#26.エスティアへ
森の入り口に引き返したカオル達は、その横に建てられた、フランの墓を見つけた。
墓と言っても、女達が急場しのぎで建てられる程度の小さな石で、膝程の高さのものでしかない。
だが……フランの石と並んで、少し大きめの石がその隣に並んでいた。
「全部終わったぜフラン……お兄さんと一緒、か」
ここに兄の墓があるというのは、カオルでもマダムから聞くまでは知らぬ事であった。
だが、わざわざフランが倒れているカオルを見付けられたのも、恐らくはこの、兄の墓があるおかげ。
そう考えると、フランの前で殺された兄というのも、カオルにとっては何かしら、縁のようなものを感じずにはいられなかった。
(だけど……その縁のある人達とも、別れなくちゃいけないんだな)
その別れは、本当に必要なものだったのだろうか?
そう思うと、遣る瀬無さが胸に一杯になり、後悔に押しつぶされそうになる。
あの時、アージェスから逃げようなどと思わなければ、フランは不自由ながらも、まだ生きていられたのだろうか?
そう考えてしまうと、「女の子一人助けられないのが俺なんだな」と、自身の無力さを思い知らされる。
結局、彼はフランを救えなかった。
彼女の居場所になる事も、彼女の愛に応える事も、彼女の命を助ける事も出来なかった。
それもこれも、全部自分が、あんな状況の中連れ出してしまったから。
墓の前に立つと、もうずっとずっと、それまで仕舞い込んでいた後悔の念が溢れてしまう。
情けなかった。自分を慕ってくれてた女の子を、死なせてしまった。
あと一歩遅かったら、サララすら殺されていたかもしれない。
いいや、殺されていたのは、フランではなくサララだった可能性だってあったのだ。
余計なことに首を突っ込んで大切な人を失って。それで果たして自分は英雄だなどと呼べるのだろうか?
哀しみばかりが後をついて喉から溢れそうになり、呼吸すらまともにできなくなる。
――苦しい。胸が潰されてしまいそうなほど、悲しい。
「良かったですね、最期は好きな人に抱きしめられて。大好きだったお兄さんと一緒の場所で眠れて」
だというのに、隣に立つサララは、そんな事をにっこりと微笑みながら言うのだ。
カオルは、思わず抗議しそうになった。
だが、サララは続けるのだ。
「あの瞬間、フランさんは私より先に行ったんですよ。私はまだ当分死なないでしょうから、フランさんは、当面勝ちっぱなしなんです」
「……勝ち負けの、問題か?」
「勝ち負けにこだわってましたから。でも、最後に勝ち組になったんですよあの人。ホント、憎たらしくなっちゃう」
困っちゃいますよね、と、眉を下げながら。
だが、まつ毛に留まる涙を指先で掬いながら、サララはまた笑うのだ。
「……カオル様。長く生きてくださいね」
「長く?」
「ええ。できれば、私も同じ風にできるくらい。早死になんてしたら許しませんから」
「……ああ」
サララは知らなかった。
カオルは不死身なのだとは。
だから、サララは怖かったのだ。
フランと同じように、カオルもいつか死んでしまうのかもしれないから。
フランの事は抱きしめて泣いたのに、自分がカオルを抱きしめて死ぬところを見させられるなんて、嫌だったのだ。
同じように、自分も抱きしめて欲しかったから。自分の為に泣いてほしかったから。
「不謹慎な奴め」
「ふふ、ごめんなさい。人の死に立ち会うのは、プロじゃないので」
変な事言ってました、と、誤魔化すようにそっぽを向く。
短い付き合いの相手だった。ほんの数日、会って話しただけ。
一緒にお風呂に入ったりしただけ。ライバルだと認めただけ。
たったそれだけの、だけれど、同じ人を好きになった相手だった。
悲しかった。悲しくない訳が無かった。けれど、乗り越えなければならない死だった。
そして何より、乗り越えさせなければならない死だった。
「カオル様? 私達の行く先には、まだまだ誰かの死や不幸が待ってる事だってありますよ? それでも貴方は……英雄で居たいですか?」
「……」
「助けてなんて言っちゃったけど、カオル様がそれを望まないなら――」
「乗り越えるさ」
「……カオル様?」
「悲しいけどな。苦しいけどな。乗り越えなきゃ誰も助けられないなら、助けられなかった人の為にも、助けられる人を助けなきゃな」
自分一人で何もかも解決なんてできっこなかった。
そんなの、一番最初に盗賊にぼこぼこにされた時にもう解っていたのだ。
目に入る人全てを助けられるなんて都合のいい理想を抱いていた訳ではなかった。
だからこそ、助けられる人を助けなきゃいけないのだ。助けたいんだから。
「そして誰よりも俺が助けたいのが、お前なんだ、サララ」
「……はい」
もし選択肢があったとして、サララとフランが選べて、選ばなかった片方が死ぬのなら。
たとえそれが解ったとしても、カオルは、サララを選んだはずだった。
人生とは、選ばれたものが生きられる、生き続けるための道。
選ばれなかった者には厳しい、生きられなくなる道。
選ばれた者達が血を繋いで紡ぐ、選ばれなかった者達の上に作る道に過ぎない。
サララを選んだ彼にはもう、その道しかないのだ。
無自覚ながら選択していて、そして今、彼はそれを自覚しただけなのだ。
そして選んだ以上はその為だけに生きようと、胸に強く誓った。
「……ん?」
そうして、いつしかカオルは、女神様の空間に居た。
ほんわかとした雰囲気の、温かな世界。
例によって女神様がそこに立っていて、そうして、優しく微笑んでいた。
「……あれ?」
しかし、女神様の容姿は、大きく異なっていた。
以前はどう控えめに見ても不細工なおばさん程度の顔だったのに、今女神様は、人並みに見れる程度の顔になっていたのだ。
「整形でもしたのか女神様」
「いきなり失礼ですね貴方は」
普通に考えれば嬉しい変化のはずだが、不細工顔に見慣れたカオルにとっては違和感しかないというか、明らかに異常であった。
カオルの一言で一気に不機嫌になったのか眉間に皺が寄るが、これですら醜悪さを感じさせるほどではないのだから、いかに以前の女神様が酷いお顔だった事か。
しかし、いつまでも容姿云々言うのは失礼なのかもしれないと、言葉を選んで何か話そうかと考えたカオルだったが。
直後、女神様の存在が大きくブレて、全身にノイズが走る。
「――実は、力の統合性が取りにくくなっていまして」
「その、外見の変化って、それに関係するの?」
「そのようですね。元の姿に戻りそうになっているのかもしれません」
「元の姿、ねえ」
今まで何の言及もされていなかったが、もしかしたら女神様も、女神様と言うだけあって美形の部類のお方なのかもしれないと、うっすらだがそんな期待を抱きそうになっていた。
だが、すぐに「いいやそれはないな」と、首を横に振る。
女神様のいつもの発言を考えれば、これですらただの誇張かもしれないのだから、期待するだけ虚しくなるというものである。
「私も元々は村一番の美人さんと呼ばれるくらいでしたからね」
「村一番なあ……アイネさんと比べるとどっちが上なの?」
「アイネ、さんと……ですか? うーん、それは……」
あんまりに胸を張るものだから、カオルにとって一番の美人さんを例に出したが、流石に女神様も即答は憚られるのか、口元に手を当て悩んでしまう。
だが、悩んだ後はにこりと微笑み、また胸を張った。
「私の方が美人ですね」
「マジかよ」
流石にそれはないだろと言いたくなったが、曲がりなりにも女神様である。
神の領域まで行けばそうなる事もあるのかもしれないと無理矢理納得しながら、カオルは適当に流すことにした。
「それはそうとカオル。とうとうサララちゃんを助けることにしたんですね。エスティアに関わる、と」
「ああ。前々から考えてた事だけどな。だけど、決心がついた。きっかけというには……悲しすぎるけど」
「そうですか……フランちゃんの事は、私も可哀想だとは思いましたが」
「フランの事も知ってるのか?」
「ええ。直接の顔見知りではありませんが、お話で聞いた事はありますよ?」
カオル達の事を見ていて知っていた、というだけではないらしく、フランについては女神様も悲しげに眉を下げていた。
「ですが……これはフォローというにはあんまりですが、貴方がアージェスの元からあの娘を連れ出さなくても、フランちゃんにとっては不幸な末路しか待っていないのです」
「……そうかな」
「ええ。間違いなくそうなると思います。だって考えてみてくださいよ。好きでもない男と一緒に暮らす事が、女の子にとってどれだけ苦痛か解りますか? どれだけ短命に終わっても、好きな人と一緒にいた方が、女の子にとっては幸せなんですよ」
「……そっか」
「ええ」
それが例え報われない恋だったとしても。
それが例え悲劇的な末路だったとしても。
彼女にとっての最も幸せなルートは、そこにしかなかった。
女神様は、ある意味では冷酷な事を口にしていた。
カオルにはそう感じてしまったのだ。
「まるで、不平等な世界だな」
「不平等ですよ? カオルのいた世界の方がよほど平等だったくらいに。この世界は、不平等に支配されてるんです」
皮肉げに口元を歪めながら、両手を広げて背を向ける。
女神様のそんな仕草に、カオルは「いつもと様子が違うな」と、改めて違和感を覚えていた。
外見だけではない。考え方も大分違うように思えたのだ。
それこそ、「私は別の女神様ですよ」なんて言われたら信じてしまいそうなほどに。
「でもカオル? 不平等は沢山の益を生むんですよ? 勇者が生まれ魔王が生まれ、貴方の様な英雄も生まれる。平和な世界に、英雄なんていらないんですから」
「……やな話だなあ」
「でも、英雄志望の少年にはツゴウノイイ世界なんです。誰かが困らなければ、誰も救う事が出来ないんですから」
「だけど、助けなきゃもっと沢山の人が不幸になるんだろう?」
「――いいえ?」
女神様の発言に対しての反論は、しかし、予想外の否定を以て返されてしまう。
唖然とするカオル。
女神様の声は、それだけ重く、真実味を感じさせたのだ。
「貴方が助けなければ助けられなかった誰かは不幸になるでしょうが、その結果として他の人が幸福になれる事だってあります。貴方が誰かを助けた事によって、より多くの人が不幸になる事も、まああるでしょう。貴方が見えているのは貴方の周りの人だけ。だけれど、実際は多くの人がこの世には生きていて、同じタイミングで不幸になり、幸福になり、影響を受け、巻き添えになる」
「……女神様?」
謳う様に語る女神様に、カオルは問い返す事くらいしかできない。
けれど、それでも女神様は止まらないのだ。
まるで、カオルなど目にも入っていないかのように。
「――ラナニアが、滅びた世界もあったでしょう。けれど、世界はそれで滅びる訳ではなかった。貴方達がレトムエーエムを倒せなくても、勇者がこの地に訪れ、貴方達がした苦労などつゆほどもなく、いともたやすく討伐した歴史を歩むだけ――」
「何言ってんのか解んないよ」
「貴方の知らない世界の話をしているのです。エスティアは恐らく、それほど大きな問題にはなっていないはずです」
「なんだって?」
「サララちゃんを助けたいなら、まずはサララちゃんが暴走しない様に手綱を握りなさい? エスティアという国は、今はまだそれほどひどい事にはなっていません。少なくとも今の段階では。けれど、貴方達が介入すればどうなるかは分かりませんよ?」
話すだけ話したら、振り向いて、ちら、とカオルの顔を見る。
それは、まるで「それでも関わりますか?」と、最終確認をしているかのようだった。
カオルの覚悟を問うているように見えたのだ。
何故そんな事を聞くのか、カオルには全く解らない。
けれど、今応えることが必要なのだと思い、じ、と女神様の目を見つめ、こくりと頷く。
「関係ないよ。俺は俺が助けたい人を助けるんだ。その結果どうなったって、俺はサララを幸せにできれば、それでいい。その為に、必要な事なんだろう?」
「……ええ。そうでしょうね」
少し悲しそうにふ、と口元を緩め。
女神様は、満足そうに小さく頷いた。
「よかった……貴方は、もう貴方の人生を歩んでいるんですね。カオル。それはきっと、貴方に幸せを与えてくれるはずです。ええ、きっと」
「……なあ女神様、その、さっき話した『俺の知らない世界』って……」
「私が知っている世界の話ですよ。そして今、この世界は明確にそこから乖離している――私も恐らく、これから先どんどんと変化していくことでしょう」
「それは、どんな世界なんだ? それを教えてくれたら、俺はそれを――」
「――ただの村娘が、好きになった人を目の前で失う世界です。そして、それを受け入れられなかった彼女が、どんな手段を使ってでも、全てを変えようとした世界です」
あくまで曖昧に濁しながら。
しかし、女神様はにっこりと微笑んで見せた。
まるでそう、それが楽しい事であるかのように。
「その世界は……どうなったんだ?」
「とても平和になりましたよ? 魔王はこの世からいなくなって、世界は平和になったのです。悲しい思いをしたのは、好きな人を失った村娘と、神様に騙された勇者様だけ」
それだけの犠牲で、世界は平和になったのですよ、と。
本当に嬉しそうに微笑む女神様を見て、カオルはぞ、と、背筋が冷たくなった。
その笑顔には、なんにもなかったから。
おぞましく思えるほどに、何の感情も感じさせないものだったから。
だから、カオルは「本当にこの人は女神様なのか?」と、再び疑念を抱きそうになってしまった。
自分の知る女神様は、こんな笑顔をする人だったのか、と。
「カオル? 私は恐らく、そう掛からず貴方の知る私ではなくなっていくことでしょう。今貴方が私に向けている疑念も、いつかは何らかの核心に変わる事でしょう」
「……俺は、女神様にはいつもの笑顔を向けて欲しかったけどな」
「ふふ、ありがとうございます。けれどカオル? それだって決して悪い事ではないのですよ? 私は間違いなく、願いを叶えられたのですから。そして、世界は変わりつつある――おおよそ、多くの人にとっていい方向に」
その先に多くの幸があらん事を願って。
そう笑いながら、女神様は胸の前で手をぎゅ、と合わせ、何かに祈る。
「――そろそろ、歴史の舞台に勇者様が現れる頃だわ。彼女とも仲良くしてくださいね。一文字違いの英雄様?」
その頃。バークレーの地方都市、グレアにて。
腰に剣を下げた、この世界では珍しい制服姿の黒髪少女と、フリフリとリボンが過剰に付いた黒いドレスを纏う金髪少女が、街並みを並んで歩いていた。
ドレスの少女は、手にミント味のアイスを舐めながら「うーん」と唸っていた。
「レトムエーエムが倒れたみたいね……やるわねぇラナニア人」
「魔王の完全復活からは遠のいたって事?」
「そうなるわね。まあ、レトムエーエムは古代竜としては雑魚中の雑魚だったから、貴方なら余裕で蹴散らせたでしょうけど……でも、そんなんでも魔王復活のトリガーになりうる存在だし。ていうか、覚醒してたとか完全に想定外だったわ」
面倒になってきたかも、と、金髪少女は眉を下げながら天を見つめる。
「こんな世界に、古代竜が覚醒状態で復活するなんて異常この上ないし。絶対に、魔人が何か企んでる」
「魔人って、この前倒した人みたいなの?」
「そーそー、そっちのは直近で倒れた魔王の部下だった方だねー。今はね、ずーっと古代に君臨した魔王の配下達と、そっちの魔王の部下の二勢力がうろついてる状態なの。こんなイレギュラー初めて過ぎて意味解んないわ」
もう嫌になっちゃう! と、肩をすぼめながらため息をつき……そして、アイスが零れそうになって「あわわ」と慌ててアイスにかぶりつく。
その様がコミカルで、黒髪少女は口を押えて笑ってしまう。
「あ、もう、笑わないでよー。私これでも女神なのよ? 笑うのきんしー」
自分が笑われたのに気づき、金髪少女はジト目で空いた方の手で黒髪少女にズビシィ、と指さした。
黒髪少女も笑うのをこらえながら「はいはい」と、慣れた様子でその向けられた手を掴み、やんわりと降ろさせる。
「それで女神様? どうするのこれから? とりあえず目についた魔人は倒したし、しばらくするべきことはない?」
「うーん……ちょっと前にレトムエーエムの気配はしたから、この件が終わったらそっちに行こうと思ったんだけどねー。でも倒されちゃったし。魔人がいる可能性もあるけど、こっちよりはエスティアの方がいいかなあ。あっちには特大クラスの奴が封印されてるはずだから、放置すると怖いかも?」
「この前言ってた『シャリアシャギア』みたいな? オルレアン? ってところに封印されてたっていう」
「あいつは強すぎて魔王復活の餌にされるの嫌がって古代の魔人や他の古代竜と対立してたくらいだから、エスティアのとは次元が違うわ」
「じゃあ、エスティアの方は私でも倒せる?」
「倒せるかどうかはともかく、討伐が容易で直近がそこかなあって感じ。何事もなければそれでいいし、何事かあったら解決すればいいでしょうし」
「うわ、出たよ女神アロエの行き当たりばったり」
「でも間違ってなかったでしょ? レトムエーエム復活は数少ない私の想定外だったけど、大体は私の予知通りの世界になってるわ。世界はまだ、私の掌中にある」
「じゃ、とりあえずエスティアで」
「うん、とりあえずエスティアで」
行先が定まり、二人は互いにこくりと頷き、頬を緩めた。
「ところで、私もアイス食べたいんだけど?」
「あら、食べればいいじゃない」
「ミント味」
「売ってるわよ?」
「今気づいたんだけどお財布スられてたみたいでさー」
「勇者様からお財布スるとかなんて罰当たりな……」
「ちゃんと天罰喰らわせてよねーもー。一体どこの女神様の世界なんだか」
「むぐう……ごめんなさい。ミントアイスどうぞ」
「そう言うと思ってたよ。いただきまーす♪」
「あっあ……一口、一口だけだからね?」
「はいはい一口一口……」
ぱくりと、一口にしては多めに食べられ、金髪の女神は涙目になった。
勇者は清涼感ある甘味ににこりと愛らしく微笑み、「それじゃ行こっか」と、歩き出す。
「もうっ、もうっ! カオリのお財布スった奴、雷落としてやるーっ!!」
晴れ渡った空の下、ドゴン、と、どこかで雷が落ちた音がし。
涙目になった女神もまた、勇者の後を追って小走りに駆け出した。