#16.婚約どうする?
大陸を横断していった古代竜は、遥か東の聖地、リーヒ・プルテンでも目撃されていた。
「さっきのは大きなドラゴンだったわねえ。あれがこの間教わった古代竜っていうのかしら?」
リーヒ・プルテン到着後、封印の聖女として歓待を受け、聖女としての振る舞いや力の扱い方、対魔人・魔王戦闘における蓄積された知識などを学んでいたアイネは、あてがわれた私室の窓辺で、今しがた東へ飛び去って行った巨大な古代竜の姿に感嘆の声を上げていた。
「まさか、この地に古代竜が……アイネ様、場合によっては、魔王復活は近いのかもしれません」
傍に控える犬獣人の神官が、不安げに耳を伏せ、目をうろうろとさせる。
神官、などといっても年齢的にはまだまだ少女のようで、その存在もいささか儚げであったが。
アイネはそんな雰囲気にのまれることもなく「そぉ?」とだけ返し、爛々とした瞳で古代竜の飛び去って行った東を見やった。
「じゃあ、あの飛び去った先が魔王のいる極東なの? すごいわねえ。ここってもしかして結構近いの?」
「近くは……ありませんが。伝承によれば、ここから半年ほど船で向かった先に、魔族らの住む極東地域が広がるのだとか」
「船? わざわざ船を使わないといけないって事?」
それにしても半年は長いわね、と、窓辺から振り返り、神官の前へ。
神官もまた神妙な面持ちで「ええ」と、壁にかかる地図へと視線を向ける。
「このリーヒ・プルテンの地は、大陸でもかなり東寄りにあります。ですが極東地域はここより更に東――険しい山岳地帯に囲まれた『デッドゾーン』と呼ばれる地域を抜けた先にあるのです。ですので古来、この地へと船を使わなければたどり着けませんでした」
「じゃあ、魔王は毎回、ここから出る船で討伐隊が向かってるのね」
「そうなりますね」
地図で見た限りでは、確かに直近の港と言えるのはこのリーヒ・プルテンの地にしかない。
アイネのよく知るエルセリアは元より、ラナニアでも港の位置関係上、極東まで届くには時間がかかるようだった。
「その上で周囲の海域は危険な魔物が生息していたり、気候も荒れやすいようですから……海の王の加護と、我ら犬獣人による奇跡が合わさってようやくたどり着けるほどの危険度なのだとか」
「それはまた……魔王討伐って大変なのねえ」
このような状況下でもまるで他人事のように平然としているアイネの肝の据わりようには神官も「本当にこの人は」と驚くばかりであったが、当のアイネも内心では「じゃあ命がけになっちゃうんだなあ」と、ある程度の覚悟は決めなくてはならないと感じ始めていたのだ。
決して楽観しているわけではなく、場合によっては死ぬこともあり得ると解っていた。
それはカルナスの聖女様からも聞いた話で、その時点でもう、やると決めたことなのだから、ブレる気はないというだけ。
「ねえマイ。貴方は私付きの神官だーって、偉い人から聞いたけれど。貴方自身は、魔王討伐で死んじゃうかもしれないって、怖くないの?」
「わ、私は……私は、生まれた時から神官として、女神アロエに全てを捧げる事こそが正しい人生だと思っていますから!」
「死んじゃうかもしれないのに?」
「こ、怖くなんてありません! 女神が為死ねるなら、むしろ本望です!!」
――でも耳は震えてる。
小柄なこの少女神官は、口では勇ましく信仰心に満ちたセリフを言ってくれてはいたが、実際には恐怖に怯えを見せていた。
気丈に振舞っていても、まだ死ぬ覚悟などできていないのだ。
アイネは、自分で聞いておいて「余計な事聞いちゃったかしら」と、申し訳ない気持ちになっていた。
今のは、聞かなくてもいいこと。覚悟ができているかどうかなんて、分かり切っているのだから。
「貴方は、ちゃんと覚悟してるのね。偉いわ。ご両親は?」
「両親も……喜んでくれています。封印の聖女様の護衛を務められるなんて、滅多にない栄誉ですから」
「そう。でもご両親は、多分貴方が死ぬことは期待してないはずだから。必ず生きて帰るようにしなきゃね?」
私もきっと悲しむわ、と、笑顔を見せながら。
その頭をいい子いい子、と撫でてあげる。
「……あの」
「なあに?」
「アイネ様、私、これでも今年で18、なのですが……」
「まあ、そうなの? 私も18になったばかりなの! 同い年ね!」
「で、ですから、同い年なので、そのように……子供扱いされては……!」
年齢を聞いても尚撫でまわすのはやめない。
くしゃくしゃになった銀髪が額のサークレットに絡まりそうになるが、そこはアイネである、髪にダメージにならぬようふわっと避けていく。
「だってふわふわで触り心地いいんだもの。こんなに触り心地がいい髪質の子、サララちゃん以来だわ~」
「サララちゃん、というのは……ご友人ですか?」
「ええ、そうよ。お友達。猫獣人の子なんだけど~」
「ね、猫獣人!? 猫獣人というのは、あの怠惰で我儘で自己中心的な!?」
「うーん、あってる様なあってない様な……ああそっか、猫獣人と犬獣人って仲悪いんだっけ」
突然大きな声を上げ始めたマイに、アイネは「失敗したわ」と、余計なことを口走ったことを後悔した。
今日は後悔しっぱなしである。
「仲悪いなんてものではありません! 古来、我ら犬獣人は猫獣人の奔放さ、マイペースさに迷惑をかけられっぱなしなのです!」
「そうなの? なんで?」
少なくともサララを見る限り、そこまで悪辣な存在には思えないアイネだったが。
それでも一応、マイの主張がどんなものか気になってもいた。
「猫獣人は本来、我ら犬獣人同様、女神アロエによって生み出され、女神に仕える事こそが至上の使命だったはずなのです。我らは魔王や魔人と戦うために、そして彼らが古代竜と戦うために、それぞれが特別な力を持って生まれ、一族全てが勇者や神々を支え、後の世のために血をつないでいたはずなのに――」
「あーごめん、その説明って結構長い?」
「――大事なお話です。種族のアイデンティティに関わる問題です」
「そ、そう」
思いのほか壮大なお話になってきて、アイネはこめかみが痛くなるのを感じ始めていたが。
当の本人が大事だという以上止めるわけにもいかず、アイネは素直に聞きに徹することにした。
「ある時、女神アロエが仰いました。『貴方達はこの世界に十分に貢献してくれた。もう自由に暮らしてもいい』と。ですが我々の先祖は、『それならば貴方のお傍にずっと仕えさせてほしい』と願い出ました。女神はいたく感激し、我々に決して滅びることのない都市を授けてくださいました」
「それがこのリーヒ・プルテン?」
「そうです。この聖地は、女神より賜った永劫都市。女神の慈愛が常に降り注ぎ続け、女神と最も深くつながっているのがこの地なのです。故に魔王復活の影響も受けず、安全を維持できていたのです」
この荒れ果てた地域にて唯一無事な聖域。
聖地と呼ばれるだけあって、このリーヒ・プルテンの結界の内部は魔物一匹入り込むこともできず、清涼な空気で満ちていた。
話を聞いて、アイネも「流石は聖地だわ」と感心していたが。
マイはというと、どんよりとした表情で話を続ける。
「ですが猫獣人たちは『我々は自由に生きたい。誰にも邪魔されることのない場所でのんびりと暮らしたい』と願ったのです。女神は……これも了承し、大陸北西部にもう一つの聖地『セントエレネス』を授けました」
「エスティアの王都だっけ?」
「そうです! あのグータラ猫達は! こともあろうに仕えるべき女神に『ダラけさせて』と申し出たのです! 神話の時代でこれです! もう許せません!! 猫獣人だけは赦してはなりません!!」
こぶしを強く握りしめながら、マイはがーっと、犬歯をむき出しにして「これだから猫獣人は」と叫び散らす。
アイネは「どうどう」と手を前に落ち着かせるようにしながら、「やっぱりこの話題は失敗だったかー」と、自分の選択を呪った。
内容的にはためになる歴史の話ではあるが、同時に犬獣人と猫獣人の不和の理由もよくわかる案件である。
「それにですねっ、猫獣人は私たちを『よく虫歯になるからきっと歯を磨いてない、不潔』とか、『お散歩好きすぎて一日の半分はお散歩してる』とか、そんなあることないこと言って回ってるんですよ! 失礼すぎますよ!」
「それは私も聞いたことあるけど、実際問題風評被害なの?」
「風評被害ですよ! 確かに虫歯にはなりますけど……なりますけど、ちゃんと歯は毎日磨いてますし! むしろ磨きすぎで歯が悪くなる人がいるくらいで……お散歩だって、一日三時間しかしてません!!」
「そうなんだ……」
大仰ではあったが概ねあっている部分もあって、アイネ的には「どうしたらいいんだろうこれ」と途方に暮れてしまう。
よくよく考えれば話が大きく逸れ過ぎているのもあるし、収拾がつかない方向に転がっているのではないか。
普段のとりとめのない会話ならそれでもいいのだが、真面目な話から始まった話題でこれというのはアイネ的にはいささか困ってしまう。
なので、軌道修正することにした。
「まあ、貴方達と猫獣人との間の確執はわかったけど……それでも、そのサララちゃんは私のお友達だから、ね?」
「……はい。何者であろうと、アイネ様がお友達と仰るならば……どうせ、会うこともないでしょうし」
「そうだよ。魔王討伐なんて危ないこと、あの娘には関係ないんだから。それよりもマイ? もう怖くなくなった?」
「ふぇっ? あ……いやっ、違いますっ、最初から別に怖くなんて――っ」
とりあえず、マイの震えはなくなったようだった。
当の本人も一瞬ぽかん、としてしまっていたが、アイネからの指摘に、顔を真っ赤にして「違いますからね!?」と否定するばかり。
だが、その様はとても可愛らしく……アイネは「こういう笑顔なら歓迎なんだけどね」と、またマイの頭を撫でまわすのだった。
その日の夜。
食後のわずかな謁見時間も過ぎ、その日の日課を全て終わらせようとしていたフニエルに、ラッセルが「ちょっといいかな」と、声をかけた。
これからは乙女の美容の時間だったが、愛する人からの申し出を断るはずもなく、傍にいたアリエッタやサララをそのままに「もちろんです」と二つ返事で了承し、そのまま謁見の間で話が始まった。
「今回の古代竜騒動……国家間の動きとかがかなりかき乱されているのは、朝の会議でも分かったと思うんだけど」
「そのお話でしたか。確かに、色々なところで混乱が起きているとか」
「そうなんだよ。本国でも古代竜を見たっていう人が話を広めちゃってさ、おかげでいたるところで『もうおしまいだ』『逃げないと』って、民衆がパニックに陥っているらしい。そして、集めた情報によると、他の国でも少なからず、そんな話が起きているようでね」
困ったものさ、と、後ろ髪を掻きながら話すラッセルに、フニエルも「大変なようですね」と、いまいち要領をつかめていない様子で困惑顔になる。
今ラッセルが話したようなことは、本来コールに聞かせるようなことで、わざわざ自分にそれを聞かせても何かが解決するようなものではない。
実際、エスティア国内では特に混乱などは起きていないという話で、他国への対竜人材の派遣も滞りなく住んでいることから、その混乱もほどなく収まるもの、と、つい先ほどコールから聞かされていたのだ。
「あの、私の国から救援の人員を派遣していますから、その辺りの混乱も時間を待てば解決されると思うんですが……」
「うん、そうなんだけど……そうなんだけど、さ」
いまいちはっきりしない。
いつものラッセルなら明るく優しく要領よく説明してくれるのに、どうにも噛み合わないような気がして、フニエルは心配になる。
「ラッセル様は、何か気になることがおありなのでは?」
「ちょっ、サラ……っ」
傍で見ていて進展しない様子に焦れたサララが、しれっと一言、フニエルに助言する。
アリエッタは止めようとしていたが、言葉は止められない。
フニエルが「そうなのですか?」とラッセルを見つめると、ラッセルは驚いたような目でサララを見つめ……そして、フニエルを見て「そうなんだ」と、小さく頷く。
「そのパニックに乗じて、我が国内で反国王派……みたいな勢力が暴れ始めてね。今までは目立たなかったんだけど、『国王に徳がないから古代竜が攻めてきたんだ』とか、そんなこと言って民衆を煽ってるらしい」
「まあ、そんなことが……」
「話してて恥ずかしいんだけど、父上もまあ、結構色々やってた人だからね。方々で恨まれていて、このような時にそれが暴発したりもする。だから――」
「それでは、いざとなったら我がほうから、バークレーに軍の派遣をしないといけないんですねっ、分かりましたっ!」
「えっ、いや、そうじゃなくてっ」
フニエルの理解はラッセルの想像を超え、「ラッセル様の国が大変ならば」と軍の派遣すら考えてしまっていたが。
ラッセルは、そんなことのために今回の話を切り出したのではないのだ。
「実は、この間話した婚約の……結婚前に、父上と会ってもらうって話があっただろう? あれを、延期できないかと思って、さ」
バツが悪そうな顔でうつむきながら。
そうしてなんとか絞り出すように伝えた言葉は、フニエルにズキン、と胸の痛みを覚えさせた。
「え……あ、あの、それって……」
「いや! 別に君が悪いとかじゃなく、国内事情が落ち着かないからさ! だから、せめて今だけは……今だけは、危ないから国に君を連れて行きたくないというか……危ない目に、遭わせたくないんだ。君を」
「ラッセル様……」
それがどこまで本当のことか、それはラッセルにしかわからない。
けれど、傍にいたサララは、「連れて行きたくないのは本当なんだろうなあ」と理解していた。
理由はどうあれ、彼は自分の父親とフニエルを対面させたくないのだ。
そして今回の一件は、事実がどこまでなのか分からないまでも、彼にとってその口実となったのだろう、と。
「いずれ必ず父上には会ってもらうけど……でも、今危険を冒してまで君を国外に連れ出す訳にはいかないと、そう思うんだ……もちろん、僕の勝手な申し出さ。君にも迷惑をかけるし、本国にもまだ話してないことだけど……でも、何よりまず君には、理解してほしくて」
彼が大事に思っているのは、国よりも誰よりも、このフニエルなのだ。
そんな彼女が危険な目に遭うのは、何よりも避けたい。
そんな気持ちがサララにはよくわかっていた。
だから、彼のそんな言葉に感激して涙を流す妹を見ても驚かなかった。
(いいカップルなんですね……邪魔しようなんて思えないくらいに)
できれば幸せになって欲しい二人だった。
だからこそ、彼の申し出は……今は受けるべきなのだと思い、フニエルに耳打ちしようとして――
「――なりませんっ、なりませんぞ王子ぃぃぃぃぃっ!!!」
――突然現れたブロッケンの登場に、その場にいた全員が驚きの顔になった。