青川河川敷変死体事件捜査 1
青川署へと戻り大会議室へ向かうと、{青川河川敷変死体事件捜査本部}と案内が貼ってあった。通称『戒名』だ。
室内へ進むと、和田と秋田は空席のある真ん中付近に座った。部屋の最前列には大柄な男たちが陣取り、最後列には線の細い刑事や枯れた感じの老刑事がちらほら見えた。前にいるやる気を隠そうとしない集団はS県警、後ろはT県警だ。和田も何度か広域捜査で隣県に赴いたことがあり、その時に見たことのある顔がちらほら見える。
会議が始まるまでの時間を使って、和田は佐々谷実の家の中であった出来事や会話を秋田に伝えた。
「というような具合」
「はあ」秋田は和田の言ったことを、すごい速さで自分のノートパソコンに記録していた。「で、黒柳さん、なんで殺人だと思ったんですかね」
「僕に聞かれてもわからないな」和田がアメリカンフットボールの選手のように盛り上がった肩をすくめた。それだけで大会議室の安物パイプ椅子が軋む。
「待たせたな」やや遅れて隣に黒柳が座った。
「遅かったですね。どこに行ってたんですか?」
「ちょっと鑑識まで」
「今から会議が始まるのに?」
これから捜査会議で、医師による検案の結果が発表されるはずだ。先に聞きに行ったのだろうか。
「ああ。佐々谷実の体液と、マメちゃんの毛を届けた」
「体液?」和田は思い出した。そういえば、佐々谷実がむせたりした時に、黒柳が看病しながら手のひらにハンカチを手品師のように隠し持っているのが見えた。こっそりと汗や皮脂などを採取していたのか。抜け目が無い。
「念には念を入れてな。ほら、実は殺された誠は、母親が佐々谷実と交際している時に浮気してできた子供で、実の子じゃなくて長年恨んでいたみたいな。そんな事実が隠れているのかもしれないだろ。一応親子鑑定だけでもやっておいて損は無いだろ。それに、佐々谷誠の所有物や家から、マメちゃんの毛が見つかったりすれば、佐々谷実の『息子とは合っていない』って証言がウソだと分かる。最も、鑑識の連中からは、やる必要が無いって断られたがな」
さすがに勘ぐりすぎじゃないかと和田は思えた。秋田は曖昧な笑顔を浮かべている。だが、黒柳はそれだけ父親の実に疑いを抱いているということだろう。
黒柳は内ポケットから二枚のハンカチを取り出した。
「おまえたちも刑事なら、清潔なハンカチくらいは常に持ち歩け。優秀な警察官なら、常に何枚か持ち歩いているものだぞ」
と言うと、秋田と和田にそれぞれ手渡した。
「プレゼントだ」
「ありがとうございます」
「それと、ミング」
「はい」
「佐々谷実が犬の餌をやりに隣の部屋行ったろ。あそこは、玄関にある靴の裏や靴箱の靴をチェックするべきタイミングだったぞ」
意外に強い口調の黒柳に、和田は怯んだ。佐々谷実の突然の逃亡に備えて、和田はずっと玄関に立っていたが、たしかにあの時ならば覗くことは可能だった。
「靴箱の中に、川の泥で汚れた靴を見つけたりできていたら、でかい手がかりになっていた」
和田の背中がどんどん丸くなる。一言も発することができない。
「さりげなく床に落ちている体毛を拾っておくなんて手もある。いいか? どこにどんな証拠があるかなんて分かるもんじゃない。捜査の過程で拾って問題無さそうなものは、全部拾うように心がけておけ」
「はい! わかりました!」
和田は黒柳の抜け目の無い態度に心服した。背筋がぴんと伸び、巨体を黒柳に向けて折り曲げた。
「声がでかいって」周りの注目を浴びたことにより、黒柳は苦笑した。
その時、前方の入り口から、青川署刑事課や鑑識課の課長、最後に副署長が入室してきた。予定の時刻より五分ほど早い。
「始まりますね」秋田がノートパソコンを閉じて、自身の足の間に隠した。以前に事件の会議中に内容をカタカタと入力していたら、注意を受けたことがあるためだ。
副署長が上座の席に座ると、真ん中に立つ刑事課課長が声を張り上げた。
「ええ、予定の時間より若干早いが、これから{青川河川敷変死体事件捜査会議}を始める。
正面に座る面々の簡単な紹介が終わると、すぐに報告が始まった。
最初に遺体発見時の経緯や状況の説明があり、次に佐々谷誠の前科についての詳しい報告がされた。青川署の面々は既に知っていたことばかりだ。
続いて、S県警が聞きこんできた、被害者の現在の生活実態の報告に移った。
佐々谷誠は、未成年犯罪者の更生に力を入れている、テレビにもよく出ている有名な人権派弁護士が身元引受人となって、去年の三月下旬に仮釈放された。
当時の登録住所は、S県Y市。弁護士の事務所から歩いて数分のマンション一室で、ここ青川区からはかなり離れている。
祖父母と少しだけ住んでいたことのある家というのは、S県北の県境近くにあるため、本人が仮釈放後に父方の祖父母のいるS県に住みたいと言っていた話は、佐々谷実も言っていた通り、適当な建前だったのだろう。
その後、身元引受人から紹介された警備会社で、ビルの警備の仕事をしていた。だが、ほどなく退職。そしてすぐ、別のビルに住み込みの管理人として雇われた。
この経緯として、刑務所時代に一緒の監房に入っていて、先に出所した者が手助けしてくれたそうだ。出所したら連絡するように言われていたらしい。家賃もかからず、賃金も前より良かったため、身元引受人もその仕事を承諾した。
半年ほど真面目に勤め、普通免許取得のために自動車学校に通い始めた頃、婚約したと言ってきた。
相手は、そのビルで営業しているスナックのフィリピン人ホステスだった。
そのビルから出て、二人で暮らすためのアパートをすぐ近くに借りたのだが、そこでトラブルになる。女性の元交際相手の男が乗り込んできたのだ。
佐々谷誠は仮釈放を取り消されたくない一心で、殴られても殴り返さなかった。幸いにも怪我は軽く済んだが、家を追い出されて数日野宿をしたそうだ。
そして、ほとぼりが冷めたと思った頃に家に帰ると、元交際相手は婚約者と寄りを戻して、そこで生活していた。
なんとか説得して三人で暮らし始めたのだが、あまりにも居心地が悪い。もう一度仕事場のビルの住み込みに戻してもらおうとしたが、既に別の住み込み従業員が決まってしまっていた。
体調を崩し、一晩中ファーストフード店やゲームセンターをうろついて暖を取ったこともあるらしいが、仕事を休んだことは無かったそうだ。
事情を知る身元引受人が、婚約解消して新しい住居に住むようアドバイスをしたが、新住居はなかなか決まらなかった。
年が明けて、一度だけ弁護士事務所に挨拶に来たそうだが、その時に、通っている途中の自動車学校に、来週からまた通う予定だと報告を受けた。
それ以降、会うことなく帰らぬ人となった。
以上が、S県警が身元引受人から聞いてきた、佐々谷誠の近況だ。
次に、T県警からの遺留品報告がされた。
発見されたのはジャケットとズボン。ともに青川区の遺体発見地点である寺先よりも下流。青川区から見て対岸、T県側の河川敷だった。
ズボンの中には都内有名ビジネスホテルの鍵があった。
鍵に付いていたキーホルダーに書いてある電話番号に電話して、ホテルから事情をきいたところによると、佐々谷誠は偽名で四日間宿泊していた。一泊の料金は六千八百円。毎日清算していたらしい。
また、ジャケットの胸ポケットからは、携帯電話のパンフレット、内ポケットからは櫛と懐中時計、それにS銀行のキャッシュカードと現金九万円弱が入った財布が見つかった。
T県警はカードに書かれた名前から、銀行へと連絡を取り、口座開設時の住所を把握。該当する近くの警察署に照会していた時に、丁度事件を知ったそうだ。
他に身分証明書の類は見つからなかったため、櫛に残っていた毛髪をDNA鑑定して、佐々谷誠の所有物か否かを調べている。ジャケットが実は佐々谷誠の持ち物ではなくて、本来のジャケットの持ち主が、佐々谷誠の財布とホテルの鍵を盗んだ可能性も考えた処置だ。
この報告を受けた後、しばらく会議室がざわついた。身元引受人の報告では、生活がかなり苦しかったはずだ。それがビジネスホテルに泊まって、やや多めの現金を持ち歩いている。携帯電話のパンフレットを持っていたということは、新しく購入と契約を検討していたのだろう。
T県警の報告を受けて、他に身に着けていたと思われる衣類、靴とパンツ、コートのような上着を見つけるため、青川両岸、特に下流域を詳しく捜索することが決定した。
最後に、青川署で行った遺体検案書について報告された。
死因は溺死。死亡推定時刻は一月七日午後十時から翌八日午前四時頃。血液からはアルコールが検出された。濃度は〇・一パーセント。泥酔一歩手前の状態だったと思われる。外傷は頭部の二カ所に打撲傷。うち一カ所の傷は、縦に四センチほどだった。岩のような固く平べったい物にぶつかった、もしくは殴られたと推定された。
「岩ねえ」黒柳がぼそりと呟いた。
「丸くて平べったい物ならいくらでもありますよ。家電製品、フライパン、コンクリートブロック」秋田が小さく声を出す。
「でも、酔っぱらっていたとなると、橋から吐こうとして転落した可能性もありますよね」心情的に佐々谷実に同情してしまっている和田は、黒柳や秋田に反発する意見を出した。
「それも無くはないな。佐々谷誠はそれなりに身長もある。酔っぱらっていたとはいえ、頭部を目立つ凶器で殴られそうになったら身を守るだろう」黒柳は和田の意見も肯定的に捉えた。
和田自身も、自分で言ったことに無理があると感じている。橋から転落したのなら、平べったい傷が二カ所も付くわけがない。黒柳の推測通り佐々谷実が犯人なら、酔って座っている佐々谷誠を殴ったで説明が付く状況だ。
会議室は、それぞれの都県から来た刑事同士が意見を交わす声でまとまりが無くなってきた。
会議を仕切っていた刑事課長が「他に何か意見のある者はいないか」と言ったが、特に手は上がらない。
黒柳は周囲を見回した。前方のS県警の刑事達は、横並びに座る面々でぼそぼそと話をするだけで、後方に座るT県警の刑事達は若干飽きている印象だ。全体が様子見をしているように思える。ただ、T県警の何人かは黒柳と同じように、会議室の印象を観察しているようにも見える。三白眼の疑り深そうな目つきをした男が黒柳と目が合い、向こうがすぐに視線を逸らした。
やがて上層部の意見はまとまった。「現時点ではまだ事件か事故かを断定できない。橋から身を投げた自殺の可能性も含めて、引き続き情報を集める」と、最も無難な判断を下した。
課長は青川下流域の捜索班と、佐々谷誠の足取りを追うため、偽名で宿泊していたホテルへの聞き込みに向かう班、父親の佐々谷実への再度の聞き込みと、捜査の人員配置について一息に命令を出した。
解散の号令と同時に、S県とT県の刑事は足早に去って行った。
「別れちゃいましたね。警部と」
「だね」
黒柳警部はビジネスホテルへの聞き込みが中心の班、和田と秋田は山景荘住人への聞き込み及び佐々谷実の監視や再度の聞き込み班へと割り振られた。
「黒柳さんの勘が当たっているなら、うちらは当たりクジ引いたことになるんですけどね」秋田がメモ書きを見ながらつぶやいた。
「うん。まあ、当たりにしろ外れにしろ、楽な班に当たっちゃったね」
「和田さんは常に体動かす班が好きですもんね。ストレス溜まるでしょ」
秋田の言葉に、和田が笑った。たしかに自分は待つことが嫌いなタイプの刑事だと思った。どうせなら歩き回る聞き込み班に入れてほしかったが、和田が人から話を引き出すのが大の苦手であることは刑事課全体に知られていた。
和田と秋田の元に、離れた所にいた黒柳が近寄ってきた。
「死亡推定時刻一時間前あたりから、山景荘への最寄り駅の防犯カメラと、近くのコンビニの防犯カメラを調べておけよ」
同じ聞き込み班に割り振られた別の刑事が、黒柳の言葉を聞きつけて近寄ってきた。
「警部は父親を疑ってるんすか?」
「なあに。一応、念には念を入れるだけさ。歳取ると疑り深くなっちゃっていかんね」
黒柳はとぼけた顔をしておどけると、会議室を出て行った。