#25.愛する彼女の為に
王城を後にしたカオルとサララは、しばし無言のまま、門の前に立ち尽くしていた。
「サララ。さっきの話だけど……」
話を切り出したのはカオルの方から。
そのままでは何も喋らないまま、俯いたままでいそうだから、心配になったのだ。
「……ごめんなさいカオル様。私、ずっとカオル様に嘘をついていました」
気遣い気味に声を掛けられたからか、サララもびく、と肩を震わせたが……ぽつり、語り始める。
「嘘って?」
「私が猫にされた理由は……まあ、多分嘘だって解ってらっしゃると思いますけど」
「ああ、あの『勝手に入り込んで飯食ったら悪魔に猫にされた』とかいう奴か? 流石にそれはな……」
「それですそれです。あれは、あの場を誤魔化す為についた嘘で……というか、本当の事なんて、その時には教えられなかったというか」
「まあ、お姫様だもんな。お姫様って呼ばれるような人が、そんな理由で猫にされたなんて思わないし」
「……そうなんですよね」
話しながらも、少しずつ、胸から辛い空気を吐き出すように小さなため息を繰り返し。
サララは、ようやくいくらか落ち着いた様子でカオルの顔を見た。
頼りになる、精悍な顔つきの青年。
彼女が出会った時と変わらない、愛しき救い主様の顔だった。
「私が本当に猫にされた理由は……実はよく解らないんです」
「解らない?」
「ええ。私達を猫にしたのは多分、カオル様も知っている魔人ゲルベドスなんですけど……その、ゲルベドスが襲撃した時って、私はたまたまお城から離れていて……お城の兵隊からの報せで呼び戻された後に、潜伏していたゲルベドスに猫にされたんです」
「戻ってくるのを待ってたって事か?」
「多分……私を猫にした後に、ゲルベドスは『これでもう安心だ』って言ってましたから……まあ、きっと何か目的があったんでしょうけど」
さら、と風になびく髪を手で煽り。
視線をカオルから逸らすようにして、はるか遠く、廃墟となったコルッセアの方を見つめる。
「ただ、確証はなくてもなんとなく想像はつくんですよね。猫獣人はドラゴンスレイヤーですし、成人となった王族は特に強い力を持ちますから、ドラゴンを復活させたかった、とか、魔王を頭に持つ魔人なら、考えそうなことですよね?」
「それにしては随分遠回しな気がするけどなあ。結果としてサララがエスティアから離れて、こうやってレトムエーエムだって討伐された訳だし」
「そうですね。結果だけ見れば……ゲルベドスの狙いは空回りどころかむしろマイナスにしかなってないんでしょうけど。でも、それはあくまで私の想像ですから」
口調からしていつもより大人しめで、カオルをして「いつものサララと違うな?」と思えていたが。
その身にまとう雰囲気はどこか寂しげで、不安定にも感じられていた。
「その、無事だったフニエルっていう王女の事は……?」
「フニエルは私の妹です。エスティア王家の末の王女で、私が猫にされた当時は……まだ、8歳だったはずです」
「んじゃ、5年経った今でも13歳か……バークレーっていうのは?」
「大陸でもよくない噂が立ってるって話がありましたよね? あれ、バークレーが奴隷制を認可している国だからなんです」
「奴隷制、ねえ」
今一ピンとこない話ではあったが、それでもカオルは「向こう」での記憶の中にいくらかの覚えがあった。
大体の所、「良くない事」として認識している部分に。
「バークレーは代々、エスティアの持つ豊富な金を狙って侵攻しようとしていました。その都度、エスティアはバークレーと交渉して、領土を切り売りしたり、金の輸出比率を優遇していくことでなんとか独立を保っていたんです。エルセリアと友好関係になってからは、もう隣国の脅威に怯える必要がない、平和な時代がやってきたんだって、そう思ってたんですけど……」
「そのエルセリアの混乱の所為で、バークレーがやって来たっていう事か」
「ええ。そしてエスティア王家の多くが猫になった事で、唯一残ったフニエルは、恐らく……バークレーの影響下に置かれたんじゃないかなって」
そのまま行けば、間違いなく国が滅びる事態だった。
いいや、国が滅びずとも、今の状況が続けば猫獣人という人種は消え去りかねない。
サララの呼吸は、次第に荒くなってきていた。
落ち着かせようと息をつき、だというのに胸の鼓動が抑えられない。
それくらいに、不安がサララの心を押しつぶそうとしていたのだ。
「私は……王家の全員が猫にされてしまったのなら、本当にもうどうにもならないんだと思っていました。私は王家ではそんなに上の立場ではありませんし、国民にもそれほど知られていませんから。だけれど、フニエルが……妹が無事なのに、そのまま放置してしまっていいのかと……」
「今までそれを俺に教えなかったのは?」
「……笑わないで聞いてくれますか? 重い女だって、負担だって、思われたくなかったんです。そんな過去や状況に置かれた人が傍に居たら……距離を置きたくなってしまうんじゃって、怖くって」
すごく今更ですけどね、と、なんとか笑おうとしていたサララを、カオルはぎゅっと抱きしめる。
泣かない様に気丈に振舞おうとしていたのに、サララはもう、耐えられなくなっていた。
優しい人の胸に抱かれて、自分の心に嘘をつけなくなっていた。
「カオル様。ごめんなさい。嘘ばっかりついていて。でも、でも、私、もう我慢できそうにありませんっ」
「我慢しなくていい」
「……はいっ」
ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でて。
自分の胸の中で泣く愛しい子の女の子を、何故拒絶などできるものか。
そも、もっと前に頼られたとしてもカオルは絶対にサララを拒否なんてするつもりはなかった。
そんなくだらない事で、こんなにいい女を突き放す気なんてなかったのだから。
「カオル様、お願いです……エスティアを、妹を、助けてくださいっ」
「任せろ、慣れてるから。国だってお前の妹だって助けて見せるから。だから、もっと素直に頼ってくれ」
カオルにしてみれば、いつ話を切り出すか迷っていた事だった。
女神様からの「本気で射止めたいなら逃避の相手になってはいけない」というアドバイスは、今もまだ、カオルの中に残っていたのだ。
サララが切り出さなければ、いつかはカオルが自分で切り出し、そして……できる限りの助けになりたいと、そう思っていた。
それが、今来ただけなのだ。覚悟など、とうの昔に決まっていた。
「俺は、お前の幸せの為なら何でもする男だぞ?」
「ぐすっ……カオル様。カオル様ぁぁぁぁぁぁっ」
カオルとしては格好つけたつもりだったが。
サララは感極まり、もうそれどころではなくなってしまっていた。
いいや、もうサララにとって、カオルは「最高に格好いい人」扱いなのだ。これ以上などない。
十分に惚れこんでいた。だからこそ、その助けが何よりうれしくて、心強くて……愛慕がどんどんと募ってゆくのだ。
不安からの鼓動は、今や愛情の高まりの鼓動によってどこかへと追いやられ、消え去っていた。
これからこの先どうなるのか解らない。だけれど、この人となら一緒にやっていけると、そういう確信が、今のサララには根付いていた。
「――いやあ、大変感動的なシーンなのですが……カオル殿? 私の事を忘れてませんか?」
「えっ!?」
「ふわっ!?」
互いに互いを抱きしめ合い、慈しみ合っていた所で声を掛けられ、二人は素っ頓狂を上げながら離れ、声のする方を見た。
……カボチャ頭の男がそこに立っていた。
「お前っ! デルビア!?」
「ま、まだ生きてたんですか!? あっ、それとも別のデルビアですかっ!? カオル様っ」
「お、おうっ」
その健在に驚きながらも、すぐに戦闘態勢に入る二人。
しかし、当のカボチャ男はというと「いやいや待ってくださいよ」と、手を前に出して首を振り回す。
「ああそうか、この姿だから……ちょっと待ってくださいね、よっ、と」
ぼわ、と、怪しげな煙を纏い、カボチャ頭は……ゴートの姿になっていた。
「ゴートさんの振りをしようって事か! その手は食わないぜ!」
「ていうか目の前でゴートさんに化けてもバレバレじゃないですかっ」
「……ああ、私の振りしてたんですねデルビア。まあその、待ってくださいカオル殿、サララさん。偽者だったら、こんなもの持ってないでしょう?」
困ったように眉を下げながら、懐から布袋を取り出してみせる。
カオルもサララも持っている、『通行手形』の袋だった。
二人とも互いを見て……そして、こくりと頷く。
「確かに……偽者だったらその子は暴れ回るでしょうし、本当かも知れませんね」
「そうかそうか、疑って悪かったよゴートさん。それじゃ、復帰祝いに酒場でも行こうぜ。ゴートさんも飲むだろ?」
「ええ、飲みますよ。勿論」
――引っかかった。
カオルがそう言おうとした矢先、ゴートは口元を歪め、一言付け足す。
「この国の問題の大部分は、もう片付いたようですからね。エルセリアに波及しかねない危険な民主主義運動も、これからは方向性が大分変わるようですし、王家の問題も片付き、我が王が望むようにリース姫が国王になるようですから、安心して酒が飲めます」
そういう約束ですからね、と笑うゴートに、カオルは「してやられた」と思ってしまった。
カオル達が自分をひっかけようとしている事など解った上で、敢えてそんな迂遠な言い方をしたのだ。
流石はエルセリア王の配下、とでもいうべきか。
カオルにはそう感じずにはいられなかった。
「でも、なんでデルビアの姿になんてなってたんだ?」
「実は、レットルマンの事を調べてるうちに、奴に囚われましてね。その囚われた場所が、『悪魔の本』の内部で。そこで拷問を受けていたのです」
「……やっぱ、あいつに捕まってたのか。でも、よく無事だったな」
「ははは、これでも苦行には慣れていますからね。素人が考える程度の拷問では音を上げませんよ」
胸をどん、と力強く叩きながらからからと笑うゴートに「この人も底が知れねぇな」と、改めてただものではない事に気づかされる。
普段見せていた役人気質。朗らかさは、どうやらただのブラフだったらしい事も。
「ただ、ある時を境に私を拷問にかけていたデルビアがいなくなりましてね……多分、そちらに行ったんだと思いますが。それで、脱出を試みたものの、本から出る事が出来ない。どうしたものかと思っていた所で、ふと思いついた事がありまして」
「どんな?」
「『そういえばデルビアは出られるんだよな』と。つまり、悪魔になればそこから脱出できるんじゃないかと、そう思ったんですよ。都合よくというか、拷問しながらデルビアが『僕たちは本によって悪魔になったんだ』とか言っていたので、まあ多分そういうことなんだろうな、と」
「……それで悪魔になったんですか? もしかして」
「まあ、そういう事ですね。案外簡単になれましたよ」
本来なら笑えない事態だが、ゴートはあっけらかんとそれを告白していた。
これにはカオルもサララも「どうするのこれ」と唖然としていたが、ゴート自身はなんてことない様子だった。
「結果として私はデルビアと同じような姿の悪魔になり、本から脱出できたわけですが……外を見ると巨大なドラゴンがコルッセアを廃墟にしていて、なんだか不味い感じでしたでしょう? だから、悪魔としての力を使って、エルセリアと連絡を取ったのですよ。こう、テレパシー? みたいな力で」
すごいですよね悪魔パワー、と、そのメリットばかりを楽しそうに語るゴートは、どこか子供っぽくも見えて。
だけれど、やっている事は人間を捨てた元人間の力自慢なので、カオル達も苦笑いばかりである。
「つまり、エルセリア軍がこっちにきたのって、ゴートさんの働きかけがあったからなのか」
「いえいえ。私が何もせずともあの王なら遠からず同じことをやっていたはずですよ? 実際、すぐに軍馬車が列をなしてきたじゃあないですか。あんなの、前もって準備していなかったらできませんよ」
言われてみれば、と、カオルはその光景を思い出し「あの王様ならそうだよな」と納得してしまった。
抜け目なき王なら、それくらいは普通にやりかねない信頼感があった。
「つまり、王は既に私達を派遣した段階で、この国の状況をある程度把握していたんでしょうね。そして、まあ、ドラゴンが出るかはともかくとして、何かしら国が危機に陥る予測は立てていた、と」
「それで前もって準備してた訳か……話は戻るけどゴートさん?」
「はい?」
「さっき話してた『悪魔になった』っていうの……なろうと思って簡単になれるものなのかい? デルビアも、その本を読んだ者が悪魔になるって言ってたけどさ」
「なるだけなら多分誰でも? いや、あの場が特殊な場所だったのかもしれませんが。コツとしては、『強烈な負の感情を身にまとう』とかそんな感じでしょうかね?」
「強烈な負の感情……なあ」
この人のよさそうなゴートが、一体何をやったらそんな感情を纏えるのかが二人には今一想像できなかったが。
だが、ゴートは周囲を確認するようにして、口元に手を当てて小声で話す。
「実は、私も一度だけ、強烈な憎悪を抱いた事がありましてね……」
「ぞ、憎悪って……?」
「まだ若い頃、故郷の村で、ラナニア側の村の娘と恋に落ちた事があって……その娘が、ラナニア人の男に寝取られたことがあったんです」
「……うわ」
「切ないですねぇ」
「……まあ、そんな事を無理やり思い出したのですよ。後はまあ、無茶ぶりしまくる王に対しての不満とかもありましたし、ね!」
そんな程度のもので悪魔になれてしまったのも驚きだったが、つまり王城勤めとはそれだけ想像を絶するブラック環境だったのだろうと思うと、カオルはゴートに同情せずにはいられなかった。
何時の世も、役人とは板挟みにされ押しつぶされる立場なのだ。
「今は……大丈夫なんです? その、過激な事をしたくなったりとか、負の感情に取り込まれそうになったりとか……」
「ああ、そういうのは完全に抑え込んでますから大丈夫ですね。そもそも役目柄、心なんてものはどのようにでもコントロールできるようにならなきゃ話になりませんから」
「ゴートさんすげぇなあ……」
「すごいですねえ……」
ない、とは言わなかったあたり、今でもそういった悪魔特有のネガティブな感情による圧迫は残っているのだ。
それでも余裕で耐えられている辺り、ゴートという人間の理不尽さがよく解る。
ベラドンナが聖女様の説得によって浄化された事を想うと、ゴートはいささかでたらめすぎた。
その後、ゴートは「カリツ伯爵に用があるので」とそのままその場から転移したが、悪魔になったからと即座にベラドンナの様な真似ができるようになったゴートには謎が残るばかりであった。
サララと二人で「なんであんなあっさり転移とかできてるんだ」と不思議がったが、一向に解決される事がなさそうなので、忘れることにして。
それよりも気になる事があったので、廃墟となったコルッセアへと移動した。
「おや、カオルじゃないかい。イザベラから話は聞いたよ。よく頑張ったようだね」
もう街とは呼べなくなったかつての王都。
そのすぐそばにある森で、マダムをはじめとした娼婦らが、小さな小屋を建て生活していた。
訪問してきたカオルらにも、いつもの皺枯れた顔は気難しそうな顔のまま。
いつもの安楽椅子に腰掛けながら、いつもの変わらぬ態度で接してくれていた。
それが、カオルには心地いい。
「イザベラの協力のおかげさ。あれがなかったら、俺達だって負けてたかもしんないし」
「ま、元・神の信徒だからねえ。相応に役に立っただろうさ」
「今は、イザベラは?」
「買い出しの為に他の娘と一緒に近くの村に行ってるよ。ここはまだ安全だが、コルッセアから逃げた連中も、野営地を作って暮らし始めてる。今のうちに物資を確保しとかないと、遠からず色んなものが不足して争いが起きるからねえ」
「避難民の為に物資を集めてるんですか?」
「こういうのは軍も王室も頭が回らないからねえ。大規模な支援なら奴らのお手の物だろうが、緊急時に咄嗟に、となるとね……民間の方が腰が軽い分早く動けるのさ」
王制の難点さね、と、皮肉げに語りながら。
マダムは、サララの顔をじ、と見つめる。
「この娘があんたの大切な人かい? 記憶を取り戻したらしいが、最初からフランは勝ち目がなかったって事かねえ」
「……それは。フランは、俺にとっては妹みたいなものでしたから」
「あの娘の墓前でそれを言ったら殴るからね。ま、最初から女がいたんじゃ仕方ない。あの娘も……哀れな娘さね」
「今は?」
「あの娘の兄貴と同じ場所に弔ってやってるよ。森の入り口横だ。小さな石が建てられてるから、弔ってやってくれな?」
「そっか……後で行ってみるよ」
全てが終わった事を、フランに報告したいと思っていたのだ。
今回の一件、全てフランにとって巻き込まれたことに過ぎなかった。
そんな事で命を落とした事は、カオルにとっても悲しかったが……だが、それでもせめて、きちんと終わらせたことを知って欲しかったのだ。
たとえそれが自己満足に過ぎなくても。
「生きてる人間は、死んでる人間に何かしてやれることなんてないよ。お墓を作って、弔ってやる事くらいさ」
「そうかもしれませんね」
「それでも、自己満足でも、死んだ娘の前で何か言ってやれば、心のつかえはいくらかは消える。忘れちゃいけないよ?」
「……ええ」
諭すような言葉に、カオルも思う所があり。
マダムの真剣な眼つきに、素直にうなずいた。
そんな彼の態度に、マダムも満足げに頷き……そして、すぐ近くの窓の外を見る。
「私は昔……異世界からこの世界にきて……その時に女神様から、『この世界を変えて欲しい』と頼まれたんだ」
「やっぱりマダムも、異世界人だったんすね」
「そうさね。まだ戦時中の世の中だった。『向こう』では教師をしていてね、それなりに理想を持って子供達を熱心に教育していたつもりだったんだ……この世界でも、そんなつもりで、昼街で……恵まれた世界で、勉強を教えていた」
眼を細め、小さなため息をつきながら。
マダムはどこか躊躇う様に言葉を切り……そしてまた、カオル達の方を見た。
「仲間も居たんだよ。同じタイミングで同じ世界から来た……アメリカ人の男とか、日本人の男とかね。だけど、その仲間達も一人消え二人消え……私だけが生き残ってしまった。そして、私は長く生きる中で……国から大層感謝されて身分も保証されて……だけど、救われていない人が沢山いる事に、気づいてしまったのさ」
「……娼婦、か」
「娼婦も含めて、だね。世界から零れ落ちた者達が、私にはどうしても気になって仕方なかった。だから、そんな彼らをこそ救いたいと思ってしまったんだ。『この為に私はこの世界に来たんだ』って、年を食ってから気づいてね」
その結果がこの有様さ、と、力なく笑いながら。
だけれど、その想いはカオル達にしっかりと伝わっていた。
「……新しい王様の元では、もうちょっと取り零される者達が、救われるようになるといいねえ」
「ああ、そうですね。俺もそう思うよ」
「本当に」
もう、マダム自身には、それを繰り返す力など残っていなかった。
かつては国に貢献した大人物も、今ではただの疲れた老婆。
余生を、再興の為に使うだけの時間も、ほとんど残されていなかった。
「カオル……最後の最後で、あんたに会えてよかったよ。あんたは日本人かねえ? 昔一緒に暮らした事のある恋人を思い出したよ。それだけでもう、十分に幸せ……年寄りは、思い出に浸る事くらいしかできないんだ」
「……でも、マダムのおかげで救われた人も多いんだ。俺も、救われた一人さ」
「そう言ってくれて何より……さ、もうここに居ても仕方ないよ。フランの所にいってやりな」
「ありがとうございました、マダム」
「ありがとうございました」
二人、礼をして去る。
ただそれだけである。
目的地は、他にあるのだから。
年寄りの所にいつまでも居ても仕方ないのだからと、マダムに急かされるようにしながら。
そうして去っていく二人を見て、老婆は心底安心したように笑いながら……不意に疲れを感じて、眠りに就いた。