#20.女神様は知っている
そこは、彼にとって見知っていた場所のはずだった。
彼は定期的にここに顔を出し、そして、そこにいる誰ぞかと会話する。
そうする事でこの世界の知識を補填したり、その時点のその世界の住民には知り得ない様な知識を獲得する事が出来た。
だが……今の彼には、そこがどこなのかも、自分と対面して立つこの女性が誰なのかも、解らなくなってしまっていたのだ。
「あれ……ここ、は?」
知っているはずなのに解らない場所。
目の前に立つ不細工な女性が誰なのか解らないまま、だけれど確かな懐かしさを覚える瞬間。
彼は、首を傾げながらに呟いた。
その呟きに反応するように、それまでピクリとも動かなかった女性が、不細工ながらも愛嬌のある微笑みを見せた。
「ここは、貴方の心の中ですわ。私は、貴方の心の中の住民」
「俺の、心の中? 住民って?」
「私は、一度死した後、貴方の心の中に入り、色々とアドバイスしていたのですが……残念なことになりましたね」
眉を下げながら。
しかし、不気味にすら映るその表情が、どうにも本当に悲しげに見えて。
彼は、「なんだか申し訳ないな」と、悪いことをしたような気になってしまった。
そんな所在なさげな彼を見て、女性は「ああ、いいえ」と手を振りながら笑おうとする。
「別に貴方が悪いわけではないのですよ? カオル。レイアネーテとはあのような魔人なのです。女神アロエ様に誘われし、魔王と対峙する為この世界に舞い降りた、異世界の勇者」
「……カオル? レイアネーテ」
かすかに記憶に掠る、聞き覚えのある単語。
人名なのはなんとなく解ったが、それでもやはり「この人は何を語ってるんだろう」と、困惑が胸を占める。
「彼女はとても強いのです。全ての魔人の中で最強格であると言えるほどに。ですが……どのような勘違いか、彼女はアロエ様を裏切り、魔王へとついてしまった」
「……」
「彼女はまた、異世界人としての特異な能力も持っているようです。恐らくは記憶に関わる事でしょう。貴方もその影響で、記憶を失ったと言えそうです」
「俺が何も解らないのは、そのレイアネーテって人の所為なのか?」
「ええ。そして失われた記憶は、恐らくはもう……」
彼をそれまで構成していた事実の大半は、既に消え去っていた。
今の彼は、ガワだけが存在している張りぼてに過ぎない。
カオルという人間は、既に滅びようとしているのだ。
「かつて私の仲間だった方も、レイアネーテと戦い、死にはしなかったものの記憶の一切を失っていました。失われる記憶はその人が生きてきた中の思い出。最低限人として生きられる程度の知識は残るようですが……」
「全部失う訳じゃないのか」
「目を覚ました貴方がどうなるのかまでは分かりません。私自身、彼女の能力行使を見たのは今回が初めてでしたから……」
「……そっか」
思い出の喪失。それが何を意味するのか。
彼には全く想像も及ばなかったが……なんとなく、そう、なんとなく、「悲しいな」と、そんな気持ちになっていた。
なんでそんな風になるのかも解らなかったが、ただそう思うと胸が締め付けられ……眼元が潤む。
「ま、仕方ないな」
そうなってしまったのなら仕方ない。
受け入れるしかなかった。どう騒いだところで何も変わらないのだから。
話す事が出来る程度の知識があるなら、野垂れ死ぬ事はないはずだから。
そんな楽観と諦観とが入り混じった感情の中で、彼は――カオルは、小さくため息をつく。
「思い出せるなら思い出したいけど、思い出せないなら……まあ、なんとか生きていくよ」
「……止められなくてごめんなさい」
涙をにじませるカオルに思う所があるのか、女性はどこか思いつめたような表情になり……俯いてしまった。
「本当は、貴方には幸せに生きていてほしかったのです。こんな事になるなんて思いもしませんでした。いいえ……『あの人』が救われたのだから、もう貴方には好きに生きてもらってよかったのです」
「俺は、好きに生きてなかったのか?」
「それは……」
その女性の表情が、あんまりに悲しそうだったからか。
カオルは、首を傾げながら「そうなのか?」と問う。
女性はハッとしたように目を見開き……そうして、カオルを見つめた。
「……好きに、生きていたと思いますよ? のびのびと、楽しく」
「なら、それでいいんじゃないかな? まあ、記憶失っちゃったのは困るけどさ、でも、好きに生きた結果がそれなら、仕方ないって!」
彼は、もう起きた結果を受け入れていた。
辛い気持ちはもちろんあったが、それはそれとして。
自分が好きに生きた結果そうなったのなら、それを拒む気などなかったのだ。
そも、初めから他人に文句をつける気などさらさらなかった。
努めて明るく振舞おうとするカオルに、女性もまた、ためらいを見せながら……しかし、微笑もうとしていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。ところでさ、俺、記憶失っちゃったから貴方の事も誰なのか解らないんだよな」
「それは……そうでしょうね」
「貴方の名前、教えてくれないか?」
気軽に問うたつもりだった。
だが、彼は未だ、彼女の名前を知らない。
一番最初に出会った時に聞いた事はあったが、その時は「女神様です」と返されて、それで納得していたのだ。
そして、記憶を失って二度、名を問うたのだ。
最初の出会いを思い出し、女性は頬を緩めていた。
「私は、女神様ですよ」
そう言いながら、彼女なりにできる限りの笑顔を見せながら。
「……貴方の事をずっと見守っている、元聖女の女神様です」
「へえ、そうだったんだ」
「ええ。ですから、これからも心配なく、貴方の望むように生きてくださいね」
「ああ、わかったぜ」
これからまた、新たな人生が始まるのだ。
記憶を失い、様々な出会いを忘れ、様々な絆を失ったが。
それでも、彼はまだ生き続けるのだから。
「サードライフも、どうか楽しんでくださいね」
そんな女神様の笑顔が、どこか懐かしく……そう、懐かしかったのだ、カオルには。
(ああ……そっか。この人の笑顔――さんに、似てたのか)
どこかの誰かに似ているような、そんな気がして。
だけれどその名前が出て来なくて。なのに懐かしくて。
不思議な気持ちになりながら、癒され、そして……寂しい気持ちになった。
――むらに、帰りたいな。
解らないままに。
彼はうっすらそんな事を感じながら……白やんでいく世界で、ぼーっとしていた。