#18.民主主義という名の魔物
伯爵家で出されたお茶は、澄んだ水色をしたもので、香り高いのが特徴であった。
苦みが強く、比較的ミルクティー向きとされるエルセリアのそれと比べ、こちらはストレート、あるいはレモンを添えて飲むのが向いている品種らしく、ティーセットにもミルクは置かれていない。
静かに自分のカップに紅茶を注ぎながら「いいものですねえ」と満足げに目を細めるサララを見ながらに、カオルは伯爵たちの出ていったドアを見つめる。
「大体、どれくらいで戻ってくるのかな?」
ぼんやりとお茶を飲み、お茶菓子を食みながら。
カオルはぽつり、ゴートに問う。
「待つ時間は話の長さに比例しますが、大体は30分と言ったところでしょうか。一時間以上待たされる場合は、事前に『次は〇時に』といった断りが入るはずですので」
「結構待つんだなあ」
「大切な話でもリラックスして聞けるように、根を詰め過ぎないように、という配慮から始まった習慣らしいですが。ただ、ラナニアでも古い習慣の部類ですので、若い貴族や民間人はやらない事もあるようですね」
「時間と共に廃れていってるんだね」
「合理を考えるなら、必要が迫った時にそう伝えればいいだけですからね。一息に伝えればいいような事をわざわざ休憩を挟むのは、確かに余裕を感じさせはしますが、あまり合理的とは言えませんし」
合理的ではない、けれど心の余裕の為に必要な習慣。
それ自体は、カオルは悪い物だとは感じてはいなかったが。
確かに一度に伝えれば済む事を一々こうして待たされるのは、ちょっと無駄に感じてしまっていた。
疲れていたならそれも助かるだろうが、馬車での旅が比較的快適だった為、それほどの疲れも感じていなかったのも大きい。
ただ、出された紅茶は飲み慣れていないカオルでも素直に「美味しいなこれ」と思える好みの風味だったし、出されたお茶菓子は元の世界でも食べた事が無いくらいに魅力的な甘さを感じさせてくれていた。
なんとなしに手に取った円盤状のお菓子をかじってみれば、芳醇な香りととろけるような甘さが口腔に広がる。
コロコロと口の中を転がる食感に、思わず「お?」と目を見開いてしまった。
「木の実かな……?」
「ああ、それはシルキィビーズの実を使ったタルトですね」
「へえ……なんか、結構いいな、これ。甘いし、食感が……」
クルミとマカダミアナッツのあいの子の様な食感。
それでいてクリーミーな甘さが口に広がり、油臭さがない。
タルトと呼ばれた焼き菓子のとろけるような風味も、カオルにはたまらなかった。
「カットせずに食べられるようにミニサイズにしてあるんですよねえ。この技術力、流石は大国と言いますか……」
サララはサララで別の部分で「ううん」と呻っていた。
甘いもの好きな女子視点でも、ラナニアのお茶菓子というのはすごいものらしいと、カオルは勝手に感心していた。
ゴートもまた、茶を静かに啜りながらに「そうですね」と小さく頷く。
「ラナニアはあらゆる分野において先進的な発展を遂げていますから……お菓子一つとっても、我々エルセリアも見習うべき点が多いくらいです」
こちらはあまり面白くないのか、難しい顔をしてはいたが。
それでもその技術力、認めずにはいられぬという様子で、カオルは「やっぱり役人さんにとっては他の国が褒められるのは嫌なのかな」と感じてしまう。
不機嫌をあらわにする事は無いが、彼もまた、ひとかどの愛国者なのかもしれないと思えたのだ。
「……っ」
ただ、それはそれとしてお菓子は美味しいらしく、苦い顔をしながらも口にした瞬間、思わず笑顔がこぼれ出てしまう。
どうやら甘党らしいゴートは、この魅惑のお菓子一つで本心が容易く崩されたような気がしてしまい、顔を隠しながらそっぽを向いてしまった。
(この人、結構顔に出ちゃうタイプなんだな)
(お堅い人かと思いましたけど、結構面白い人だったんですねえ)
サララと二人、そんなゴートを見やりながら飲むお茶は、また格別なモノであった。
「いや、待たせたね。それでは続きの話をしようか」
カリツ伯爵が現れたのは、出されたお茶菓子が幾分無くなった辺り。
ゴートの言う通り、大体30分ほどで戻ってきた伯爵は、幾分機嫌よさげにぱちり、指を鳴らす。
それと同時に入ってくるメイド達が、お茶と残ったお菓子を下げていってしまう。
カオル的にちょっともったいない気がしたが、休憩中に「お話の場ではお茶もお菓子もなしで進みますので」と聞いていたので驚きもなかったが、エルセリアとは全く違う文化様式を目の当たりにし、「やっぱりここは外国なんだなあ」と改めて思い知らされたものであった。
お茶の代わりとばかりに新しい水差しをテーブルに置き、メイド達がまた去っていくと、伯爵は暖炉の前に立ち、「それでは始めようか」と三人をの顔を見やる。
三人ともが、既に話を聞く気になっていたため頷き、話は再開された。
「君達は、『民主主義』という言葉を聞いた事があるだろうか? 古来より、この世界は異世界人が度々現れ、それぞれの世界の文化や技術を我が世界に伝搬していくことがある。民主主義もまた、異世界人が持ち込んだ『思想』なのだが、これが殊の外厄介なものでね」
「聞いた事はありますね」
カオルもサララも首を振る中、ゴートだけが神妙な面持ちで頷く。
サララには解らずとも、エルセリア王の配下である彼ならば知っている事柄。
まさしく、政治に関わる物事であった。
「異世界からの文化って事は、何かこう……画期的なものなんです?」
「ううむ……ある意味では、な」
言葉尻を使ってのサララからの問いに、伯爵も難しい顔をしながら顎に手をやる。
手放しに認められるようなものではない、というのはこの質問一つでカオルにも解ってしまった。
つまり、面倒なものなのだ。
「民主主義とは、民が王や貴族と全く同じように、平等に機会を得る事。物事を決める際に王族がまとめるのではなく、民衆自身がそれをまとめ、王族や貴族ではなく、民衆が望む結果を追求する、といった思想の事を言う」
「民が主導するから民主主義なのか」
「そういう事だな。その思想を広めた異世界人のいた世界は、多くの民がそれを支持し、王ではなく民が中心となって選出した代表者同士を話し合わせ、理想的な結論を追求するような政治構造が成り立っていたらしい」
「……王ではなく、民が中心に……」
ぴく、とサララの耳が動いたのに気づき、カオルは彼女の興味が民主主義に向いているのだと気付いた。
王族なりに何がしか思う事があるのだろうか。
いずれにしても、サララはそれに興味があるらしい、と。
それに気づいてか気づかずか、サララへと視線を向けながらも、今度はゴートが口を開く。
「ですが、それはあくまで理想的に行けば、という話ですよね? 我が王も、その辺りはこの世界の民衆では無理があると判断されたようですが」
「うむ……各国の王族で、その思想を聞いて同調した者は誰一人としていなかった。当然と言えば当然なのだがな」
「そりゃ、自分の権力を奪われるかもしれないって思ったら、そんな思想納得できないよな」
誰だって自分の地位は大切なはずで、それを無くすかもしれない思想など受け入れられるはずがないだろう、とカオルは思い至ったが。
どうにもそれは安直だったらしく、伯爵は苦笑いしながら「違う、そうじゃない」とカオルの前に手を突き出す。
「確かに権力を失うのが怖い王族もいるかもしれんが。各国の王が危惧したのは、『民衆がそこまで育ち切っても居ないのに民衆に政治を明け渡すのは危険すぎる』というものだ」
「育ち切ってない……?」
「王族や貴族、一部の富裕層を除けば、どこの国でも民衆というのは学に乏しく、目先の事にばかり目が向いてしまう。それ自体が悪いのではない。人間というのはそういうものなのだと誰もが解っている。だが、そんな者達に政治を任せればどうなると思う?」
「……目先の事しか考えない人が政治を握ったら、後先考えず我欲を満たそうとするでしょうね」
クイズのように一人一人に違った問いかけを向ける伯爵に、今度はサララが答える。
嬉しそうに笑う伯爵。
どうやら正解だったらしく、サララも胸をなでおろしていた。
「その通りだ。学のない者というのはどうしても先の展望を抱けぬ。国の未来を考えられぬ者には、政治を任せる事など到底出来ぬ」
「一歩間違ったら国が傾いちゃうもんな」
「まさしく。故に、国民が知性の面でも、精神の面でも成長して、初めて役に立つ思想なのだ、というのが各国の王の出した結論なのだ。だから、その当時も『これが広まるのは時期尚早』とされ、各国共にその異世界人に要請し、民主主義が広まらぬように説得した」
相応しくない者が政治を握った国というのは、それだけで大変なことになるのだ。
優秀な王がおわしたはずのエルセリアですら、一時期は姫君と王子の背後で腐敗の温床が発生しかけていた。
これがもし、無能な輩が国を動かすようになったら……そう考えただけで、カオルは「うへえ」と疲れた顔になっていた。
考えたくもないことながら、本当にどうしようもない末路しか見えなかったのだ。
「民主主義は、まだ駄目なんだな」
「少なくとも今の段階では、あまり好ましい思想ではない。だが……厄介なことに、我が国の民衆はそれを望もうとしている」
カオル達の理解に安堵してか、幾分声色は穏やかなものになってはいたが。
どうにもこの一件、カオル達にとっては深すぎる問題が根底にあるらしく、伯爵も難しい顔のまま、笑う事もできずにいた。
カオルとサララも、これには「思ったよりヤバいことになりそうだな」と、頬に汗する。
「伯爵様、お話を聞いている限りだと、民主主義は一度……封印されたはずなんですよね?」
「そのはずだ。実際その異世界人は各国の王の言葉を聞き入れ、主張するのをやめたはずだからな。そしてその者も死んで久しいと聞く。つまり、言い出した当人が今更になって蒸し返した、という話ではないらしい」
「あ、もう死んじゃってたんだ。てっきりその人が黒幕か何かなのかと……」
「そうであったなら、幾分対策もとりやすいのだがな」
流石にそんな簡単にはいかず、『民主主義』という名の魔物を今の世に解き放った犯人は、今のところはっきりとしていないらしかった。
「でも、そうなると今更主張し始めた人が居るって事ですよね? 突然民衆の中から沸き上がった訳ではないのでしょう?」
「ああ。それを知っている知識層が全くいない訳ではないだろうが、そういった者は多くが貴族や富豪のお抱えや宮仕えだろうからな。民衆側に立つことは、今のところないはずだ」
「だとしたら、やっぱり国とは関係ない第三者が、何かしらを狙って……という可能性の方が高いのか」
「……そこまでは私にも流石に分からんが。だが、そうだとすれば看過できぬ問題ではある」
サララとカオルの問いかけに、伯爵はため息混じりに水差しを手に取り、コップに注ぐ。
そうしてまた、水を一気に飲み干し、いくばくか落ち着いた様子で三人を見た。
「今このレナスも、そういった思想に惑わされた民衆が増え始め、『民衆の手による自治』を訴え始めているのだ。今はまだ我らの手から離れるところまでは行っていないが、南西にあるヨード子爵領の『マリアナ』などは、民衆によって占拠され、政治的空白が生まれてしまっていると聞いている」
「既に占領されちゃってるのか……」
「思った以上に深刻なことになっているようですな。民衆が、既に蜂起していたとは」
地方都市が民衆に占拠されているという状況は、既に国の基盤たる『領主による統治』が瓦解し始めている事に他ならない。
地方が崩れれば、自然中央にもその流れは影響してゆく。
これがただの民衆による軍事蜂起ならば、遠からず国軍が出動して鎮圧すれば終わりだろうが。
伯爵は、今までに見せた中で最も苦々しい表情で「いいや」と、首を振った。
それを口にするのもはばかられる様な、そんな重さを含ませたその面持ちに、カオルらも思わず息を飲む。
伯爵の言葉を待つようにわずかな沈黙が部屋を支配し……そして、やがて口を開いた伯爵によって空気が流れる。
「――これは蜂起などではなく、第二王女リーナ殿下がお認めの、『政治運動』なのだ」