#3.夜街歩きは誘惑との戦い
「13番街ならその先の道を抜けた先、突き当りを左だよ」
夜街の昼。
人通りのまばらな細道の中、カオルは迷いそうになりながらも、街角に立っている人に道を聞きながら目的地へと急ぐ。
「ありがとう。助かるよ」
「まあ、『マダム』のところの下っ端だからねえ。ぞんざいには扱えないわ」
「ははは、それじゃ」
「あ、でも気をつけなよー、13番街のゴロツキはちょっと性質が悪いからねえ」
マダムからの『遣い走り』の最中であった。
内容は簡単で、「13番街の『シャトルーゼ』でワインと指定の食材の配達を依頼してくる事」。ただのおつかいである。
だが、ただのお使いも見知らぬ街では道も解らぬ。
予めマダムから「道が解らない時に聞けば教えてくれそうな人」の特徴を聞いていたのでここまでたどり着けていた。
(皆、俺がマダムの店の人間だっていうのを知ってるんだなあ)
何故それを知っているのかはカオルには解らなかったが、聞く人皆が「ああ、あんたが」と訳知り顔になって話を聞いてくれたので、漠然とだがそのように思えていた。
人が善いから教えてくれたというよりも、「マダムの店の人間だから」という点が何より重要なのかもしれないと、そんな事を考えながら、道を進む。
ほどなく、13番街らしき通りに入る。
怪しげな店や廃墟を思わせる様な荒んだ住居、それからモーテルなどが立ち並ぶ、すえた匂いのする道であった。
先程からちらちらと小脇の路地前に、年端もいかない様な少女達が立っているのが見えていたが、これはマダムから「気にしなくていい」と言われたので、気にしないようにしていた。
手には編み込みの粗末な手持ちカゴと、カゴ一杯の小さな花。
皆一様に模様や色の違うスカーフを頭に被り、薄暗い通りには似合わぬ明るい色の服を着ていた。
「お兄さん、お花はいかが?」
「まだ新鮮で綺麗なお花よ? 銀貨3枚でいいわ」
「今なら空いてるし、たっぷりサービスしてあげるから……」
その前を通り過ぎる度に可愛らしい笑顔で声を掛けられる。
時にはスカートをめくり太腿を露わにしたり、胸を自分で揉んで見せたりと誘惑してくるのが目に入りドキリとさせられるが、努めて気にしないように、足を止めないように心がける。
話を聞いてあげたいような、無視して通り過ぎるのが悪い気がするが、『彼女達』は仕事でそれをやっているだけなのだ。
そして今のカオルは、仕事で遣い走りをしている下働きであった。
『夜街の至る所に、店にすら所属してない野良娼婦が立ってるんだ。大体は路地裏の前にね』
『野良娼婦……ですか?』
『野良娼婦には、二種類ある。一つは、親から強要されたり、それしか金を得る手段が思いつかない少女が中心になってやる「花売り」。そしてもう一つは、店に所属できないくらいとうがたった女が、それでも生きる為か、あるいはセックスの快楽欲しさに捨て銭で身体を売る「マッチ売り」』
『……花売りは、なんかやな感じだな』
『ま、やってる事は児童売春だからね。ただ、そんなでも売るモノがあるだけマシさね。売る事すらできなくなったら死ぬしかないのがこの夜街だからね。どんな惨めな商売でも、銭が稼げれば生きていける』
『先は長くなさそうだけどな……』
『まあね。とにかく、夜街を歩いてて声をかけてくるのは大体そんな奴らさ』
『男なら?』
『詐欺師か恐喝を疑いな。少なくとも男娼はそんなところで客取りしてないからね。「良い店を紹介するから」なんて言われても絶対についていくんじゃないよ。この夜街はね、騙された奴が悪いっていう考えが蔓延ってるからね』
『……肝に銘じるぜ』
『とにかく、道に迷ったらさっき教えた通り、街角に立ってる人らに聞きな。そいつらはその街の「顔役」の手下だからね』
『了解したぜ』
出発前のマダムからの注意を思い出し、ありがたいと思いながらも若干の嫌な気分のまま、街を往く。
ほどなく、目的地となる『シャトルーゼ』の店看板が見え、安堵のため息が出た。
近づいてみるとそこはバーになっていて、押し込み式の簡易的なゲートが設けられているだけで、店の様子が外からでも見える。
まだ昼下がりだが、客はいくらか入っているらしく、すでに営業しているのが見て取れた。
「いらっしゃい」
店に入るやすぐにバーのマスターから声を掛けられる。
マスターなどと言ってもスーツ姿の洒落た感じの男ではなく、腕っぷしの強そうな、丸太のような太いスキンヘッドの男だった。
刺青の入った腕で近くの樽を担ぎ上げ、別の場所に動かしているのを見て「怒らせたらやばそうな人だな」と、背中を嫌な汗が流れる。
「どうぞ、席に」
「ああ、いや、配達を頼みたいんだ」
「何が目当てで?」
「これを見てくれ」
マダムから渡されていたメモ書きを手渡すと、マスターは「ふむ」と顎に手をやり、少し考えこむ。
「この文字は……あんた、マダムのところの下働きかい?」
「昨日からね。今日が最初の仕事さ」
「なるほどな。マダムのところのなら適当な仕事はできねぇか。解った、配達しとくよ。時刻はいつも通り夕方、開店時間前で良いんだろ?」
「そう聞いてるぜ。頼んだ」
「解ったぜ。要件はそれだけか?」
「それだけだな。よろしく」
「あいよ」
いかつい顔つきではあったが愛想が悪いという程でもなく、多少口調の粗さはあったものの、悪い人ではなさそうな印象があった。
ただ、あくまでそれは自分がマダムの店の人間だからという部分にあるのかもしれないと、そんな事をうっすら思いながら店を出る事にした。
「――おっと」
「む……?」
押し扉を抜けようとしたところで、別の客が入ろうとして、すれ違う。
入り口が狭かったのでぶつかりそうになったが、咄嗟に避けたためそれは避けられた。
――だが。
「おい、お前」
「うん?」
「見ない顔だな? お前、何しにこの店に来た?」
「うちの店に酒と食材の配達依頼の為だぜ」
突然絡んできたこの男に「なんなんだこいつは」と思いながらも、その人相の悪いいかにもな顔を正面から見据え――目線が合う。
「何睨んでんだてめぇ?」
「睨まれたと思ってるのか? これで?」
ちょっと心がひ弱過ぎないかこいつと思いながら笑いかけると、すぐに拳が飛んでくる。
完全に不意打ちだった。だが、かわせないほどの速度でもなかった。
――かわす価値すらなかった。
そんな風に感じたのだ。そんな確信があった。
「な……てめぇっ」
「なんだあんた。それでパンチのつもりか?」
身をよじりすらしない。悠然と立っていた。
謎の確信ではあったが、事実、顔面をもろに殴りつけられたにもかかわらず、痛くもかゆくも感じなかったのだ。
そんな程度では何も感じないほどに、彼の身体は痛みに鈍感になっていたのだ。
意識が戻った直後のあの激痛に比べれば、はるかにマシと思える程度の、蚊が刺すよりも乏しい痛みである。
気にするほどの価値もなく、笑ってしまった。
二発目のパンチが腹に飛んでくる。
だが、その拳は彼の腹筋を押しつぶせるほどの威力はなかった。
追撃に躊躇が無い辺り相応に喧嘩慣れしているらしいのは解ったが、それだけである。
「……あっ?」
間の抜けた声と共に、男がカオルの顔をまじまじと見ていた。
恐らくは「なんで」「どうして」という不安混じりの表情で。
小さなため息とともに、カオルはこちらを見ていたマスターへと顔を向ける。
「マスター」
「うん?」
「こいつ、叩きのめしてもいいのか?」
「店の外に連れてってくれればな」
「オーケ、解ったぜ」
ぐい、と、男の手を引く。
顔を殴りつけた時などはドヤ顔になっていたのに、今では困惑の表情のまま、カオルに手を引かれそうになって顔を青ざめさせていた。
「おっ、お前っ、な、何……放せっ、放せよっ!!」
「あーあ―聞こえないなー。店に迷惑かけちゃダメだろ―」
ぐいぐいと引く。力の強さなどは比較にならないほどカオルの方が強かった。
ただ腕を引かれるだけで、男は自分と相手との力の差を思い知る。
ここにきて、店から出たら自分がどうなるのか理解した男は、なんとか店から引きずり出されぬように留まろうとするが……掴まれた腕はどうあっても剥がせず、足をどれだけ踏ん張っても、次の瞬間にはすぐに引きずられてしまうのだ。
「やめっ――やめてくれっ、わ、解った! 俺が悪かったから!!」
「知らんよ。店に迷惑かけちゃダメだろ?」
「悪かった、ごめんって、調子に乗ってただけで――」
「調子に乗ったら初対面の男にいきなり殴りかかるのか? あーあ、殴られたほっぺたがすごく痛いぜー」
「ううっ、それは……っ」
ずい、と、店の外に引きずり出し。
カタカタと震える男に、飛び切りのスマイルで応じてやった。
「――マッシュ。今のはお前が悪いぜ。そいつぁ『マダム』の店の遣い走りだ。お前、マダムに喧嘩売っちまったんだよ」
「ええっ!? そ、そんな……お、俺っ、そんなつもりじゃ――」
「うるせぇ――よっ!!」
「ぶぎゃぁっ!?」
店の中からのマスターの声に反応した男――マッシュは、自分が何を相手にしたのかようやくその一端を理解し――そして、全力で殴りつけられた。
鼻っ柱に叩き付けられた拳は一撃でマッシュの身体を通りの壁にまで浮かし、マッシュは近くに転がっていたゴミバケツを巻き込みながら、吹っ飛んで行った。
「ひゅーっ」
「強ェなあ兄ちゃん」
「あいつに喧嘩売るのは止めた方が良さそうだな」
「ああ、違いねぇ。マダムの店の奴らしいし、な」
店の客らが口笛を吹いたりしながらカオルを称賛する。
――それでよかった。
『13番街の奴らはここらじゃ特に面倒くさい奴らでねえ。特に余所者には厳しく当たる事が多い。あたしの店のもんだって伝わってても何かしてくる事はあるかも知れないねえ』
『そういう時は、逃げるしかないんですかね?』
『いんや? むしろ可能な限り返り討ちにしてやりな。ここは文明とは程遠い中世の世界だよ? 女はその身体の売れ行きが、そして男は拳の強さが立場を良くしていくもんだ。ひ弱な奴には遣い走りすら務まらないけどねえ?』
『なるほど。それならなんとかなりそうだ』
(案外、なんとかなりそうだな)
力ははっきりと見せた。
もっと面倒に絡んでくる輩かと思ったが、都合よく向こうから殴りつけてきてくれたのだから大助かりである。
これでもう、ここらで安易に喧嘩を売る輩はいないはず。
その為の安全を、今の小芝居で手に入れられたのだから。
ゴミ塗れになって意識を失ったマッシュを捨て置いたまま、カオルは、花売り達に声を掛けられ申し訳ない気持ちになりながら帰路を急いでいた。
用事は済んだ。だが、起きたことそのものは報告する必要があると思ったのだ。
あの男――マッシュが何者なのかは解らないが、店に迷惑がかかるかも知れないのなら伝える必要があるだろうと考え、急いでいた。
「――いやあ、見事なお手並みだったねえ」
不意に背後から声を掛けられ、ぴた、と足が止まる。
ぞわりとした悪寒が背筋に走り、無視できなかったのだ。
振り向くと、この街に似つかわしくない、黒いスーツ姿の品のよさそうな銀髪碧眼の若い男の姿。
頭には黒いシルクハット、そして、足が悪い訳でもないだろうに、高価に見える杖を持っていた。
「あんたは?」
「タダの通りすがりの貴族だよ? 君は?」
「俺は……タダの通りすがりの遣い走りだぜ」
相手に合わせておどけて返し、笑いかけてみる。
だが、相手の素性がはっきりとしなかった。
だから、油断ならないと思えたのだ。
先程のマッシュなどと違い、楽観できる相手ではない、と。
「くくく……そのようになっても尚、君はまだ正気を失っていないらしい。素晴らしい! 実に素晴らしいよ。あんな悪徳宰相なんかより、余程魅力的に見えるねぇ!」
ぱちぱちと拍手をはじめ笑いだす謎の自称貴族に、カオルは心底君の悪さを感じながら、じ、と睨みつける。
詐欺師か、あるいは――いずれにしても、ロクな相手ではない。
無視して通り過ぎるに限る相手だった。
だが、無視していいような相手ではないようにも思え、歯をぎり、と噛んでいた。
自然、拳に力が入る。
「俺に話しかけた用事は?」
「君に幸福をあげたいんだ」
「……幸福?」
「そうさ。君、記憶喪失に苦しんでいるだろう? 手持ちの金もなく、生きるのに辛い夜街なんかで暮らす羽目になっている。辛いとは思わないかい? 助かりたいと、そう思わないかい?」
「いや、別に?」
「そうだろうそうだろう誰だってそうなんだ、だから貴族の私が助けて――うん!?」
カオルの返しが全くの想定外だったのが、この男の反応で見て取れた。
きっと誰もが「確かにそうだ」と頷くと思っていたのかもしれない。
だが、カオルは――現状に、さほど不満はなかったのだ。
それというのも、フランという明るい少女の存在が大きかった。
「確かに金はないけどさ。それはおいおいなんとかするし。今は俺の出来る限りの事をやるから、幸福とかそういうのはいいや」
何よりこの男がうさん臭く見えたのが大きかった。
これが綺麗な街で、本当にみんなが親切な中この男がそれを言ってきたならまだしも、こんな夜街で場に不似合いな格好をして男がそんな事を言うのだ。
そんなの、カオルでなくとも騙される事はあるまい。
「いや、宗教の勧誘とかじゃないんだよ? 別に詐欺でもないし――」
「結構です、間に合ってます」
なんかこういうの前にもあったなと、どこかのいつかを思い出しそうになりながら。
ちょっとだけ懐かしい感覚に浸りながら、手を前に突き出しノーを突きつける。
この辺り、カオルは容赦なかった。
「あのっ、話をっ! 私の話をだね――っ」
「じゃ、そういう事で!」
もう、背筋がぞくりとするような雰囲気もなく。
せめて話を聞いてほしいとばかりに慌てだす男を無視し、カオルは先を急ぎ去って行ってしまう。
男も追いすがるまではする気が無いのか、そのままぽつんと、置いていかれる形でその場に棒立ちしてしまっていた。
振り向いてそんな感じだったのが見えて「ちょっと可哀想な事をしたな」と胸は痛んだが、それはそれとして「でも店に戻らないとな」と、別の使命に置き換え、忘れることにした。
恐らくは夜街特有の変な人か何かなのだろうと、そんな事を考えながら。
「――マダム。フランシーヌ嬢はまだ私に抱かれる気はないのかね?」
裏口から店に戻ると、フロントから声が聞こえてきた。
店が開いている時間帯はフロントに入るなと言われていたが、まだ開店時間にはいくらかあり、近づける。
だが、話声の雰囲気から、それは憚られた。
「悪いねえアージェスさん。あの娘の男嫌いは治る様子すらなくってねえ」
「だが、それでは娼婦として勤まるまい? 他の荒っぽい客に無理に抱かれるよりは、私の相手をした方がまだいくばくかマシだと思うが?」
「アージェスさんにはウチの店の娘も良くしてもらってたからねえ。私としても常連さんには気を回したいところだけどさ……でも、まだ無理だねえ」
「夕べは?」
「女の客が来たからそっちの対応を任せたよ。ウチの店はビアンも来るからねえ」
「ふん……同性愛者か。汚らわしい。女は男に抱かれるべきだろうに!」
「ま、フランにとっても技術研鑽に役立つから、悪い客じゃないさ。おかげでフランも食い詰めずに済んでる」
どうやらフランに関わる話題らしい、という事と、話しているのがマダムと常連客らしいと解り、ひとまずは肩の力を緩める。
このような街である。もしかしたらマダムが良くない輩に絡まれているのかと思ったが、そんな事はないらしい。
「……私の美しい花が、汚い雌猫共に弄り回されているなど……クソ! マダム、なんとかしてくれ! これではフランシーヌ嬢が同性愛者になってしまうではないか!」
「まあまあ。今のところあの娘はそっちには転んでないから安心しなよ。でもねアージェスさん、こういうのは本当に時間の経過が大事なんだよ。悪いけど、今日のところは引き取っておくれ」
「……また来る。確かに、フランシーヌ嬢を傷つけてまで奪いたいとは思っていないからな。だがなあマダム。私を怒らせるなよ?」
「精々気を付けるようにするさ。またのお越しを」
一時、男が憤慨していたようにも思えたが……すぐに冷静さを取り戻したのか、結局何事もなく、その常連らしき男は去っていったようだった。
「――しつこい男ねえ。今日も来てたのね」
「うぉっ……イザベラ」
不意に真横で声がして、驚かされる。
彼が見てみれば、イザベラがネグリジェ姿のまま横に立っていたのだ。
どうやら一緒に聞き耳を立てていたらしい。
「あの人って、店の常連なのか?」
「ええ、そうよ。正確には常連だった、かな?」
「過去形なのか」
「最初は良い客だったんだよー? 私も何度か相手したけど、あっちがロクに役に立たないらしくてさ、ほとんどお話だけしたり、ちょっと相手だけして終わるの。そういう客って大体は金払い悪くて支払いになってから渋るんだけど、あの人はちゃんと全額払うし、娼婦相手でも紳士的に振舞うからマダムも良い客だって思ってたみたい」
楽な相手だったんだよねー、と、しみじみとした口調で語りながら、しかし視線はジト目のままである。
「ある日ね、たまたま私も含めて他の娘が皆お客がついてた時があってさ。その時にフランが『お話だけなら』って事で相手をしたんだけど……なんか、めちゃくちゃ気に入っちゃったらしくてさ」
「フランを? まあ、愛想好いし、話してて面白いもんな」
「それだけじゃないみたいだけどねえ」
深いため息をつきながら、カオルの方を見やる。
諦観。遣る瀬無さ。
そんな感情が見て取れる、そんな顔だった。
「あの客さ、話してる間にそういう気になっちゃったみたいで、フランに襲い掛かったんだよ。なんか、本人的にもすごい珍しい事らしくてね?」
「……フランに欲情しちゃったって事か?」
「そうみたいねえ。あたしみたいな育った女より、まだ青い開き切ってない花の方が好みだったって訳。無自覚なロリコンって奴? で、それ以来フランに夢中になってる訳」
「……その後のフランは?」
「トラウマになってるよ? 元々男の人とするのが苦手だったけど、それが元で完全に男がダメになって、一時期男の顔を見ただけで泣きだして恐慌状態に陥るくらいヤバかった」
あの時は大変だったわー、と、しみじみ語る。
フランの、カオルには想像もできなかった過去が、そこにはあった。
「そんな話を、なんで俺に?」
「そんなトラウマがある女の子が、何故かあんたを怖がらないの。変だと思わない?」
「……まあ」
「あたしも変だと思うわ。だけどさ、フランはフランで、辛いことがあるって事。だから、絶対に怖がらせるようなこと、しないでよ?」
彼女なりの警告なのかもしれない。
もしかしたら彼女からしたらフランは妹分のようなもので、大切だから守ってあげたいとか、そんな気持ちがあるのかもしれない。
そんな風に考え、カオルも「そうだな」と、素直に頷いて見せた。
男性が苦手な女の子なら、男がちょっとでも変なそぶりを見せたら怖いに違いない。
だから、できる限り優しく振舞おうと心に誓う。
「同時に、もしかしたら、あんたはフランの心の傷を癒やせる、そのきっかけを作れるかもしれないからね。だから――」
「ああ。俺から見ても妹みたいなもんだし、辛い事なら助けになれるように接するつもりだよ」
「……ま、それくらいでいいわ。別に頼りにもしてないけどねー。あんたも、自分を過信し過ぎないでよ? 新人クン?」
「ははは、気を付けるぜ」
確かに、自分は新人なのだ。
この店におけるヒエラルキーは最底辺。
家族ではあっても、身内ではあっても、売れっ子娼婦のイザベラには叶わない。
その釘刺しは的確だなと、苦笑いしながら視線をフロントに戻した。
マダムも奥に引っ込んだらしく、誰も居ないフロントを。
(フランも結構大変なことになってたんだなあ……そういう商売とは言え、若い娘には大変な世界だよなあ)
想像だにしない世界がそこにはあった。
自分に優しく、明るく振舞ってくれる女の子が、実際には酷く傷ついていた。
それを知ってしまい、だからこそ、気にしなくてはいけない事が多いのだと気づかされた。
まだ初日でコレである。
どれだけ大変な事が待っているのかと恐ろしくもあったが……彼は、その程度の事でへこたれるほどヤワな生き様を送っていなかった。
「……嫌になったかしら? 人の心の闇とか垣間見ると、一気にメンタルにダメージ来るしょー?」
「大したことないぜ」
「あらそう? ま、いいけど。警告って訳じゃないけど、闇に飲まれて壊れるくらいなら、さっさとやめちゃった方がいいわよ? 夜街じゃなくたって、表の世界にだって若い男の働き口くらいはあるんだから」
あんたにその要領があればだけど、と、背を向けながら語るイザベラは、カオルにはどこか良心のようなものを感じ。
そうして、彼女がこの店の「姉」なのだと理解した。
「ああ、辞めたくなったらそうするよ」
――今のところはまだ、辞める気はサラサラないが。
そしておそらく、ずっとそうなのだろうと思いながら。
カオルは起きた事の報告をしに、マダムを探すことにした。