#13.取り戻された記憶と失われた仲間
「うーん……やっぱ、上手く行かないな」
サララとゴートが別の場所で成果を上げている中、カオルは北の広場で一人、ぽつんとベンチに座り込んでいた。
最初こそ目標を見据え意欲的に聞き込みをしていたカオルだったが、どうにもうまく話を聞きだせず、地道な作業にやる気も次第に落ちていき……とうとうしんどくなってしまったのだ。
それでもいずれは動かなければならないとは思っているが、足は存外重いままで。
楽観していたよりは難しい、「かつての自分のしていた仕事」というのが、彼にとっては重い負担となっていた。
何せ、意識的にはまだ、仮住まいとなる場所でお手伝いをしているだけ、という感覚なのだ。
以前は使命感に満ちて何かと人助けに奔走したのかもしれないが、今の彼というのは別段そんな気もなく、「記憶を失う前の自分の手掛かりになるから」というのと「フランがあの場所に居続けるために必要だから」という二つの理由からである。
元々自分が率先してやっていた事。英雄として生きていた自分。そして未だ愛せないかつての恋人らしい猫獣人の少女。
何もかもが彼にとって、重すぎる要因となっていた。
(それでも、やらなきゃいけないんだよな……それが結果的にも、フランや夜街の皆の為になるかもしれないんだから)
サララやゴートのしている活動が他人事のように感じてはいても、今のままでは自分が世話になった夜街が不味いことになるというのは変わりなく。
自分の事を夜街の人間なのだと認識するなら、やはり今動かずにいるという選択肢はなかった。
辛くとも、しんどくとも、重くとも、動かなければならない。
挫折感を乗り越え、なんとか立ち上がろうとする。
だが……思いの外彼の足というのは冷徹で、「誰がお前の言う事など聞くものか」とでもいわんばかりに動かなかった。
街を行き交う人々を見やりながら、途方に暮れてしまう。
「俺って、思ったよりダメな奴だったんだなあ」
些細な挫折如きで。
こんな程度、上手く行かないだけで、なぜこうもやる気が出なくなってしまうのか。
都合の良い時にしか出せない男気など何の意味があるというのか。
自分を鼓舞しようとしても、鼓舞できるだけの材料が、彼にはなかった。
今のカオルには解らなかったのだ。
かつてのカオルが、沢山の挫折にまみれ、沢山の失敗の中、それでも得られたたった一つの成功を糧に、苦痛の中を潜り抜けていた事を。
別段、今のカオルの手法は間違っていた訳でもないし、記憶があった頃でも、カオルは成果が出せない苛立ちと不安とにあおられながら、「それでもいつかは成果が出るから」とがむしゃらに前に進んでいただけなのだ。
かつてのカオルにはあった、些細な成功体験。
それが今のカオルには、欠片も存在していなかっただけ。
それだけの違いが、かつてと今とで、カオルの在り方を大きく変えてしまっていた。
また、今のカオルは、この世界に来る前のカオルとよく似ていた。
努力の方法がよく解らず、頑張っても成果が上がらず、結果を出せないまま途方に暮れ、疲れ果て、やがてその手を止めてしまう。
人が歩むには、理由がいる。
だが、理由だけでは進めなくなる人も多いのだ。
彼はどこまでも一般大衆で、無尽蔵に前に進めるようなポジティブな人間ではなかった。
とても弱い、失敗に苦しみ挫折に心圧し折られ努力を続けられなくなる、どこにでもいるただの学生だったのだから。
本質的に、彼はそういう人間で、そして、正しい努力の仕方を知らなければ前に進む事も後ろを顧みる事も出来ない、凡人だった。
(……そっか)
変わりたかった。
途方に暮れて、やる気を失って、投げ出しそうになって。
そうしてようやく、彼は気づいたのだ。
自分は、そんな自分が嫌だったのではないか、と。
そうして、今街を歩く多くの人が、多くの民衆が、一般人諸君が、そのように変わりたいと願っているのではないか、と。
(変わりたいから、行動するのか)
そこに動機があった。
このラナニアという大国を、国民が揺るがす理由。
いいや、国民だけではない。
恐らくこれに関わる、この事件に関係するすべての人が思っている、とても些細で、そしてとても大きな理由。
それが、解ってしまったのだ。
彼が凡人だったから。失敗ばかりの人間だったから。
「私達の想いを国中に広げましょう!!」
「王族の専制を覆し、民衆による政治を!!」
「俺達は自由を求めるべきなんだ! 皆もそう思うだろう!?」
「少しでも今が上手く行っていない人! みんなみんな、その怒りをこの運動に込めましょう? 鬱憤を貯めているばかりでは、いつか疲れてしまうわ!!」
広場の近くでは、今でも「民主主義運動」とうやらに参加している者達が大きな声を張り上げていた。
先程まで目に入っていただけの、何も感じなかった連中である。
そんな彼らを……カオルは、きちんと目に入れ、意識して見つめた。
(今のままじゃ嫌だから、人は動くんだな。それ自体は、きっと正しいんだ。どんな奴でも、どんな理由でも)
現状を変えたければ、動くしかない。
だから彼らは動いている。
とてもシンプルだった。当たり前の事だった。
何もせずに何かが変わる事などそうそうない。
そしてそれを待つことはとても愚かである。
人間には様々なタイムリミットが存在する。
寿命や機会、運命的なロジックが人間を取り巻き、どのように生きようと人間に真の自由を与えようとはしない。
だからこそ、能動的に動く必要があるのだ。
だが、そこまで考えて、尚カオルは「でも」と口もを歪めた。
(あいつらはただ、騒いでるだけだ。あんな風に騒いで民衆の賛同を受けたって、国の中枢は王族が握り、政治は賢い奴らが回してるんだから、何も変わらない)
無駄な努力。間違った行動。誤った躍動はいつしか「あの時こうしていれば」と自分の首を絞めつける。
声を上げるなら、そんな方法ではダメだった。
目的を達成するには、目的を達成する為の正しい努力をしなければならない。
もし彼らが真に自由を獲得したいと願うなら、民衆による政治を願うなら、それは声を上げ民衆を誘うのではなく、権力者を動かさなくてはならない。
権力者を動かせるだけの、権力を得なくてはならない。
何故なら、人は権力を持った者にこそ従い、重く見るのだから。
(民主主義ってのは本来、そういうものなんだな、きっと。国民一人一人が権力を持ち、権力者が無視できなくなる。だからこそ意味があるものなんだ……でも、じゃあ、権力者が自分の立場を脅かされるのを恐れたら、何時まで経ったってそれはできないよな)
現状の矛盾。権力者が権力者である事を望む限り、人々は権力を得られないという事。
民主主義を広めるためには、権力者の了解が必要であるという事。
(そんで……仮に国民が権力握れても……国民が、正しい判断する保証なんてどこにもないんだ。だから、どこの国も民主主義が導入されてない。きっと俺達は、王族から信用されてないんだな)
民衆はまだ、国から認められていないのだ。
保護すべき存在、導くべき存在ではあっても、自由を担保するだけの民度が、まだ育っていないと認識されている。
(……自由って、権力だけじゃないんだな。信用や責任も、必要なんだ)
ただ口々に自由を叫ぶだけなら、それこそ今目の前で叫んでいる民衆がやっている。
だが、それによって仮に民主主義が導入されたとして、無責任な民衆が好き放題な事をやり始めたら、果たして誰が責任を取るのだろうか。
誰もが「俺はそんな事になるとは思わなかった」「私は悪くない」と言うのではないだろうか。
つまり、自由の結末を担保させる責任やそれを他者に信じさせる信用こそが、民衆の自由を認める指標となりうる。
「あいつらに、責任感なんて、なさそうだもんな」
にへら、と、力なく笑う。
ただ好き放題叫んでいるだけの連中を、今まで自分がどんな風に見て来たか。
たまに昼街で見かけて……いつも彼らの活動をどう思っていたか。
彼はいつも「馬鹿が馬鹿やってるよ」と冷めた目で見ていたのだ。
それは、誰に言われたでもなくそんな風に感じた、ただ勢いばかりの馬鹿の集団に対しての侮蔑だった。
責任感など欠片もない集団。
無責任に自分の希望を叫ぶだけの輩に、果たして何の力があろうものか。
そこに信用など生まれるはずもない。だから、心の底から馬鹿にしたのだ。
そんな連中に、何が変えられるものか。
世界を変える事が出来るのは、責任のある人間なのだ。
(あんな風になっちゃダメなんだな、きっと)
だから、責任感のなかったカオルは、自分も含め「そんな奴らに何かが変えられる訳がない」と、皮肉げに口を歪めていた。
かつての自分なら変えられたかもしれない。
だが、今の自分には無理だと、そう思えたのだ。
そう思えたからこそ、変わりたいと願った。
「あら? こんなところで座り込んじゃって。途方に暮れた感じ?」
不意に、立ち上がろうとしたカオルの前に、金髪の、赤いタウンドレスを纏った少女が立っていた。
驚きながら「あれ?」と、違和感を覚え、その顔を見る。
幼さを残す整った顔立ち。
顔は笑っているけれど、眼は射貫くように自分の瞳を見つめ、放さない。
――どっかで見た様な。
そんな気になりながら、しかし、それがどこであったのか、何であったのか明確には解らなかった。
ただ、知り合いなのだろうと。
サララのように、何かしら関わりのある人なのだろうと思いながら「悪いが」と、口元を緩める。
「俺、記憶失ってるらしくてさ。知り合いだったら悪い。覚えてないわ」
「そうでしょうね」
話しながら立ち上がろうとしていたカオルの肩をトン、と押し、ベンチに留める。
中腰になり、顔と顔を突き合わせるような近さになったが、その華やかさにも拘わらず、カオルは赤面すらできなかった。
ぶる、と背筋が震える。本能的な恐怖が、彼の動きを止めた。
「ま、私の事を忘れてるならいいかしら、ね? 本当はこのまま放っておくつもりだったんだけどー、同僚が『なんでそんな可哀想な事をしたんだ』とか『記憶全部失くしたら大変だろうが』って、必要のない部分は元に戻すように言ってきたのよね」
「……え」
「まあ、私としても『全消しは流石に可哀想かなあ』って思ったから。でも、私達についての記憶は何かの所為で思い出されたら困るから、ロックした上でもう一度念を入れて消すからね」
記憶に関しての話。
全消しと言われて、誰の何をと問うつもりは毛頭なかった。
そんな事せずとも思い当る。彼女はきっと――女神様の言っていた魔人なのだ。
(やっぱ、俺の記憶、魔人に――)
「でも喜んでいいわよ? 今まで貴方の事見てたけど、可愛い彼女の事忘れちゃってたんでしょ? ちゃんとそれは思い出せるようにしてあげるし、多分今のラナニアの状況は、少しはよくできるようになるんじゃないかしら?」
「……そりゃ、優しいことで。でもそれ、困るな」
「なんで?」
「俺、記憶失ってからの人生も楽しかったんだ。可愛い妹分もできたし、信頼できる仲間もいた。夜街の奴らは柄は悪いけど、悪い奴ばかりじゃないしな」
悪い奴もいるけど、と半笑いになりながら。
震える身体に抗う様に拳を握り締め、正面の少女――推定魔人を見つめた。
「じゃあ、消えないように祈りなさい? 基本的に今の貴方は思い出させることで上書きされちゃうけど、強い想いは時として脳の記憶領域にすらないデータを心から呼び覚ますから。それが怖いから、私は私達に関するデータをロックする。大丈夫よ、貴方がただの『英雄様』として生きる分には、私は貴方の人生にこれ以上干渉しないから」
――だから、これでさようならよ。
冷めた目のまま、指先でカオルの額をつん、と強めに押し。
それきり、カオルの意識は途絶えた。
「……あれ?」
そこは、見慣れた景色だった。
夢の中の、女神様空間。
「カオル。レイアネーテが居ました」
「……レイアネーテ?」
なんだか久しぶりだなあと思いながらも、そんなに久しぶりには思えない、女神様の顔。
だけれどそんなぼんやりとしたカオルをよそに、女神様は不細工な顔のまま、真剣にじ、とカオルを見つめる。
「忘れていますね?」
「よく解らんけど、解らん」
「でも大丈夫です」
妙に心強い顔だった。
この人がこういう顔の時は、いつもあてにしてはいけない時なのだが。
ただ、ぼんやりとして意識がはっきりしないので、追求する事も出来ない。
ただ聞かされるまま、聞くだけだった。
女神様は、ドヤ顔である。
「失われた記憶、今度はすぐ取り戻せますよ」
「どゆこと?」
「保存しておきましたから」
「……記憶を?」
「はい! 前回レイアネーテに記憶を消された時に『もしかしたらまたこんな事があるかも』と思いまして」
「……どこに?」
「私の頭の中に」
自分の頭を指さし、にっこりと気のいい笑顔になる。
やはり造りが悪い所為でお世辞にも綺麗とは言えなかったが、それでも見慣れた、温かな笑顔だった。
安心できる、母親のような、それでいて見慣れた近しい人のような、そんな笑顔に心がジンワリ、温まる。
「俺の記憶、とっといてくれたんだ」
「記録していたのが短い期間ですから、完全に魔人についての事を貴方が思い出せるわけではないですが……少なくとも今の一幕、カオルが今レイアネーテに記憶を消された下りは、完全に覚えたままにできるはず」
「それなら、フランたちの事も忘れないようにしてくれるかい?」
「勿論です。貴方は安心して目覚めてください。レイアネーテは多分……もう貴方を監視するつもりはないでしょうし」
ひとまずは安心です、と、胸を抑えながらほっとしたように吐息する。
今はもう忘れてしまった、魔人レイアネーテについての記憶。
だけれど、こんな時くらい、こんな場所でくらい、一安心だと言ったこの人の事を信じたいと、カオルは思った。
「女神様、すげぇな」
「うふふ、そうです。私はすごいんですよぉ。こんな時くらい、貴方の役に立ちたいですからね」
だから頑張ってください、と笑いかけてくる女神様に、カオルも笑い返そうとして。
そうして、意識が急に遠のいていくのを感じていた。
(……戻る、か)
ぼんやりしていた意識が、だんだんと覚醒していく感覚。
視界が一気に回転し、暗転し、ぐるり、全ての価値観が真逆になったような、そんな体感。
「……流石に、居なくなったか」
再び開けた視界の前には、既に魔人レイアネーテの姿は見られなかった。
自分の記憶を消し、そしてまた操作した魔人。
だがその去り際の表情はどこか寂しげで……なんでそんな顔をしているのか、気になってしまっていた。
(あいつが魔人だとして、オーガをレナスにけしかけた張本人だとして……なんでか、憎めないんだよなあ)
記憶を操作されたのは確かに恐ろしかったが。
それ以上に強い何かが、カオルの中に芽生えていた。
それは記憶を失ってしまったカオルには解らなかったが……そんな女魔人が最後に見せた寂しそうな顔が、妙に記憶に残ったというか。
(とりあえず、やる事はまだあるんだ)
だが、そればかりに固執する訳にもいかない。
もやがかかったような世界は、今のカオルにはとてもさっぱりとして見えていた。
自信なく、立ち上がろうとする力すらよろよろだったさっきまでと異なり、今のカオルには躍動感がみなぎっていた。
「――行くかっ!!」
膝をぱちん、と叩いて、一気に立ち上がり。
そうしてカオルは、人々の波へと突入していった。
それまでのやる気ない顔とは違う、自信に満ちた顔で。
その頃、西のリッパー劇場前では、ゴートが不審人物『レットルマン』の監視を行っていた。
「ううむ……思ったほど動きが無いな。一日二日では、成果は得られないかもしれないか」
受付側からは見えにくい路地裏の、更に念には念を押しての樽の裏側での潜伏。
時折ちらちらと樽の陰から受付を見て、レットルマンがそこにいるのを確認し、また引っ込むという動作の繰り返し。
反復的な作業の中に、それ以外の動きが出来ないという制約が課せられ、酷く窮屈に感じていたが……ゴートは慣れた様子でレットルマンの様子を逐一監視していた。
(記憶を失ったカオル殿がいつ記憶を取り戻してもいいように、少しでも多くの情報を、と思ったが……こうまで動きがないとな)
この街での民主主義運動のリーダー、という事で、もっと頻繁に劇場からの動きがあるものと思っていたゴートだったが、受付に立つレットルマンは、ニコニコと笑顔を崩さぬままに立ち続け、既に一時間以上そのままである。
サララが話す前からそうであるとするなら、客の来ない劇場の前にずっと立ち続けているものと思えた。
(私には呼吸音どころか声一つ確認できない距離だが……それにしても、動かなさ過ぎる)
彼が確認する限り、レットルマンはこの長時間の中、微動だにしていなかった。
サララはそこまで報告していなかったが、一時間監視していて未だに手先指先、立ち方一つ揺れた様子がない。
まるでよくできたマネキンかトルソーのようで、その立ち方に人間らしさはあまり感じられなかった。
(やはりあの男……怪しいな)
疑念は核心に繋がっていた。
少なくとも、まともな人間ではない。
あるいはレナスで悪魔にそそのかされていた活動家エドラスのように、悪魔か、黒幕のような存在と繋がりがあるのかもしれないと思えた。
(……こういう時、人間では見ている事しかできないのが歯がゆいな)
長距離であっても相手の声や呼吸を聞き取る事の出来る獣人の耳は、人間に生え難い強烈な特性である。
日常の生活ではあまり意味のない要素ではあるが、このような時、確かな戦力になる。
こと諜報という面において、サララがどれだけ重要戦力なのかがはっきりとする事柄であった。
だからこそ、人間のゴートは悔しくも思えた。
自分は、ただの人間なのだ。
思いこそ他に劣らぬほど強い。この国の為、頑張ろうという意識はある。
だが、人間の自分は、こうして遠目で見ている事しかできない。
見るにしたって獣人には劣るのだから、本当にただ見ているだけである。詳細までは解らない。
未だって、辛うじて表情は解るものの、それはあくまでレットルマンが微動だにしないから解るだけで、動きだされれば読めたものではなかった。
(それでも……見ていれば、動きを察知できる。どこかにいけば、誰かしらとの繋がりを見つけられる、かもしれない)
不安に思わないはずはなかった。
あれが人間でないなら、自分にとっても危険かもしれないのだから。
だが、だからこそ、無視はできない。何もしないではいられない。
そんな存在を、野放しに等できるはずがなかった。
「ふんふんふ~ん♪」
そうこうしているうちに、微動だにしなかったレットルマンが、不意に動き出す。
ゴートにも聞こえるほどに盛大な鼻歌を歌いながら、手に持ったステッキをくるくる回しながら、劇場の中へ入っていってしまう。
(……ただ引っ込むだけか?)
そのまま出てくるなり、何かしらのアクションがあるかも知れないと思いながら数秒。
しかし、「いいや」と別の可能性に気づき、立ち上がる。
(裏口かもしれない。警戒心が強いなら、表からでなく裏から――)
「ああ、やっぱりいましたね」
「――!?」
劇場の裏から出たかも、と、路地裏を駆け出そうとした矢先だった。
そう、振り向いたそこに、レットルマンがいたのだ。
「なんか、ずーっと視線を感じていたんですよねえ? 誰かに見られてるような気がして、受けるに任せてたんですが――やっぱりいつまでも見られっぱなしなのは気分が悪い」
「い、いつの間に、後ろに……」
勝手に語り始めたこの男を前に、ゴートは口元を震わせながら、ズボンのポケットに手を突っ込む。
握りしめるのはダガーナイフの柄。これがゴートの慣れ親しんだ得物だった。
「くくく、まあそう怯えないで。僕は別に……ただ、どんなやつが僕を見ていたのかなあって、気になっただけで」
「穏便に話をしようというなら、正面から会いに来ても良かったはずだ。わざわざ背後を取ろうとするなど、これでは――」
「まあ、気づかなかったらそのまま――殺すつもりだったんだけどね」
ひゅ、と、ステッキがいつの間にか自分の首にあてがわれたのを感じ、ゴートはダガーを取り出す事すらできなかった。
ぴしり、緊張に身体が固まってしまう。
こういう時、彼はすぐにでも動けるように訓練されていたというのに。
そんな彼をして、身動き一つ取れなかったのだ。
――今動けば、殺される。
そんな本能が、彼に抵抗を控えさせた。
「君、レナスでも色々嗅ぎまわってたよねえ? 君には聞きたい事がいくらかあるんだ」
「尋問する間は生かしてくれるという事か?」
「まあねえ。君のバックとか、君自身の目的とか、いろいろ気になる所があってねえ? だから――」
飄々とした口調のまま、レットルマンは――自分の懐から本を取り出す。
「――僕の世界に、ご招待させてもらうよ?」
本が本を生み出す。
無数のページがレットルマンを囲み込み――やがて、カボチャ頭の歪な悪魔へと変貌を遂げた。
「本の悪魔――」
「くかかかかっ! 僕の事を知ってるようだねぇ? だけど残念。君はもう、仲間のところには戻れないよぉ? 惨たらしく拷問パーティーさ。さあ、悲劇塗れの喜劇世界にご招待だ!!」
やがてページが自分をも取り囲んでくるのを見て、ゴートは息を呑み、カボチャ頭の悪魔を睨みつけた。
(カオル殿……サララさん。それにフランさんも。申し訳ないが私はもう――)
圧倒的な実力差を肌で感じ、強烈なプレッシャーの中、抵抗する事も出来なかったが。
辛うじて、手は動かせる。
彼が今できるのは、後の人の為の、かすかな痕跡残し程度。
メモ紙すら書く暇もない――爪先一つ、近くの壁に擦りつけるくらいしかできなかったが。
(――後は、頼みますよ)
大量の本のページがやがて渦となり。悪魔諸共ゴートも本の中に吸い込まれてゆく。
だが、吸い込まれるその本の直前。
ぎちり、全力で壁に擦りつけられた指先は、いくばくかの血を壁に残すことができていた。
それだけが、彼がそこに居た事の証拠であり。
彼が何者かによって何かをされた、その遺恨となった。