#11.偽疫病作戦
セレナの南に位置する平原地帯に、衛兵隊の臨時拠点が仮設されていた。
セレナから一時撤収した衛兵隊ではあったが、彼らにセレナ駐留を命じたハインリッヒ第二王子の意向を無視する訳にもいかず、「一時的に遠巻きに街を注視する」という形で、なんとか体裁を保とうとしていたのだ。
その状態のまま、既に一週間が経過していた。
遠巻きに様子を見ていたが、未だ『民主主義運動』は留まる事を知らず、衛兵隊は歯がゆさ故に憤りを覚え始めていた。
『――リーナを名乗る娘と、エルセリアからの観光客、か。私が兄上姉上との政争に専念しているこの一週間で、そのようなことになっていたとはな』
拠点の中央に位置するやや大き目なテントでは、指揮官の男が、水晶球に映った銀髪の若い男の言葉に傾注していた。
『お前達は、その者達が本物であるかの確認もロクにせずに、尻尾を巻いて逃げてきた、と? 何の策も講じぬまま、一週間もそこに留まっているというのか?』
「そ、そういう訳では……ただ、王族の方が前に立つ以上、迂闊に我々が強硬手段に出るというのも……」
『構わぬ』
「……はっ?」
頬に汗しながら、恐懼しながらに水晶の先の相手に事情の説明を続けようとしたが、不意に挟まれた言葉に、指揮官は思わず聞き返してしまう。
すぐには返答は来ず、ため息が聞こえ、相手が苛立っている事に気づき。指揮官はハッとした。
「も、申し訳ございませんハインリッヒ殿下! な、なにとぞ、殿下の真意を伺えれば、と……」
『だから、構わぬと言ったのだ。運動を先導していた者が本当にリーナであろうと偽者であろうと、構わぬと言った』
「そ、それでは……」
『斬り捨てろ。元々国政に関わる事すら許されておらぬ妾腹。父上の気まぐれで王宮暮らしを許されていたにすぎぬ。それが王族に反抗する意思を見せたとあらば、斬り捨てても何の咎もあるまいよ?』
勤めて些事であるかのように語り、「そうだろう?」と、水晶の男――ハインリッヒは手を組み、口元を隠すようにしながら、指揮官に問う。
無論、彼にしてみれば返答など興味もない。
ただ言って聞かせるだけの相手なのだから。
当たり前のように指揮官は頷く。それが分かっているのだから。
「……は。ハインリッヒ殿下のご命令とあらば……」
『気に入らんか?』
「滅相もございません! 我ら衛兵隊、ハインリッヒ殿下の格別の取り計らいのおかげで今日の成り立ちを――」
『世辞は良い、結果を残せ。指揮官バリアンよ、邪魔立てするならば、何者であれ斬り捨てよ。我が王国の繁栄のためぞ。我が王国の未来の為ぞ。お前達は、その為の汚名ならば着られるのだろう?』
「……はい」
わずかばかりの迷いが残りはしたが。
それでも、衛兵隊にとってこのハインリッヒという王子はとても重い存在であり、抗う事の出来ぬ相手であった。
故に、彼の命令には従わざるを得ない。
それが例え、自国の姫君を切り捨てる結果に繋がろうと。
それが例え、自国の民衆を殺傷せしめねばならぬ事だと解っていようと。
そうして、恐らくは自分達が、その罪を永劫背負う事になると、気づいていても。
『安堵せよ。衛兵隊は永劫必要な組織として擁護し続けてやる。お前達の忠義、私は忘れるつもりはない。だから、必要な役目を果たせ』
「御意に……」
迷いは捨てねばならぬ。
さもなくば、自分達はこの国から切り捨てられるかもしれないのだから。
それが分かっているからこそ、どのような結末をたどろうと、従う他ないのだ。
ハインリッヒ以外の王族は、彼らに何一つ意識を向けてくれていなかったのだから。
衛兵隊という、平時においてあまり意味のなくなりつつある組織が、存続し続けるためには必要なのだから。
指揮官バリアンは、顔を強張らせながらその場で敬礼する。
その様子を見て、ハインリッヒは満足げに口元を歪め……そのまま水晶から消え去った。
(これで、運動参加者を姫様諸共排除する口実が整ってしまった……か。大人しくあの場で引いてくれれば、このような事にもならなかったものを)
一人テントに残されたバリアンは、ハインリッヒには見せなかった苦渋の表情を浮かべていた。
これから自分のする事は、衛兵となった時の自分の目標、自分のこれまでの衛兵としての生き様を全て否定する悪しき行為である。
それを自覚しながら、それでもやるしかなかったのだ。
衛兵隊が、未だこの国に必要な組織であると、そう思うが故に。
「――指揮官殿! ご指示通り、主だった部隊は既に準備が整っております!!」
彼がテントから出ると、主要な部隊のほとんどの隊員が、既に装備を整え、出立の為整列していた。
仮拠点に過ぎない為、いつでも打ち捨てられるようにはしてあるが、今回は支援要員以外の全員が出動する。
場合によっては戦わねばならぬことも既に伝えており、それでも尚、士気を無理にでも高めておけと命じてあった。
全員、これから先に起こる事を理解し、受け入れていた。
「諸君、ハインリッヒ殿下より正式に命が下った」
総員の前に立ち、バリアンは見渡すように眺めてから、演説を始める。
「リーナ姫を名乗る者も、エルセリアからの旅行者も、最早関係ない。我が国を、我らが王室を、そして、我らが守るべき民衆を誑かしセレナを陥れようとする賊ども、民主主義運動家共を捕縛せよ!!」
「おお……」
「捕縛、か……姫様も」
「構わぬ! 邪魔立てするならば斬り捨てて構わぬと殿下は仰られた! 諸君、これは見せしめの意味もあるのだ! 抗う者は容赦なく斬り捨てよ!! 己が刃を、悪逆の血で染めよ!!」
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
いよいよ始まってしまう。
命が下された。軍人ならば、戦わねばなるまい。果たさねばなるまい。
武器を手に、大きく叫んで士気を跳ね上げようとする者もいた。
疑問は抱きながらに、それでも無理矢理に笑って見せる者もいた。
中々声を上げぬ仲間の背を叩き、無理矢理に笑わせる者もいた。
何が何でも士気を上げねばならなかった。それがどれだけ嫌な事でも。それがどれだけ悪意に満ちた選択であっても。
彼らの進む道は、最早それしかないのだから。
選択肢など、どこにも用意されていなかったのだから。
そんな、悲壮感すら感じさせる衛兵たちの進軍が、始まろうとしていた。
拠点から行進し、一気に突き進む兵の集団。
「――待ちなよ」
しかし、それが止まるのにそう長い時間は要さなかった。
「――君達は」
エルセリアの軍章が描かれた軍馬車。
巨大なスレイプニルの手綱を握る男は、先日、自分達と姫君との間に立った男の片割れだった。
見れば、もう一人の猫娘もホロから顔を出している。
「何の用かね? 我々はこれからレナスに向かわねばならん。邪魔するなら――」
「いや、邪魔する気はないけどさ」
「ならば、何故止めた?」
「いや、ちょっと言いにくい事なんだけどさ……」
――この男は油断ならぬ。
先日の建物の壁を破壊した魔法らしきものを思い出し、自然、衛兵らの手は腰のショートソードへと伸びていた。
しかし、軍馬車の青年――カオルは爽やかに笑顔など見せながら、ゆったりと馬車を降りてくる。
何をしでかすか解らない以上、迂闊に仕掛ける訳にもいかず。
一同、やむなくその様子を見守っていた。
「レナスの街、今変な病気が広まってるっぽいから、行かない方がいいぜ?」
その予想外の一言に、バリアンは「しまった」と、激しく後悔した。
聞いてから、それを聞いた部下達がどう反応するのかに気づいたからである。
「変な病気……?」
「れ、レナスに疫病が……?」
「もしそうなら、そんなところに行くのは――」
見れば、それまで無理矢理に維持しようとしていた士気が、駄々下がりになっていた。
仲間を叱咤してまで無理矢理に笑おうとしていた衛兵たちが、今や頬を引きつらせ不安げな顔になっている。
――してやられた。
たった一言で、気丈に保っていた兵達の意識が、結束が弱まってしまった。
ただでさえ失敗の許されぬ状況下。これはあまりにも痛打である。
「え、疫病というのは本当かね?」
だが、最早それは伝わってしまった事。
これが仮に自分だけが知っている事なら握りつぶすなり密かに誰ぞかを確認に走らせれば済む事も、事この状況では手遅れ。
ならば、素直にそれを受け入れる他なかった。
受け入れた上で、確認する必要があった。
だから、バリアンは表向き平静を保ちながら、油断なくカオルを睨みつけた。
自分だけは挫けていないと、そう思わせるために。
そこに、黒髪の猫耳娘――サララが降りてきて、カオルと並ぶ。
ニコニコとした愛想のいい様子で、それが衛兵たちには余計に異様に見えていた。
「結構大変そうな病気でしたよぉ? 全身が気だるくなって、熱が出て。震えや咳が止まらなくなったり、節々が痛くなってしまったりするみたいです。酷いと胸が苦しくなって、お年寄りなんかは亡くなってしまう方もいるのだとか」
「薬を飲んでも治らないみたいで、医者の人も『栄養のあるモノを食べて寝てるしかない』って言ってたな。特効薬がないんだってさ」
「……むう。それはまた厄介だな。薬も効かんとは」
「勿論まだ全員が感染してる訳じゃないし、無事な人も多いけどさ。でも、人が多い場所だと感染しやすいみたいだから逃げて来たんだ」
俺達は大丈夫だけど、と、ため息混じりに語るカオルを見やり、バリアンは呻ってしまう。
すぐに対処できるとも限らない謎の病。
場合によっては死ぬ事もあると言われれば、兵達の間にも動揺が広がる。
こんな話を聞き、無暗にレナスに突入するのは、果たして賢い選択なのか、と。
迷いが生まれていた。士気が下がった中に、更に状況悪化を招きかねない情報の連続。
これはまずいと、そう思いながらもバリアンは、どちらを選ぶか迷ってしまっていた。
無理にでも進むのか、それとも今は一度、時を待つのか、と。
「なぜ我々にそんな情報を?」
「そりゃ、衛兵さん達がいなくなったら困るからだよ。この間も言ってたろ? 俺達は、別に衛兵さん達が嫌いであの時止めた訳じゃないんだ」
「皆さんには元気でいて欲しいですもん。街から離れられない騎士団の人達や民兵さん達は仕方ないとしても、幸い貴方達は街から離れている訳ですし? 最悪、貴方達がレナスの街の救いになるかも知れない訳で」
「……確かに、それはそうだが」
二人の言葉の端々からは、確かに自分達への気遣いを感じられてもいた。
ただ一方的に妨害されただけなら、街の中で止められた時点で刃を向けていたかもしれないが、実際問題彼らは衛兵隊の事も考えた上で止めてくれたし、今もまた、止めに入ってくれたのだ。
そう考えれば、その言葉を疑う理由もないように思える。
だが、止まってしまえば、彼らの主の命を無視することになる。
病が広まっているという理由だけで足を止める事は、組織としての自殺行為とも言えた。
「……致死率がそんなに高くもないのならば」
「解らないぜ? 俺達は本格的に広がる前に逃げてきただけだからな。今はもっとひどいことになってるかも」
「だとするなら、未だ街に居る姫様達の方が危険ではないか。無視も出来まい」
「まあ、それはそうだな」
これでまだ食い下がってくるようなら、何かしら疑念ももてたかもしれないが。
だが、カオル達はそれ以上は何かを言うでもなく、ただバリアンたちの言うに任せていた。
故に、バリアンには気づけない。
それが、彼ら本隊がレナスに到着するまでの時間稼ぎの策である事に。
「とにかく、有志を募って街の様子を見させよう。それを見てからでも遅くはない」
そのような者、いるはずがないと思いながらも。
最悪は誰ぞか人身御供に命ずることになろうと半ば覚悟しながら、部下達を見渡した。
「でしたら、私が……」
「自分も続きます」
「隊長、私にお任せを!」
だが、一度はカオルの一言で下落した士気ではあったが、ことこの状況下ともなると、いくらかはやる気を取り戻した者もいた。
志願した三人はまだ衛兵としては若かったが、自ら前に進み出て、驚く他の兵らをよそに、我が士気高しと、拳を握りながらに願い出たのだ。
これにはバリアンも驚かされ、思わず口をぽかん、と開けたままになっていたが……やがて、歯を食いしばるようにして「そうか」と、彼らに向き直る。
「立派な者達よ。お前達が出てくれたこと、主神アロエ様に感謝せねばなるまい。どうか……どうか、頼んだぞ!」
「はっ」
「必ずや成果を」
「隊長、なんてことはありません。我々はきっと、元気に戻りますよ!!」
疫病がどの程度か解らぬ以上、これは死地に向かうのと大差ない。
それがどれほどの恐れなのか、年を取ればそれほどに、経験者ならば尚の事解るもの。
まだ若く経験の乏しい兵がそれを志願した事に想う所がない訳もなく、バリアンも、そして年長の兵らも眼元を潤ませながら、その心意気に感謝した。
「ではグロース、レリア、ラットよ。お前たち三人はレナスに入り、状況の確認をしてくるのだ。可能ならば領主館に入り、レナス伯の話も聞け」
「承知しました!」
「お任せください」
「頑張ります!!」
(ちょっといいよな、こういうの)
その光景が、どこかカルナスの一件の時の兵隊さん達と被り。
カオルはちょっと懐かしい気持ちになりながら「やっぱ衛兵の人達は真面目なんだな」と、いたずらに権威を振りかざしていた訳ではない事を再確認する。
同時に、だましている事に若干の罪悪感を覚えてはいたが、それは飲み込みながら。
「俺達も詳しい街の状況知りたいからさ、しばらくここで待っててもいいかい?」
「うむ、それは構わんよ」
鎧を解き、一般人に成りすました三人を見送った後。
ここでの滞在許可を問うカオルに、バリアンは表向き平静を保ったまま、認可する。
一旦は彼らの善意を信じはした彼だったが、もしもを考えた場合、手元に彼らが居た方がやりやすいと思ったのだ。
無論、得体のしれない魔法使いという認識はまだ変わっていない。
ただ、エルセリアの軍馬車を駆ってこの場に現れた事、それそのものが「この者達はただの観光客ではないな」と考えるに十分すぎるほど作用していた。
カオルもまた、そんなバリアンの疑念に気づかないはずもなく、いつでも逃げ出せるよう、御者席に乗り込んでいた。
「門衛は、いないようだ……」
「どういう事だ……? とりあえず、入ってみるか」
「ああ、覚悟は良いな……? 行くぞっ」
街に着いた三人は、緊張に喉を鳴らしながら、何故か門衛不在の街の門をくぐる。
その先にどんなパニックがあるのか、どのような地獄絵図が待っていようと、自分達こそは耐えきって見せると覚悟を決めながら。
しかし、その先で待っていたのは――あまりにも静かなレナスの街並みだった。
「こ、これは……?」
「この前まであれだけ運動でやかましかった街が、こうまで唐突に静かになるものなのか……?」
「一体何が……とりあえず歩いてみるか」
試しに通りを歩いてみれば、住民の姿はまばらではあるがまだ見られた。
ただ、それも健康そうな若者くらいで、子供や老人などは全く見られず、外出している若者たちにしても、口元をハンカチーフやスカーフで覆っていたり、手で押さえていたりと、平時とはいささか装いが異なる。
若い娘などは、普段なら街角で雑談なりしていそうなものを、足を止めて会話している姿などまるで見られなくなっていた。
三人も街で運動の抑えとして構えていた際に住民らの装いを見ているので、明確にその頃と今との違いに気づいていた。
「病に備えているのか……年寄り子供が見えないのは、警戒の為か、それともすでに病にかかってしまったのか……」
「娘達が集まっているのが見えないのは、人が集まる事で伝染するのを避けようとしているのかもしれないな」
「では口元を隠しているのは、咳などが元で感染するのを避けるためか? 賢いな……」
通常、疫病が伝染すれば、その街その地域は多大なパニックに陥る事が多い。
特に地域全体に深刻に広まるパンデミック状態に陥ると、混乱が混乱を生み、地域の領主や役人では抑え込めないほどの事態に陥る事すらあった。
その際、統制を失いいよいよどうにもならなくなった場合は、最悪はその地域を住民諸共焼き払い、浄化するというのが国家の執り得る最後の手段となっている。
状況次第では街の焼き払いを命じられた可能性もあったのだ。
少なくともその状況は避けられそうだと、三人は口元を抑えながらも互いに顔を見合わせ、ひとまずは安堵した。
「カリツ伯爵の指示かもしれんな。あの方はかつては先代王のブレーンとも言われる程の方だったと噂されていたし」
「とりあえず、これでこの街を焼き払う必要は今のところなさそうだな。良かったよ」
「うむ。疫病と聞きどんなものかと内心恐れてはいたが、最悪の事態にはまだなっていないらしい」
良くも悪くも、カオルの言ったとおり、まだそこまで広まっていない段階なのだろうと思えた。
小声で話しながらも油断なく周囲を見渡し、それでも問題らしい問題は起きていないのを確認して、一行は役所へと足を向けた。
「おや、衛兵隊の方でしたか。このような場所までご苦労様です」
役所では、担当らしきの壮年の男が三人を出迎えていた。
席まで案内し「管理長及び疫病担当のクラットです」と自己紹介され、三人も各々名を名乗る。
一般人の服装ではあったが、衛兵と名乗った彼らを訝しる様子もなく、言ってしまえば役人的とも感じ取れる曖昧な笑顔を見せながら、一枚の書類を彼らの前に差し出してきた。
「これは……?」
「現在の街に流行している『病』の患者数を示す資料です。貴方がたが求めているのは、こういったものでしょう?」
「それは……そうだが。やけに手回しがいいのですね?」
「まるで最初から用意していたかのように……」
「用意していましたからね。最初は大勢でこられると思っていたので、多目に刷っておいたのですが……いらっしゃったのが貴方がただけのようで何よりです」
大勢を案内するのは骨ですので、と、皺の多い眼元を手で覆い隠すようにしながら、「どうぞ」と勧める。
言われるままラットが手に取ると、とても分かりやすく大きな文字で患者数と、その種別が示された表が書かれていた。
衛兵と言ってもそれほど専門的な知識がある訳でもなく、「そんなに難しいものを渡されても」と戸惑っていた三人だったが、実際に見て見ればとても分かりやすい内容で、心底安堵してしまっていた。
クラットも三人のそんな様子を見て、手で隠してはいたがほくそ笑んでいた。
「資料を渡したうえで改めて説明しますと、今現在、街中での病の流行は比較的落ち着いた状態にとどまっています。老人や子供が感染した場合重篤化する恐れもありますので、外出は控えるように伝えてありますがね」
「ここにある、死者数3名というのは……?」
「残念ながら症状の悪化が原因で亡くなる方もいない訳ではありません。資料の通り、亡くなられたのは全員お年寄りですが、重篤化すると肺に強い負担がかかるようでして」
「つまり、死には至るモノの、深刻にならなければそれほど危険な病ではない、と?」
「今のところは。勿論状況が悪化すればその限りではありませんがね。あまり大勢で人が集まると、良くない状態になるでしょうね」
「それでは、件の『民主主義運動』などはもってのほかではないですか。まだやっているようなら止めなくては――」
「いえ、その必要はありませんね。彼らはもう、この街での運動を取りやめたようですから」
「なんですって?」
「疫病流行の可能性を察した姫様の指示で、当面のところ運動はやめるよう、この街の活動家達にも話が伝わっているようです。今街中で集会している人なんて、一人もいませんよ?」
最も警戒すべき運動家たちが、その活動をやめている。
その時点でもう、衛兵隊がこの街にこだわる理由がなくなったとも言えた。
三人は顔を見合わせ「どうするんだ」と戸惑っていたが、クラットはさらに続ける。
「それに、今街中が静かなまま落ち着いているのも、姫様の『お願い』が大きく……我々としても、姫様のおかげで助かっている部分があります」
「その『お願い』とは?」
「運動に参加するつもりで集まっていた民衆や民兵に、病の発生についての注意と、その病が発生しやすい状況を避けるようにする為に、街中で集まったり、人の多いところに顔を出したりしないように、というお願いですね」
「そんな事をされれば、運動の為集まった民衆は怒るのではないのか?」
「怒る人もいたのかもしれませんが、少なくとも問題が発生したとは聞いていませんね。大多数の住民は姫様の御願いを聞いて、家で大人しくしてくれているようです」
おかげで対策が楽で助かります、と、椅子にもたれかかれながら脱力するクラット。
三人も「確かにその通りなら姫様の貢献著しいな」と、複雑な表情をしていた。
自分達が排斥しようとしていた姫君によって、街全体が疫病に侵されるリスクが少なからず排除されたのだ。
これは認めねばならぬ功績であった。
「結局この街は、王族の方のおかげで助けられた、という事か……」
「いえ、姫様の話そのものは確かに的を射ていましたが、個人的にはこれは、それを聞いた側の意識が高まっていたから、というのが大きいと思いますよ?」
「というと?」
「姫様のお願いだからと、家に引きこもっていれば経済的な打撃を受けるのは民衆側ですから。多くの人は、短期的になら王族の『お願い』を聞くでしょうが、その強権に従ったというよりは、おのずから『周りに迷惑をかけない様にしよう』という意識を以て活動を自粛したように見えました」
民衆側の自発的な自粛。
きっかけこそ姫君のお願いがあったとはいえ、それは本来、それだけの民衆の民度の高さが必要になってくる。
民衆はカリスマの言動に行動を左右されやすいとはいえ、それを継続するのは民衆の意思が重要なのだ。
政治的な話は解らぬ衛兵三人にも、「それだけレナスの民が賢いのだ」と理解するには十分な説明だった。
「ですが、ここまで民衆の意識が高まったのもまた、運動の結果と言えるものですから……」
「そのような資料もあるのですか? その、運動に参加する事によって、民度が上がると言った……」
「ええ、勿論ありますよ。ちょっとお待ちを」
クラットが後ろに控えていた部下に視線を向けると、部下はすぐさま次の資料を配り始める。
これすら予想されていたように感じて、三人はなんともバツの悪い気分になっていた。
そしてその資料を見て、内容に驚かされるのだ。
「……我々が来るより前から、運動家たちによって犯罪率が下がっている……?」
「というか、我々がきた事でより犯罪率が下がってるじゃないか……運動家の数は増えているのに」
「これでは、運動に参加する者が増える事で街が危険に晒されているなんて、とても……」
根幹が揺るがされていた。
自分達がこの街に来たのは、あくまでレナスの危機の為。
民衆がこれ以上不穏分子の影響に晒されぬようにする為、ここに来たはずだったのだ。
確かに民衆からは煙たがられていたのは感じていた。
面と向かって文句を言ってくる者までいたのだから、「きっと嫌われてるんだろうな」と内心では解っていた。
それでも、例えよそ者扱いされようと自分達は衛兵なのだからと、我慢し規律を維持していたのだ。
それなのに、自分達が来た理由が根本から無意味だったと知らされれば、その苦労は何だったのかと、そう思わずにはいられなかったのだ。
「我々は……何のために、ここに来たんだ?」
「私達は、レナスの民の為に、嫌われながらも耐えていたというのに……っ」
「こんなの、信じられるか。こんなもの、隊長や待っている人たちに見せられるはずが……」
必要ない自分達が街に長期間居座ったのだ。
嫌われて当然で、煙たがられるのは当たり前だった。
彼らは彼らの主張通り、確かに街の自治を頑張っていたのだ。
結果的に住民の民意は向上し、犯罪率は下がり、今も病の流行を防ぐための行動を自発的に行えている。
彼らの行動すべてが民主主義運動家たちの主張を肯定していた。
それに対し、ただ民衆の妨害をしようとしていた自分達は何だったのか。
彼らは、唐突に湧いた疑問に、締め付けられる胸の苦しさに、耐えがたい辛さを覚え始めていた。
自然と涙がこぼれてくる。自分達の苦労は、無意味なモノだったのだと気づいてしまったから。
「……私としては」
そんな様子が居た堪れなかったのか。
クラットは、無元を隠すようにしながらも、ぽつり、呟くように語る。
「貴方がたは貴方がたで、レナスの民の事を憂いていてくれたのだと思っていましたから、悪感情はないんですがね」
場合によっては斬り捨てても構わぬと考えていた街の者から、そんな同情にも似た言葉を吐かれ、三人はより苦しい気持ちになった。
守るべき民から。救うべき者達から同情され、自分達はそんな者達を殺そうとすら思っていたのだ。
組織の維持のために。組織を守るために。
ただそれだけの為に、罪のないモノを罪人と決めつけようとしていた。
「う……っ、うわあぁぁぁっ」
眼元に湛えた涙が溢れ、いよいよ堪えきれず、グレースが声を上げて泣き出してしまう。
すぐに他の二人も堪えられなくなって、同じように泣き出した。
心が許さなかったのだ。
彼らは衛兵である。
人を守り集落を守り、その為ならば死ぬのも構わぬと思えるほど、人々を助けたいと、助けて戦いたいと思っていた善人である。
組織である以上、上からの命令には絶対という教育は受けるが、それでも今回の命令に抵抗がない訳ではなかった。
それでも無理矢理押さえつけていた良心が、いよいよ抑えきれずに爆発したのだ。
それは、今までの行動が全て裏目に出ていただけという事実を突きつけられたことが原因ではあったが、元々は彼ら自身の抱えていた「人々の役に立ちたい」という強い想いがあったからこそである。
彼らは、正しくどこにでもいる、善意と憧れから衛兵になっただけの若者だった。
そんな三人を見ながら、クラットはため息混じりに席を立ち、三人の傍に寄る。
「私も役人ですから、上からの命令に逆らえず悔しい気持ちになる事はあります。ですが、それ以上に民衆に対し譲れない想いもある。それもまた、理解しているつもりですよ。私達は、とても良く似ていると思います」
人や魔物相手に戦う衛兵隊と、書類相手に格闘する役人とでは戦場も違えば立場も異なるが。
それでも、両社は似ていると、そう思えたクラットには、彼らの涙は相応に響くものを感じていた。
彼らとて、理由あってここまで来たのだ。
民衆からは嫌われようと、役目を果たせねば組織は成り立たぬ。
自分達の様な嫌われ者も世の中には必要なのだと考えれば、彼らの想いとて、決して自分達と違わぬだろうと、そんな仲間意識が芽生えていたのだ。
結局、三人はそのまま役所を後にしたが、残されたクラットは、いくらか晴れがましい顔になった三人を見て「吹っ切れてくれたかな」と、安堵の表情を浮かべていた。
大泣きした事で内面にたまり溜まっていたものが吐き出されたのだと思えば、いくらかは彼らにとってプラスになったに違いないと、そう思いながら。
その後、領主館に出向いた三人だったが、門前に立っていた青年から「領主様も病で寝込んでおりまして」と伝えられ、面会はできぬまま、街を後にする事になった。
運動家たちの動向も気になったが、現状では姫君らの居場所すら解らず、三人きりでは行方を追えるはずもないので、今は病に関しての情報と、運動が止まっている事を伝えるのが最優先と考え、三人は戻ることにしたのだ。
こうして、街に流行していると噂された疫病「タダノカゼ」は、特に何事もなく終息へと向かっていった。