#1.夏の到来
村の中心、広場にほど近い区域にて。
強い陽射し、緩やかで温かな風、大きく育った雲たち。
村の主要農作物である夏麦も豊かに実り、カオルはこの日、村を歩きながらに「こんな光景向こうでも見たなあ」と、ちょっとだけなつかしさに浸っていた。
麦畑は珍しくとも、金色が風に揺れるさまは、どこか故郷で見た水田の稲穂の波に似通っていて。
だからか、ついつい口元が緩んでしまう。
「おーいカオル、暇ならウチに寄っていかんか」
散歩がてら、「もうそろそろ収穫の季節か」と、来たるべき初めての麦刈りの為の体力づくりを考えていたカオルであったが、ふと、通りがかりの家から声を掛けられる。
見ると、紺色の屋根の家の前。
小さな長椅子に老人が一人腰掛け、カオルに向け「こっちゃこい」と手招きしていた。
「レスタス爺ちゃん。どうしたの?」
「どうもせんわ。暇だから、話に付き合え」
時折、カオルがお喋りに付き合っている老爺であった。
白髪頭にちょび髭の、ほっそりとしたしわくちゃな爺さんだが、話しているとよく孫娘がお茶を持ってきて、気が付くと三人で長話になったりするもので。
特にすることもなかったカオルは「ああ、いいぜ」と、老爺の隣に腰かける。
ぎぃ、と、年季の入った長椅子は木造ながらの音を鳴らした。
「――麦運びはのう、無理に腰をまげて力を入れるのではなく、背筋は伸ばしたまま膝を曲げて、こう、『ぐいっ』と、立ち上がる要領じゃな。こうやると、腰に負担が掛からんのだ」
「へぇ、膝から折ると良いのか」
「うむ……お前くらいの歳ならなんてことないかもしれんが、後々腰を痛めたりする原因になるからのう。絶対に、腰から持とうとしてはいかんぞ?」
「よく解ったぜ」
今日は、麦刈りについて、そして、刈った後の麦の運び方についての話であった。
あらかじめ作っておいた荒縄で刈った麦をまとめるのだが、これが存外力の要る作業らしく、年々腰を痛める者が後を絶たないのだとか。
特に、婿などで新しく村に入ったりで麦刈りに不慣れな者が陥りやすい罠だというので、カオルも心して聞いていた。
「収穫の時に落ちた麦穂は、残しておくと鳥なんかがつつきに来る。夜のうちに余った縄とカゴで罠をかけておくとな……朝に、ウバスズメやセキチョウなんかの鳥が引っかかるんじゃ。これを捕まえてのう」
「捕まえて、どうするんだ?」
「焼いて食っちまうのが一番いいが……飼って卵を産ませてもいいかもなあ。増やせば金になる。ウバスズメなんかはここらならどこにでもいるが、街中に行くとまず見られないっていうんで、貴族様がペットに飼ったりするらしい」
「へえ……」
あんなのがなあ、と、ウバスズメの姿を思い出しながらに、老爺の言葉を噛みしめるように小さく頷く。
ウバスズメとは、カオルの知る『普通のスズメ』とよく似た、カラスくらいのサイズの鳥である。
鳴き声も同じ「ちゅんちゅん」だが、好奇心旺盛でよく色んな建物の屋根の上で日向ぼっこしていたりしている。
普通のスズメもいるのだが、こちらと並ぶとまるで乳母と子供のように見えた為、そのように名付けられたのだとか。
特別害がある存在でもなく、村で暮らすカオルにとっては向こうでの鳩と同じような、日常の象徴のような鳥であった。
「あれって、焼くと美味いの? 結構屋根の上とかにいるよね」
「そんなに美味くはねえなぁ。焼いて美味いっていうならニコニコ鶏が一番だろうが、飛んでる奴を食いたいならコナガシラが一番だろうなあ。骨は少なく肉は柔らかでジューシィ。しかも健康にもいいと来た!」
「何それ気になる」
「はっはっはっ、じゃあ、今度はコナガシラの話をしてやるとするか。まず、コナガシラはすばしっこいから、罠の作り方から工夫を凝らさんとだな――」
美味い肉、と聞いて俄然乗り気になるカオルと、そんな彼の様子に満足そうな老爺。
二人の話は尽きる事がないかのように思えた。
「――もう、お爺ちゃん。そろそろご飯の時間だから家の中に入って頂戴って、さっき言ったのに……」
そんな二人の前に、赤髪に白い花飾りを付けた女の子が現れる。
老爺の孫娘であるレイチェルという少女であった。
「おおレイチェル……そうか、もうそんな時間じゃったか」
「そうだよー。カオルさんも、こんな時間までお爺ちゃんに付き合ってくれてありがとうね。良かったら、晩御飯ご一緒する?」
どうかな、と、人当たりの良い笑顔で聞いてくるレイチェル。
カオルは「それもいいなあ」と、つい申し出を受けそうになってしまったが。
家でカオルの帰りを待っているであろうサララの事を思い出し「いいや」と、首を横に振った。
「折角だけど、サララがいるからさ。飯、作ってやんないと大変だから」
「そっか……カオルさんもすっかりデキる男になっちゃったなあ。前はちょっと頼りなかったのに」
「そ、そうかな? まだあんまり料理とか知らないから、良かったら今度教えてくれよ」
「うん、もちろん! それじゃお爺ちゃん、家に入って」
「解っておる解っておる……カオル、また来いよ。今度は食える山菜の話を聞かせてやるでの」
「ああ、楽しみにしてるぜ。また」
「またねカオルさん」
レイチェルに付き添われゆったりと立ち上がり、家へと戻ってゆく老爺。
カオルに愛想を振りまきながらも老爺の手を引くレイチェルを見て「できた娘さんだなあ」と、感心していた。
「カオルさま、おっそーい」
そうして、家に着いた矢先にこれである。
ちょっと不機嫌になった黒猫娘が一人。恨みがましそうにカオルをジト目で出迎えていた。
「悪い。ちょっとレスタス爺ちゃんのところで話し込んじゃってさ」
ぽりぽりと頬を掻きながら一応謝る。
実際、サララが待っているのに長話に夢中になってしまったのはカオルの方なので、ここは引くべきと思ったのだ。
「言い訳はいいです」
だが、サララは不機嫌なままであった。
謝罪など知った事ではないという気構えであった。
「そんな事より、ご飯が食べたいです」
そして、サララは不器用であった。
自分でご飯を作って用意する事すらできないダメ猫であった。
「……今日はパンだけでいいかなって」
「良い訳ないです! あんな堅いパン一個だけとか死んじゃいますよ! 歯が折れます!!」
怠けようとしたカオルに、サララは即反抗する。
「やっぱ、あのパン堅いよな」
「堅すぎです。この村の人たちはおかしいんですよ」
だが、カオルはここにきて、ようやく味方を見つけられた気がした。
やはり、あのパンは堅いのだ。堅すぎるのだ。
「初めて食べた時びっくりしましたもん。『これ嫌がらせで石を混ぜられたんじゃ』って思いましたし!」
すごく痛かった、と、口元を手で覆ってうんざりした顔になる。
村長の家で出された最初の食事、そこに並んでいたパンがまず、サララにとって最初の試練となったらしい。
豪華で温かな料理を前に最高に可愛らしい笑顔になっていたサララが、パンをかじった瞬間固まり、声にならぬ声と共にじんわりと涙目になっていったのは、カオルの記憶にも新しい。
「あれはなんかもう、パン(pan)とは別の物な気がします。『バン(ban)』とかそう呼ぶべきです!」
「バンかあ……うん、まあ、パンよりはそれっぽいかもなあ」
それもどうなんだと思うが、とりあえず話しているだけでは進まないので、と、適当に相槌を打ちながらもカオルは手を洗い、かまどの薪に火をつける。
火打石での着火も、もう慣れたものであった。
石と石を叩きつけ合えば火花が出るくらいはカオルも知ってはいたが、それを日常レベルで活用するとなるとそうもいかず、最初の数日は火をつけるだけで数時間かけたものであったが。
今となっては、数回叩くだけできちんとした火種を用意できるように上達していた。
「とりあえず、皿を並べといてくれ。スープ皿な」
「解りました! 皿並べなら任せてください! 私、プロですから」
自称皿並べのプロは、食器棚に置かれたスープ皿を鼻歌を歌いながら手に取り、布巾で適当に拭きながらテーブルに置いてゆく。
何もさせずに座っているよりは、こうして少しでも手伝わせた方が、待つ方も気分よくなるものであった。
少なくとも、カオルはサララについて「そうした方がいいな」と考えていた。
薪の火力では、作り置きの魚のスープを温め直すのにもいくらか時間がかかる。
そうしている間に、カオルは鍋の上に紙を置き、テーブルのパンをいくつか手に取り、置いてゆく。
「温めるんですか?」
「ああ、この方が柔らかくなるからな」
「なるほど。生活の知恵ですねぇ」
ふんふん、と、しきりに感心するサララ。
まさかこのくらいの知識もない程にこの世界はファンタジーなのか、と、カオルも驚きそうになったが。
なんとなく「サララだから」で納得する方向で収まった。
普通の人ならできる事でも、サララならできなくても不思議ではない。それと同じことなのだと。
「そういえばですねー、今日アイネさんとお花を摘みながらお喋りしてたんですけどー」
食事の時間。
サララがふと、思い出したようにスプーンを静かに置き、お喋りが始まる。
カオルもパンをスープに浸しながら、その話に耳を傾けた。
「やっぱり、アイネさんって兵隊さんの事大好きなんですねー。あ、好きな人の話について話してたんですよ。恋話って奴ですね」
「へ、へぇ。やっぱそうなのか」
そういう話は苦手なカオル、ちょっと困ったように相槌を打ちながら、視線をサララから逸らす。
手の内のパンは、もう大分びちょびちょになっていたが、忘れ去られていた。
「でも、アイネさんって結構あれですね、好きな人には強引に迫られたいみたいな願望があるんでしょうか? 『ヘータイさんのあの逞しい腕で組み伏せられたい!』とか目をキラキラさせて語りだして『うわ何この人昼間からそんな事口走ってるの』って思っちゃいました」
「ま、まあ……そりゃそうだよな。困惑するよな」
女同士だとそういったリミッターが緩むのか、村長の娘アイネは、大分サララにぶっちゃけていたらしかった。
折角の村一番の美人だというのに、もったいない。
「それで、二人してキャッキャウフフとお話してたんですがー」
「……サララはそういうの聞かれなかったのか?」
「私の……?」
なんとなく気になったのでカオルは聞いてしまったが、当のサララは話題を止められ「うん?」という顔で首を傾げていた。
その顔を見て、カオルは「しまった」と、深く後悔する。
何せ、不思議そうだったサララの顔が次第ににやけていったのを見たからだ。
「聞きたいんですかぁ? 私がアイネさんに語った『好きな人にされたい事』とか? 聞きたいんですかカオル様ぁ?」
やはりこうなったか、と、カオルは不味い表情でパンを口に放り込む。
びっちゃりとしていて味が良く染みていたが、それはもうパンではなかった。
出来の悪いグラタンの表面のような、そんな何かである。カオルの眼は曇っていた。
「別に……なんとなく気になっただけだし、答えなくてもいいよ」
居心地悪そうにくっちゃくっちゃとかつてパンだったモノを二度三度噛み、飲み下しながら。
カオルは、照れくささのままそっぽを向いてしまった。
「えへへ……いいんですよぉ別に。ま、そういう事は察する事が出来るようになってほしいですけどねぇ。カオル様、女からそういう事を直接言われるようになったら『この鈍感! 早く気づいてよ!!』って思われてると思っていいです」
「そ、そうなのか」
「ええ。サララはそう思います。もっとも、カオル様がいつまでも気づかないようなら襟首掴んで真っ正面から言って聞かせますけどー」
それだけ言うと、自信ありげに再びスプーンを手に取るサララ。
どうやら熱かったらしく、「ふー、ふーっ」と、スープに可愛らしく息を吹きかけてから口に含む。
そうして、そのままニコニコ顔になっていた。
「うん、美味しい」
(……猫舌を隠したくて話題振ったのかな?)
ちょっとだけ照れくさそうにしているのが、カオル視点でも大層愛らしかった。