#9.フィーナとメイド長
小さな森の先に広がる庭園。
その中央にポツンと建つ、 赤色のレンガで組み上げられた、その地域としては広大な館が一軒。
何も知らずに目にすれば、華々しくも儚げな花々に囲まれた、とても美しい館に見えた事だろう。
これが、この一帯を預かる領主・ウォルナッツ卿の館である。
だが、その美しくも見える館も、森に囲まれた立地、館の周囲に張り巡らされた花畑の中の細い通路を見れば、戦への備えも相応にされていることが解る。
かつての大戦末期では、このあたりがエルセリアとの激突を想定される地域であったためか、このような戦備えが残されていたのだ。
「みんなー! 水やりなんかに時間かけないで、早く次の作業に移るわよー!」
「はいっ」
「わかりましたー」
そんな美しい庭園で従事するのは、女ばかりの使用人たち。
黒を基調としたメイド服に身を包み、いずれも年若く美しい娘が、水桶を手に花々に水やりをしていた。
「えーっと、このお花は水をあんまり上げてはいけない種類で……あ、こっちは多めにあげないといけないのよね。もう植え方無茶苦茶~」
慣れた様子で水やりをこなしていくメイドらの中に、一人、不慣れな様子であたふたと水を撒いてゆく少女がいた。
一人だけメイド服を着ておらず、余所行きのピンク色のワンピースに、白い日よけ帽を被り、長い赤髪を振り乱しながら庭園を行ったり来たり。
「フィーナさん、あんまり無理しなくていいのよ?」
「そうそう、貴方はまだ一応、旦那様のお客様扱いだからねえ」
「手伝ってくれるのは嬉しいけど、無理させて転ばれでもしたら事だし」
そんな少女――フィーナに、先に受け持ち分を片付けたメイドらが心配するように集まってくる。
不慣れな様子の彼女を、はらはらと見守り口々に声をかけてゆく。
それが結構な人数になってきたあたりで、フィーナもメイドらに振り向きにこり、微笑んだ。
「ありがとうみんな。大丈夫よ。ただで食べさせてもらおうなんて思ってないから……少しでも役に立ちたいのよ」
「……それは、気持ちはわかるんだけど」
「そんなことしなくても、貴方もいつかは――」
メイドらの心配は、決してフィーナの仕事の不慣れさのみに向けられている訳ではなかった。
この館に連れられた若い娘は、多くの場合、よそから連れてこられた、逃げる場所のない娘だった。
領内の村から「働かせてやるから」と連れてこられた娘もいるし、奴隷として売られていたのを買われた娘もいる。
酷いと観光客としてこの国に訪れ、賊に誘拐されて売り飛ばされた娘もいた。
いずれも、今更元居た場所に帰ることなどできず、メイドとしてこの館で働くくらいしかできない娘ばかりである。
帰りたいとは願っていても、この館から逃げたいと思っていても、この館を出て、彼女たちにできることなど何もないのだから。
フィーナも、それは分かっていた。
この館のメイドたちは、観光客だった娘を除けば文字を読み書きすることすらできない娘ばかりだった。
便宜上メイドらをまとめているメイド長すら、まともに文字を読むことができない。
なんでそうなっているのかは、メイドらの扱いを見ればすぐに分かった。
ウォルナッツ卿をはじめ、館の男性らは基本的に、彼女たちを人間として考えていない。
命じた通りの事を忠実にこなす、性欲も満たせる奴隷なのだ。
自分もいつかそうなるんだろうとは薄々感じながらも、フィーナは尚も笑う。
「まあ、そうなっちゃったら仕方ないわ。その時はその時よ」
フィーナは悲観していなかった。
自分もまた、帰る場所などないのだ。
どこであろうとたどり着いた先が住む場所と考えるしかなかった。
自分で望んで、愛する人と共に故郷の村を出たのだから。
「それに……まだあの人が迎えに来てくれるかもしれないし。もしかしたら、ただ病気になって、ちょっと来るのが遅れてるだけかもしれないし」
「そんなこと……」
「きっとその人だって、旦那様に――」
「本当に鉱山に居るかどうかも分からないのに。こんなところにいるより、今すぐ逃げたほうがまだ――」
フィーナにとって、『彼が来るかもしれないから』というのは、願望であり、彼女がここにいる理由でもあった。
例え嘘かもしれないと思っていても、例え騙されているかもしれないと解っていても、「もしかしたら」という希望は捨てられなかったのもある。
何より、自分が今逃げたら、鉱山で働いている恋人がどうなるのか、それが解らないのがフィーナには怖かったのだ。
「私なら大丈夫です。今までだって、領主様の事、上手くかわしてきましたから」
「それは……すごいと思うけれど」
「酷いこと、されてしまうのよ? 私の時だっていいように言いくるめられて……」
「貴方は意外と力があるみたいだけど、抵抗したら衛兵の人たちに抑え込まれてしまうし……」
今まではなんとかやりすごせた。
けれどそれがいつまでも続くとはフィーナも思っていなかった。
そして、いつか自分がたどる道を先に歩んでしまったメイドらの言葉を聞けば、いつかは自分も同じ目に遭うんだと、嫌でも理解させられた。
だが、だからといって選べる選択肢など、フィーナにはなかった。
ただ笑うしかないのだ。笑って、少しでも心穏やかに生きるしかないのだから。その時までは。
だから、フィーナは笑顔を振りまく。
不安そうな、心配そうな、可哀想なものをみるような目で見てくるメイドに、「大丈夫」と繰り返しながら。
「辛いことばかり考えていても哀しいだけよ。それなら私は、笑っていたいもの。いつか、本当にあの人が迎えに来てくれた時に、変わらない笑顔を見せられるように」
仮に自分がどうにかなっても、落ち込んだ暗い顔など見せたくなかった。
自分の恋人が、自分の笑顔に惹かれて恋してくれたのだと聞いていたから。
再会した時に、同じ、恋してくれた笑顔のままでいたいと、そう思っていたのだ。
「うっ……うっ」
「ぐすっ……ひくっ」
それを見ていたメイド達の何人かが、思わず涙を流していた。
望まぬ形でこの館に連れてこられ、おもちゃにされ続け奴隷同然の扱いをされていた娘たちである。
傷つき、苦しみ、やがて諦めた彼女たちでも、フィーナのように前向きな気持ちを最初から持っていなかった訳ではないのだ。
幸せになりたい、好きな人と結ばれたい。
そんな気持ちを持っていた娘だっていたし、それが叶わなくなった瞬間を思い出し、耐えられなくなって泣き出してしまう。
メイドらがフィーナの行く先の存在だったならば、フィーナはまた、メイドらにとっての、自分が穢される、貶められる前の自分達の姿だったのだから。
「――いつまでもおしゃべりをしていては旦那様に叱られてしまうわ。早く次の作業に入りなさい」
メイド長も、それが区切り目と見てかようやく口をはさみ、メイドらも散り散りになってゆく。
そうして残ったフィーナの前で、ため息を漏らし、じ、とその瞳を見つめた。
「フィーナさん。あの娘たちに希望を思い出させないで頂戴。どうせ、かなわないのだから」
「希望を……?」
「そうよ。この国では女は、男の所有物になるしかないの。一人で生きてなんていけないし、誰かに従属することを求められる。貴方は違うかもしれないけれど、あの娘たちの大半はそういう娘たちなのよ。私だってそう――よそではきっと、生きてはいけない」
諦観が支配しきっていたような、疲れたような顔だった。
元の顔はフィーナに負けないくらいに美しくもあり、銀色の髪は日に当てられきらきらと輝いていたが。
だが、その輝きが当人の暗さで打ち消されていた。そんな心の闇を感じる雰囲気。
フィーナも思わずごくり、と、喉を鳴らす。
「貴方が明るく振舞うのは虚勢でしょう。でもそれはいいわ。少しでも前向きに振舞おうとするのは、決しておかしなことではないから。皆がそうだった。無理に明るく振舞って、不安な気持ちを打ち消そうとして。そうして、その時になって絶望するのよ。それが何度も繰り返されて、心が擦り切れて、耐えられなくなるの」
「……」
「私だって嫌がらせでこんなことを言っているのではないわ。でも、あの娘たちだって弱い心を少しでも守ろうと、諦めを受け入れている。そうしている限りは、ここは衣食住に困らない、快適な環境だからね。誰かの妻として売られて、一生その人の性奴隷として生きるよりはマシなはずよ」
「結婚が、幸せではないの……?」
「幸せな結婚もあるんでしょうね……けれど、それは世界が違う人たちがするものなの。あの娘たちだって人間よ? 憧れた人だっているでしょう。でも、そういう相手と結ばれる人なんて、この国ではほとんどいないわ」
結婚が幸せと=にならない国がそこにあった。
幸福の象徴として普遍的な概念だったはずのそれが、この国では違っていた。
それは、幸せな結婚を夢見ていたフィーナにとって相当なカルチャーショックだったが。
だが、同時に別のところに興味が向いてもいた。
「ねえメイド長。さっきから貴方は、他のメイドの人たちの話ばかりしているわ。貴方はどうなの?」
さっきから他人の話ばかりしているメイド長の、彼女自身の話を聞きたかった。
その返しが予想外だったのか、メイド長も「えっ」と、途端に目をうろうろさせていたが。
やがて、視線を落としながらにぽつり、呟く。
「――私は、他の娘達とは違うわ」
どこかままならないような。どこかやりきれないような気持ちを抱えたまま。
けれど、諦観を受け入れたままに、メイド長は背を向ける。
「いいですかフィーナさん。貴方が諦められないというならそれでもいいわ。けれど、他の娘たちに、辛い過去を思い出させるようなことを言うのはやめてください。それは――残酷過ぎるわ」
「あの人たちは、ずっと解放されないんですか? ずっとこのままここに――」
「飽きられるまではこのままでしょうね。そして飽きられたら終わりよ。だってそうでしょう? その為に連れてこられたんだもの。旦那様の欲求も満たせない、足手まといでしかない女なんて、無理して養う理由もない」
それが真実よ、と。
フィーナの問いに応えながらも、メイド長は去ってゆく。
一人残されたフィーナは目を見開きながら、風の吹く庭園で「そんなのおかしいわ」と、呟くことしかできなかった。
「やあフィーナ。昼間はメイド達を手伝って水やりをやっていたとか。君はそんなことをしなくてもいいのだと、前にも言ったのだがねえ」
夕食の場では、フィーナは綺麗に着飾り、ドレスなどを着せられる。
故郷の村にいた時には見たこともないようなきらきらとしたそれは、しかしフィーナの美しさを引き立てる小道具でしかなかった。
そんな美しい、赤い宝石のような娘を前に、対面に座る領主ウォルナッツ卿は、表向きは紳士を装った口調で話しかける。
昼間の事もあり、何かと思う事も多かったフィーナだが、今は余計なことを考えている暇もなく、ただへら、と笑いながら「いえいえ」と、気さくに返した。
「お世話になっている身ですので、ノークが迎えに来てくれるまでの間は役に立ちたいのです」
「それなら、今夜あたりにでも私の部屋で酒でも――」
「それはちょっと……私も、結婚を控える身ですから、ご遠慮させていただきたいです」
「そうか。まあ、恋人がいるならそうだろうねえ」
フィーナから見たウォルナッツ卿という人は、見た目ばかりは清潔感のある、優しそうなおじさん、といった感じだった。
初対面からしてそんな感じだったので、多少警戒はしても救い神のように思えたのだ。
だが、この館に来て日をまたぐごとにその認識は悪いほうへと変わっていた。
今ではもう、信用にならない人でしかない。
表向きにこやかに、あやのないようにかわしてみせたフィーナだったが、ウォルナッツ卿は目を細め「ところで」と、別の話を切り出す。
あくまで前置きなのだ。本題はここからと見えて、フィーナも頬を引き締めた。
「実は最近、よくない話を聞いてね」
「よくない話、ですか?」
「前にも話したが、彼には炭鉱で働いてもらっていたのだが……ある日突然、鉱山で働く奴隷らを焚きつけて、脱走を企んだようなのだよ」
「脱走!? ノークが、ですか?」
「ああ、そうなんだ。困ったことをしてくれたものだよ」
本当にその通りなら、確かにとんでもないことだった。
ウォルナッツ卿にとってではなく、フィーナにとってよくない話。
迎えに来てくれるはずの彼が、そして一緒に逃げようと思っていた彼が、追われる身になってしまったのだから。
「その……ノークは、今は?」
「さあ……もしかしたらここに来るかもしれないし、あるいは君を置いてどこから逃げてしまうかもしれない――ああ、賊や魔物に襲われ、息絶えることもあるかもしれんなあ」
「そんな……」
「だが、奴隷らも幾人か逃げ出し、鉱山の効率がますます落ちてしまう。君、これは相当な痛手だよ? 鉱山の利益が減れば、領民への増税を行わなければならなくなるのだから」
本当に困ってしまうよ、と、にやつきそうになる顔を無理やり抑え、被害者ぶる。
本当は困ってなどいないのだ。そんな程度どうにでもなるくらいには、この領主は普段から税を多めにとっているのだから。
これはそう、「良くないことをした鉱山労働者への罰」と「その恋人への責任追及」と、「それを言い訳にしたさらなる増税」を同時にできてしまう、領主にとってこの上なく都合のいい方便だったのだ。
(この人……本当に、最低ね)
自分が靡かないからと、強引にでもモノにしようとするならまだしも。
このような手で自分と恋人を罠にはめ、あまつさえ領民まで巻き添えにするなど、許せたものではなかった。
人道に反することを平然とする悪徳領主。
善良な村長だった父を持つフィーナにとって、こんな人間、存在そのものが想定外だったと言える。
「――これ以上は言わなくてもわかるだろう? 君の恋人は、我が領に対してとてつもない被害を与えてしまった。これは場合によっては、国からの詰問を受けかねない事態なのだよ。当然、彼自身は捕らえられ次第処罰されるだろうが――こうなるともう、婚約者である君も、責任から逃れることはできん」
「ノークがそんなことをするとは思えません」
「だが、衛兵の報告ではそうだという話だ」
「では、ノークと話させてください」
「それはできんよ。手を取り合い逃げてしまうかもしれんではないか」
「何も疑う余地もなければ、私も一緒に罰を受けますから」
「信じられんね」
取り付く島などどこにもない。
当たり前と言えば当たり前であった。
領主殿は、フィーナの弱点をはっきりと看破している。
ノークという婚約者一人、彼を抑えた時点で領主の勝ちは確定していた。
そのまま素直に鉱山にいてもよし、逃げ出したなら尚の事都合よく事は進む。
今まで領主がフィーナに手を出さなかったのも、「折角の美しい娘をすぐに犯すのはもったいない」くらいの遊び心でしかなかったのだ。
歯をぎり、噛みながら、尚もじ、と自分を見つめるフィーナに「本当に美しいなこの娘は」と、領主は思わずため息する。
「今のままでは彼は、見つけられ次第捕縛され、そのまま処刑される。奴隷扇動と脱走、これだけの罪を犯せば絞首か張り付けがこの国の法だ。だが、私は領主だからな、多少の手心は加えられる」
「……手心、ですか」
「君が私のものになるというなら、彼の命だけは助けてやろう。そうだな、百叩き程度で済ませて、国境の外に追放してやるだけで済ませようじゃないか。元々不法入国した者がもとに国に帰るだけだ。何の問題もないだろう?」
もとはと言えば、フィーナ達が無理に国境を越えたが故に起きた事態だった。
フェンについたときに不審者扱いされて囲まれたのを、この領主がたまたま通りかかったからこそ、彼女たちは今でもこの国に居られる。
けれど、それがそもそもの間違いだったのだと、フィーナは認めざるを得なくなっていた。
(結局――私たちが間違ってたのかな。無理に北に向かわずに――ううん、逃げ出さずに、ノークと二人でお父さんを説得していたら――姉さんだって、味方でいてくれたんだから)
後悔は幾度もした。
けれど、それでも自分たちの愛があれば苦境は乗り越えられると信じていた。
それすらも現実が踏み荒らしていくとは、思いもしなかった。
全て世間知らずだった自分が悪いのだと、言い聞かせるしかなかった。
確かに、昼にメイド達に言われたように、逃げていればよかったのかもしれなかった。
そうすれば、もしかしたら偶然でもノークと再会できて――そんな夢みたいな希望を抱きそうになり、頭を振り乱して否定する。
「できません」
「……なに?」
「私はノークの妻となる女です。領主様が何と言おうと、ノーク以外の男性に抱かれるつもりはありません」
キッ、と領主を睨むように見つめ。
席を立ってはっきりと告げる。
どんな後悔も意味はない。夢みたいな希望を抱いても仕方がない。
今は、今を乗り越える事こそが重要なのだから。
「やれやれ――不法入国の末に捕まりそうになったのを助けてやった恩も忘れて――」
「それは、別の事でお返しします」
「女一人にこんなに舐めた口を利かれるのも、そろそろ許せなくなってきたなあ」
深いため息とともに、それまでの優しさを思わせる様な雰囲気を打ち消し、代わりに不穏な空気を纏い。
ぱちり、指を鳴らす。
すると外に控えていたのか、ぞろぞろと衛兵らが集まり――フィーナを取り囲んだ。
「構わん、もう我慢するのも面倒くさい。よその国の娘らしいし、少しは丁重に扱ってやったが……結局、女は女だ」
「はっ」
「ほらっ、こっちにこい! ふさわしい格好にしてやるよ!!」
「……」
そのまま腕をつかみ、肩を掴まれそうになり。
下卑た顔の男たちを見て、フィーナは……メイド達のたどった道を、しっかりと眼に焼き付け。
そして、くわ、と、目を見開いた。
「――離して!!」
「ぬぉっ」
「あぁっ!?」
「やぁっ!!」
押さえつけられていた両腕を一気に振り回し、そのまま踵でぐるりと回る。
掴んでいた衛兵がバランスを崩し、倒れると、そのまま周りを囲もうとしていた一人へと体当たりしていく。
「うぉっ!? なっ――」
「こっ、こらっ、何をしておる! こんな娘一人にっ」
「追えっ、追いかけろぉっ!!」
衛兵がバランスを崩したすきにその脇をすり抜け、血色ばむ男たちの声を背に、一気に走り出した。
「どこだっ、どこに行った!?」
「あの娘はどこだっ! 見つけ次第領主様の元へ連行しろ!!」
「多少手荒な真似をしてもいいという話だ、痕が残らない程度に腹を殴って気絶させろ!!」
どたばたと走り回る衛兵らの声を聞きながら、なんとか隠れた倉庫の陰で息を整え。
フィーナは、暗くなった空を見上げて胸に手を深い息をつく。
(なんとか、撒いたかしら……でも、逃げるのは難しそう)
館を囲んでいる塀はとても高く、登って乗り越えることはできない。
入り口となるのは前門と後門のみで、どちらも衛兵が常に構えていて、厳重。
さっき暴れた時の感触から見て、衛兵一人二人くらいなら自分一人でもなんとかなる相手だと思えた。
けれど、それはあくまで無警戒だったから。警戒されて、その上で武器まで持ち出されれば素手の自分では流石に無理がある。
館から出るなら、衛兵を倒して門を開かなくてはいけない。
屋敷全体で警戒されている今、それをやるにもかなり短時間で済ませないといけない。
仮に屋敷の外に出られても、追跡されるのは必至だった。
その場を凌ぐために逃げたけれど、行き当たりばったりとしか言いようのない状況である。
(どうする? どこかで刃物でも手に入れれば、なんとか――うーん、でもなあ、魔物ならともかく、人間相手はちょっと……)
胸が痛む。
たとえ相手が悪い人だと解っていても、人間を傷つけるのはかなり抵抗があった。
故郷の村の近くではミノタウロスやらアークデーモンやらがうろついていたが、そんなものは子供のころからどうにでもできる相手。
何かしら武器になりうるものさえ手に入れれば、現状から逃げ出すことは決して不可能ではない。けれど。
(……どうしよう)
迷いが止まらない。
時間はない。今はまだ暗いから物陰に居れば見つかりにくいだろう。
けれど、朝になって日が出れば、隠れる場所などどんどん狭まってくる。
相手からすれば、明るくなるまで外に出さなければ勝ち確定の状況。
当然、門前には衛兵が多く配置されるはずだった。
今すぐ他者を殺める覚悟ができるなら、逃げられるかもしれないけれど。
フィーナには、それがどうしてもできない。
そうこうしているうちにこつ、こつ、と靴音が聞こえ、またびくり、身を縮こませる。
ばれないように、みつからないようにと口と胸に手を当て、わずかな音でも漏れぬように願うしかできない。
しかし、無情なことにその足音は倉庫の入り口前で止まり。
そうして、倉庫のドアが開かれる。
「……」
女性の小さなため息。
そうして、その足音の主は迷いなくフィーナの元へ向かい――
「こんなところに隠れたって無駄よ」
「――っ!」
その足音の主――メイド長は、感情を感じさせないような表情のまま、フィーナの顔を見た。