#13.泡沫の夢
黒い森の中を、爛々と歩く少女が一人。
顔を隠すように頭巾で髪を覆い、正体を隠す為にどこぞで調達してきた村娘の衣服を着て。
優しい木漏れ日が暖かで、少女はその森が大好きだった。
城から抜け出しての一人歩き。
散策道としては寂しいけれど、その分誰に気兼ねするでもなく歩ける、そんな道。
他の国ならばこのような道には山賊やらいかがわしい輩が潜むものだが、この国ではいるはずもなく。
獣人の世界は、本日もまた、とても平穏であった。
「あらおひい様。またいらしたんですか?」
気まぐれに選ぶ本日の行き先は、ある村の小さな教会。
王都セントエレネスを除けば数少ない異国の人間がいる場所で、彼女にとっては珍しい外国製の品がよく置かれている、そんな場所だった。
出迎えてくれた老齢のシスターもかつては城内で侍女として何度も話した事のある相手で、居心地が良いのだ。
「お城にばかりいたら気が詰まって仕方ないもの。たまにはこういうのもいいのよ」
「あらあら」
礼拝堂の長椅子に腰掛けながら、頭巾を取って一言。
正体を隠していた布が外れるにつれ、黒く長い髪がすらりと揺れながら現れ、凛とした顔だちが露わになる。
その頭にはやはり黒毛の耳がついていて、ぴょこぴょこと愛らしく動いていた。
シスターは苦笑ながらにその隣に腰かけ、二人して女神像を見つめる。
「行儀、作法、外交に歴史。嫌になっちゃうわ。学ばなくてはいけない事が他にもたくさんあるのに、お城ではロクなことを教えてくれないんだもの。私、城下に居た方がずっと楽しいわ」
「困った方ですこと……ですが、おひい様のように見聞を広める為民衆の元に姿を見せる王族というのも、一人くらいは必要かもしれませんわ」
「そうよ。私はその必要な一人なの。兄さまも妹たちも、皆真面目にお勉強してるし。お城でのお勉強は他の人に任せて、私は民衆を極めるわ」
私、民衆のプロですから、とよく解らない事をのたまい、シスターを笑わせにかかる。
歳を取り、侍女として働けなくなったことから神へ遣える道を選んだというこのシスターに、少女はよく懐いていた。
街に出向けば、多くの者が「姫様」と駆け寄って来る。
親しみを込めて話しかけたり、ミルクをご馳走したり、日向ぼっこに誘ったり。
とにかく、街に出れば囲まれるのが少女の日常なのだ。
だが、この教会ではそんな事はない。落ち着きたい時、彼女はこのシスターの元を訪れた。
この国の住民というのはそんな感じに誰もが親しく、誰もが寄り添い、そして力を合わせるものだった。
王族であろうと、民衆であろうと、狭い国土の中、自分達だけの国を維持するには、それは大切な事だったのだ。
猫獣人は、人間と比べ力に劣る。
長命ではあるが、生命として人間より明らかにか弱く、その為山が多いこの国の大半を切り拓く事が出来ずにいた。
畑もあまり作れず、金鉱のおかげで金にだけは困っていないが、その金を活かせるだけの人材も集まらない。
住民の多くは、遥か戦前の生活様式とさほど変わらず、山で採れる山菜や木の実、魚などを行商に売る事で日々の生計を立てていた。
市場が未熟な為経済が育たず、国家としては金持ちだが、国体としては弱小もいいところ。
住みたがる者に至っては獣人か世捨て人くらいなもので、住民のほぼ全てが猫獣人。
当然戦争の世では周辺国に好き放題奪われ続け、現在の国土は隣国となったエルセリアの国王が偶然この国を訪れたから、という国益も何もないところからの繋がりで保障されたものに過ぎない。
それでも、住民は不自由なく過ごし、それなりに幸せに、そして平和に暮らしていた。
単一種族ばかりの国という事から種族間の諍いもなく、わざわざここまでくる行商もそれが解っている者ばかりなので、混乱の種にもならず。
閉じられた世界ならばそれなりの平和というものが、確かにあったのだ。
だが、少女にはそれが退屈で仕方ない。
「子供の頃お父様に連れられて行ったあの国は、すごかったわ。沢山の人間が居て、沢山のモノがあふれて、そして、皆賢かった。知ってる? あの国では、その辺の村娘でも文字が書けるのよ? 自分の名前を、字で書けてしまうの」
「ええ、そうですね。エルセリアは、とても豊かな国ですから。沢山の人が集まり、そして学問を学ぼうという意識が強い人が多いのです。常識として、学がある事を求められるのですわ」
「そうなのよ、すごい事よね。この国では考えられないくらい」
少女が想い馳せるのは、かつて父親に連れられ旅した事のある友好国・エルセリア。
広大な平地が続く街道。街を埋め尽くすのではないかというほどの人間。
数多くの富。そして、比類なき学問という名の叡智。
商業一つとっても、この国とは比べ物にならないほど発展した超大国が、そこにあったのだ。
それはまさに理想郷。人類が極めし栄華。
それを見た気になって、少女は深いため息をつく。
「この国には、足りないことだらけ。モノがない、人が少ない、文化が乏しくて、文明の恩恵も得られない。もっとたくさんの民が学問を学べるようにならなきゃ、世界に取り残されてしまうのに……」
「ですが、賢くなることが、そのまま幸せにつながるとは限りませんわ」
「ん……そうなんだけど、ね」
このシスターのように、人間ならば彼女の悩みは解りそうなもの。
それでも尚それをはっきりと肯定しないのは、人間なりの悩みというものを知っているからなのだと、少女は解っていた。
人間は、とても賢い。
だけれど、賢いからこそ気づいてしまう事もあり、賢いからこそ解ってしまう苦しみもある。
知らずともよい事にまで目が向いてしまい、知らなければよかったことを知ってしまい、悩み続けなければならなくなったりもする。
幸福は、学力に影響されない。
それは自国民を見ていればよく解る事なのだ。
この国の民は、エルセリアと比べてはるかに劣った環境で暮らしている。
金銭でのやり取りなんてほとんどなくて、物々交換ですら成り立つくらい、文明的に進歩が乏しい。
それでも人々は毎日幸せそうに日向ぼっこしたり、愉しそうに笑い合ったりしている。
猫獣人だからそこまであくせく働いたりはしないが、それでも日々の生活、愚痴などなく過ごせる程度には満足しているのだ。
知らないからこその幸せ。
知ってしまう事による苦しみ。
どちらが幸せなのか、知ってしまった少女には悩ましかった。
ただ、一つだけ確かな事があるならば。
彼女の大好きな人達にとっての幸せは、恐らくはいつまでも続いてはくれなさそうなところである。
「……また戦争が起きたら、きっとその時、この国は飲み込まれてしまうんだわ。今はエルセリアが護ってくれているけれど。私達が弱いままでは、その関係だっていつまで続くかどうか……」
「おひい様は、この国の事が大好きなのですね」
ぶつぶつと呟くように語る少女に、シスターはにこやかに微笑みかける。
その月の光のような柔らかな優しさが、少女にはとても暖かく感じられた。
陽の光より柔らかな、その温かさが好きだったのだ。
ただ、はっきりと「好き」と答えるのは恥ずかしくて、視線を逸らしてしまう。
「私だって、自分の国にはもっと良くなって欲しいって思うわ。できれば末永く続いてほしいって」
「そうですわね……確かに、この国はとてもいい国ですものね」
「……うん」
この国では珍しい、目に見えて高齢の人間だからか。
少女は、このシスターの前では本音で語れてしまっていた。
いつも敬語で、本音を隠して話すのに。
この人間の前でだけ、素直に話せていたのだ。
「私ね、シスターみたいに話せる人が、もっと増えたらいいなあって思うの。人間には、怖い人や悪い人もいるとは聞くわ。だけど、シスターみたいに優しくて一緒に居るだけで心温まる人がいるなら、もっと会いたいって思うから」
「まあ、光栄ですこと……ですがおひい様。大丈夫ですわ。いつかきっと、そんな素敵な方と出会えますよ」
「そうかしら? 出会えた頃はお婆ちゃんになってなければいいのだけれど」
「ふふっ、獣人の方は長生きですから、きっと大丈夫ですわ」
心配ありませんよ、と、我が子のように、いや、孫のように愛おしそうに頭を撫でてくれる。
へにゃ、と、黒髪と一緒に猫耳も揺れるが、少女はくすぐったくて目をつぶってしまっていた。
この優しいしわくちゃな手。これがたまらないのだ。最高に素敵な人間の手だった。
「んぅ……ふふっ、私の頭を撫でてくれるのも、シスターくらいだわ。お城では皆、私の事を子ども扱いしてくれないから……」
「私から見ればおひい様も十分子供のようなものですが……お城ではそうも言っていられませんもの」
「仕方ないのは解るんだけどね……でも、恋愛とかまだ興味ないのに結婚話とか持ち出されても困るのよ?」
「うふふ、おひい様も結婚で悩む年頃になった、という事ですわ」
それはそれで大切なことなのです、と、優しく髪を撫でながら、少女の成長を喜ぶ。
「まだ子ども扱いしてくれてもいいのに……私、もっと色々見てみたいわ。沢山のモノを見て、沢山の事を知って、そして、沢山の事を皆に教えてあげたい」
「おひい様が、皆の先生になのですか?」
「そうなりたいの。皆だって、私の言う事なら聞いてくれるでしょう? 全部理解してくれなくたっていいの。一つか二つ、真似てくれれば。でも、真似てもらうには私自身がもっと学ばなきゃいけないから――」
だから、もっとたくさんの事を知りたい。
……そう言おうとした矢先だった。
「――姫様っ、こちらでしたか! 今すぐお城にお戻りください!!」
突然、雰囲気は変わり。
沢山の兵士が教会に詰めかけ、そして、少女は……お姫様に戻った。戻されたのだ。
「……あー」
珍しくぱっと起きられた朝。
少女――サララは、ピン、と耳が張る嫌な気分のまま、しばしぼーっとしていた。
自分が今まで見ていた夢。その内容に。
「しばらく見てないから、忘れたかと思ってたのに」
一人ごちるのは、それが好ましくないものだからか。
サララは、ぼんやりと天井を見つめながら、夢のその先を思い出そうとして……やめる。
ぐ、と目元に腕をやって、袖を乱暴に当てながら、何も考えないようにする。
(今戻っても、仕方ないから)
溢れ出そうなものを必死に袖で押さえて、歯を噛む。
それで、ようやく収まったように思えた。
(カオル様を巻き込む訳にはいかないし……それに、きっともう――)
だけれど、後から後から言葉が溢れて、胸の内にしまいこもうとしているのに収まってくれそうにない。
こんな時、自分は無力だと、サララは気づかされる。
口でどれだけ偉そうなことを言っても、彼女はまだ、無力なままだった。
人に頼らないと生きていくことすらまともにできない、非力なだけの女の子。
カオルと出会えなければ猫のまま一生を終え、カオルに本気で拒絶されていたら、恐らく野垂れ死ぬか娼婦にでもならないと生きていけなかった自分を、サララはしっかりと自覚していた。
だからこそ彼女にとってはカオルという存在は何より重いモノだったし、自分がどこぞの国のお姫様だというのが伝わった後でも、カオルへの依存をやめることはできなかった。
いや、その気になればエルセリア王家に頭を下げれば、賓客として置いてもらうくらいはできたかもしれないが。
シャリエラスティエ姫にはできた事でも、サララという少女にはもう、それができなかった。
(……私は、サララ。サララとして生きていくと決めたんだから)
とても身勝手な決めつけだったが。
彼女はもう、姫君として生きるつもりなんてなかった。
彼女はもう知っていたのだ。今の自国がどんな状況なのか。
自分が猫となった時点で、他の王族がどうなっているのかを。
一国の姫君が猫となり、盗賊に誘拐などされれば、当然国を挙げて捜索が始まるはずである。
それすらない。いや、それすらできないのだ。今のエスティアという国は。
薄々そんな気はしていたが、エルセリア王との謁見で確信が持ててしまった。
――今の彼女には、もう居場所らしい居場所なんて、カオルの傍にしかないのだ。
それがせめて好きになれる相手でよかったと、そう思いながらも、そんな状況にある自分を思い出し、時々こうしてアンニュイな気持ちになる。
幸せだったころの記憶と不幸の始まりの記憶とがないまぜになった、自分が猫になった原因の記憶。
そんなものを夢で思い出させられて、そしてその度涙が溢れるのだ。
不安で、心配で、悲しくて辛くて不甲斐なくて。
だというのに、振り返る事すらできなくなりつつある、自分の故郷。
だからと自分にはどうにもできず。
すぐそばに頼れば頼らせてくれそうな人はいるのに、その人を巻き込みたくないという気持ちばかりが日増しに強くなって、頼れないのだ。
「……忘れよう!」
《パァン》
頬を強く張り、いよいよもって目が覚める。
つまらない気持ちをひきずったりせず、黒猫の少女は無理矢理に笑うのだ。
無理にでも笑い続けていれば、その内気が晴れる。
好きな人の前に立てば、胸はしっかりと高鳴り、浮ついた気持ちになれるのだから。
重い女の子だと思われたくない。
そういう気持ちも間違いなくあって、少女の心はとても複雑である。
ただ、泣いてばかりいる女は男性から見て面倒くさいと思われるだけだと思っていたので、泣かない。泣いてるところは見せない。
笑っている方がウケがいいと思うから笑う。サララはいつだって笑顔だった。
そう、笑っていればいい。笑い続ければいい。
そうやって、自分だけでも幸せに生きればいいのだ。
それはとても酷いことで、王族としては最低で、これ以上ない背信行為だけれど。
一人の少女としてはそこまでおかしくない、そんな風に思える考えで、不思議と今の自分には似合っているように思えた。
ただ。
少女にとってとても辛いことに、未だ敬語が外れない。
いつだって彼女は偽りの自分を見せていて、いつまでも彼女は偽りの気持ちを本物のように語らなくてはならなかった。
とても弱くて守って欲しい、そんな自分を、強い口調で言いくるめる、小悪魔じみた少女に見せかけなければいけなかったのだから。
(暖かくなってきたから、こんな事ばかり考えるようになるんだ。もっと、ピリッとしないと)
しん、とした朝。
春先ともなれば朝の空気も優しかったが、少女にとっては真冬の朝の方が良いくらいだった。
寒すぎて、もっと寝ていたいと思える、そんな冬の朝が恋しい。
優しいからこそ甘えたくなる、そんな朝を恨みがましく思いながら、少女の一日がまた、始まった。