#21.世界の果てより
氷結を越えた無限の零度が、そこにはあった。
凍える大地。魔境。絶望の都。
様々な呼び名のついたこの土地は、かつて幾度もの魔王と勇者との戦いが繰り広げられた古戦場でもあり、そして今は、誰すら寄り付かぬ、寂れた世界のはずであった。
そんな、人の寄り付かぬ極寒の世界の中心には、廃墟がある。
かつて『魔王城』と呼ばれ、魔王となった者が君臨したその城は、魔王が滅びて久しい今となっては見る影もなく、辛うじて城塞の一部が城壁と共に残るばかりであった。
だが、地下はいささか、それとは異なる世界が広がっていた。
永久凍土の大地深く。全ての壁が結晶となった大広間。
ここに、玉座が一つ。
座するはまだ若くも見える、尖った耳の特徴的な、黒髪の男だった。
苦しげに胸元を抑えながら、肩で息をするように、眼前に傅く女を見つめていた。
「――バゼルバイト」
肺の中の酸素をすべて吐き出す様な、そんな呻き声にも似た声に反応してか、女は面を上げ、男を見つめていた。
腰下まで届くほどのココア色の髪に大部分が隠れてはいたが、その顔は酷くかぶれており、またそうなっていない部分も醜く腫れあがっていた。
女というよりは化け物という表現の方がまだ相応しく思える様な有様であったが、玉座の男はその顔を見て、安堵したように顔をほころばせる。
「また、お前の顔を見る事が出来るとは、嬉しい限りだ」
無言のままに自身を見つめる醜女を、慈愛に満ちた眼で見つめ返しながら、男は立ち上がろうとして……体にまだ力が入らない事に気づいた。
身体の中にも様々なモノが足りていないように思え、「まだ立ち上がるのは無理か」と、苦笑いする。
肩で息するほどの苦痛ではあったが、それでもまだ、彼は笑うだけの精神的な余裕が残っていた。
「――陛下。アルムスルト陛下。ああ、この日をどれほど待ち望んだ事か――」
バゼルバイトと呼ばれた女が、歓喜の涙を隠しもせず、両膝を付く。
不出来な瞳から溢れるのは見るからに気色の悪い紫の体液。
零れ落ちた床が腐食しジワジワと音を立てるのも気にせず、彼女は玉座の上の男に、再び深く頭を垂れた。
「魔人バゼルバイト。また陛下の面前にこうしている事が出来る事、これほどの幸福は、そうはございません」
深々とした礼を受けながらも、『陛下』はその呼び名とは似つかわしくない人のよさそうな笑顔を、この醜女に向けていた。
嬉しかったのだ。またこの顔を見る事が出来たのが。
自分がこのようにこの世に甦り、最初に目に入ったのが彼女だったのが、彼には殊の外喜ばしく。
だからこそ、苦痛を味わいながら、彼はこの場に君臨する事が出来ていた。
「どうやら、また私が『魔王』に選ばれてしまったようだね? 今回も勇者とやらの相手をさせられるのか……」
「今度こそ、勇者めがこの地に来る事が無いよう手配いたしますわ」
「……覚醒する前に、死ねたら楽なのだが」
「それは……」
彼は、まだただの魔族であった。
力こそ強い。並の人間では相手にもならぬほどの剛力と、腕利きの魔法使いが束になっても叶わないほどの魔力を持っている。
魔人であっても彼には容易に手を出せないほどに、強かった。
だが、同時にアルムスルトは理性的な君主であった。
少なくとも、自ら戦争を望むような性質ではなく、他者の苦しみなどはできれば見たくないと願う程度には、人畜無害な存在だったのだ。
魔族といえど、何もみんながみんな人類を敵視している訳でも、廃滅させてしまいたいと願っている訳でもない。
確かにそういった者もいるが、少なくともこのアルムスルトは、それを望んではいなかった。
「遠からず、陛下は再び魔王として覚醒する事になるかと」
「……免れ得ないものか」
「宿命にありますれば」
「不愉快な宿命だな」
――覚醒してしまえば、彼の人格の大半は失われる。
魔王とは、人類の敵であり、全ての生態系の頂点である。
最強の存在であり、そして、最悪の存在でもある。
アルムスルトは、過去に二度魔王として覚醒した事があった。
そして都合二度、世界を滅亡寸前まで追いやり、二度とも勇者によって滅ぼされている。
三度この世に立った彼は、しかし、その宿命に嫌気がさし始めていた。
「今回、陛下の前に覚醒した者がおりました。その者もやはり、女神によって召喚された勇者によって撃滅されたようです」
「やれやれ……女神殿も相変わらず勤勉な事だな。一人きりになったというのに、よくやる」
「……まがりなりにも主神の娘ですので」
「勇者ともども、いい加減断ち切りたい縁なのだが……」
それも無理か、と自嘲気味に笑う。
まだ理性を色濃く残す彼を前に、魔人バゼルバイトはただ、眼を閉じひれ伏すのみであった。