#22.英雄達の帰還
『……あれは』
ボロボロになったかつてのフラグシップが、そこに居た。
幻影の船。船幽霊となったクイーン・パメラは、此度もまた、ニーニャ沖に現れたのだ。
『ニーニャの港に、巨大な船がいくつも……それに、この光景は……』
提督は、沖合から見える巨大な船の群れに、そして港に集まるニーニャの民に、今までにない違和感を覚えていた。
彼の記憶の中に、あのように巨大な船は存在せず。
だが、それらの船は確かにニーニャの港に停泊し、民らがそれを迎えている、ように見えた。
『……あれは、何なのだ。まさか、ラナニアの船がニーニャにまで侵攻したのでは……我がニーニャの民が、ラナニア兵に支配されて――』
見知らぬ艦隊。今までにない状況。
これはもしや、自らの愛する港町の危機なのではないか。
見れば、港に停泊している巨船のいずれもが、複数の砲台を抱いている。
その砲台の形状すら、提督が見た事もない様な、恐らくは新型のもの。
これは、ニーニャにとって、そして王国海軍にとって脅威足り得るものなのではないか、と、提督は脅威を感じ、同時に戦意をむき出しにしそうになっていた。
提督の戦意は、船内の乗組員達の行動に直結する。
言葉一つ発することの無くなった船員らは、慣れた手つきで動かなくなったはずの砲台を、港の艦隊へと向けようとした。
『……いや、待て! あれは……あれはっ!!』
だが。提督は手を水平に突き出し、それを制止する。
ぴた、と止まる砲台。
提督は、見ていた。
港に泊まる巨大な船達の中心。
特に大きな船のマスト上で、見慣れた国軍旗が風に揺れるのを。
『あれは……あれは、我が海軍の船なのか。そうか、私達は……あのような新造船が生まれるほどの間、航海していた、という事、か……』
全てを悟った訳ではなかったが。
提督はもうこの時に、自分たちの時代が終わっていたのではないかと、そう思うようになった。
自分達の代わりに、ニーニャを守れる艦隊が、そこにあったのだ。
この旗艦クイーン・パメラですら小さく見えるほどの、巨大で勇壮な船がいくつもある。
これほど心強いものはそうはないだろうと、提督は笑った。
『よし、帰ろう。あの港へ。今なら、帰れる気がする』
風が吹く。
今まで幾度も吹き、だというのに全然進まなかった船が、突然のようにすらりと、並の抵抗も受けずに進むのを、提督は感じていた。
『帰りましょうぜ、提督』
『早くあいつを抱きしめてやりたいですし、ね!』
『残してきた倅がいくつになってる事やら。提督、もう待ったは無しですぜ!!』
見れば、霊魂だけになっていたはずの水兵らが、元の姿になり、船を動かしていた。
提督にとっては当たり前の光景が、ようやくこの世界において、また戻ってきたのだ。
『お前達……ああ、我が艦隊は、これよりニーニャに帰投する!!』
ニーニャの昼の海で、再びクイーン・パメラの航海が始まった。
沖から港へのわずかな距離ではあったが、それは大層美しく、港で待つ誰もが見惚れずにはいられぬ静かな前進。
恐る恐るながら、姫君らと共に船幽霊を出迎える事を決めた者達が、驚きを以てその船体を見つめる。
誰かが言った。「あれのどこが船幽霊なんだ」と。
また誰かが口を開く。「あんなにきれいな船が、幽霊な訳がないじゃない」と。
皆が驚く中、港の艦隊は、その水兵らは、姫君に率いられ、港に背を向ける形で整列する。
もうわずか。あとわずかで港に入港する。
そのタイミングで、姫君は両手を口に当て、大きく息を吸い込み……そうして、祖母の名を戴く船に、最初の声を聞かせた。
「――おかえりなさい、クイーン・パメラ!」
姫君の言葉と共に、水兵らが海軍式の敬礼を行い……一斉に叫ぶ。
「戦いから帰還した先達の方々! 長らくの戦務からの帰還! 我ら海軍一堂、歓喜を以て迎えさせていただきます!!」
「おかえり! 長い航海、よく頑張ったなあ!」
「お疲れさまでした! 今まで、今までありがとう!!」
「あんたら、よく頑張ったよ! 今までありがとうな!!」
「おかえりなさい! 水兵さん達! ようやく戻ってこれたね! お疲れ様!」
水兵らの言葉が終わるや、住民が口々に歓迎の意を、そして労わりの言葉を向けていた。
そこには、恐れの表情などなく。
静かに入港してきたパメラに向けての、優しい感情ばかりが溢れていた。
暗かったニーニャの町が、まるで水兵らが旅立ったあの日のように、澄み渡って優しさに溢れたのだ。
『おぉ……おぉぉぉぉっ! 皆! 皆、帰って来たぞ! 私は、私達は、とうとうこの町に……この港に……! 帰って、来たのだ……くっ』
ぴたりと、港に到着するや。
提督は歓喜のあまり男泣きし……そして、甲板を見渡した。
皆、晴れ晴れとした表情であった。
誰一人、苦悶の顔など見せず、笑っていた。
『提督』
『提督、ありがとうございます』
『俺達、ようやく帰ってこれたんですね』
『へへへ……ちっとばかし長くなっちまったが、でも、やっぱニーニャはいいなあ』
『ああ、沢山の人がいる……俺の妻も子も、迎えに来てくれてる』
『ありがとうございます提督。貴方のおかげで、俺達は帰ってこれたようだ』
『あの日の、あの船出前の妻との約束を、果たせそうですよ、提督』
口々に感謝の言葉を告げる水兵らが、涙ぐむ提督の肩を叩き、手を握りしめ、そうして笑っていた。
『ああ……さあ、降りよう。降りて、お前達を待っている人へ、顔を見せてやれ』
ありがとう、と、溢れる涙を抑えられぬまま、提督は部下達に、陸へとと上がるように促す。
その言葉を聞き、船員らは互いに顔を見て……頷き、そして、「ええ」と、短く答えた。
やがて、橋掛けされた船から、ゆったりとした様子で船員らが降りてゆく。
ニーニャの民が、水兵らが見守る中、クイーン・パメラの船員達は誰一人欠けず……港へと降り立った。
若い者。年老いた者。屈強な者からひょろ長な者まで。
様々な水兵が、はにかみ顔でそこに立っていた。
そうしてまた、沸き立つ。
住民は何度も「おかえりなさい」と、「今までお疲れ様」と、労わり、ねぎらいの言葉をかけ続けた。
それこそが、彼らに対しての供養になるのだと、自国の為散っていった者達への手向けなのだと、そう信じていた。
「……カオル殿」
「トーマスさん。その人は……?」
賑わいの中、少し後ろの方から眺めていたカオルは、不意に後ろから声を掛けられ、その声の主……トーマスに気づいた。
その腕の中には、老婆の姿。
抱えられながらに、港へと目を向けていた。
「うむ……どうやら間に合ったようだな。さあ、アリサ殿!」
「……ですがトーマスさん。私は、年老いてしまいました。あの中に父が居たとしても、果たしてどんな顔をして会えばいいのか……」
「臆する事もありますまい! これが、これが待ち続けた瞬間ですぞ!」
「それは……そうなのですが……」
待ち続けた父の帰還。
それを想いながらに、残酷にも過ぎ去った時を恐れ、アリサ婦人は戸惑っていた。
だが、トーマスは尚も説得を続ける。
「今を逃せば、貴方は必ず後悔なさいますぞ! 今だけなのです! アリサ殿、どうかご自身に素直になってくだされ!」
「……トーマスさん」
「お父上は、必ずやあの中に居ります! 今も尚生きている貴方が出迎えず、どうして満ち足りましょうか! 妻子に会いに戻ってきた者にその顔を見せてやる事こそ、せめてもの手向けと言うものでしょう!」
「……」
「アリサ殿!!」
「解りました、トーマスさん。お願いしますわ」
ただ力が籠っているだけではなかった。
心が、強い想いが溢れているからこそ、その説得には効果があったのだ。
アリサ婦人は、トーマスのそんな思いに突き動かされ、願った。
「――お父さんっ!!」
群衆を掻き分ける大きな声。
掠れていて、弱々しく、それでいて、心の詰まった溢れんばかりの声が、幽霊達にも届いていた。
それは、彼らの誰にも聞き覚えの無い声。
かつてはみずみずしく、可愛らしかったはずの声。
だが、それでも聞き分ける事のできた者が一人だけいた。
『――アリサかっ! アリサっ! アリサァァァァッ!! 父さんだ、帰って来たんだ! ここにいるぞ、出ておいで!!』
提督の脇に並び立っていた水兵が、声を聴き、前へ出てその場で膝を折り、腕を広げる。
幼かった愛娘を抱きとめてやろうと、そうして抱き締めてやろうと、ずっと待っていた。
「……あぁ、お父、さん」
『……アリサ、か? アリサなのか?』
しかし、彼の娘は、見る影もなく年老いていた。
柔らかかった手はカサカサに皺だらけになり、愛らしかった顔はしわくちゃでみすぼらしく。
最早自分では立つことも満足にできず、同じように年老いた男に抱きかかえられている始末で。
『――はははっ! すっかりおばあちゃんじゃないか! なんだ、いつの間に俺よりも歳を取ったんだ、アリサ!』
だが、水兵は笑っていた。
自分達が居ない間に過ぎ去った時間に、そのあまりの残酷さを理解しながらも、受け入れていた。
そうして、会いたかった愛娘を、構わず抱き締めた。
老兵から預かりながら、ぎゅっと抱き締め、そうして、「ただいま」と、そう告げたのだ。
「あっ……あぁっ、やっと、やっと、帰ってきてくれた……この日を、どれほど……お母さんも、きっとこの日をずっと――」
この日を、この時を、母にも見せたかった。
泣きながら、喜びながら、しかし、やはり一番見せたい人に見せられぬ悲しみに耐えられず、アリサは涙を流す。
……そんな時であった。
『フローラ』
自分を抱きかかえる父が、母の名を呟いたのだ。
はっ、と、婦人は父の顔を見る。
父が見つめるのは、正面。
『あなた……!』
ざわ、と、群衆が驚きの声を上げる。
いなかったはずの、船員の妻。
もう何十年も昔に死んだはずのその女性が、確かにそこに立っていたのだ。
「えっ……お、おかあ、さん?」
『フローラ、ああ、会いたかった! お前ともずっと会いたかったんだ!』
『あなた……! 会いたかったわ! ずっと、ずっと待っていました! 貴方だけを想って!!』
「なんと……」
「すげぇ……こんな事もあるのか」
トーマスも、それを傍で見ていたカオルも、驚きのあまり絶句していた。
せめて生きていたアリサ婦人にも彼らを出迎えてもらえれば、くらいに思っていたのが、全く予想だにしない形で裏切られたのだ。
現実とは、想定を裏切るモノ。
いや、こればかりは人の想いの為せる業。
そうとしか思えない光景が、広がっていたのだから。
「ああっ、お母さんっ、お母さん、お父さんがっ、お父さんが帰ってきたのよ……! わたし、わたし、ずっと一人で待っていて……!」
『アリサ……一人にしてしまってごめんなさいね。ありがとう、ずっと待っていてくれて』
『すまなかったなアリサ。もう、寂しくないだろう? 父さんも母さんも、こうやって再会できたんだ! 何も寂しい事なんて、ないよな!』
「はいっ……もう、なにも……何も、辛くありません……今まで、今まで生きていて、本当に、良かった……よかった……っ」
子供のようにむせび泣き、抱きつくアリサ婦人。
両親は優しい表情でその肩をぽんぽんと叩いてやりながら、頭を撫でてやっていた。
まるで、幼い娘をあやすかのように。
そうしてそれから、同じように、船員達の帰りを待ち続けていた『大切な人達』が幾人もその場に現れ、彼らを涙ながらに出迎えていた。
束の間の再会と聞けば涙ぐましいが、それは涙を誘うモノではありながらも、どこか優しく、心温まるひと時であった。
何十年もの間離れ離れになっていた夫婦が、親子が、恋人同士が、今この時間だけ、救われていたのだから。
「……ぐすっ」
「なんだよサララ、柄にもなく泣いてるのか?」
「……違います。私、感動アレルギーですから。ちょっといい話が出ると、涙が止まらなくなるんですよ」
「そっか」
「そうなんです」
姿が見えないと思っていたサララだったが、隅っこの方で隠れて泣いていたらしく、カオルが見つけてからかうと、ちょっと拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
「ま、それでもいいけどな。俺もちょっと泣いたし」
「カオル様も泣いたんです?」
「カオル様『も』?」
「言ってません。『も』なんて言ってません。カオル様、耳が遠くなったのでは?」
「そうかもな」
「そうですよきっと。きっとそう」
素直になれない猫娘だった。
それでも、しんみりとしたままではらしくないと思ったので、カオルは構わずその小さな背中に寄り添い、その場に座り込んだ。
「ああやって待っててくれる人がいるのって、きっと幸せなんだぜ」
「そうですね。私もそう思いますよ」
「俺にもいたのかなあ。待っててくれる人」
「元の世界では、そういう人はいなかったんです?」
「親くらいかなあ……俺のかーちゃん、怒ると怖い人でさあ。だけど、俺が戻らなかったら、待ってくれるかな」
「待つでしょう。当たり前ですよ。怒ってくれる人なら、きっと待っててくれるはずです」
「……そうか」
「ええ。きっとそうです」
ホームシックになった訳ではなかったが、それでも、元の世界に残してきた親の事を思い出し、ナーバスになりかけていた。
自分なんかを、待ち続けてくれる人はいるのだろうか。
そういう思いを抱いて、しかしそれをサララが否定してくれて。
会った事もないカオルの親を、その愛情を、肯定してくれたのだ。
それがどこか、カオルには嬉しかった。
「サララは、いい女だよなあ」
「……はい?」
「なんでもねぇ」
(……もう一度言ってくれてもいいのに)
突然の事で驚いてしまって、つい聞こえなかった振りをしてしまったものの。
サララは、この大切な人からの言葉に、耳まで赤くなるほどの歓喜と、溢れんばかりの情を募らせていた。
時々、びっくりするほどドキってするような事を言ってくるのだ。
それは照れ隠しであったり、あるいは素を思わせるタイミングだったりするのだが、例外なくサララの心を貫き、動揺させる。
世渡り上手を思わせるサララでも、恋愛はまだまだ初心者で、殿方の相手は彼女なりの並々ならぬ配慮と努力が重ねられていた。
それでも、時にはこうして胸の高鳴りに、奇襲まがいの不意打ちに不覚を取り、「勝てないわ」と思わせられてしまう。
異世界の青年カオルは、そんな魅力を彼女に見せつけていたのだ。
こうして、ニーニャの船幽霊騒動は解決し、町は平穏な暮らしを取り戻すことができたのだった。
……一部、想定外をいくつか残しながら。