#10.英雄は混沌の中現れる
「いたかーっ」
「いや、こっちには……どこに行きやがったんだ?」
「倉庫は探しつくしたし、もう後は使用人達の部屋しかないぞ! 領主様に許可をいただいて家探しだ!!」
いくら広いとはいえ、衛兵らの数も多く、その捜索範囲は自然、狭まっていく。
時間は最早深夜となり、領主の苛立ちも深まっていた。
「ええい、小娘一人に手間取らされおって! 子供の遊びではないのだぞ!」
――領主の私室にて。
今宵こそはモノにした自分の女を眺めながら飲むはずだった極上のワインは、味は変わらないはずなのに上手くいかぬ苛立ちのせいで味気ないものになってしまっていた。
その怒りのすべてが、今も尚見つからぬフィーナに向けられる。
「旦那様。衛兵隊が家探しをしたい、とのことでして……使用人の部屋も捜索範囲にしたいそうです」
「構わん。メイドの誰かが庇っているかもしれんからな。もし庇っているなら、そのメイドごと責め嬲ってくれるわ!!」
「では、そのように」
怒りのはけ口を求める主人の意を理解し、執事もいらぬ反論などは挟まず素直に頷き去ってゆく。
それだけで、いくばくか領主の気分はよくなっていた。
(そうだとも……逃げられるはずがない。アレはどう見ても小娘だ。空を飛べるわけでもなければ、魔法を扱えるわけでもない。確実に追い詰めているのだ。朝までには、まあ見つかるだろう)
思い誤り井戸にでも飛び込まれれば事だが、この時間帯井戸には飛び込み防止のために蓋が閉じられ鍵で厳重に管理されている。
刃物も容易に扱えぬよう、農具小屋や調理場なども執事から鍵を借りなければ開けられぬようになっている。
門はしっかりと閉じ、内も外も衛兵が構えて外に出られぬようにしてある。
逃げ隠れるとすれば、今はまだ内側にしかないのだ。
朝までどこぞに隠れ潜み、明るくなってから逃げるしかない。
だが、塀の内側はいたるところに衛兵がいるのだから、明るくなってからでは逃げられるはずもない。
フィーナにとっては詰んだも同然の状況。
ならばこそ、これはもうゲームのようなものではないか、と。
(必死に走り回り、汗をかいた女を剥くのもそれはそれでいいかもしれぬ。若い女は汗をかけばかくほどかぐわしい香りが立ち込めるからな……くくく、どう遊んでくれようか。縄で縛りあげるか、火で炙るか――鞭で打ちつけてやるのもいい)
気の強そうな娘の扱いは心得ていた。
心が折れるまで苛め抜いてやればいいのだ。
それだけでへし折れ、涙を流して懇願する。
あの美しい娘が、そうなる瞬間を思い浮かべ、領主はすっかり上機嫌になる。
「ああ、今夜はなんといい夜なのだ」
アクシデントには見舞われたが。
それすらも楽しめる。
人生は楽しんでこそである。
ならば今この瞬間、自分は間違いなく幸せの中にあるのだ、と。
「……」
「あ、あの……」
場所は変わり、メイド長の部屋にて。
他のメイドと違い、一人だけ私室を与えられているメイド長の部屋は、無機質で、ベッドと簡素なクローゼットが置かれているだけの、おおよそ若い女性の部屋とは思えぬ作りになっていた。
その部屋自体もお世辞にも広いとは言えず、灯りすら魚油の臭いが漂う灯のみ。
そんな部屋に、フィーナはいた。
隠れていた倉庫から連れ出され、人目を避けて連れてこられたのがここだった。
「座っていなさい。疲れたでしょう。お茶はないけれど、ここなら大丈夫」
「……助けて、くれるの? そんなことしたら、貴方だって――」
「私なら気にしなくていいわ。そんなことより、他の子が巻き添えを食らって可哀想ね」
「え……巻き添えって……」
手で指し示され、勧められるままにベッドに腰掛け。
その硬い感触に、昨日まで眠っていたベッドとの感触の違いを覚え驚きながらも、意識はメイド長の言葉にばかり向いていた。
「貴方が逃げたから、衛兵隊は揃って館の家探しを始めたわ。そうかからずここにも来るでしょう。そうかからず、メイドをはじめ使用人たちの部屋が暴かれるでしょうね。折角一日が終わって眠りについたのに、叩き起こされて、酷い話よね」
「……ごめん、なさい」
「まあ、逃げようとして逃げ出せたのは、貴方が初めてだからね。よくもまあ、衛兵に囲まれながら逃げられたものだわ」
「何も抵抗もせずに、奪われたくなかったから。それじゃ、あの人に申し訳も立たないし」
「気持ちはわかるけど、ね」
小さくため息をつきながら、しかし、無表情を崩し、ふ、と笑う。
そうして笑うと、薄暗いからか、メイド長はフィーナから見てもやはり、美人に見えていた。
責めるばかりではなく、こうして笑いかけてくれるのが、張り詰めていたフィーナの心にどれだけ癒しとなったか。
「解ってると思うけど、逃げる方法なんてないわよ」
「そうね……そうなんでしょうね。明るくならないとどこにもいけないけど、明るくなったらどこにもいけないもの」
「旦那様は、これと決めた女への執着はとても強いから。例え逃げ出せても、国境を超えるまではどこまでも追い続けるわ」
「……他の人の領まで逃げても?」
「あれで旦那様は『へんきょうはく』というものらしくて、他の領の方より影響力が強いらしいの。他所に逃げたって同じよ」
逃げ回っても無駄、というのを理解させるかのように、メイド長ははっきりと明言してゆく。
フィーナの希望を少しでも断つように。
それでいて、諦めないフィーナを前に、少し戸惑っているようでもあった。
「ねえフィーナさん。貴方の大事な人は、そんなに貴方に優しくしてくれたの?」
「えっ? ええ、そうね……ノークは、とっても優しくて、いい人よ。村では『まだ頼りないから』ってお父さんに結婚を反対されたりしたけど……でも、私は一緒になってもいいって思うくらい、良い人だと思ったわ」
「……そう。本当に、世界が違うのね。貴方達のいい人って、私が聞くとまるで神様か何かみたい」
遠い世界の話。
本当にそう思えるほどに、呆れるくらい世界が違う。
掌で目を覆い「バカみたいね」と笑って見せるメイド長は、どこか子供じみていて。
けれど、受け入れたくない現実を受け入れてしまった、可哀想な大人でもあった。
「なんでこの国は、こんなに女ばかり酷い目に遭うのかしらね。『学は必要ない』『男を楽しませられればそれでいい』『必要なこと以外するな』。なのに、世界は違うんだもの」
「……この国に奴隷制があるとは聞いたけれど、そうじゃない女の人の扱いまで酷いなんて、そこまでは知らなかったわ」
「そうなの? 奴隷制そのものは外国から批判されてる、という噂はあるけれど。でも、女の地位が低いのは誰にも気にされてないのかしらね」
覆っていた手をずらし、かすかに揺れる炎を見やる。
その瞳には諦観が。そして言葉からはどうにもならぬ憤りが感じられ、フィーナは「この人もそういうのは嫌なのね」と、その苦しみを感じ取っていた。
「――いっそ奴隷の方がマシなのよ? 奴隷は奴隷同士の男女で恋愛しても責められないし、奴隷に男女の区別なんてないし。年老いて飽きられて夫に捨てられそのまま死ぬしかない一般の女と違って、老いても売りに出されて別の主人が見つかるもの。性欲のはけ口なんて、奴隷でもそうじゃなくても、女ならみんなそうなるし、酷使されて早死にするのは奴隷ではなく、一般の女だわ」
自分たちは奴隷以下の存在。
そうとしか思えないほど過酷な環境がそこにあって、それでもそう生きていくしか、男に都合のいい存在として生きるしか存在価値がないという社会で。
逃げる場所も生き方を選ぶことも、自分が愛する男ですら選べない人生が生まれた時から確定している、そんな世界だった。
それが、彼女たちが生きた世界だった。
「それは……そうまでいっちゃうと、もう――」
彼女たちに不満がないわけがなかった。
現状が辛く苦しいことなど理解しているし、できれば逃げ出したいし、変えたいに決まっていた。
けれど、そんなのは自分達では無理だと解っていた。
そう、解ってしまっていたのだ。無力だから。女だから。
その不満をどう口にしても、どれだけ絶望しても、変えられるはずがなかった。
政治とは、偉い人たちがするもので、村の一人一人が、屋敷に努めるメイドや使用人が、変えていくものではないのだから。
自分たちを取り巻く環境を変えるなら、偉い人が変えようと思ってくれなければ、変えられるはずがないのだから。
それを言おうとしても、憚られたのだ。
そんなの、メイド長にだって無理なのはわかっているのだから。
『――深夜に失礼する! 衛兵隊です! 開けていただけますかな!!』
そうして、ドアを強くたたく音と共に、厳めしい声が部屋の外から聞こえてくる。
がやがやとした息遣い。多人数が外にいるのが解り、フィーナは、はっ、と、メイド長を見た。
「大丈夫よ。貴方はベッドの影にでも隠れていなさい」
「でも……」
「いいから」
こんな隠れるところの乏しい部屋で、ベッドの陰に隠れたところで何の意味があるのか。
どうにもならないなら、いっそ自分がメイド長を脅していたのだとでも演技すれば、彼女だけは救われるかもしれないのに。
けれどメイド長は「いいから」と念を押し、立ち上がってしまう。
こうなるともう、フィーナはベッド横に隠れるしかできなかった。
流れを見守るだけである。
ドアを開けたメイド長に、衛兵らはびしり、敬礼をする。
それに対しメイド長も、ぺこり、小さくお辞儀をして衛兵らの前に立った。
「何事ですか? もう寝静まる頃ですよ?」
「例の娘が脱走しましてな。家探しをさせていただきたい。ほかのメイドの部屋は探しましたので、後はここだけかと」
「――そう、逃げたのですか、フィーナさんは」
「ええ、ですので――」
「お断りします。この部屋にはフィーナさんは来ていませんわ」
はっきりと断言し、そしてドアを閉めようとする。
驚いた衛兵は、しかしすかさずドアを手でつかみ、閉じられぬよう力を込めた。
非力な若い女では閉じることもできず、そのままになってしまう。
「……そう仰らず、ご協力いただきたい」
「貴方は、誰の許可を以って私の部屋を捜索したいと言っているのですか?」
「それは……領主様の許可をきちんといただいて――」
「ですが、それは使用人たちの部屋を捜索する許可なのではなくて?」
「いや、それは――」
声しか聞こえないフィーナにもはっきりと聞こえるように。
衛兵らも、その凛とした響き渡る声で気圧されてしまう。
「もう一度聞きますわ。誰が、私の部屋を家探ししていいなどと許可を出したのですか? お父様が、そんな許可を出したというのですか?」
「い、いえ、申し訳ございません! ただ、逃げ出した娘が危害を加えないかと――」
「我々も決して悪意があってやったわけでは――おい、ここはもういい、次に行くぞっ」
「はいっ」
メイド長の最後の言葉がよほど堪えたのか、衛兵らはあわただしく部屋の前から去ってゆく。
そうしてようやくドアを閉められ、ドアを背もたれに一息。
「なんというか……すごいわね。衛兵の人たちを追い返しちゃうなんて」
「言ったでしょう? 大丈夫だって」
ベッドの陰から顔を出すフィーナに、メイド長はどこか自慢げな表情を見せていた。
「この部屋はね、お母様がこの館に連れてこられた時に住まわされた部屋なの」
「貴方の、お母さんが?」
「そう……他所の領の街で暮らしていたんだけど、ある時たまたま領を通過した時に見かけて、あの方に一目惚れされて、その地の領主伝いにここに連れてこられて、あの方の女にされたの」
隣り合いベッドに腰掛け、膝を抱え。
メイド長が揺れる炎を見つめながらぽそぽそと事情らしきものを語り始めてくれたので、フィーナは耳を傾けていた。
「お母様は、最初は嫌がったらしいわ。嫌だったけど、でも、連れてこられたらどうにもならなくて、無理やり――まあ、そうして無理やりが何か月も続いた後に娘が生まれて、心が折れて、あの人の妻になる事を受け入れて――ここよりはましな部屋で過ごせるようになったの」
「……それって」
「そう、私は領主の娘よ。だから、事情を知っている者は皆、私には強く言えないわ」
それだけ。
ただそれだけ言って、しばし無言が続いて。
フィーナが何か声をかけようかと思ったところで、深いため息が聞こえ。
「私ね、あの方が――お母様を愛していたのは知っていたわ。お母様も、嫌々だったけど私が生まれて、その愛を受け入れて扱いがマシになってからは、悪く思う事も減ったって言ってた。この国の女って、そんななのよ。諦めの中で、愛を受け入れるしかないの」
「諦めの、愛……?」
「そう。愛ってそういうものなの。この国では。諦めないといけないものなの。女の側には選択肢すらない、みたいなね。それでも、あの方はお母様を愛していた。愛してくれていたから、私への扱いは悪くなかったし、その間は女癖だって悪くなかったわ」
過去形だった。
かつての話なのだ。
悪徳領主にしか見えない男の、哀しい過去のような、そんな話なのかとフィーナは思った。
けれど、メイド長の目は深い闇の中に沈んでいるようにも見え。
ただそれだけの話ではないのだと、そう感じられていた。
「けれど、お母様はやっぱり耐えられなかったのね。私が物心つく頃におかしくなってしまって、井戸に飛び込んで命を断ってしまったわ。丁度、今くらいの時間だったかしら」
時計のない、窓すらない部屋で、しかし正確に時間が解るのか、ちら、と壁を見やり。
そうして、メイド長は目を閉じた。
「夜はね、あの方にとって辛い時間なの。だからあの方は誰かと毎晩肌を合わせないと耐えられないのよ。今夜は――メイグが相手をさせられているわ。八つ当たりで鞭で打たれたりするのよ。泣き叫んでも許してもらえないの」
「……私が逃げたから?」
「そうね。そうよ。あの方はね、最初に抱くときだけは優しくするのよ。お母様を抱いた時は毎度そうだったらしいけれど。けれど、二度目以降はそうではないから――あの方にとっては、辛い時間を過ごすためのおもちゃであると同時に、お母様の代償みたいなものだったんでしょうね、女を求めるのは」
「……どんな理由があっても、そんなの許されないわ」
そんな八つ当たりで自分はおもちゃにされようとしていたのだ。
そんなの、許せるはずがなかった。
愛した人との死別は、それは辛かったのだろう。
けれど、そもそもその愛した人を得るための方法が間違っていたと思えるし、その結果が自分に返ってきているだけなのに、他者に八つ当たりするとはなんと迷惑なことか。
同情の余地なんてどこにもなかった。
だから、フィーナは静かに、けれど怒りをにじませた声でメイド長の言葉に反論した。
メイド長もまた、「そうね」と、小さく笑う。
「許されない行為なのよ。それが、領主だからで許されてしまうの。私は、傍で自分の父親がそんな風になっていくのが、耐えられなかったの」
皮肉げに笑った後、また顔を膝の間に埋め、ぽそぽそと語る。
「あの方は、私にだけは優しいのよ? 当然よね、愛した女との間に生まれた娘なんだもの。私はあの方の言う事に逆らわないし、あの方のすることを咎めたりもしない。顔だって、お母様と似ているらしいし――」
「……似ているのに?」
「……?」
「似ているのに、可愛がっている娘なのに、メイド長になれって命じたの? こんな狭い部屋で――」
「ああ、これは違うわ。違うの」
神妙な顔で問うフィーナに一瞬きょとんとしながら。
けれどメイド長はくすくすと口元を抑え笑いだしてしまう。
先ほどまでとは違う、本当に楽しくてするような笑顔。
それを見て、フィーナはちょっと恥ずかしくなってしまう。
「私がメイド長なんてしてるのは、ただの……そうね、あの方の玩具にされる娘達への感傷、みたいなものよ。私が仕切るまで、メイドにされた娘達はハイペースで自殺していたから」
「じさ……えっ、そんなに……?」
「されることがことだからね。傷ついて、辛い気持ちのまま繰り返されて耐えられずに、っていう感じで。そういう意味でも、お母様みたいに耐えられる人は少なかったの。でも、それではあんまりでしょう?」
右も左もわからぬ場所に一人連れてこられておもちゃにされ、メイドにされて訳も分からぬまま働かされ、辛い環境の中何度も何度も慰み者にされ。
それも、領主だけでなく館の中の男たち全員が、自分を辱めてくるのだ。女というだけで。
それが、彼女には許せなかったのだ。
「私だけ無事で、なのに目の前には無事ではない娘たちがいっぱいいるの。皆泣きながら掃除をしていて、食事の時もお葬式みたいな顔をして、実際に誰かが死んでもお葬式すらないのよ。誰もその子の死を思いやれないの。だって、次は自分がそうなるかもしれないんだもの」
「……死と向き合えないのは、辛いわ」
「そうよ。向き合う事すらできてなかった。だから、まず真っ先に向き合わせたわ。死んだらそうなるんだって、死を選ぶと何にもない扱いになるんだって、理解させた。死んでも仕方ないんだってね」
膝を伸ばし、ベッドから立ち上がり。
着ていたメイド服を脱ぎ去り、その肌を晒す。
突然のことにフィーナは驚くけれど、その肌はとても綺麗で、汚れ一つなかった。
「あの方も、流石に私には手を出す気はなかったみたいね。メイド長の真似事を始めて……何度か、どうしても耐えられなさそうな娘の代わりにあの方のベッドに行ったこともあったわ。笑われたけれどね。二人でお母様の事を語り明かして、それだけで終わったわ」
「……もし、手を出されていたらどうするつもりだったの? その、自分の父親に」
「それでもいいんじゃないかしら? どうせ私なんて、街娘との間に生まれた娘でしかないんだから。貴族の血は引いていても、跡取り足り得ない――それこそ、お母様の代わりでしかないんでしょうからね。見た目の上での」
フィーナには、この国での貴族の後継者の順位など解りはしなかったが。
そんな形で変な風に割り切っているこのメイド長が、どこか悲しすぎるように思えていた。
自分の父親に抱かれてもいい。それで他の娘が耐えられるなら、と考えるのは、あまりにも悲しすぎる。
結果が違っただけで、自分の父親を全く信じていないのだから。
「……っ」
「泣いているの? どうして?」
「だって……貴方にとってお父さんって……自分を抱くかもしれないって、そう思えるような人なんでしょう? 大事に思われても、家族だと思われてても、信じられないって――」
「信じられるはずないじゃない。この国の――男なんかを」
服を脱いだのは着替えるためだったのか、クローゼットからネグリジェを出し、着替え始める。
けれど、その背が語るのは男への不信。
女である自分を諦めるだけでなく、明確に見えた、男という存在への怒りだった。
「私はね、男が嫌いよ。この屋敷の男全員が嫌い。貴方の大事な人だっていう男だって、本当に信じられるのかも解らない。だって、今を以って貴方のところに来ないじゃない。助けに来ない――」
「でも、きっと来てくれるわ。ううん、来れるとは限らないけど、私は、どこかで会えると思ってる。信じてる」
「――もしそうだと言うなら、今すぐにだって――」
《どごぉんっ》
フィーナとメイド長の声は、突然の轟音にかき消され。
何が起きたのかと、二人して互いの顔を見合う。
「様子を見てくるわ……外が騒がしいし」
「あ、うん……気を付けて」
「貴方は念のため鍵をかけてベッドの影に隠れていて。私なら入る前に『アイビスよ』と言うから、それ以外の人の時は絶対に鍵を開けないで」
いそいそと着たばかりのネグリジェを脱ぎ、またクローゼットに入れたばかりのメイド服に袖を通してゆく。
申しつけられたことに素直に頷くフィーナを見て、メイド長はにこり、微笑み背を向けた。
「解ったけど……アイビス?」
「私の名前よ。覚えてなくてもいいけど」
「ううん、覚えたわ、アイビス」
「……そう」
好きにすれば、とでも言わんばかりに。
アイビスはふ、と笑いながら部屋から出ていった。
「――おらぁっ!! 邪魔するなら片っ端から吹っ飛ばすぞぉ!! 領主を出しやがれぇ!!」
門前では、カオルらの馬車が到着。
着くや否や閉まっている前門を御者席のカオルが棒切れカリバーで破壊し、突然のことに混乱する衛兵らに怒鳴りつけながら馬車ごと館へ突入していた。
「なっ、何事だっ! 賊かっ、賊の侵入かっ!!」
「捕らえろっ、殺しても構わんっ、今すぐ取り押さえろ!!」
「お前らにそれができるのか――よっ!!」
《ばごぉんっ》
「ひぎゃぁぁぁぁっ!?」
「あぅっ――ぐはっ」
「おぐ……目が、目がぁぁ……っ」
絶好調である。
少しでも前に出てきた衛兵には棒切れカリバーを足元のタイルへと叩き付けてやり、粉みじんになったタイルが降り注いだ。
真下からの強烈な衝撃で吹き飛ばされた兵もいれば、吹き飛んだタイルの破片が目に直撃して失明したものも居て、阿鼻叫喚の様相である。
「あ、あわわ……」
「ま、魔法使いか……まずいぞ、対抗する手段が我々には……」
「し、しかしこれで下がる訳には……」
衛兵らも、仲間が次々に理不尽な力で倒れてゆくのを見せられては気勢も維持できず。
口々に自らの不利を語っては士気を下げる有様であった。
それを見て、客席から顔を出したサララが「そろそろですね」とカオルに声をかける。
それを以って、カオルは御者席から飛び降り、客席から降りた二人と並び立った。
「さあ不良衛兵ども! 今ここで死ぬか、領主を差し出して生きるかを選べよ!」
手に持った棒切れを正面に立つ衛兵に突きつけながらぎら、と睨みつけ。
いかにも悪役ぶった口調で詰め寄ると、衛兵は「ひぃっ」と気弱な悲鳴を上げ後じさった。
――恐怖は伝染する。
他の衛兵達も、その一歩下がってしまった兵を見てカオルを、どこかとんでもなく恐ろしい存在のように感じてしまっていた。
「何事だ騒がしい!! お前たち、何をして――ああっ!?」
流石にそう簡単には領主を差し出しては来ないのを見て「まあそうなるよな」と自力で探そうとしたあたりで、都合よく向こうから顔を出してくれたのが、カオル達には大変ありがたかった。
そう、領主ウォルナッツ卿が現れたのだ。
共連れに衛兵の増援が五名ほど。
しかし、たった五名で何ができたものか、カオルは鼻で笑った。
「初めまして領主様。俺はカオルって言う。あんたの預かってたフィーナさんを、返してもらいに来たぜ?」
「な、なんだと……? あの娘は私のモノだ。貴様ごときが何を偉そうに――うん? そこの男は――」
門が破壊され、馬車が入り込んでいるのを目にして驚いたものの、カオルの言い分には苛立ち交じりの表情で反論しようとして……そして、ノークを目にして余裕を取り戻した。
「なるほど、その男の協力者、という事か。カオルと言ったか、知らんかもしれんから教えるが、そのノークは奴隷を解放しようとし、集団脱走を企てた大罪人だぞ? そんなものと結託すれば――」
「死罪は免れないってか? バカ言うんじゃないぜ。そんなの怖くて領主館を攻撃できるかよ」
「解っておるならば……ここで死ぬがいい! 殺せ! 今すぐ皆殺しにしろ!! ああ、そこの娘だけは殺すな、後で連れてこい」
「はっ……はっ?」
「この状況で……わ、解りましたっ」
この期に及んで領主が柔和な態度に転ずるとは思っていなかったカオルだったが、サララを見て好色めいた顔になった領主を見て「ブレない奴だなあ」と、変な方向で感心してしまっていた。
とはいえ、衛兵らも含めそれには呆れているようで、いまいち士気は上がらない。
武器は構えたものの、先ほどの棒切れカリバーの威力を見せられ、前に進む気になれる兵などこの場にはいなかったのだ。
「うおぁぁぁっ」
「でりやぁぁぁぁっ」
なので、必然、カオルに挑んだのは領主と共に現れた五人だった。
五人ともが威勢よく斬りかかり、そして、案の定足元に棒切れを投げつけられ、吹き飛ばされていった。
後に残ったのは、小さなクレーターになった庭園と、不敵な笑みを浮かべるカオルだけ。
「ひっ、なっ、なんだお前は……その、その力は――」
「魔法使いって言われるのが多いがそうじゃねえ。俺のこの武器は、女神様からいただいた神器だ」
「めっ、女神様から……? あっ、ああっ! そ、そんなっ、私はっ、私は別に異端ではっ!? 教会にはいつも寄進を欠かさず――」
「それでやってるのが女狩りじゃっ、女神様だって許さねえだろうよっ!!」
カオル、駆ける。
がなり声を上げながら、真っ青になって逃げようとする領主に肉薄し。
そうしてその襟をつかみ、思い切り殴りつけてやった。
「――ぎゃうんっ!?」
一撃で昏倒した領主は、そのままカオルに掴まれ、衛兵らに見せしめとなる。
「さて、領主はこっちのもんだ。降参しな」
人質となった領主を盾にカオルはさらなる要求を突きつけ、衛兵らは「ええ」と、困惑の表情のまま武器をその場に落とした。