#18.聖女解放
「――はっ、な、何か、嫌な気配が……」
その時、自室で身体を休めていた聖女様は、背筋が冷えるような、そんな感覚を受けてベッドから起き上がった。
すぐにその震えが全身を駆け巡り、「ただごとではない何かが起きているのだ」と気づき、すぐに佇まいを直し部屋を出る。
この教会は、彼女のテリトリー。
何かが起きればすぐにそれと気づけるはずなのだが、起きている事が明確に察知できていない今であっても、うっすら、とんでもないことになっているような感じはしていたのだ。
(でも変だわ……悪しき気配だけではなく、それを上回るような、とても強いものに包まれる様な感覚も……)
一瞬感じた、明らかに強い悪意の渦。
これは恐らく封印された魔人のものと彼女はすぐに思い当ったのだが、同時に、それすら抱擁し、無力化させていくかのような、そんな不明瞭な気配を感じてもいた。
最初こそすぐにでも駆けつけなければならないと思っていた彼女は、不思議とその感覚を受け、焦らずともいいような、奇妙な安堵を覚えてもいたのだ。
そうして、駆けつけた聖域。
いや、かつて聖域としたはずのフロアが、すべて解除されていた。
「こ、これは――一体」
しかし、彼女が驚いたのはそんなものではなく。
その中心に立っていた、自身が突き刺したはずの短剣を持っている見知らぬ年若い娘と、地べたに跪いている、多分魔人と思しき老齢の男の姿を見たからである。
「うっ、うぅっ、何故だっ、何故こんなっ――」
封印が解除されている。
それ自体が驚きに値する事のはずなのに、魔人が暴れるでもなく地に伏しているという衝撃的過ぎる光景に、聖女様は一瞬、思考が吹っ飛んでしまいそうになっていた。
見れば、ベラドンナも顔見知りのメイドもそれを近くで見ていて、そして困ったような顔でおろおろしている。
「あ、聖女様……」
「その、申し訳ございません。こちらの方……アイネさんという方なのですが、魔人に誑かされ、封印を……解いてしまいまして」
「……ええ、そのようですね」
ベラドンナから説明を受け、状況が少しずつ呑み込めてきてはいたが。
同時に、かつての聖域の中心点で不思議そうに首を傾げている、この場違いな娘を前に、聖女様は喉を鳴らしていた。
強い喉の渇きを覚えていたのだ。自然、拳に力が籠る。
(私が……緊張している?)
ただならぬ気配。
それは魔人ではなく、この娘から溢れているものだった。
魔人のように悪意に満ちたものでも、かつてのベラドンナから溢れていた悲哀を感じさせるものでもない。
どちらかといえばそれは、癒やし。
そして、抱擁するかのような温かみもあって、魔人の解放という、本来ならば全身が警笛を鳴らしかねないような状況下にありながら、それほどの脅威に感じられないのだ。
「……アイネさん、と言いましたか」
「あ、はい」
話掛ければ、対応は普通の娘である。
確かに見目麗しく、異性受けしそうな顔立ちではあるが、特別引き締められた厳しさなどは感じられない。
聖職者として教育を受けた者は、少なからずそういった厳しさを内包した自戒の念に包まれているもの。
それが感じられないのに、この娘は魔人を解放し、そして魔人を制圧していた。
「その足元に伏しているのが魔人と、知った上で開放を?」
「えっ? このおじさん、魔人なんですか!? 魔人ってあの、すごく悪い人なんですよね!?」
「……えぇぇ」
そんな程度の認知度。
本当にただの無知な人間が偶然なりとも自分の聖域を解放したことに、聖女様は脱力しそうになってしまっていた。
いや、偶然ではないのだ。彼女はそれに気づいていた。
「その、お友達に会いたいからって言ってるから解放してあげたんですが……なんか、ベラドンナさん達に酷いことしようとしたから『駄目ですよ』って怒ったら、こんな感じに……」
「あー……うん、そうですね。私の封印解除できたっていう事は、そういう事ですよね」
「聖女様……?」
不安げに見てくるベラドンナに「大丈夫ですよ」と小さく頷いて見せ。
しかし、自信と責任感が一気に軽くなっていくのを感じて、ため息を漏らす。
「……とりあえず、上に戻りましょうか。ああ、その魔人はそのままにしておいてください。恐らくアイネさんが何も命じなければそのまま動けないはずですから」
「はあ……いいのかな……」
「いいのです。さあ、こちらへ」
「はい、解りました」
「ま、まてぇっ、ワシをこのままに――ぐっ、くそっ、身動きが取れぬっ」
「……自業自得ですよ、ゲルべドス」
確かに、封印を解かせるだけの実力者を操って見せたのは恐るべき力ではあったが。
その操った相手が自分にとって最大の天敵だったという偶然に、魔人は敗れたのだ。
聖女様にとっては僥倖である。
地に付したままの魔人を放置し、三人は聖女様に促されるまま、階段を上っていく。
『くそぉっ、い、いつかっ、いつかワシはここを出てやるからなあっ!!』
負け犬のような叫び声を聞き、つい可笑しくなって笑みが漏れてしまう。
「聖女様、笑ってらっしゃるのですか……?」
「え? えぇ、つい」
親友に指摘され、少し恥ずかしくもあったが。
仇敵の無様な有様に、胸がすくような気持ちになってしまっていたのだ。
そう、この親友と自分を苦しめぬいた悪意の根源が、最早元の悪意を発揮する事は、かなわなくなったのだから。
そうして、四人は懺悔室に移動していた。
私室では人数的に狭くなってしまうので、という事で、ある程度の広さのあるここを選んだのだが、懺悔者用の椅子は二つしかないので、リリナとベラドンナの二人は立ちながらになってしまう。
そこで対面するように座りながら、聖女様はアイネの眼をじ、と覗き込むように見つめるのだ。
「あ、あの……えっと……」
流石に初対面もあって緊張してしまうのか、アイネは困惑したように眉を下げながらに言葉探しに始終。
まともな言葉も浮かばず、困ったように聖女様の反応待ちになってしまっていた。
対して聖女様は凛々しい顔立ちのまま、微動だにしない。
「聖女様、どうかなさったのですか? ずっと、アイネさんを……」
そんな中、口を開いたのはベラドンナであった。
多少の躊躇はあったものの、このままでは埒が明かない気がしたのだ。
この中では多少なりとも聖女様とも親しみがあるから、というのもあった。
「いえ……今代はこのような方がなったのだと思うと……ほっとしたような、少し悔しいような気持ちにもなったのです」
「はあ……?」
ようやく聞けた聖女様の言葉も、今一要領を掴めないもので。
ベラドンナをして、間の抜けた返事しかできずに眉を下げてしまう。
ただ、聖女様は一人、満足げであった。
口元には笑みすら浮かべながら、やはり視線はそらさず、また口を開く。
「アイネと言いましたか……貴方には、事情のほとんどが解らないとは思いますが。貴方は何故、あの魔人を従える事が出来たのか解りますか?」
「え? 従えるって、あのおじさん……魔人をですか? 私が?」
「ええ」
何の事なのか全くわからず、アイネは聖女様の言葉をなんとか理解しようとして……混乱してしまっていた。
無理もないのだ。この場において、聖女様の言葉の意味を理解できる者は、一人もいないのだから。
口には出さないだけで、ベラドンナもリリナも、何の事なのか全くわからず困惑していた。
ただ、確かに暴れようとしていた魔人が無様にも地べたに這いつくばり、動けなくなっていたのは見ていたので、何らかの力が働いたものだと思っていたのだが。
それですら、聖女様のお力なのだと、そう思っていたくらいで。
「では聖女様、あの魔人は、アイネさんのおかげで動けなくなっていたと……?」
「私は何もしていませんもの。ベラドンナも何もしていないでしょう?」
「そうですね……私には、あの聖域に入る事ができませんでしたし」
驚きもありながら、聖女様が何もしていないなら、残る可能性はこの、アイネにしかなかった。
自分達が無事な以上、それは疑いようのない事実。
「『封印の聖女』という言葉をご存知ですか?」
凛々しいながらも優しく微笑み語り掛ける聖女様に、アイネはちょっとだけドキリとしてしまい、胸騒ぎを覚えてしまう。
綺麗な女性ではあったけれど、同性にそんな気持ちになるなんて不思議な気持ちで、先ほどとは別の意味で困惑してしまっていた。
「知らない……です。封印の、聖女、ですか」
噛みそうになりながらも繰り返し呟き、だけれどやはり記憶のどこにも覚えがなく、首を横に振る。
そんなアイネの様子に、聖女様も「そうですよね」と小さく頷き、そしてベラドンナとリリナを見やった。
二人も、やはりそんな言葉に思い当りがなく、首を横に振る。
「これは――私達聖女や聖人に選ばれし者の他には、各国の王族やごく一部の要人にしか知られていない事なのですが――」
す、と眼を閉じ、語り聞かせるその雰囲気が、とても尊く、そして清らかで。
三人は、自然とその言葉に耳を傾け、そして、注視してしまっていた。
そうして、聖女様の大切な話が始まる。