#21.古代竜レトムエーエムとの戦いにて3
昼街が、レトムエーエムの口から放たれたブレスにより、焼き払われていた。
高熱のブレスはそれだけでレンガの街並みを溶融させ、樹木や木材を消し炭としてゆく。
だが、ただ焼かれるだけではない。焼かれた後に残るのは、黒鉛よりも昏い色の、呪い。
(あれ、は……呪詛のブレス? 確か王城の文献に書いてあった――)
人間の持つあらゆる穢れの中でも、特に悪質なものに、呪詛があった。
他者を呪い、他者を憎み、他者を恨む事で発生するその穢れは、普段は人間の奥底に溜まっているが、ある時急に表に噴出し、その穢れを内包していた当人を含め、周りの者を次々に不幸へと貶めてゆく。
そうして噴出した呪いはどんどんと性質を後ろ暗く強化してゆき、やがては人すら殺し得る凶悪な呪いへと変貌するのだ。
レトムエーエムは、人の情を喰らう古代竜だった。
遥か古の頃からそれは変わっておらず、ただそこにあるだけで人間の情念を異常に捻じ曲げ、狂わせてゆく。
そうして、その体内にはおぞましいほどにおびただしい量の呪詛が貯めこまれてゆくのだ。
物質化するほどに濃縮された呪詛が、まるで液体のように大地を黒に染め上げ、穢してゆく。
美しかった街並みが黒く染まるにつれ、清浄だったはずの空気が、次第に灰色の霧に包まれてゆく。
『壊れろっ、壊れてしまえぇ! 文明など、文化など、貴様ら猿の末裔には過分過ぎるわぁぁぁぁぁっ!!!』
最早、レトムエーエムはサララなど気にしていなかった。
目の前に居なかったから逃げたか隠れたかしたのだろうとは思ったが、それ以上に左眼を失った痛みから来る怒りの方が強く。
そも、眼に入る世界全てを破壊するつもりだった彼にとって、最早自分に抗う猫娘一人、どうでもいい存在となっていたのだ。
このまま死ぬならそれでよし、生き残るならその時に殺せばよし。
ただ、それだけだった。
故に、レトムエーエムはサララに攻撃しているつもりはなかった。
街に、そしてこの街のある国に、攻撃を仕掛けていたのだ。
灰色の霧に染まった昼街が、次第に呪詛の力で腐ってゆく。
物質界に影響するほどの濃密な穢れは、やがてコルッセアの街並みを、歪んだ紫の街へと変えていった。
腐ったレンガがぼたぼたと液状になり、やがてその中からおびただしい量の蟲が湧いた。
『――ゆけ! まずはこの国を、見せしめに滅ぼしてくれる!! 人間は我らの餌に過ぎぬという事、現世に知らしめてくれるわ!!』
最初は芋虫のようだった蟲が、次第に人のような大きさへと育ち、羽を生やす。
ブブ、と、不愉快な音を立て飛び始め、主人であるレトムエーエムの周りを飛び回っていた蟲達は、一匹、また一匹主に命じられるまま、国の各地へと飛び去って行った。
(は、はは……)
まだ比較的無事な瓦礫の中、サララはその光景を見てしまった。
終末のような世界。たったブレス一息で、国一つが瓦解するかもしれないという事実。
そしてその滅びるかもしれない国が、大陸で最強の国家だった事。
(ご先祖様は、どうやってこの化け物を倒したんでしょうね……この地に、このドラゴンを封じていた人達も、どうやって……)
自分で以前、カオルに語り聞かせていたことを思い出していた。
そう、古代竜とは、単独で国を滅ぼし得る脅威なのだ。
狙われたら最期、その国は絶滅か生存かの最終戦争を強制される。
封印できなければ滅亡。できたとしても衰退し、滅びる。
サララは知らなかったが、この地でかつてレトムエーエムを封印した国家も、それによって衰退し、滅びたほどなのだ。
――迎撃態勢が整えられない今のラナニアでは、勝てないかもしれない。
片眼を抉り、なんとか手傷を負わせたと思ったのに、今見ればレトムエーエムの瞳はもう回復し始めている。
まだ動いてはいないが、古代竜というのは自然治癒力も高く、多少の手傷なら簡単に回復してしまうのだ。
そうして、回復しきった時が、この国の最後の時なのだろうと、うっすら、そんな事を考えてしまう。
ぽたり、自分の髪に紫の液体が零れ落ちた。
ここももう駄目なのだと気付き、震える肩をなんとか押さえつけ。
サララは、溶けてゆく瓦礫から飛び出した。
「レトムエーエム! 私はここですよ!!」
ひきつけてどうにかなるとは思えない。
時間稼ぎなどとうに無駄な気もしていた。
レトムエーエム自身を引きつけられても、今もどこぞへと飛び去ってゆく気味の悪い羽蟲は、もしかしたら人間にとって悪い冗談レベルの化け物なのかもしれなかった。
そうでなくとも、あれら一匹一匹が人間を殺し得るなら、それだけで脅威なのだ。
ごくり、息を飲む。
『……まだいたのか猫娘。ふん、悪運の強い娘よ』
つまらないモノを見るように、レトムエーエムはサララを見下ろす。
彼から見れば豆粒のような存在。だが、間違いなく自分の脅威となり得る、天敵種族の王族。
とはいえ、一人では致命傷となる一撃すら与えられぬ、「鬱陶しいだけの存在」だった。
「私を倒せなければ、貴方はこの街から出られませんよ!!」
精一杯の強がりを言っているのは、レトムエーエムからはよく解っていた。
先程までと違い、明らかに戦意が低下している。
当然と言えば当然で、彼我の戦力差を目の当たりにすれば、いかなる武人と言えど勝てるはずなしと判断するはずだった。
古代竜とは本来、それほどの脅威であり、生きている災害である。
人は、災害に抗えぬ。ただただ嬲られ殺されるだけ。
いかに女神に生み出されし種族と言えど、一人きりでは何もできない。
『最早、余興も終わりだ。貴様は善く戦ったが、やはり貴様では我を殺す事は出来ぬ。そして我は、いつまでも小者を相手にしてやるつもりはないのだ』
長い首をもたげ、見つめる先はサララではなく……はるか遠くにある王城だった。
人から見れば遠い距離。しかし、古代竜からすれば……さほどでもない場所にある、目障りな建造物に過ぎない。
『あれが、この国の為政者の住まう城か。なんとも脆そうな、権威にばかり縋る生物の建てそうなものよ。美しさもなく、生産性もない』
――下らぬ。
彼から見れば、人間の城など、ただその一言で斬り捨てられる程度のものだった。
何の意味もない。ただそこに在るのが鬱陶しい。目障りで、邪魔。
内から来る憎悪が、瞳を城の先端――バルコニーで自分を睨みつける女へと向けさせる。
「――させるもんですかっ!!」
レトムエーエムが、何を企んでいるのか気づき、サララは再び、飛びかかろうとした。
しかし、その刹那、巨大な羽蟲がサララへと襲い掛かる。
「なっ、あっ――っ!?」
『ブブブブブブブッ』
不愉快な羽音を立てながら、レトムエーエムを守るように体当たりされ、サララは弾き飛ばされる。
そうして、周囲を羽蟲に囲まれた。
「あ、ああ……っ」
体当たりそのものは、さほどの威力ではなかった。
すぐに立ち上がれたが、サララの身体は先ほどまでのように力が湧いて出てこない。
(羽蟲相手じゃ、ドラゴンスレイヤーの力が……っ)
サララは、本来かよわい猫娘である。
普通の人間より遥かに弱く、脆い。
人間の穢れから生まれたに過ぎないこの羽蟲たちは、当然ながらドラゴンでもなんでもないのだ。
当然ドラゴンスレイヤーとしての力など発揮できず、抵抗もできなくなる。
(やだ、死んじゃう……これ、死んじゃう……殺されるっ!!)
覚醒したドラゴンが、こんなに強いなんて知らなかった。
迫ってくる羽蟲に、サララはただその身を抱え、仔猫のようにうずくまる事しかできなかった。
最後の最後、その胸に、愛する人の事を想いながら。
「カオル様――っ」
せめて最後、声に出したいと思いながら叫んだ名が、それだった。
「――おうよ!!」
ドゥン、と、何かが爆ぜる音が響いた。
ぶちん、と、何かが弾け飛ぶ音が聞こえた。
それより何より、心強い、聞き慣れた声が、離れた場所で聞こえた。
「大丈夫か、サララ!!」
カオルだった。ずっと待ち続けた人だった。誰より愛しい人だった。
彼女にとっての救い神様だった。そんな救い神様が、自分へと駆け寄ってくれた。
手には見慣れた棒切れ。さっき自分が助けた時と同じで、ボロボロの服のまま。
だけれど、先ほどよりも元気な笑顔が眩しかった。
絶望に支配されそうなこの世界の中、彼だけが救いであるかのように、彼の笑顔は、輝いて見えたのだ。
「はい! 元気です!!」
だから、サララも応えた。
出来る限りの笑顔で、自分の無事を報せたかった。
そうして、自分は死なないんだと、知って欲しかった。
死んでしまったフランと違い、自分はまだ、生きているのだから、と。
『――ほう? わざわざ戻って来たのか。あのまま逃げていれば、いくらかは寿命が延びたかもしれぬものを』
「悪ぃな、逃げてやらなくてさ。だけどな……フランの仇のお前を、生かしてこの街から出すつもりはねぇんだわ!!」
ズビシィ、と、握りしめた棒切れの先端をレトムエーエムへと向けながら。
カオルはサララの傍に立ち、守るようにして庇い、そして視線を別の場所へ向ける。
「サララ、走れるか? すぐそこ……光ってるの見えるよな?」
「光ってる場所……? あ、はい、ありますね……あれ、もしかしてあれって――」
「ああ、なんか、聖域がどうとかいう奴だ。なんか、傷とか癒えるから、そこに。なんか、変なのが飛んでるしな」
「……はいっ」
羽蟲がまた、自分達に向かってくるのが見えて、サララは走り出した。
一部の羽蟲はサララにも襲い掛かったが、近づいた者から順にカオルが「この野郎!」と、棒切れを投げつけ、蹴散らしてゆく。
カオルに襲い掛かった羽蟲はそのままカオルに噛みつき、ノコギリの様な牙で腕をちぎろうとしたり、首を切り裂いたりしたが……すぐに「ウザいな」とその頭を掴まれ、握りつぶされた。
「……あの羽蟲、あれだけでその辺のオーガとかミノタウロスを殺せるくらいに強いはずなんだけどね……記憶取り戻したカー君、半端なく強いわねぇ」
サララの向かった先には、艶やかな格好をした犬耳の女が立っていた。
「……うわ、やっぱり犬獣人」
「『うわっ』て何よ『うわっ』て!! カー君が『大切な人がいるから』って言ってきてみれば、よりもよって猫獣人だなんて!!」
イザベラだった。
サララの姿を見た途端、白目をむいて「うがー」と間の抜けたうなり声を上げ威嚇し始める。
サララもまた、犬獣人の姿を見た途端に深いため息をついた。
「よりにもよって、は私の方ですよ……全く、なんでカオル様の傍に犬獣人が……」
「ああもううるさいわねぇ! 文句付ける暇あるなら身体見せなさい! 裸になって!」
「こ、ここで脱げって言うんですか!? それも犬獣人相手に?」
「馬鹿! 外傷はともかく、体内の傷は服の上からじゃ無理なの! 早く脱ぎなさい! カー君助けたいんでしょ!!」
サララの奮闘くらい、イザベラは十分に理解していた。
離れていた事、轟音とどろく状況下で正確なところまでは聞き取れなかったが、誰かしらがあの化け物相手に足止めをしてくれているらしいのは、ずっと解っていたのだ。
この状況下、そのたった一人のおかげで自分達が無事だった事も、理解していた。
だからこそ、大嫌いな猫獣人相手でも、助けたいとは思っているのだ。
不承不承ではあるが。嫌々ではあるが。
そんな犬獣人、見た事もなかったので、サララは目を白黒させていたが。
その必死な様を見て、彼女が本気なのだと解り、色眼鏡を外す。
「……治してくれるんですか?」
「治さなきゃ、戦う事も出来ないじゃない! 見ただけで解るわよ、骨が二十本、内臓も傷ついてる! そのままじゃあんた、何もできないまま死ぬわよ!!」
カオルの前では笑っていたが、おおむねイザベラの指摘通りだった。
全身ずたずたで、立っている事すら辛かった。
ドラゴンスレイヤーの力のおかげでさっきまでは戦えたが、今ではもう、ただただ痛苦しい。
それでも恥ずかしいらしく、サララは視線を落としながら、袖をぎゅっと握った。
「……脱ぎます、けど」
「なに?」
「笑わないでくださいよ? 胸、とか……笑ったら、ひっかきますから」
「はん! 子供の裸なんか見たって笑わないわよ! 成人もしてない小娘が色気づくな!!」
「……カオル様の前でそれ言ったら怒りますから」
必要な事だからと、必死に頭を振って我慢して。
サララは、イザベラの前で服を脱いでいった――