#13.姫君と女騎士と侍女と
「カオル様っ、そこの角、右ですっ」
「おうっ」
エドラスの姿は見えなかった。
急いで駆け出したつもりだったが、それでもその背はいつまでも見えない。
だが、サララはそれでもエドラスの『音』を拾い、なんとかして追跡し続ける。
「まっすぐ……もう少しで……っ」
「あっ……くそっ、行き止まりかっ」
「そんな……っ!?」
しかし、街はカオル達が思った以上に複雑だった。
直線距離で近づこうとしても、実際には行き止まりがあって足止めを喰らってしまう。
急いで他の枝道に逃げるも、大量の木箱が積まれていたり、レンガが崩れていたりで中々前に進めない。
結局戻って通りを進む方が早いと気づき、二人は焦燥しながら、疲労に息が上がりながら、なんとか走り続けた。
「ご、ごめんなさ……もっと、街の構造を頭に入れておくべきでした……っ」
「いや、俺もそうだし……とにかく、今は進めるだけ進まないとな……」
息を吐きながらなんとか呟くサララに、カオルも「気にするな」と前を見据える。
人は少ないが、それでも全くいない訳ではない。
通り過ぎた若い娘が、「なにごと?」と奇異な目でカオル達を見やっていた。
「サララ、まだエドラスの音、聞こえるか?」
「かすかに……そこを左です」
「解った」
だが、エドラス本人も右往左往していた。
目的地がどこなのかカオル達には解らないが、進む方向が明らかに無茶苦茶で、通りの右と左を行ったり来たりしたり、結果的に見ると来た道を大きく戻ったりしている。
そのおかげで、エドラスを見つけることはできていないが、離される距離もある程度抑えられているように二人には感じられた。
「多分、走りながら冷静になってきてるんじゃないでしようか……それで、追跡されないようにわざと遠回りしてる、とか……」
「だとしたら、その間に距離を詰められればいいんだが……目的地さえ解れば先回りするんだがなあ」
「お姫様の居場所、解らないままですもんね……伯爵から、聞いておけばよかったです」
「伯爵が知ってるのかも怪しいけどな……」
徐々にペースが遅くなっていくサララに合わせ、カオルは息を整えながら考え始める。
時間的に、王女一行が拠点としている宿なりで休んでいる可能性は高い。
だが、エドラスがその元にたどり着くまでには宿の主などに接触する必要がある。
そこで足止めされる可能性があった。
また、姫君自身もただ無防備ではなく、お付の騎士と侍女が居るのだから、そう簡単には殺されないかもしれない。
(……いや、楽観はできねえなあ)
そのお付の騎士を思い出し、カオルは心の中で深いため息をついた。
なんとも頼りない少女騎士である。
正直、有事には何の役にも立てず棒立ちしていそうなところまでイメージ出来てしまえる。
むしろ侍女の方がまともに動けそうなのが一層悲しい。
「侍女の人に期待だな」
「上手く対応してくれるといいんですけど……それよりも前に、なんとか追いつければ……あっ」
フラフラになりながらも健気に応答するサララだが、不意に足を止め、眼を大きく見開いた。
何事かとその顔を見たカオルだが、「まずいまずいまずい」と顔を青ざめさせるサララに、カオルはすぐに勘づく。
「どこだっ」
「この先の道ですっ! あの赤レンガの民家の中!」
「民家っ!? くそっ、宿屋とかじゃないのかっ」
なんでそんなところに、と驚き半分悔しさ半分で、カオルは一気にペースを上げる。
目指すは視界のはるか先にかすかに見える赤レンガの屋根。
サララが付いてこれるかどうかよりも、今は速度を優先しなくてはならなかった。
間に合うか間に合わないかで言えば間に合っていない。
ならば、せめて被害を最低限に抑えるために急がなくてはならないのだ。
助けられるうちに、助けるために。
「――エドラスっ!」
何とか目的地に着いたカオルは、開けっ放しの入り口を見て「くそっ」と悪態をつきながらも中に入り込み、姫君の無事を祈った。
自分の声でわずかでも最悪の事態が遅れてくれればと、そう願っていたが、眼に入った光景はいささか想定とは異なるモノであった。
「あ……?」
「いだだだだだだだだだっ! やっ、やめ、やめてくれぇぇぇぇっ」
「ふんっ、そんなチャチなナイフで私を殺せるとでも思ったのか!? よくも、姫様のドレスをぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「あわわわわわわ……」
まず一つ、想定内があった。
それは、「多分役に立たないんだろうなあ」と思っていたお付の騎士が、案の定棒立ちしてあわあわしている事。
だがそれ以上に異様な想定外がそこにあり、カオルは唖然としてしまう。
「ひぎゃぁっ、肩がっ、肩が折れるっ、腕が千切れちゃうよおぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「うるさいっ! 王族に刃を向けるなどっ、お前っ、どれだけ不遜な事をしているのか――っ」
食卓の場。床に落ちたナイフ。
肩と腕を極められ、涙目になり絶叫するエドラス。
そして、それをやっているのは……リーナ姫ご本人であった。
勝気に歯を見せながら、ギリギリとエドラスの腕を締めあげてゆく。
見ればドレスの腹の部分がナイフで斬られたらしく浅く血がにじんでいたが、全く気にせずに制裁を科していた。
とても強かった。
「はぁっ、はぁ……カオル、様……? な、なんだか、すごいことに、なってます、ね……?」
「ああサララ……なんか、すごいな」
語彙が死ぬ瞬間である。
後から追いついてきたサララも戸惑いがちに姫君とエドラスを見ていたが、最早笑う気力すらないのだろう。
カオルをして「どうしたらいいんだこれ」という困惑が頭の中をぐるぐる回っていた。
そんな中、侍女一人がやはり冷静なままで。
部屋の隅で、姫君の一歩後ろに控えた侍女は、ぴくりと眉を動かし、「こほん」と咳をついた。
それまで余裕たっぷりにエドラスを締めあげていた姫君も「はっ」と我に返り、カオル達を見る。
「……あ、えーっと、こ、これは……」
「助けに来る必要、なかったかな……?」
「なさそうでしたねえ……帰りましょうか?」
そして汗が噴き出る。
姫君の顔は「どうして?」という当惑に支配されていたが、その光景をカオル達に見られたという事実は変えようがなく。
必死に「待ってください」と大きな声で止めに掛かる。
締めあげていたエドラスは放り投げられ、「ぐえっ」とカエルの潰される様な声を上げて倒れ込んでいた。
そのまま、びくびくと身体を痙攣させていた。
「あ、あの、皆様、いつからここに……?」
「いや、今さっきだよ。エドラスがなんかヤバい様子で走り出してたの見つけたから追いかけて来たんだ」
「まあ、そうでしたの! でもご安心ください、私はこのようにピンピンとして……」
「なあお姫様」
「はい?」
「『姫様のドレス』って、それ、あなたのドレスなんだよな?」
「……何を仰っているのかしら?」
聞かれてはまずいことを聞かれた、という顔をしていた。
無理矢理に笑顔を取り繕っているが、頬を流れる汗は止め処ない。
その証拠に後ろ手に組んだ腕はそわそわしていて落ち着かない。
総じて、以前会食した時の冷静さは見られなかった。
だが、侍女は冷静なままだった。
そこが気になり、カオルはじ、と視線を向ける。
それに気づいてか、侍女もカオルの顔を見て口元を緩める。
「――エレノア、もういいわ」
ぱん、と、侍女が手を叩くと、姫君は……かくり、その場に崩れ落ちた。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫です……そう、ですか、もう、終わり、ですか」
「ええ、終わりよ」
突然の事だったのでカオルも驚いたが、姫君はすぐに顔を上げ……そして、いくらか晴れがましい顔になっていた。
そうして、侍女が前に出てくる。
「どういうこと?」
「改めてご挨拶をさせていただきますわ――」
相変わらず地味な侍女の服を着た彼女は、しかしそれまで微塵も見せなかった笑顔を見せ。
スカートの端をつまみながら「はじめまして」とすまし顔になる。
「――ラナニア王国第二王女、リーナ=ラナニア=バーレンシュタインと申します」
その出で立ちこそ地味なものであったが。
しかし、前面に押し出された気品は王族そのもので。
カオルはその洗練された仕草に、思わず息を呑んでしまった。
「王女って……えっ、侍女さんが、リーナ姫……?」
「ええ。ずっと装っておりましたの。このような事が起きるのではないかと思って」
「つまり、その、お姫様を名乗っていた人は……」
「私付の騎士のエレノアですわ。そして、騎士を装っていたのは、私の侍女のミリアです。以後、どうぞお見知りおきを」
全員が異なる役目を演じていた、という事になる。
事実が伝わり、エレノアもそうだが、ミリアもため息ながらに「やっと終わったー」と安堵していた。
「終わったと言ってもこの方たち以外には演じ続けてもらいますけどね。何せ、私は命狙われる身ですので」
「ま、まだ続けるのですか……?」
「姫様、流石にもう疲れたんですけどぉ……」
笑うと綺麗な顔立ちが可愛らしくなるのを感じて、サララはぐ、とカオルの手を握っていた。
サララ視点では「このお姫様は危険」と判断されたのだ。
カオルもそれを理解しながらも、やはり綺麗なお姫様には目が向いてしまう。
「命を狙われてるって、やっぱ運動関係で?」
「それもありますが……単純に、我が王家は今、次代の王を決める継承権問題に差し掛かっていますので。私には継承権はほぼないはずなのですが、このような問題は何が起きるか解らないのが歴史の常ですから」
「……それはまた」
カオルには「お姫様も大変だなあ」という単純な感想しか湧かなかった。
難しい問題過ぎて下手に首を突っ込むのが怖かったのだ。
リーナ姫もまた、「ええ、本当に」とすまし顔のまま返して、それきり。
そうかと思えば、床に倒れたままのエドラスを見て「怪我はないかしら?」と心配そうに近づく。
「姫様、あまり近づかれると危険では……」
「貴方に遠慮なしに腕を締めあげられたから、意識を失っていたわよ? 貴方は加減を知らないから……」
「そ、それは……姫様の、折角のドレスが、このような事になったので、つい……」
姫君に警戒を促すエレノアだが、返された言葉にはしょぼくれてしまう。
主の言葉には絶対、という関係性が明確に見えて、カオル達は会食の時の謎行動の理由がはっきりとしていくのを感じた。
「ドレスなんて別にいいわ。手持ちに何着もあるし、お城に戻ればいくらでもあるし……それより、貴方の肌に傷がついた事の方が問題」
「私など……有事には戦って傷を負うのが我ら騎士の役目ですので」
「でも、お姫様になりたかったのよね?」
「そ、それは……っ! 姫様っ、他の者の前でそのような事はっ」
ドレスなど気にする事もなく、エレノアの傷口に這わせるように手を当てる。
そんな主に、エレノアも困ったように眉を下げていたが……主の口から出たとんでもな一言で赤面してしまっていた。
「どういうこと?」
「この娘ね、幼いころから私のお友達として傍に仕えていたのだけれど、昔は「お姫様になりたい」って度々口にしていたのよ? その様の可愛らしいったら……」
「や、やめてください姫様っ! 立場もよく解っていなかった幼少期の事は、本当に私自身、恥じておりますので……!」
「別に恥じなくてもいいじゃない? 貴方だって貴族の生まれよ? 蝶よ花よと育てられ愛でられ生きる道もあったでしょうに。だから、今回の入れ替わりはエレノアの夢を叶える一手二得の手段だった訳」
「はうぅ……っ」
主による夢の暴露という壮絶な辱めを受け、女騎士は涙目になり二度その場に崩れ落ちてしまう。
その様になんと応答したものかカオル達も困ってしまったが……とりあえず、前向きに考えることにした。
「ま、まあ、夢が叶って、よかったじゃないか」
「あ、貴方までそんな事を言うのかっ! 違うからなっ、私はっ、私は今では姫様にお仕えする、誇りあるロイヤルガードであって! 決して、そんな、そんな大それた夢をずっと持っていた訳では――!」
「でも初めてドレスを着せてあげた時にすごくはしゃいでたじゃない。私が見えない所でキャーキャー言ってたんでしょう?」
「み、ミリアっ、ばらしたのかっ!?」
「ひっ、あっ、えっと……ごめんなさいエレノア様っ」
そして主の余計な一言が侍女にも飛び火する。
困惑していたカオルも「コントだこれ」とどうにもならない事を悟り、素直に推移を見守る事にした。
こういう時、無理に流れに混ざろうとするとそのカオスに自分も巻き込まれるのだ。
遠巻きに眺めて、落ち着いた辺りで「それはそうと」と別の流れを作る方が被害を受けずに済むのを、カオルは経験で知っていた。
「くすくすくす……別に馬鹿にしてる訳じゃないし、誰が笑うものでもないでしょうに。実際、エドラスは無事止められたし……」
「そ、そうでした! エドラスですっ、この者が突然襲い掛かってきたのが問題で……ああもう姫様っ、笑っている場合ではないのですっ」
口元を抑え可愛らしく笑うお姫様であったが、女騎士殿はそれどころではないとばかりに話を変えようと必死だった。
だから、カオルも潮目を感じ、その流れに乗ってやることにしたのだ。
「そもそもさ、お姫様達はなんで、こいつに協力したんだい?」
会話は続ける。
姫君とカオル達は奥のソファに腰かけ、エレノアも意識がないままのエドラスを縛り上げていた。
ミリアは「お茶を用意しますので」と、慣れない鎧を脱いで軽い足取りで部屋を出ていった。
「そのままだと多くの民衆を巻き込んで多大な被害を起こしかねないからですわ。罪なき民が扇動され、兄上姉上らが手柄欲しさに反乱分子と決めつけて軍を派遣する事も考えられました。実際、衛兵隊がこの街に来たでしょう?」
「ああ、今は何とか街の外で駐留してるけどな」
「運動の活動方針を比較的平和な方向にシフトして尚それですから。この方達の初期の運動方針のままだと、恐らく大規模になった途端衛兵隊ではなく、軍そのものが出動して鎮圧に動くはずですわ。そうなったらもう、言い逃れも何もできません。全員極刑です」
それは嫌ですから、と、真顔になって手をフリフリ。
あっさりと言っているがとんでもなく恐ろしく、カオルもサララも顔を青ざめてしまう。
「殺されるのか……」
「殺されるでしょうね。老若男女関係なしに。それはもうむごたらしく」
「……嫌な事想像させるなあ」
「すみません。ですが、それを止めたかったもので」
大層グロテスクな光景を想像してしまい、「うえ」と口元を抑えるカオルに、姫君は愛想よく笑顔を振りまく。
頭に浮かんだのは嫌な光景だったが、姫君の笑顔でいい感じに中和され「まあいいけどさ」と、カオルもため息混じりに頷いて見せた。
「そもそもの疑問なんだけどさ、なんでこういう方向の運動になったの?」
「私自身、王家の権力闘争云々に関わるのが疲れたのもあって、国内をフラフラと旅行していたのですが……そうしていると、普段見えなかった問題点が各街に存在する事に気づいたのです」
「問題点? 例えば?」
「過剰なまでの貧富の差や職業の少なさ、経済的に上手く行ってない街も多く、国民の多くは何かにイラついていたのです」
「……社会的に閉塞感に満ちていた、という事です?」
「そういう事ですね。経済的にも発展的にも行き詰って、だというのにそれが古くからの風習や人の行き来の少なさといった要因からいつまでも解消されず、更にそれを解消すべき領主たちも、自領の問題よりも『どの王族に取り入るべきか』といった事に執着している方が多かったもので……」
困ったものですわ、と、目を伏せながらに静かに語る。
決して声量に優れている訳ではないが、カオル達にも染み渡るように伝わる、理解しやすい話し方だった。
「今のままでは国内はいずれ富を持つ者と持たない者に分かれ、反目しあってしまうという危機感もありました。そしてその怒りの眼が各地の領主や貴族、そしてゆくゆくは王族に向いてしまう事もあるのではないか、と」
「その対策が、運動の方針を変える事だった?」
「ええ。実際問題彼らを救う手立てでもありましたし、これを上手く民衆のガス抜きに使えれば、それだけ無駄がなく、それでいて民度の向上にも役立てられるのではないかと思いまして。ただ、ここまで運動が広まったのもエレノアのおかげですね」
エドラスを縛り終えて主の後ろに控えようとしていたエレノアだったが、ここでまた名が上がり「えっ」と、戸惑いの表情を見せた。
そのタイミングがあまりにもぴったりだったので、カオルも「まさか狙って言ったのか?」と吹き出しそうになってしまう。
「私は見ての通り、侍女服のよく似合う、どう見ても侍女にしか見えない姫でしたから。エレノアのように、見た目が派手でそれらしい服を着ればそう見える娘の方が、看板役には適しているのですよ」
「確かに、お姫様役やってた時のエレノアさんはすごく輝いてたように見えるな」
「そ、そそそ、それは……っ」
実際問題運動の際には彼女が先頭に立っていたのだ。
そして偽りの姫君を演じていた彼女は、かなり立派にお姫様をしていた。
扇動役としてこれほど適した人材はないのではないかというくらいに、民衆は彼女に従ったのだから。
「でも、こうやって話してると、やっぱり本物の方が色々納得できるというか。『流石お姫様』って気になってくるから不思議だよ」
「それはきっと、『王族』というブランドイメージがあるからですわ。良い職人の売り出した品が良い商品であると広まり名が知れるように、我が王家にも名を得るなりの相応の歴史がありますから。でも、それは所詮看板でしょう?」
「まあ、王族って肩書だけで従う人がいるのは間違いないけどな。でも俺、王族でもダメな王族知ってるしなあ」
「それは、エルセリアの王弟のお話ですか?」
「うん……よく知ってるなあ」
「貴方がエルセリアの危機を救った方というのは、情報で知っていましたから」
「えっ、そうなのですか姫様っ!? 私、そんな事は露ほども……っ」
「当然です。隠していましたから」
またしても女騎士の体面が壊れてしまう。
カオルはだんだんと「この人はこういう扱いされる人なんだな」と、解ってきた気がした。
いつもからかわれてしまう人なのだ。
可哀想だがお姫様には気に入られているのだろう、とも。
「姫様……何故ですか? 私が、そんなに信用できないとでも……?」
「貴方は信用しているわよ? でも、貴方の時折うっかり出てしまう口の軽さは信用できない」
「うぐっ」
ぐさりと突き刺さる一言をしれっと呟く。それだけで女騎士は黙らざるを得なかった。
プルプルと震え涙目になるその様はなんともコミカルで、折角の美しい面立ちが見事に崩れてしまっている。
主は全く気にしない。侍女が運んできたティーカップを手に取り、芳しい紅茶の香りを楽しんでいた。
「まあ、あの方はいろいろと問題のある方だと、以前から各国の王族の間で話題になっていましたから……ですから、極刑になさったのはエルセリア王の英断だったと思っていますわ。自らの身内だからと裁く事の出来ない為政者も多いですから……」
「あれに関しては、魔人が関わってたって話もあるから何とも言えないけどな……今にして思うと」
「魔人、ですか……隣国がそのような状況だと、我が国もそのような事が起きているのではないかと、疑心が芽生えてしまいそうですわ」
困ったものですわ、と、しかし口調とは裏腹にその瞳は揺れもせず。
落ち着き払った様子であった。
「お姫様的には魔人はそんなに怖くないのかい? その、驚いた様子もないし」
「情報は入っていますからね。ですが、怖くないかと言えば怖いですわ。ただ、それ以上に今は……人々の心の闇が怖い」
「心の闇?」
「そこのエドラスも、元々は我が国に訪れた異世界人の末裔ですから。私達が初めて見かけた時の彼は、自身の先祖の話を周囲に聞かせ、それを無視されたり拒絶されたりして憤りを周りに吐き出すだけの、自暴自棄な状態に陥っていました」
「……確かにそんな感じでしたね。『誰も聞いてくれなかった』って言ってましたし」
「猫獣人のお嬢さん。貴方ならそれくらいは聞けたのでしょうね。そう、彼は誰かに認めて欲しかったのです。自身の先祖の主張を。そして、それを誇りに思う自分の心を」
ふ、と小さくため息をつき、ティーカップを置き。
そうして、倒れたままのエドラスを見やる。
その瞳は憂いを湛え、小さく揺れていた。
「魔人が何故人を利用するのか、ご存知ですか?」
「人を利用する理由……? いや、よく解らないな。俺があった魔人も、まだ二人だけだし」
「この平和な世界で二人も魔人と出会えれば十分に稀有な経験でしょうけど……彼らは、人の心の隙を見つけるのです」
「心の隙?」
「そう。例えばエルセリアの問題であれば、後継者候補のステラ様の婚姻問題が上がり。それにまつわる城内や関係者各位の心の隙が、魔人の狙う隙間と成りえた訳で」
そこまで言われて「そういえば」と、カオルも合点がいく。
カルナスの一件の時も、元々はベラドンナが精神的に追い詰められていた事から悪魔になってしまった事が発端と言える。
勿論、ゲルベドス本人が衛兵隊長に化けていたのもあったが、ベラドンナという手駒がカルナスに多大な被害を与える最大の要員だったのは間違いがない。
王城の問題では、王子に王位を継がせたいという侍女長の想いを魔人が利用した事がそもそもの発端と言える。
更に問題となった婚約者二名も、やはり心の隙を魔人に利用されてあのようなことになったのだと聞けば、魔人とは人の心を操る類の能力でも持っているのではないかと思えたほどである。
つまり、リーナ姫の仮説は正しいのではないかと、カオルは納得していた。
「かつて魔王を頂点とした魔人達は、そのような小細工を利用せずとも正面切って我ら人類国家に宣戦布告し、純粋な力押しのみで国家を次々と陥落させていったと歴史書にはありました。もしその通りなら、今魔人たちがわざわざ人を利用しているというのは、それだけまだ、魔王や魔人の力が完全ではない事の証左なのだろう、とも思えます」
「今のところは、人の心に隙を作らない事で、魔人たちが好き放題にやるのを防げるかもしれないって事?」
「恐らくは。あくまでも今は何かの準備段階なのではないかと思えますわ。ただ、魔人の事は人類圏には解らない事も多く、比較的知識を得やすい王族であっても、中々真実にはたどり着かせてはくれません。どこまでが正しいのかは解りませんが――」
「それでも、お姫様なりに魔人に利用されないように、心の隙を減らしていく必要があるとは考えてる訳だ」
「そうですね。その為にも、民衆の民度を高める必要があると思いました」
全てがそこにある訳ではありませんが、と言いながらも、いくらか誇らしげに。
姫君は、地味な侍女服ではあったが、やはり姫君なりに国民の事を慮っていた。