座礁や呼吸の影響で島の岸壁へ激突してしまわないよう、細心の注意を払いながらの活動の為、すでにかなりの時間が経過していたが、今はまだ、古代竜は寝息を立てるばかりであった。
「なんとかこのまま……このまま離れられれば……」
「今はまだ呼吸の影響から完全には抜け出せていませんが、ここからタイミングよく進むようにすることである程度古代竜の影響圏から離れつつあります。時間さえかければ必ずや……」
「こうなるともう、ただただ祈るばかりですね」
ステラ王女が乗座する旗艦は、なんとか島へたどり着くことができている。
もしもの為にとここから島の調査の為、水兵の隊伍を差し向けているが、何事もなく離れられるならそれに越したことはなかった。
「イワゴオリ様のおかげで、なんとか抜けられそうですが……ですが、航路は大幅に変えなくてはなりませんね。今は無事抜けられても、後から追いかけてくる可能性もありますし……」
「そうですね。今の航路は通年、一番安定しているものを選んでおりますが……こうなると、多少時間をかけてでも北側の航路を使い、十分な距離を取ってからしかるべきルートに戻る様に進むのがよろしいかと」
「私もそう思います。ですが北の航路は海の魔物も多く、気候も安定しにくいのだとか。古代竜ほどではありませんが、ある程度戦いになる覚悟は持たなくてはなりませんね」
「海での戦いはお任せください。幸い、船上には城兵隊長殿もおられます。姫様の安全は、必ずや」
危険な航路を進むことになるが、慣れた海の男たちは胸を張り安全を保障してくれる。
そうして傍には最愛の殿方。
ステラ王女ははにかみながら「ええ」とだけ返し、兵隊さんににこり、微笑みかける。
「頼りにしていますわ、イワゴオリ様」
「一命を賭してでも、必ずや」
それは、兵隊さんにとっては過大なプレッシャーではあったが。
同時に、何が何でも守り抜くべき対象がそばにできたことで、彼は自然と自身に強い自信を感じることができるようになっていた。
そうして思うのだ。「やはり自分は他者を守るためにいるのだな」と。
『……グ?』
しかし、何事も上手くいくばかりではない。
旗艦が離脱しきるより前に、古代竜アンジーレブラムは、目を覚ましてしまった。
「ああっ! なんてことだっ」
「ファームブルムよりっ! 旗艦っ、ただちに離脱をっ! 古代竜が目を覚ましたっ」
直近にいた艦のいくつかが、絶望の中旗艦へ向け手旗を、そして大声で以って注意を促す。
それはステラ王女達にも気づけたが……未だ、離脱しきれてはいなかったのだ。
『おおお……まだ深海で眠っているつもりだったが、ついつい浮上してしまったか。まあよい。目の前にうまそうな餌も浮いているし……いただくとしよう』
巨体の割には穏やかな声質の、それでいて絶望的なセリフに、船乗りたちは気色ばむ。
「そ、そんなっ、どうすれば――っ」
「こ、このまま古代竜相手に……しかしっ」
「姫様っ、こちらへっ!!」
「きゃっ、イワゴオリ様……?」
とっさの判断だった。
姫君も船長も、未だどうすべきかの判別もつかぬ中。
兵隊さんは、姫君の手を取り、船の縁へと駆け寄ってゆく。
「すぐにあの島にっ! 急げっ!! 今なら間に合うかもしれないっ」
「お、おうっ! 全速で艦を向けろっ!! 島に急げぇ!!」
『いただき……ます……ズォォォォォォォォォォォォッ』
「こ、攻撃ぃっ!! どうせ逃げ切れんっ、できる限り攻撃をして、姫様達が逃げられる時間を稼げぇっ!!」
「うぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「ひっ、ひぃっ! 死んで、死んでたまるかぁぁぁぁぁぁ!!」
先ほどまでの呼吸とは比較にならぬ、強烈な引力に船がひきずられていき。
船乗りたちは顔を引きつらせながら、しかし、自身の成せることはこれしかないとばかりに、砲を向け攻撃を始める。
旗艦の指示するより前に、少しでも旗艦が逃げられるように。
《ズゴォォォォォォォォォォッ》
「あっ、ああ……もうっ、もう――うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
一隻、また一隻と、その巨大な口に飲み込まれていった。
向かう先は真っ暗な死の世界。
最後の砲撃が口の中に放たれるも、アンジーレブラムは「刺激的だなあ」と、のんびりとした口調で爆発すら飲み下し、平然と咀嚼してゆく。
「も、もうこれ以上は――無理です姫様っ、城兵隊長殿っ! この旗艦も抵抗しきれませんっ」
「ここからなら……皆っ、島に飛び降りろっ! 生き残るにはこれしかないぞっ」
「……と、飛び降りるって、イワゴオリ様!?」
もはや覚悟の決めどきであった。
今しかない。今より後は、他の艦のように飲み込まれてゆくだけ。
覚悟を決め、蒼白な表情になってゆくステラ王女にできるだけ優しく笑顔を向け、頷いて見せ。
「姫様、失礼いたします!」
「きゃっ――えっ……えぇっ!?」
旗艦が横付けされた直後に、そのまま姫君を抱きかかえ、城兵隊長イワゴオリは島へと飛び降りていった。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
決して低くはない。
まともに飛び降りれば足がへし折れるか、打ちどころ次第では即死かという高さを飛び降りたのだ。
それでも、そうするしか助かる道はなかった。
今を以って無事なこの島に逃げ込むしか、生きる術などないのだ。
「総員っ、島へ飛び込めぇっ!!!」
「ひっ、ひぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「やーっ! やぁぁぁぁぁっ!!!!!」
近場の者から次々に。
船長と操舵手以外、絶叫を上げながら飛び降りてゆく。
「――ぐっ! おぉぉぉっ!!!」
真っ先に飛び降りたイワゴオリは、なんとか着地。
しかし右足に激痛を覚え、鬼のような形相で耐えながら、少しでも姫君を安全な場所へ逃がそうと、そのままの足で一歩、二歩、離れてゆく。
ステラ王女は……あまりの恐怖に失神してしまっていた。
『これで最後――ギュォォォォォォォォォッ』
間の抜けた、気の抜けるような声が響き渡ると同時により一層強い勢いで引き寄せられ。
命からがら逃げ延びた操舵主が振り向いた時には、旗艦はものすごい勢いで古代竜へと吸い込まれていった。
「エ……エルセリア海軍に、栄光あれぇぇぇぇっ!! シャイナァァァァァァッ」
「船長っ、船長ぉぉぉぉぉぉっ!!!」
操舵を失った船は抵抗すらできぬまま古代竜の漆黒の闇の中へ。
最後に逃げようとし、逃げ損ねた船長は、そのまま見えなくなってしまった。
『ああ……食った食った。ふぁぁぁ……さて、また寝ようかな』
だらけた口調のまま、満足げにあくびを漏らしながら、アンジーレブラムは再び眠りについてしまう。
こんなものはそう、ただ転寝の合間の、ちょっとした間食でしかなかったのだ。
たったそれだけで、大国の主力艦隊が瞬く間に全滅するほどの脅威だったのだ。
目先の脅威が眠りにつき、なんとか島へ飛び降りた者だけが逃れることができた。
だが、生き残った者達の間には、悲壮感ばかりが漂っていた。
「……船長、どの」
ついさっきまで話していた頼りになる海戦指揮官が、今しがた死んだ。
他の艦隊員もそうだが、理不尽極まりない死に、兵隊さんは怒りをにじませ、姫君には見せられないような顔になっていた。
「う、うぐ……」
「誰か、手を貸してくれ……腰が……」
見渡せば、無傷で済んだ者などほとんどいなかった。
足か腰かがやられた者が多数。
ひどければ落下の際に頭や腹から落ち、即死した者もいた。
倒れ伏し、苦しみながらうめき声をあげる者も、全員が助かる保証などない。
医薬品も包帯もない中で、古代竜の目の前で名も知らぬ地理も解らぬ島に逃げ込んだ。
既に絶望感が漂っていた。
「……それでも、生きているだけマシなんだ」
彼は、かつてカルナスで女悪魔ベラドンナと対峙するか、となった時のことを思い出していた。
街の子供たちがさらわれ、討伐に向かった先で衛兵隊長と思っていた魔人ゲルベドスの策にかかり。
衛兵隊の多くの者が絶望の中わずかな生にすがり何もしなかった中、自分と、少数の勇気ある者だけが立ったのだ。
状況はまるで違うが、それでもその時の経験は、彼にとって大きな希望となっていた。
(カオルなら、きっとこんな時でも笑って『任せろ』と言ってくれるはずだ)
――なら、私もそうなろうじゃないか。
この場の希望足り得るのは、無事な者だけ。
絶望などさせぬために、まずは生きなければならなかった。
「大丈夫かっ! まさかこんなことになってるなんて……」
「念の為でも傷薬やなんかを持ってきておいてよかった……まだだ、簡単には死なせないぞっ」
幸いにして、事前に島の調査の為に向けた隊が異常に気付き、すぐに戻ってきてくれていた。
彼らは自分達用の物資を持っていた為、緊急を要する者には応急処置を施すことができる。
もしかしたら、その中から助かる者も出てくるかもしれなかった。
「ああ、よかった……」
まだ、希望はある。
無事な者もいる。島の調査もある程度は進んでいただろう。
食糧や水の確保は、なんとかなるかもしれない。
(ほら、最悪の状況はすぐに脱せたじゃないか)
全員がケガのまま、身動きも取れず野垂れ死ぬ事はなくなる。
今はひどくとも、生き延びさえすれば、いずれ――
そう考え、未だ意識を取り戻さぬ姫君をそっと降ろし……そして、張り詰めていた意識がぷつん、と、音を立て切れていくのを、兵隊さんは感じていた。