#3.旅立ちを決める日
「まあ、それでは、明日でお立ちになるのですか?」
「うん。そのつもりだからさ、明日の朝までに宿泊料金の計算とか頼むよ」
部屋に戻り、カオルは一人、それとなく宿泊時に使っていた小間物や衣服などを整えていたのだが。
丁度都合よく御用聞きにハーヴィーが訪れた為、夜にでも伝えるつもりだった用件を聞かせていた。
そんなに急ぎでもないのだが、言い忘れていたら急なことにもなるし、今は忙しい宿の事も考え、早ければその方がいいと思ったのだ。
だが、ハーヴィーも驚いたらしく、胸元に手を置きながらぎゅっと握りしめ、「そうですか」と残念そうに眉を下げる。
「お客さん達にはこの町の皆がお世話になったものですから、できればもっと長くいていただけたらと思ったのですが……十分におもてなしできていなくて、残念ですわ」
「十分もてなしてもらったよ。美味い飯に良い温度の風呂に。毎日ハーヴィーとリシュアが笑顔で話してくれるんだぜ? 楽しかったよ」
「そう言っていただければ、私達も救われますわ……ですが、そうですか。明日には……」
カオルとしても、この宿は居心地が良くて、仲よし姉妹が時折見せる残念なところなどを見ながら過ごす日々は中々に心休まるものだった。
ハーヴィーは美人さんなのでサララの嫉妬が怖かったが、それに関しては婚約者がいる事で一応の信頼を得ているらしく、一緒に歓談するくらいでは怒るような事もなかったのも、カオルとしてはポイントが高い。
サララはとても可愛く聡明だが、他の女の子と仲良くしているとよく間に入ってくるのだ。
このハーヴィー相手ならそう言う事もなかったので、カオルとしてはある意味貴重な時間だった。
「ですがお客さん、今回の宿代は町長さんのお気持ちで、町が全額持たせていただいておりますので……お客さんが払うお金はありませんのよ?」
「あれ? そうだったのかい? 初めて聞いたぜ……なんか、ちょっと悪い気がするなあ」
会計に関しては町が持ってくれるという事なら、カオルはもう、何も考える事がなくなってしまう。
カルナスでもそうだったが、自腹切って泊まるという事を忘れてしまいそうで、慣れてしまいそうで怖かった。
勿論嬉しいのだが。それだけ感謝してくれているという事なのだと、カオルは好意を素直に受け取る事にした。
「町の皆さんも感謝していますから。お客さん達のおかげで、この町に王女様がいらして……港も、活気づきましたから」
それだけ言って、微笑みながら窓の外を見やるハーヴィー。
目の前に迫っていた問題の解決だけでなく、港町としての閉塞感に満ちた空気すら、今は消え去っていた。
寂れて人の寄り付かなくなりつつあったこの町を、その状況から回帰するきっかけを作ったのが、このカオルという青年なのだ。
カオル本人がそう思わずとも、町の民はそう思っていた。
だからこそ、できる限りの歓待をしたいと、せめてものお礼のつもりで宿代を持つことにしたのだ。
「ですから、どうかまた、いらしてくださいましね。これから活気づく、この町をまた、見に来ていただきたいのです」
「ああ。必ずまた来るよ。今度は暖かくなってから来たいけどな。やっぱ冬の海は寒いぜ」
「ふふっ、そうですね……夏場なら、海水浴などでまた別の楽しみもありますので……私は夏前には結婚してしまうので、町から離れてしまうかも知れませんが……」
「あれ? そうだったんだ。おめでとう」
「……ありがとうございます」
少し含みを感じさせる間ではあったが、カオルの言葉に、ハーヴィーは柔らかな笑みを見せ、一言礼を告げた。
他に用事もなかったので、それきり、ハーヴィーは部屋を出る事になったが、入れ違いにサララが入ってきた。
どうやら早々に仕度を済ませてしまったらしく、暇になって来たらしい。
ベラドンナと二人で過ごしていた部屋である。
今ではベラドンナもカルナスに戻ってしまったので、一人では若干退屈なのだとか。
二人きりになれば、話す事は先ほどあったハーヴィーとの会話内容である。
「へえ、ハーヴィーさんがご結婚を……そういえば、婚約者がいるって言ってましたもんね」
「ああ、おめでたいよな。でも、お姉さんが町を出ちゃうって事は、この宿は……」
「リシュアさん一人でどうにかできるとは……ちょっと思えませんし、他人の手に渡るか、そうでなければ廃業って事になるんでしょうか」
「やっぱ、そうなるのかな……ううん、なんかもったいない気がするな」
折角の良い宿なのに、と、呻ってしまう。
先程また来ると言ったし、実際また来たいと思っていたのだから、これはちょっとした冷や水である。
この宿は、あの姉妹だからこそ癒やされるというのに。
「でもまあ、それもあの人達の事情というものですし。町が発展すれば、また別の良い宿も見つかるかも知れません」
「そうだな。残ってたらまた泊まりたいと思うけど、そうじゃなくてもまた新しい宿に出会える楽しみってのもあるか」
ものは考えようという奴かもしれない、とカオルは頷く。
確かに、マイナスに考えればどこまでも悪く考えられるが、本来人の結婚話なのだからそれはめでたいはずで。
自分でも祝福の言葉を掛けたのだから、祝いこそすれ悪く考えるべきではないのだ。
何より、次に来た時に町がどうなっているのか、それを楽しみにすることもできる。
新たな宿には、また別の楽しみがあるかもしれないのだから、それを期待する方が建設的というものであった。
少なくとも今は、そういうポジティブな考えが許される空気にある。
カオルは自分でそう納得しながら、窓の外を眺める。
外はまだ、寒い海風が吹きすさぶ冬の日にあった。
温風雲が覆っている間は暖かな港町も、冬晴れの中では厳寒に支配される。
宿の外も、流石にそのような日に出かける者は少なく、まだしばらくの間、静かな港町の姿はそのまま、保たれそうではあった。
――本格的に賑わうのは、春になってからかな。
先ほどハーヴィーの言っていた夏場の海水浴シーズンこそが町にとって一番の賑わい時とするならば。
やはり雪解け後、街道の往来が増え始めてからが本番なのだ。
今はまだ、最初の流れで一時的に人が増えているだけ。
春になってこそが、この町にとって力の入れ時なのだと、カオルはうっすら考える。
「しばらくは、のんびりしたいな」
「そうですね。なんだかんだ、お金の心配はなくなりましたし……カルナスに戻ったら、のんびりしたいですね」
サララの方に向き直り、カオルはまた、ぽつり呟く。
サララもまた、それに頷き、にっこり微笑みを見せた。
「ゆっくりとしたいです。暖炉の前で、まったりしながら……お昼寝とか」
「寝る事ばっかなのな」
「お昼寝は嫌です? 今なら美少女つきですよ?」
「嫌じゃないけどな」
自分で自分を美少女と言ってのけるこの黒猫の少女に呆れながら、カオルは部屋の隅に置いたサックを見やった。
もう、何時でも出立する準備はできている。
後はそう、この町で世話になった人達に、挨拶するだけだった。
今日一日使ってその別れも済ませるつもりだったのだが……何か忘れている気がしてならない。
「うに? どうかなさったんですか? なんか、ナトリグサを噛んだような顔してますけど……」
「ナトリグサ……? いや、その、なんか忘れてる気がしてさ」
「忘れ物です?」
「忘れ物というか、忘れてる事というか……」
もう全部済ませて後は帰るだけ、みたいな状況なのに、何か大事なことをし忘れているような、そんな気がしていたのだ。
順繰りに思い出していくのだが、すぐには思い当らず。
なんとなしに歯がゆい気持ちになりながら、視線をうろうろさせる。
「なんだろうな……考えると気になって仕方ないというか」
「あー、解りますよそれ。思い出せないと落ち着かないんですよね」
「ほんとそうなんだ。何だっけなあ」
思い浮かばぬままにその場をうろうろ。
特に意味もないのに、人はこういう時、その場をくるくる回ってしまう。
サララも苦笑いしながら、ベッドに腰かけそんなカオルの様子を眺めていた。
しばらく、くるくるとした時間は続いていた。
「――そうだ、思い出したぜっ」
「むぇ?」
そうして、しばらく経ってからようやく、カオルはひらめいた。
そのくるくる運動に意味があったのかは別として、ようやく思い出せたのだ。
見ればサララは既にカオルを眺めるのに飽きていたのか、ベッドに横たわりうとうととしていたらしかったが。
カオルの声にびくりと跳ね起き、「どうしたんです?」と首を傾げていた。
「前に夢で女神様から『フィーナさん達の情報がこの町にあるかも?』みたいな事言われたことがあったんだ。すぐ聞こうとしたんだけど、なんか忘れちゃっててさ」
「女神様関係ですか……でも、唐突ですねぇ。確かに位置的にカルナスをスルーしてここに来ることはできるでしょうけど……」
眠たい目をこすりながらに、サララが思い浮かべるのは周辺地図である。
街道を考えるなら、一度はカルナスを経由しなくてはたどり着けないようにも思える。
だが、冬はともかくとして、それ以外の季節ならば別に一から十まで街道沿いに進まなくてはならない理由もなく。
例えばオルレアン村とビオラの中間にある川に沿って丘陵地帯に当たるまで南下していくルートなどが、行商人や旅人がよく使う道として知られていた。
街道を使わないメリットとしては、極力人に会わず進める点、それからわざわざカルナス近辺まで移動せずとも最短ルートで進める点などが考えられる。
山などがあれば迂回の必要が出てくるが、平原地帯ならば直進してしまえるので、時間を短縮したい場合にも役立つ道であった。
そういった事を踏まえ、サララは「ちょっと盲点だったかも」と、その可能性をスルーしていた事に気づかされ、少しずつ頭に意識が回ってくるのを感じていた。
「この宿にもフィーナさん達の情報があるかもしれないって言ってたんだよな……ほんとかどうか解らないけど、帰る前に聞いとかないとな」
「そうですね。でも、出立する前に思い出せてよかったですね」
「ホントそうだよ。さよならって別れてから思い出して引き返してーじゃサマにならないもんな」
別れには別れなりの重みがあるのだ。
まだ面子だのを気にするようなカオルではなかったが、それでもちょっと恥ずかしいという認識はあった。
サララもそれには同意する。
「後、市場で土産物買わないとな。折角の港町なんだし、魚買っていこうぜ」
「おおー、いいですねお魚! この時期はオニバセにジブショウショウに、良いお魚が一杯市場に並んでるはずです! ぜひ沢山お土産に持って帰りましょう!」
魚と聞けばサララもテンションが跳ね上がっていくもの。
解ってはいたが、カオルは「そうだな」と苦笑いしながら、先ほどサララのあげた魚の名前を頭の中で呟く。
(ジブショウショウ……なんか、聞いた気がするな。ミルフィーユ煮にして食うんだっけか。ミルク使って)
それほど記憶力の良い方ではないカオルではあったが、関心のある料理の事となればいくらかは違った方向に力が発揮されるらしく。
思い出せばなおの事、気になるのはその味であった。
「うふふー、今から明日が楽しみです。今の時期ならそれなりに日持ちするでしょうし、カルナスまで一瞬で付くから尚良いですよねえ。お気軽旅行って感じで」
「ああ。それじゃ、今のうちに明日回る所の順番考えないとな」
「そうですねー。お任せください、サララはこう見えてもお土産探しのプロですから!」
お土産はお任せを、と、毎度のようにプロ発言しながらキリリとした顔を見せるサララに、カオルはなおも苦笑するのだが。
この、頼りになるかならないか解らない猫娘が隣に居てくれることこそが、自分にとって幸せな事なんだと、それは解っているつもりであった。