#15.春先の旅立ちと入れ違い
リリナがハウスキーパーとして雇われてから一週間ほど。
この日、カオルとサララはかねてよりの予定通り、オルレアン村に帰省する事にしていた。
元々冬の間滞在するだけの予定が、随分長引いていたのもある。
春も大分深まり、旅をするにはもってこいの日柄だった。
「結構長い事留守にすると思うけど、もし何かあったら手紙で報せてくれると助かるぜ。必要なら一日二日で戻れるからな」
「はい」
「急ぎの際にはベラドンナさんに伝えてもらえれば大丈夫だと思います。お給金と生活費は毎月忘れずに集会所から受け取ってくださいね」
「かしこまりました」
旅立ちの仕度を整え、各所への挨拶も終わり、後はもう出発するだけ。
その状態になって、家の留守をリリナに頼んでいたのだが……なんだかんだ、伝える事が多くて結構時間が経ってしまっていた。
もう昼過ぎである。時間には余裕があるとはいえ、「流石にそろそろ」と二人して苦笑いしつつも、街の外を見やる。
「それじゃ、そろそろ行ってくるぜ」
「後をお願いしますね」
「はい――いってらっしゃいませ」
楚々とした様子でお辞儀して見送るメイドに、カオルらも安堵して歩き出す。
目指すは街外れにある厩。
しばし休ませていたスレイプニル『ポチ』の出番である。
「……ふぅ」
そうして、彼女の主人達が旅立って数日。
実に静かな日々が過ぎ去っていた。
ハウスキーパー・リリナはメイドのプロである。
職務として与えられた全てを全うし、埃一つない美しい家を維持している。
そしてそのとても綺麗な空間で、棚に並べられた本を手に取り、寛ぐのだ。
「ふふっ……素敵だわ」
一日に読むのは二冊まで。
今日手に取ったのは、最近出始めた新人作家の推理小説と、古典的な詩集である。
読む物選ばず、ひたすら手に取った本を貪るを好しとする本好きメイドにとって、あらかたの仕事を終えた後の読書タイムは、夢にまで見た幸福の形。
身も心も癒やされる至福のひと時である。
当初はまだ二十冊程度の本が並んでいただけだった本棚だが、「そんなに本が好きなら」と彼女の主がわざわざ大棚が一杯になるほどの本を買い集めてくれたのだ。
おかげでしばらく退屈する事が無い。
キラキラとしたこの読書タイムを延々楽しむことができるのが、彼女にはたまらなく幸せだった。
(はぁ……メイドとしての能力を活かせて、しかも読書に耽る事も許されて。私の国では考えられないくらい、この国は沢山の本に触れることができる……)
ほう、と幸せそうに息をつきながら、ひらりとページをめくる。
それがとても大切な宝であるように、丁寧に、そっと。
そうして開かれたページを、何度も何度も読み直す。
一度読み終えた本も、それとわかりながらも敢えて手に取り、読み直す事もある。
とにかく飽きない。バリエーションも豊富で、気分で選べるのも大きい。
何より『メイドが読む事前提で買ってくれた』という、ただその出来事が、メイドの彼女には驚嘆であった。
(なんて素晴らしい環境なのかしら。私は、ようやく好い家と巡り会えたのかもしれない……)
実は、最初の頃は結構ドキドキだったのだ。
ハウスキーパーという職業は、世話になる家の主人によってハードにもイージーにもなる。
うっかりハードな家庭に当たってしまうと、人生が狂うレベルでとんでもない問題に直面する事すらあるので、この辺りはプロと言えど緊張モノであった。
幸いにして集会所で扱いに関しての保証はされていたし、自分を面接した獣人の少女はとても聡明な様子で、そして彼女の真面目さを数分ばかりのやり取りで見抜いてくれた。
そして、その少女の恋人らしい家の主は、街でも評判の英雄殿だった。
英雄といえば色を好むもの、と相場は決まっている。
相応に手を出される恐れもあるのでは、と若干の警戒もあったが、意外とこの青年、恋人ばかり気にしていていやらしい視線一つ向けてこないのだ。
これは大変ありがたかった。
メイドとして勤めていると、初対面の時点でまず主なり執事なりに上から下まで嘗め回すように見られるものだが、それがないだけで安心感は大分違う。
街でのもう一つの評判だった『変わり者』というのも頷けるものだったが、むしろそのおかげで安堵できたのだ。
(適う限りは長く置いていただけるよう、頑張らないと……)
この楽園に少しでも長く居られるように。
そんな決意を想い、また文章へと意識を戻した。
《コンコンコン》
そんなのんびりとした時間。
不意に玄関口から聞こえたノックの音。
「誰でしょうか、もう、折角お休みの時間でしたのに」
時間的にはまだ昼過ぎなので来客があってもおかしくはないのだが、至福の時間が唐突に終わりを迎えた事に、リリナは唇を尖らせながら本に付箋を挟み、静かに閉じる。
そうして立ち上がり、「今行きますよ」といそいそ玄関へと急いだ。
《ガチャ》
「あっ、こんにちはー!」
赤いベレー帽を被った少女が一人。
便せんを手に、少し疲れたような笑顔を見せていた。
他でもないティッセである。
「あら郵便屋さんですか? どちら様宛てに?」
「えっと、こちらのカオルさん宛てにですね。送り主はオルレアン村の村長の娘さんからです」
「オルレアン村の……そうですか、ちょっとお待ちくださいね」
「あ、はいっ」
先日旅立った主宛ての手紙である。
送り主もその故郷のオルレアン村から、というので、リリナは戸惑いもなく自室に引き返し、お財布を手に取ってまた戻る。
「ご苦労様、これ、お駄賃としては少ないですが……」
郵便少女にはお駄賃を。
これはこの国のマナーという話はリリナも知っていたので、少ないながら払おうとしたのだが――
それを見て、少女は少し焦ったようにわたわたと手を前に出していた。
「いえそんな! 実はこのお手紙、雪の影響で、受け取ってからちょっと時間が経ってしまいましたので……お駄賃は受け取れません」
「あら、そうなんですか? 解りました」
「はい。それでは、確かに渡しましたので~」
「ええ。気を付けて」
遅れてごめんなさい、と、眉を下げながらに謝る少女から手紙を受け取る。
今一事情の分からないメイドにとっては首を傾げる一幕だったが、郵便少女にとっては預かった手紙の遅滞は大問題だったらしく。
ようやく渡せて一安心、といった様子で胸をなでおろし、少女は「しつれいしまーす」と言いながら姿勢を低くして――一気に駆け出す。
「……いつ見ても速いわ」
そのまま《ばびゅん》と風を切って見えなくなるのを見送りながら、リリナはどこか楽しげに笑っていた。
「――オルレアン村の村長の娘さん……どんな内容なんでしょうか」
さて、手紙を受け取りはしたものの、宛名の都合上勝手に開ける訳にもいかないリリナは、その内容が少し気になっていた。
わざわざ主人宛てに送られた手紙である。
もしかしたら大事な用事なのかもしれない、と考えると、主の「何かあったら」という指示に引っ掛かるのでは、と。
かと言って人様の手紙を勝手に開けるのはノーマナー。
まして主人宛ての手紙というのだから、迂闊に知ってしまうのも問題になる気がする。
リリナは、少し困ってしまった。
(開けて読む事が出来れば、内容を知る事も出来るのに……とりあえず、シスターにでも相談してみましょうか)
こういう時、事前に頼るべき存在を提示してくれていたのはありがたかった。
自分で判断できなければ、その人に判断を委ねればいいのだから。
場合によってはそれで自分の行動が決まる事もある。
大事なことなので、急がなくてはいけないかもしれない。
(よし、早速教会に――)
意気込み、便せんを大切にエプロンのポケットにしまいながら、リリナは戸締りを始める。
まだ陽も高い。教会に行けばシスターに会える。
今済ませることができるものは、すぐにでもか片付けた方が良い。
リリナはそう考えられるできたメイドであった。
後でできる事は後に回した方が良いという駄メイドはびこる昨今、とても珍しい優メイドである。
《コンコンコン》
そうかと思えば、再び玄関のドアがノックされる。
すぐにでも出かけようとしていた中である。
丁度目の前のドアが叩かれたとあって「今日は来客が多いですね」と首を傾げながらに再びドアを開けた。
「……あ、ごめんなさい、間違えましたっ」
ドアの前に立っていたのは、小奇麗な格好をしたお嬢様風の娘だった。
白いツバ付き帽子を手に、ドアを開けたリリナに笑い掛けようとして、リリナと目が合って「あれ?」という顔をしていたのだ。
そしてこの一言である。
リリナも脱力してしまった。
「はあ、そうですか」
「すみません、この辺りにカオル君のお家があるって聞いて来たんですけど……あ、カオル君っていうのはオルレアン村からここに来た人でっ――」
「カオル様でしたら、こちらのお宅であっていますよ」
どうやら主人を訪ねて来たらしい、と解り、閉めようとしたドアから顔を出し、再び正対する。
初めて会うメイドの言葉に、「あれれ?」とさらに首を傾げる娘さん。
「やっぱりここであってたんだ……あ、あの、事前に手紙を送ったはずなんだけど――」
「……手紙、ですか?」
「そうっ、私が村を出る前に、ティッセちゃんにお願いして届けてもらったお手紙です」
手紙。オルレアン村。届けてもらった。
言葉のパーツを読み取り、リリナは「ああ」と得心、小さく頷く。
「もしや、貴方が『村長の娘さん』ですか? オルレアン村の」
「あっ、はい、そうです。そうなんだけど……」
ちら、ちら、とどこか居心地悪そうな顔で窺うこの村長の娘さんに、リリナは「やはりそうでしたか」と目を細め、それから一歩、身を引いた。
「立ち話もなんですので、どうぞ中の方へ――」
どうやら主人の客人らしい、というのははっきりしたので、粗相の無いよう、ハウスキーパーらしく振舞う事を決めたリリナは、楚々とした仕草のまま、この娘さんを家の中へと誘った。