#20.ただ父を想い心を折る
「……ラッセル。ラッセルは、居らぬか」
そこは、王の寝室。
元々居城としていたノスの城からカレンディアへと移動した後、バークレー王ガルガンティエは床に臥せった。
父によりかつて世界を脅かしたと言われる古代竜の名を取ってつけられた期待に添うように、一時は周辺国を併合し、国を栄えさせた武王だった。
しかし、遅くに作った王子二人が年頃になった頃には老いが先走り、次第に身体が病に蝕まれていった。
強欲に、欲望のままに生きた王はしかし、自らの晩年を感じ、二人の王子に己が最後の願いを聞かせた。
「ここにいますよ。父上」
――我が一族の宿願、なんとしても果たしたい。
何代も前の先祖が惹かれた猫獣人の貴人に、彼もまた惹かれていた。
彼の青春、彼の今までのすべては、城の大広間に飾られた、一枚の絵画の女性に費やされた。
それでもなお手に入らなかったそれを、息子に託した。
今彼の前にいる第二王子ラッセルは、その願いを、叶えてくれようとしていた。
「早く……早く、我が前に猫獣人の姫を……」
「フニエルは女王ですよ?」
「……どちらでも、よい。お前が婚約したという、その娘を……その顔を、見せてくれ」
「……」
ベッドの中から、希うように震える手を我が子へと向ける王の姿は、傍に控える側近らにとっては涙なくして見られぬものだった。
ラッセルのお目付けとして随伴していたブロッケンもまた、親子の会話に水を差さぬようにはしていたが、やはり他の側近ら同様、目元を濡らしながらそれを見やる。
「父上」
だが、ラッセルは冷めた視線で老いた父を見ていた。
「僕は、一族の奴隷にするために、あの娘と婚約したんじゃありませんよ」
「王子っ」
「なんという事を」
それまで黙っていた側近らが、しかしラッセルのその一言ばかりは看過できぬとばかりに追及の声を上げる。
しかし、ラッセルは意思のこもった瞳で王を見やり……ゆっくりと、染みいるように気持ちを伝える。
「僕は、あの絵画の女性に惚れたわけではありません。僕にとっての理想は別にいて……そしてフニエルはいずれ、その理想に届くことでしょう。ですがそれは、父上達の願う『自分たちにとって都合のいい女性』とは違うのです」
「……我が一族の宿願。果たす気は、ない、と?」
「父上。女性を屈服させるなど、まともな男のすることではありませんよ。一人前の男なら、女性に自分を好きになってもらう事のほうが大切なはずです」
「心など、身体についてくるものぞ?」
息子の言葉に、しかし父王はくたびれたようなため息をつきながら、視線を逸らす。
中空を見つめながら手を伸ばし、そして……またラッセルを見つめる。
「うわべばかりで愛など語っても、身体がついてこなければ他者に寝取られ奪われる。屈服させればそうならぬものを、優しさだの愛着だので甘やかすから、女は自分が自由だと思い込み、他の男に懸想する」
「フニエルはそんな娘じゃありませんよ」
「そうかもしれんな? だが、そうならぬ保証はない。民草の女ならそれでもよいのだ。だが、我が倅の妻となる女がそれでは困るのだ」
わかって欲しいものだ、と、王は疲れ果てた目で我が子を見やり。
そして、壁際に立っていた側近らに視線を向ける。
それ以上は話す気などなかった。この問答は別に、今に始まったものではないのだから。
「殿下。いい加減腹をお決めください」
「王も、何も暴力で言う事を聞かせろなどとは言っておらぬのです。一時だけ、妻となる女性に言うことを聞かせればそれでよいのですから」
「殿下はナイーブ過ぎるのです。そんなことですと、結婚後も相手に主導権を握られ、なすがままですぞ?」
ブロッケン一人相手でも言い負かせないのに、それが四倍にもなって飛んでくるのだ。
劣勢を感じずにはいられなかったが、それでもラッセルはその物言いを許せなかった。
「君たちは黙っていてくれ! 僕は、妻となる女性にそんな酷いことはさせられない! 親孝行というなら、彼女の顔を見ればそれで十分だろう!? 僕は、それ以上はさせないからな!!」
「ですが殿下。これ以上の引き延ばしはもうできませんぞ?」
「陛下のお身体の調子を見れば、待ち続けるというのはあまりにもむごいものです」
「我が親を想うならば、ここは我慢なさいませ! 別にご成婚後に干渉するとは言っていないのですから!」
歯を剥いて食って掛かるも、側近らは我儘息子を言いくるめるかのように言葉を被せてゆく。
いつもの流れだった。
このまま数の差で押され、彼はいつも沈黙するしかなくなる。
(くそ……こんな、こんなこと……許されないのに)
口惜しさに歯を強く噛む。
拳を握り締めるが、それ以上の言葉がどうしても出てこない。
これを変えたいのに。変わりたいのに。
王の側近たちの好き勝手な物言い。これは本来、自分で正論で以って黙らせなければならないはずなのだ。
だが、若い彼にはまだ、それができなかった。
「――失礼。ラッセルが帰ってきていると聞いたのですが」
不意に寝室のドアが開かれ、全員の視線がそちらに移る。
そこに立っていたのは、眼鏡をかけた金髪の青年。
突然の来訪に「おお」と、側近らも思わず声を上げてしまった。
「……兄上」
「久しいなラッセル。元気にしていたか?」
第一王子レオンだった。
緊張感は知るこの場において尚、全く影響されずに無表情な、冷めた視線の兄に、ラッセルは驚かされる。
兄が彼のことを気遣ったことなど、今まで数えるほどしかなかったのだ。
だから、何かあるのかもしれないと、息をのんでその顔を見つめた。
「ええ、僕は元気にしていましたよ」
「それは何よりだ。久しぶりに共に食事でも、と思ってな。父上、よろしいでしょうか?」
「……レオン。ラッセルに我らが宿願、きちんと言い聞かせるのだ」
「ええ、解っていますよ。ほらラッセル、行くぞ」
「兄上……しかし僕は」
――この人まで父上の味方なのか。
絶望感が倍増しになったような気持ちになり、信じられぬような目で兄を見るが。
しかしその兄は、弟の言葉など意に介さずそのまま引っ張ってゆく。
かつて自分と同じように、この国を変えようとしていたはずの兄が、である。
(……そうか。僕は、無力なのか)
この場に味方などいない。
自分一人、抗っても結局は流されるだけ。
それならば――そう思い、引っ張られるに任せる。
「――このあたりでいいか」
「……?」
第一王子の引く足が止まったのは、王の寝室から大分離れた廊下の突き当り。
城内でもあまり人の来ない、静かな場所だった。
「相変わらずお前は直情的というか……はっきりと正面から言い過ぎだ」
引っ張っていた手を放すや、今度は額に手を当て深いため息。
無気力になりかけていたラッセルは、その言葉が自分に向けられたものなのだと気づくや「え?」と、間の抜けた声をあげてしまう。
それがまた、レオンにはため息ものだった。
「父上も周りの側近らも、何代も前からの宿願が果たされようとしている今、それに強い執着を見せているだろう? あんな場で正面切って反発したところで、聞き入れられるわけがないだろうが」
それくらい分かれよ、と、壁に寄りかかりながら弟を見やる。
ラッセルもようやくここにきて兄の言わんとしていることを理解し、「しかし」と反論しようとする。
だが、それは兄が突き出した手で止まった。
「しかし、ではない。父上らのアレは最早治せるものではないのだ。我らバークレー王族が代々かかる……呪いか病気のようなものなのだからな」
「それは……でも、僕たちの代で変えなければ」
「わざわざ父上を絶望させてまで説き伏せるのか? お前は何の策もなしにあの女王を連れてきたのか? わざわざエスティアから」
兄の言う事はもっともで、ラッセル自身も解っていた事だった。
彼自身、どうにもできないと思っていたのだ。
できるだけ遅らせて、可能なら父が……自分の父親が死んでくれればと、本気でそう願ってしまっていたのだから。
親不孝なのは、間違いないのだ。
その自覚は彼にもあった。
「兄さんは、僕のすることを妨害するのかい?」
「妨害はしないさ。だが、お前があの幼い女王を連れて見せて、父上がどう反応するかな……」
「……どういうことだい?」
「父上は、いや、代々のバークレー王は、あの絵画の娘を至上の女性と心に刻み付けていた。宿願を果たすというなら、それこそその絵画の女性そのもののような……そんな女性でなくては、と思ったのだ」
「……絵画は、所詮絵画ですよ。僕の理想は、あそこにはない」
「ああ、私にとってもそうだ。だから私たちはこの国を変えられる。だが、お前は正直すぎる。正面から体当たりで挑みすぎる」
それではだめなのだ、と、眼鏡をかちゃりと鳴らしながらズレを直し、弟の肩に手をやった。
「なあラッセル? お前はこの国を変えたいんだろう? 私もそうだ。だが、国を変えるためにはやらなくてはならんことは沢山ある。フニエル女王と睦まじいらしいのはお前からの手紙を読めばわかっていたが、ただ睦まじいだけではならんのだ」
「……兄上も、僕にフニエルを屈服させろと?」
「そうではない。女王を利用しろ、と言っているのだ。屈服などさせる必要はない。だが、女王は我々を利用したではないか?」
「利用……? そんなことは、何も――」
あの幼い女王が、自分たちを利用したなどとは思えなかった。
むしろこちらのほうから言い寄ったのだから、利用しているのは自分たちのはずだった。
そう思っていたのに、兄は首を横に振る。
「違うだろう? エスティアを庇護下に置いたのはどこの国だ? 鉱山の採掘効率が上がったのは誰のおかげだ? 軍事協定を結び、賊から国を守ってやったのはどこの国の軍隊だ?」
「……」
「そう。その意思に関係なく、フニエル女王は既に我々を利用したのだ。ならば、今度は我々がその分の礼を受け取ればいいではないか。おそらく女王は嫌な顔一つせずお前の顔を立ててくれるぞ? 『夫を立てるのが妻の在り方だ』とでも教えれば、女王の心とて傷つくことなくお前を立ててくれるのではないか?」
「僕はそんなことであの娘を……あの純粋な子に、屈服なんてさせたくないんだよ」
「お前だけがそう言っているのだろう? とはいえ、私も父上らの要求には辟易としているからな。時代遅れな価値観など廃れさせたいが……都合よく、お前のほうが先に結婚する事になったからな」
「なっ……」
兄が何を言いたいのか、ラッセルはようやく理解した。
この兄は、自分に、父親を満足させるための囮になれと言っているのだ。
「お前は父上の、一族の宿願を果たした孝行息子となるだろうし、父上が亡くなった後にも父上の側近らはお前を支持するかもしれんぞ? そして私は……私の妻となる女性と、何ら障害なく結ばれる、というわけだ」
「兄上……前々から思っていたが、貴方は腹黒すぎる」
「なんとでも言え。私とて妻となる女性に、屈辱的な真似などさせたくないのだ」
ただそれだけのことだとばかりに吐き捨てる兄の、しかしその心境をラッセルは理解できなくはなかったが。
それでも、自分が捨て石にされているようなもので、納得はいかなかった。
「兄上。僕は諦めない。例え……例え大切な場をぶち壊しにしようと、僕は――」
「それが妻とする女にとって、望まぬ状況だと解ってか?」
「……っ」
「お前は、自分の手紙で書いていたではないか。『フニエルは僕のことを想ってくれているみたいだ』と。互い想いの関係なのに、お前は自分の都合、一時の感情だけで、女の側の『想い人と幸せになりたい』という気持ちを踏みにじるのか? 大した偽善者だな?」
「――兄上っ」
「だからお前は直情的過ぎると言っている。一時の感情に流されるな。結婚してしまえば、お前たちはもう好きに暮らせるのだからそれでいいだろう? 国のことも気にしなくていい。孝行息子として好きなだけエスティアで幸せに暮らせばいいではないか。これはそのための、避けられぬ試練だと思えばそれでいい」
それだけだろう? と、変わらぬ表情のまま、抑揚のない声のまま説き伏せてくる。
ラッセルは、この兄の感情を感じさせない口調が苦手だった。
幼少のころから賢く、いつも自分よりずっと先を見据えているような、そんな計り知れない深さを感じ、恐れていた。
そして今もこの兄は、自分を上から目線で見下し、反論一つまともにさせずに理屈で殴りつけてくる。
勝てなかった。彼は、この国においてはただ気のいい、ただの王子でしかなかったのだ。
「まあ、そう気負うな。今まで通り、国のことは私に任せればいい。外交など、今の世ならばお前でなくとも務まる……王族同士の外交など、もう時代ではないのだからな」
「兄上は……」
「うん?」
「兄上は、この国を変えたいと思っているのでしょう? それは、偽りではないんだよね?」
「無論だ。それに関してはお前と同じ志だと私は思っている。だからこそ、今父上らを刺激せぬようにだな……」
「兄上の今しているそれは、父上らと何も変わらないじゃないか!? 自分たちの目先の利益のために、他者に忍従を強要して……僕は、そんなのが嫌だから変えたいと願ったんだ!! 僕と兄上は違う!! 何もかも!!」
「ラッセル!!」
ラッセルの思いのたけはしかし、レオンの怒声でかき消されて。
眼を見開いて自分を睨みつけてくる弟に、兄は静かに本音を解き放つ。
「……変えたいと願っていても、性急すぎてはならんこともある。お前もそう思っているだろうが、父上に、もうすぐ旅立つ親に、孝行したいという気持ちもあるのだ。だが私にはそれができなかった。お前はできる。だからこそ、お前に無理をさせたいと思っているのだ」
「解っていても、耐えられない事があるんだ……」
「そうだとしても、受け入れてもらわねばならん事があるんだ。恨んでくれてもいい。憎んでもいい。だが、私自身、父上には……安らかに旅立ってほしいと思っている。お前は違うのか?」
「孝行しろって、みんながそう言うけど、そんな綺麗な言葉でうわべだけ整えても、やってることは女性の隷属。狂った価値観の焼き直しじゃないか……そんなの、間違ってるよ。間違ってる!!」
「解っている。だから、私達の代で終わらせるんだ。最後にするんだ」
「兄上は……兄上は、卑怯だ! いつもいつもそうだ! 僕に反論できないように言って、追い詰めて、無理やりいうことを聞かせて!!」
だが、兄の言葉には抗えなかった。
ラッセルにとって、兄とは恐れも抱く、けれど自分よりずっとずっと賢い、尊敬できる兄だった。
自分と同じ、国を変えたいと願い、実際に国を変えていく兄の姿に、ラッセルは心から憧れた。
そう、変わりたかったから変わったのだ。
そんな兄が言う言葉があんまりにもあんまりすぎて。
けれど、心の内ではそれが正しいものの在り方なのだと解ってしまっていて、ラッセルは、悔しかったのだ。
膝から泣き崩れ、嗚咽を漏らしながら床に拳を叩き付ける。
王子にあるまじき所作ながら、レオンは、弟のその姿を見て小さく息をつき……そうしてまた、ぽん、と肩に手を置く。
「すまんなラッセル。すまない」
ただそれだけ。
泣こうが喚こうが何も変わらないのだ。変えてはならないのだ。
それが解り……ラッセルは、小さく頷くことしかできなかった。