#4.昼と夜の世界、それと格差
「あんたには今日から、店の子の送り役をやってもらう事にするよ」
ある日の事だった。
下働きにも慣れてきて、フランやイザベラ以外の店の娼婦たちともそれなりに打ち解けてきた辺りで、カオルはマダムから、そんな事を言われた。
いつもの安楽椅子に掛けているマダムに、カオルは膝を折るようにし、姿勢を低くして問いかける。
「送り役っていうのは?」
「本来、ウチは店の中での商売が基本なんだがね……中には、足腰が悪いだとか、体面上外に出せないだとか、いろんな理由で店に来れない客もいるのさ。信頼のおける客に限ってだが……そういう客向けに、娼婦のデリバリーをしていてね」
「なるほど、店の子がお客のところに着くまでの、ボディーガードみたいなもんか」
「そういう事さね」
あんたなら務まるだろ、と、口元を歪めながらに見上げてくるマダムに、カオルもまた「ええ」と力強く頷いて見せた。
来たばかりの頃は知らぬ事ばかりの夜街も、数日も経てば自分の庭のように感じられるくらいには彼はそこに慣れ、親しみを覚え始めていた。
すえた臭いのする街角も、何かと暴力に走りがちな男達も、金に汚い女達も、同じ夜街の人間にはいくらか気も許す。
そういった仲間意識が、少しずつカオルにも芽生えていたのだ。
「あんたはこの街に来て、まだ一週間も経ってないのに妙に順応してるからねえ。本来なら任せないような事でも、任せることにしたんだよ」
「俺より前の下働きの人は、中々そういうのはできなかったって事ですか?」
「できなかったねえ。ま、大体は店の子に色目使って袋叩きにされていたが、ちょいと真面目な奴や訳アリな奴でも、夜街の環境に耐えられずに辞めていくことが多かったから……」
「まあ、ちょっと特殊な環境ではありますがね」
「あんたはそれにも勝るくらい特殊な奴らしいがねえ」
こんな奴は見た事ないよ、と皮肉げに笑うが、カオルはむしろ、それこそが誇らしいのだとばかりに素直に笑っていた。
見た目上、朗らかな光景に見えなくもない。
「送り役は、何か気にする事は?」
「きっちり時間を見るんだ。これを使ってね」
懐から取り出した、銀色のチェーンのついたペンダントのようなものを渡される。
カオルが「これはなんだろう」と開いてみると……時計になっていた。
「懐中時計だよ。あんたの故郷じゃなかったかねえ?」
「記憶がないのでなんとも……でも、お洒落でいいですね」
「ふふ、ありがとうよ。店にも一個しかないもんだ。絶対に盗まれたり壊したりするんじゃないよ?」
見た感じでお高そうには見えなかったが、内部の造りは精巧で、こういった機械仕掛けには明るくないカオルでも、「ちょっと手が込んでるんだな」というのが解る逸品だった。
だが、それ以上に時計を褒められ顔をほころばせるマダムを見て「きっと大切なものなんだな」と、それとなく察する。
「解りました。時間を見るっていうのは……相手をする時間?」
「そうだよ。店で女を抱く分には一晩って決まってるけどさ、デリバリーの時は、基本的に二時間から四時間って決めてるんだ。もしそれを超えたら、遠慮なく相手の家に踏み込んでいいからね」
「怒られたりしないんです?」
「むしろこっちが怒る側さ。それでも相手が怒るなら、好きなだけボコボコにしてやっていいよ。ルールを守らない奴は客ですらないからねえ」
その辺り、客以上に娼婦を大切に思うマダムらしさがよく解る一言であった。
カオルとしても解り易くてありがたく、やるべき事がはっきりしている為、素直に「解りました」と頷けた。
その後、マダムに言われ、早速店の娼婦を指定の場所に連れていくことになったのだが……何故か、フランがそれについていくことになっていた。
「ちょっとお買い物したくなってね。ずっと閉じこもりっきりじゃ心を病んじゃうし」
にっこりとした笑顔でついてくるフランに首をかしげていたカオルだったが、プライベートな理由では拒否する気にもなれず。
今回外出売る娼婦も「フランちゃんはいつもこんなだから」と、さほど気にした様子もなかった。
相手先の住所は娼婦が知っているらしく、ただそれについていくだけなのだが……夜街とその外側とで、明らかに空気が違うのを感じ、「なんなんだろうなこれ」と、不思議な気持ちになってしまう。
そんなカオルを見てか、娼婦二人は「まあそうだよねえ」と、苦笑いしてしまっていた。
「カー君は夜街からの記憶しかないから仕方ないけどさ、本来は『昼街』の方が普通なんだよね」
「昼街……? 夜街の外側の事か?」
「そそ。コルッセアは表向き綺麗な街だから……基本的にコルッセアって指したら皆昼街の方を連想する訳よ。だーれも、夜街の事なんて気にもかけないしねえ」
「酷い話よねぇ! 私達だって必死に生きてるってのにさ! ま、それはそれとして、綺麗な街には憧れもあるんだけどねえ……」
はあ、とうっとりするように呟く娼婦に、フランも「ほんとにね」と同調する。
カオルには解らない感覚だが、夜を生きる女たちには、昼の世界は羨ましい代物らしかった。
「あたしなんてさ、最初は『この街で劇団女優になって世界に名をとどろかせるんだ』って夢を持ってコルッセアに来たんだよ? ま、見習いにすらなれずに見る見るうちに落ちぶれて、今じゃ数居る娼婦の一人。女も25にもなりゃ、嫁の貰い手すらつきゃしないってねえ」
「まあまあ、カーリーだっていつかいい人見つかるよ」
「そういってくれるかい? ああ、ほんとフランちゃんは天使様だねぇ! あんたの存在だけがこの世の癒しだよぉ!」
そのまま末永くあたしを癒やしておくれ、と、ぎゅーっとフランを抱きしめながら、カーリーと呼ばれた娼婦はその頬をフランの頬にぐりぐり擦りつける。
フランもくすぐったそうにしながら「やん、そういうのやめてったら」と、形だけ抵抗していたが、すぐにされるがままになっていた。
「……うーむ」
フランは当然ながら、カーリーも見栄えばかりは十分美人と言える女性なので、とてもいけない光景を目にしているように思えて、カオルは複雑な気持ちになりながら視線を逸らしていた。
カーリーの豊かな胸がフランの肩口に当たる所などは目のやりどころに困るものであったし、それまで妹分くらいにしか思ってなかったフランをよこしまな目でみてしまいそうな気がしたのもあり、あまり長く続くようならどうしたものかと、途方に暮れそうなのもあった。
幸いにしてすぐにそれは終わり、境界を渡る。
互いの街には関門などもなく、いくらでも自由に出入りできるというのに、その名の通り、夜と昼というくらいに、そこを歩く人々には大きな違いがあった。
「見てカー君。昼街の方はね、女の子は娼婦とかしてないの。身体を一切売らずに、お金を稼げるんだよ」
すごいよね、と、道端で露店などを開いて手製のジャムを売っている娘を見ながら、フランが語る。
それが当たり前なのに、夜街の娘にとっては、当たり前ではなかったのだ。
「あたしらが一日かけて稼ぐ額を昼前には稼ぐっていうしねぇ。あんな趣味みたいな露天商でも、皆買ってくれるくらいに裕福なのさ」
「色んなものに価値があるって事だもんね。身体と命とお酒と薬にしか価値がない夜街とは大違いよね」
「……夜街で生きるのって、結構大変なんだなあ」
自分はそうは思っていなかったが。
それはあくまで、マダムの店で働いているからなのだろう、という当たり前すぎる事を、カオルは今更のように思い出した。
行く先々で「マダムのところの」と言われるのは、夜街の人々が、カオルではなく、マダムに対し何らかの畏敬なり恐怖なりをもっているからなのだ、と。
「そこらへん歩いてるだけの人達が、すっごくオシャレな服を着てるじゃない? 私達も誰がお客さんになってもおかしくないくらいには衣服には気を遣うけどさ、でもそれって、結局『夜街での努力』なの。昼街では努力ですらないの」
「……確かに、皆オシャレだけどな」
「でしょー? ちょっと勝てない感じよね」
道を歩く若い娘を見ても、ため息ばかりが漏れてしまう。
それが、夜を生きる少女の悩みのように感じ……それでも、「そこまで卑下する事はないんじゃないか」と思い、カオルは頷けなかった。
「――皆オシャレだけど、フランも結構いい線行ってると思うぜ?」
慰めの言葉、というよりは、カオル自身の素直な感想だった。
今フランが着ているのは、確かにオシャレという面で見れば、この街での流行から大分外れたもののようにも見えたが。
フランにはよく似合っている、とても可愛らしいものだった。
多分、誰が見ても彼女の事を娼婦だなどと思わないくらいには。
道端でよく見かけていた花売り少女達を見ても尚、今まで全く気に掛けなかったのは、店に帰ればフランが笑顔で迎えてくれるからである。
それくらいには彼女は愛らしく、そしてその笑顔にはカオル自身、強く癒やされたのだ。
「え……っ」
あくまで何気なく言っただけのつもりだった。
格好つけも何もなく、その辺の街娘と比べても悪くないとカオル自身が思っていただけで。
だが、そんな一言にフランは眼を見開き、固まってしまった。
「あ、えと……ありがと。服を褒められるなんて、あんまりないからびっくりしちゃった……はは」
それから、なんとかして我に返り、誤魔化すように照れ笑いしながら歩き出す。
「ほらほら、カー君もカーリーも、早くいこっ! お客さん待ってるよ!」
「ああ、そうだな」
先を歩きだしたフランを追いかけながら。
カーリーは笑いを誤魔化すように「そうだねえ」と、口元を抑えながら歩いていたのが、カオルには不思議だった。
先を歩くフランは、顔を真っ赤にしていたのだ。
カオルだけが、それに気づけずにいた。
カーリーを送った後、カオルは時間が経過するまで客の屋敷から離れられない為、フランは一人、昼街をうろつくことになった。
元々予定にあった、昼街への用事である。
(……カー君、本当に私の事、アリだと思ってるのかなあ?)
誰もが笑う明るい街を歩きながら、見習い娼婦の少女は考え事をしていた。
先程の、カオルの発言。
それがただの慰みなのか、本気でそう思ってなのか、計りかねていたのだ。
(カー君て、時々何考えてるか解らないんだよね……無茶苦茶ストレートなようにも思えるけど、本心はもっと……深いことを考えてそう)
これは彼女なりのカオル評だった。
まだ出会って数日間。店の中では一番深く関わっているとはいえ、見ず知らずの異性である。
何を考え、どう生きようとしているのか、それはまだ、はっきりと解らなかったのだ。
(でも、いい人そう……うん、これは間違いないよね)
きっと彼は明るい世界で生きてきた人間なのだろうと、フランは考える。
明るく優しい世界に生きていたから、自分達にも優しく、明るく振舞えるのだと。
その前向きさ、ひたむきさはきっと、優しい世界に居るから得られるものなのだと。
だからこそ、とても尊く思えた。
「……私も、あの娘達みたいになれていたら……」
視線の先には、とても可愛らしい格好をした街娘の姿。
隣には恋人なのか、若い男がいて、二人とも笑っていた。
昼街では当たり前の、幸せそうな光景。
二分の一の片割れにしてはあまりにも眩し過ぎる、彼女には手の届かない世界。
(なれる訳、ないかな)
首をブンブンと振って、そんな理想の世界を視界から追いやる。
自分は夜街の娘なのだ。
そんな汚らわしい世界に生きた汚れ切った娘が、幸せに生きられるはずがない。
マダムはいつも言っていたじゃないか、「幸福な者がいれば、必ず不幸な者も生まれる」と。
自分はその不幸な方なのだと、そう言い聞かせ、諦める事でそれ以上の苦痛を受けないように考えていた。
今も、きっとそう。
(カー君は……違うかもしれないけど。私はきっと、幸せになんてなれないし)
人生からして負け犬だった。
だからきっと、自分は生きている分マシな方なだけで、一生負け犬のママなのだと。
店でそんな事を呟いていると、いつもそれを聞きつけたイザベラが「負け犬とは何事よ!」と、自分の事を馬鹿にされたかのように思いながら怒る訳だが。
今ではそんな茶化しも入らず、ただただアンニュイになってしまう。
本当は、もっとオシャレをしたかった。
流石芸術の都と呼ばれるだけあって、道行く人々は皆オシャレで、女性は化粧から何から、自分達とは明らかに違う育ちの良さが見えていた。
自分と同じくらいの年頃の少女でも、幸せと希望に満ちた、とても明るい表情をしていたのだ。
自分なんかと違う、本物の明るさを持つ、星のように輝く人生。
それがとても美しく……得難く……そうして、羨ましかった。
スタート地点からして違うのだから、そんなものが手に入るはずはないのに。
隔てる物すらない住まう街と街の違いが、どうしてここまで絶望的なまでに大きいのかと、少女は感じずにはいられなかった。
「――民主主義を広めようっ! 僕たちは、それぞれが世に対しての権利と責任を持つべきなんだ!!」
「私達の身は、私達が守るのよっ! 皆、人任せではなく、自分達で考えて世の中をよくしましょうっ!!」
街にいくつもある小さな広場に差し掛かった辺りで、フランは、最近よく目にする光景と鉢合わせた。
(これ……例の民主主義の……)
近年になって俄かに活動が広まった『民主主義』を標榜する集団。
このコルッセアでも活動をはじめていたが、最初は多くの者が怪訝な面持ちで遠巻きに見る程度のモノだったのが、今では随分とギャラリーも増えていた。
「私達も応援してるわ、頑張って!」
「あんたらの活動見てると、確かにその主張も正しく思えてくるぜ。手伝わせてくれ」
それも、フランのようにただ見ているだけでなく、時としてわざわざ近寄り、応援したり、実際に参加しようと声を掛ける者もいる。
遠巻きに見ている者も、多くは好感を持って見つめているようで、バカにしたような事を言う者は、一人だっていなかった。
(……気持ち悪いなあ)
フランはというと、そんな光景を気味悪く感じ、すぐに立ち去ってしまった。
集まった人々が口をそろえて「民主主義」とやらの素晴らしさを語るのが、フランにはどうにも詐欺のように思えて仕方なかった。
もしかしたら純粋に国を思って、民の為に何かしようと思ってやっているのかもしれないが、フランにはそれがとても偽善的に思えたのだ。
(自分達が無理に主権握らなくたってさ、国は、貴方達に幸せな生活をあげてるはずなのに)
自由を、権利を、などとどの口が言うのかというほど、彼らには自由があり、権利があるはずなのに。
自分達と比べられないほどに豊かな暮らしを享受している人間が、より素晴らしい人生を送りたいからとそれを望むのが、フランにはどうしようもなく欲深く、あさましく感じられたのだ。
(あの人達だってそう……夜街には絶対に顔を出さないくせに、夜街では活動もしないくせに、昼街でだけ好き勝手言って……! まるで、私達は存在すらしてないみたいな! 納得、行かないよ!)
人は生きている限り、等しく同じはずなのに。
生き様や行いで生活に違いが出るのは仕方ないとしても、間違いなく自分達はそこに生きているのに。
何故あの活動家の人々は、そんな自分達すら無視して、裕福な者ばかり相手をするのか。
そこに、偽善の最たるものを感じてしまい、胸の奥に言い知れないほどの疑念が生まれてしまっていた。
(……結局、あの人が力を借りたいのは、裕福な人達だけなんだ。仲間だと思ってるのは、自分達と同じ生活してる人だけ。自分より貧乏な人の事は気にもせず、助けようともしてないんだ……)
他人に力を借りようとする事そのものが間違っているのは解っていたが。
それでも、ああいった聞こえばかりは良いことを言っている輩が、その実都合の良い相手にばかり頼ろうと集っていくのを目にするのは、フランにとってとても気分の悪いことだった。
だから、彼女はああいった手合いが、大嫌いである。
救う気もないのに人類救済を叫ぶ悪徳宗教のように感じられたのだ。
それとの違いが、全く分からなかったのだ。
「はぁっ……はぁっ……」
気が付けば、駆け出していた。
自分の胸の中をぐるぐると駆け巡るわだかまりが、憤りが、彼女を意味のない疾走へと至らしめていた。
だが、体力のない少女にはそれはとても辛く、すぐに息を切らし、立ち止まってしまう。
都合よく、すぐ近くに公園があった。
誰も居ない、無駄にだだっ広い公園。
よれよれとベンチに腰掛けながら、また考えが止まらなくなる。
こんな無駄なスペース、夜街にはないというのに。
(――ダメッ)
またネガティブな方に考えそうになって、頭をブンブンと振る。
憧れなのだ。この明るい世界が、幸せな世界が、好きなはずなのだ。
だというのに、いつもいつも夜街と比べてしまい、報われていない今の境遇がどうしようもなく歯がゆく感じてしまい、ネガティブな思考に陥る。
こんな時、フランは自分自身を責めてしまう。自己嫌悪してしまうのだ。
(こんな事ばかり考えちゃ、ダメなのに。もっと、明るく笑わないと……笑えないと、いけないのに)
笑顔は、彼女が良く褒められる部分だった。
誰にだって愛嬌よく笑いかけ、明るく振舞う。
それは誰から見ても愛らしいと感じるであろう、彼女の美点。
彼女が尊敬するマダムもまた、「そうやって笑ってる間は皆が可愛がってくれるさ」と認めてくれるほどの武器だった。
だから、どんな時でも笑っていなくてはならなかったのだ。
辛くとも、悔しくとも、情けなくとも、惨めであろうとも。
笑って笑って、少しでも魅力的な女の子でなくては、昼街の女の子にどう足掻いても勝てっこないのだから。
「――あっ」
結局、自分は夜街に堕ちた自分自身の事を卑屈に感じ、意味もなく昼街の女の子に対抗意識を持っていただけに過ぎないのだと気づかされる。
それが、どうしようもなく情けなくて、涙がこぼれた。
そんな事、考えたくないのに。
ただただ、憧れていたものに、そうなりたいと願っていたものに少しでも届けばと思っていただけなのに。
どんどんと自分の心が薄汚れた、汚らわしいものに取り込まれていくかのように感じて、フランには、それがとてもとても怖くて仕方なかった。
背筋が冷えたように感じ、寒くもないのに肩を抱き、身を縮こませる。
傍から見たら変な子に見えるかもしれないのに、今はもうそんな事も考えられず、ただただ、その思考の下落が恐ろしく、早く収まって欲しいと願っていた。
「――大丈夫ですか?」
そんな中、不意に声を掛けられ「えっ」と、顔を上げてしまう。
見上げればそこには、黒髪黒猫耳の、可愛らしい女の子が立っていた。
街娘のような出で立ちの……しかし、街娘にはない、不思議な雰囲気を漂わせる猫獣人の女の子。
そんな少女が、自分を心配そうに見ていたのだ。
「あ、う、うん……大丈夫。ちょっと、気分が悪かっただけだから」
「お連れの人とかはいないんです? あまり酷いようでしたら、お医者様にかかっては……?」
「連れはいないし、お医者さんに掛かるお金なんてないから、大丈夫」
純粋に心配してくれているだけのようだが、フランにはなんとなく、それですら敗北感を覚える出来事のように思えて……速やかに、この場を立ち去りたくなってしまった。
なんとか立ち上がり、歩き出そうとし――しかし、袖を掴まれてしまう。
「待ってください」
「え、あの……放して」
「失礼しますよ――」
「あっ」
やんわりと腕を振って剥がそうとしたのだが、その瞬間、おでこに手を当てられ、動けなくなってしまう。
ひんやりとした冷たい手。
「――やっぱり、ちょっと熱がありますよ。待っててください、今、ハンカチーフ濡らしてきます」
「あ、いや、私これくらいはいつもの事で――」
「いいから座っててください! 病人が無理をするのはダメですよ!」
びしぃ、と、指を立てながらはっきりと言ってくる猫耳少女の剣幕に押され、フランも「はい」と返す事しかできなくなってしまった。
そのまま走り去っていく少女を見ながら「なんか変な事なったなあ」と、ぼんやり思考を巡らせようとする。
だけれど、先ほどより思考がまとまらず、上手く考えられなかった。
むしろさっきまで変な事を考えてしまっていた方が異様だった様にも思え、「なんであんなこと考えちゃったんだろう」と、後悔してしまう。
きっと、悪いことばかり考えていたから、気が滅入って熱が出たのだろう、と。
そうこうしている内に少女が駆け戻り、手に持った濡れたハンカチーフを「はい」と手渡してきた。
断ろうかとも思ったが、眉を吊り上げ「どうぞ」と押し付けてきたため、抗えずに受けとり、額に置く。
ひんやりとした、冷たい感覚。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それから、安心したように隣に寄り添うように座ってくる。
隣り合うと丁度姉妹のような体格差で、華奢なはずのフランでも「小さいなあ」と思えてしまう。
そうして、イザベラとの会話を思い出す。
『いいかいフラン! 犬獣人は大丈夫だけど、猫獣人は、見かけたら無視するんだよ! 関わっちゃダメ!』
『えー、どうしたの急に。何の前触れもなしに』
『なんとなく昔の事を思い出しちゃったのよ! 猫獣人ってさ、ほんと嫌味ったらしい奴らでね!? あたしら犬獣人を指して『食い意地が悪いからしょっちゅう虫歯になる」とか「ご主人様の前では従順だけど他の人の前では偉そう」とか適当な事言ってくれる訳! おかげであたしら犬獣人は、あらぬ風評被害を受けた事だってあったんだから!』
『どっちもそんなに間違ってない様な……』
『と・に・か・く! あいつらは性格が悪いの! めっちゃひねくれてて我が侭で、おまけにナマケモノで! 自分達のかわいらしさを自覚してる、厄介な奴らなのよ!!』
『そ、そうなんだー、あははは……』
その時のイザベラの剣幕はすさまじかったが、フランは「どこまで本当なんだか」と聞き流していた。
ただ、彼女の中の数少ない猫獣人知識も、またイザベラ経由で得たものだった為、「本当のところどうなんだろう」と、気になりもする。
どうしたものかと悩んでいた所で、「あの」と、また少女から話掛けられた。
「お姉さんは、お疲れなんですか?」
「えっ」
「あ、いえ……くたびれたようにぶつぶつ呟きながら、何度も頭を振ってましたから……何か辛いことがあって、考え事をしていたのかなあって」
「……それは」
見られていた。
それがフランにとって、とても恥ずかしいことなのは間違いなく。
カオルに褒められた時とは別の意味で、フランは赤面してしまう。
「えっと、ちょっと嫌なもの見ちゃって。ネガティブになってただけだから。別に、疲れてたとかじゃないよ?」
「嫌なもの、というと?」
「民主主義の人たちの……なんていうのかな、集まり? あれをみて」
「ああ、なるほど……」
ため息をつくと、合わせるように少女もため息をついた。
「私も、あれはちょっとエネルギッシュ過ぎるように思えますねえ。この国の人、皆あんな感じなんです?」
「皆がああじゃないとは思うけどねえ……ただ、周りの人がやってると、『自分も』っていう気になる人は多い気がする」
「なるほど、同調しやすいんですね」
「そうする事で安心できるしね……実際、不満もあるんだろうけど」
フランから見ると取るに足らない程度の不満。
そんなものが、運動の参加者たちにとってはとてつもない不満として膨れ上がっているのは、フランも知っていた。
だからこそ余計に馬鹿げていると感じられるが、隣に座る少女も「そうですよねえ」と、こくこく頷いてくれたのが、何故だかフランには嬉しかった。
「皆そんなに生活が苦しくもないのに、なんでデモなんて……そうまでして望む自由に、何か憧れでもあるんでしょうか?」
「解んない……皆、熱にうなされてるんだよきっと。私から見たら、皆幸せで明るい人生を生きてるはずなのに」
この国の中の、間違いなく上澄みに該当する部分に住んでいるコルッセアの昼街の住民達が抱く不満など、夜街の人間からしたらただの贅沢に過ぎないのだ。
実に馬鹿げている。実に欲深い。
そんなの時間とリソースの無駄でしかないのに。
そんな事をするくらいなら、少しでも今の人生をより幸せにできるように、恋の一つもすればいいのに。
恋しているなら、より充実するように、相手のいいところの一つも探す努力をした方が、よほど幸せになれるだろうに。
(……あれっ?)
……そんな、思考があらぬ方向に脱線しそうになったのを感じて、フランは困惑した。
先程までネガティブな思考に陥って辛くなっていたのに、一瞬だけ、頭の中がピンク色に染まったように思えたのだ。
そして、自分を不思議そうに見つめる少女に「なんでもないの」と慌てて反応する。
「私、好きな人が居るんですけど」
「……えっ?」
まるで自分のそんなピンクな思考を見透かしたかのような少女の言葉に、フランは酷く動揺したが、すぐに自分と関係ないことなのだと解り、なんとか取り繕おうとする。
少女は構わず、正面を向いたまま、話を続けた。
「その人も、やっぱりああいった運動している人達の事、理解できないみたいで。だけど、お祭り感覚に思えるらしくて、運動そのものに参加するのは、結構楽しいって言ってましたね」
「理解できないけど、楽しいの?」
「ええ。あんな運動、放っておけば国の体制が瓦解しかねない、場合によっては参加してる人達自身の人生が台無しになりかねないくらいに過激な事のはずなのに……でも、お祭り感覚なんですよね」
「……お祭り感覚の、革命」
それがどれだけ恐ろしいことなのか、解りもせずに。
だというのに、人々はその雰囲気に乗せられ、参加してしまう。賛同してしまう。同調してしまう。
あまりにも迂闊過ぎないか。あまりにも異常過ぎないか。
そんな疑問を抱きながら、フランは少女の顔を見つめる。
……真顔だった。
見たフランが凍り付くくらいに、美しいからこそ恐ろしいとも思えるような真顔が、そこにあった。
冷めた視線が、民衆が今でも騒いでいるであろう場所を見ているように、そうフランには感じられた。
「きっと、他人事なんですよ、皆。騒ぐのが楽しい、皆と一体になって何かをしていると充実する……そんな感覚で、皆で遊んでるんです」
「貴方には、そう見えるの?」
「ええ。とっても馬鹿らしく思えます。『そんな事しなくたって貴方達はすごく救われてるんですよ?』って、『今の貴方は世界的に見てもすごく幸せな人生を歩んでるんですよ』って、教えてあげたくなるくらい」
なんでそんな当たり前に気づけないんだか、と、少女は小さくため息をつき。
そうして、それまでの真顔を隠すように、にっこりと微笑んだ。
(……私達と同じだ)
この素性も知らぬ少女から感じられる、何かを隠すような笑い方。
フランはこれに、娼婦である自分達に近い何かを感じずにはいられなかった。
出で立ちから何から綺麗で、きっと娼婦とは縁遠い生き方をしている女の子。
だけれど、そんな『何か』を隠さなくてはならない様な生き方をしている、同類なのだとも。
「不幸なんて、どこにでもあるのに。誰もが皆それなりに幸せで、それなりに不幸なんです」
また、語りだす。
気が付けばフランは、少女の言葉をどこか、聞き逃してはならないもののように感じられていた。
そんな、確かな力があるように思えたのだ。
「……私も?」
「ええ、貴方も。そして私も。今幸せそうに歩いてる街の女の子だって、楽しそうにお買い物をしている家族連れだって、恋人と喧嘩してる男の人だって。みんなみんな、幸せで不幸なんですよ」
「貴方の話す事は、深淵すぎてよく解らない」
「そうですか? まあ、解らないなら聞き流してくださいよ。深い意味はありませんから」
ただの戯言です、と、眼を閉じながら。
しかし、頭の上の耳はぴくぴくと動き、フランへと向いていた。
だからそれは、自分に対しての反応待ちなのだと理解し……フランもまた、眼を閉じた。
「よく解らないけど、面白い話だわ」
「そう言ってもらえて何よりです。私、お喋りのプロですから」
人と打ち解けるの得意なんですよ、と、眼を開いた彼女は愛らしく微笑んだ。
その笑顔は本物のようで、何かを隠した様子もなく……純粋に、見たフランが「本当に可愛い娘ね」と思えてしまう、そんな眩い存在だった。
その後もいくらか少女と会話を続けたが、結局最後まで彼女の名を聞く事は出来ず、陽が落ちる前に別れることになった。
帰路につきながら、少女との会話を思い出し、口元が綻んで行くのを自覚する。
(面白い娘だったなあ)
年も近いであろう、猫獣人の女の子。
イザベラがとことんまで貶めていたからというのもあるが、「思ったより悪い子じゃなさそうだった」という感想が前に出てきて、好感に繋がる。
とても賢い子なのか、フランの受け答えに対してすぐに反応し、スラスラと言葉が出てきて、フランが答えによどんだりするとすぐに「それはそうと」と話を変えたりして、気まずくならないように気を遣っているのも感じられた。
娼婦は話術もある程度できなくてはならない。
フランは男が苦手なのもあるが、この話術がそこまででもないのもあって見習い生活から抜け出せずにいたので、聞いていて「この娘の話し方は参考になるなあ」と、素直に感心してしまったほどである。
(あの娘……人を探してるって言ってたなあ)
名前こそは明かしてくれなかったが、好きな人が居て、その人を探しているんだという事。
その為にコルッセアに来て、やはり自分と同じようにあの『運動』を目の当たりにし、逃げるように公園に来たのだという話を聞いて、フランはちょっとした仲間意識と共に、「ちゃんと見つかるといいなあ」と、応援したい気持ちにもなっていた。
昼街での事なので、その人の名前や特徴を聞いてもどうせ見つけられないと思い聞かなかったが、今にして思えばそれすら「ちゃんと聞いておけば良かったかも」と、ちょっとした後悔を覚えるほど、親近感を感じていたのだ。
(また会えたら……その時は、彼氏さんが見つかってるといいなあ)
どんな人なのかは解らないが、あんな可憐な少女が好きだとはっきり言うくらいなのだから、きっとお似合いなくらいに格好いい人か、とてもいい人なんだと思い込み。
そうして「ああいう娘には幸せになって欲しいわ」と、優しい気持ちが胸いっぱいに広がっていくのを、フランはこそばゆく感じていた。
(自分の恋すらまだなのに、人の恋を応援するのも、なんか変だよねえ)
馬鹿だなあ私、と、にやけそうになる顔を抑えるのに苦労しながら、フランは夜街へと戻っていった。