青川署刑事課勤務 和田警部補 黒柳警部
午前中に川で引き揚げられた遺体は、午後にはあっさりと身元が判明した。警視庁のデータベースに指紋が残っていたためだ。
「名前は佐々谷誠。昭和四十六年生まれで現在は四十五歳。S県生まれ。一歳の時に母方の祖父母が住むK府に両親と転居。ガキの頃から悪さばかりしていて、補導歴多数。高校生の時に当時交際していた女性を妊娠させてしまう。彼女は生む生まないで言い争いとなった時に転倒し、流産してしまう。それがきっかけで高校を退学になり、彼女とその家族から傷害事件として告訴されるも、実家が多額の金銭を支払うことで和解。以降引きこもりになる。そして二年後の十九歳の時に、家族に対して小遣いを要求したがお金を渡さないと激怒。祖母を殴り、母親を金属バットで殴り殺し、父親にも重傷を負わせる。残された遺族が厳罰を望み、本人にも反省の色が無いことから、未成年ではあったが無期懲役の判決が下された。で、二十年以上刑務所で暮らし、去年の春に仮釈放。母型の祖父母と共に住んでいて事件を起こしたK府よりも、かつて父方の祖父母と共に住んでいたこともあるS県の南部に居住を希望したため現在地に居を構る」
刑事課の刑事が、FAXでK府警から緊急に取り寄せた捜査資料を一気に読み上げた。
「ここから先のことは、S県の協力も必要になってくる。父親や祖父母の連絡先を調べるために、役所が開くのを待たなきゃならないし、検視の結果が出るのも時間がかかる。明日の朝に合同捜査本部を設置するか否かを判断することになる。おまえら今日は早めに休んでおけ。明日以降は眠れなくなるかもしれんぞ」
課長の説明が終わると、その日は一応の解散となった。
翌日の午前六時前。まだ日も登っていない時間。青川署上層部の面々は難しい顔を突き合わせ悩んでいた。
青川河川敷の寺先で見つかった遺体を検視した結果、頭部にある傷は打撲傷だと推測された。瘤が二カ所見つかったためだ。これにより、橋から落ちた際に頭をぶつけて裂傷ができたという可能性はかなり低くなった。川に落ちた時に頭を打ち、濁流で流される途中に川底でもう一度ぶつけたと考えることもできるが、瘤の大きさが二つとも同じ程度であることから、何らかの鈍器によって二度殴られたと考えるのが普通だ。
しかし、遺体は泥水を大量に飲み込んでいた。胸を少し押しただけで泥水がどんどん出てくる。司法解剖してみなければ断定はできないが、溺死であることはほぼ間違いがない。こうなると、頭部の傷が致命傷とは断定できなくなる。
まあいい。細かい疑問点は、この後に遺族の了解をとり解剖して詳しく調べればほぼ解明される。事件か否かは後で判断すればいい。と、日付が変わる段階では考えていた。
その後の一本の電話が問題となった。
S県警への捜査協力依頼は昨日の午後に済ませていたが、
「被害者の居住地があるS県に捜査本部を設置するべきだ」
と、言ってきたのだ。
「遺体発見場所はS県内を流れる川の下流にあり、S県で事件事故にあった可能性も否定できない」深夜にかけてきた電話で、S県警の刑事はそう主張したらしい。
各都道府県警察には縄張り意識がある。特に、T都と隣接する他県は、ライバル意識が非常に強い。事件を横取りして手柄を独り占めしようとしているのではないか? という声があがった。
これが事故だった場合は、苦労するだけで手柄は何も残らない。
それなのに、事件か事故かよく分かっていない時点で、この案件をこっちに寄越せと言ってきたのだ。
「既に何かネタ握ってるんじゃないのか?」
「食いつきが良すぎる」
「怪しいな」
各々が意見を言い合っていたところに、再び電話のベルが鳴り、
「被害者の遺留品が青川のT県側河川敷に流れ着いた。T県に捜査本部を設置するべきだ。遺体発見現場はT県とT都の境界にあり、T県で事故にあった可能性も否定できない」
と、隣接するT県警察が伝えてきたのだ。
ここまできて刑事課の面々は軽く焦ることになった。
T県の食いつきがあまりにも早すぎる。S県がT県に何らかの照会をした可能性は低いだろう。最も自然なのは、T県側が漂着物についてS県に問い合わせて、S県刑事から遺体が見つかったことを教えられたという考えだ。そして、簡単に解決できる事件と判断し、丸ごと攫ってしまえと横槍を入れてきたのではないか。
両県警とも、解決させる自信がある。それぞれに何かネタを握っている。
青川署では事件か事故か自殺かすらも判断できていない段階だというのに。
「完全に出遅れてる」
「ウチに本部作って、ネタをあっさり出すとも思えんな」
「手柄を全て持ってかれたら赤っ恥ものだぞ」
「いっそのこと、要望通り他所に丸投げするってのもありじゃないか」
刑事課の面々が相談している所に、始業前の青川区役所に出向き、佐々谷誠について問い合わせていた和田刑事が戻ってきた。
「被害者の父親と祖父が、青川中央に住んでいます!」
その一声で、青川署に合同捜査本部を設置することが決まった。
「この問題に関しまして日本フィギュアスケート連盟会長の佐久間氏は、いかなる選手であろうと暴力団の経営する違法な賭博店への出入りは……」
「ですから、加害者が軽度の知的障害者である可能性を考えると、警察の横暴な取り調べによって嘘の自白をしてしまったと考えられ……」
助手席から聞こえてくるポータブルテレビと携帯電話のワンセグテレビの音が気になり、和田は曲がるべき道を一本間違えかけてしまった。
「そこ違うよ。もう一本奥」
「あ、すみません」
出していたウインカーを戻すと、後ろにいた車からクラクションを鳴らされた。和田は「ごめんなさい」と呟き、五十メートルほど進むと信号機の無いT字路を右折した。
「あの、黒柳さん。読みますよ? いいですか?」
「構わんよ」
和田の後ろに座る秋田巡査長が、助手席に座る黒柳警部に声をかけたが、黒柳はテレビから目を逸らさずに返事をした。本当に聞いているのだろうか? と和田は一瞬思ったが、この人なら多分大丈夫なんだろう。
「名前は佐々谷実。出身地はS県。昭和二十五年生まれで、現在六十六歳。父は三郎、母キミは既に他界。昭和四十四年、十九歳の時に結婚。翌年に妻の悦子が長男の誠を出産。その後妻の実家があるK府へと転居」
テレビから豪快な笑い声が聞こえてきた。コメンテーターを務めているお笑いタレントの大声が洩れ聞こえる。黒柳もくくくと小さい笑い声をあげた。
秋田がわずかにムッとした空気を感じて、和田が声を出した。「それで、K府で誠に妻を殺された後に、現在地に引っ越してきたと」
「違うな」助手席の黒柳警部が、和田の言葉を否定した。
「佐々谷実の両親はS県出身だ。息子の誠が事件を起こして、住みづらくなったK府から戻ってくるなら、一度はS県の両親を頼るだろう。それから青川区のアパートに越してきたんじゃないのか」
「あ、そうでした」和田は自分で取り寄せた住民票の内容を失念していた。
死んだ佐々谷誠の父親である佐々谷実は、現在は誠にとって祖父であり実の父親である三郎と同居している。S県に住んでいた三郎と共に、現在地に越してきたのだろう。
「あの、ところで黒柳さん。どうしてテレビ見てるんですか?」秋田が尋ねた。
「報道が無いかをチェックしてるんだよ。朝に見た全ての新聞には事件のことが書かれていなかった。テレビも今のところ無い。昼の放送から流れ始めることになりそうだ」黒柳がテレビを後部座席に向けながら話した。
二人はそこで黒柳の意図に気付いた。これから尋ねる佐々谷実は、まだ息子が死んだことに気付いていない。
迷惑になりそうにない場所を探してマークXを路上駐車すると、青川署刑事課の黒柳、和田、秋田の三人は車から降りた。
佐々谷実の住む山景荘は、青川警察署から車で七分、青川中央の最北にあった。
閑静な住宅街を入り込み、住人以外の出入りは無さそうな細い道の先にある行き止まり。そこに単身者向けらしい小さなアパートが見えた。
「静かな所ですね」
「日当たりはわりと良いね」
「秋田、アパートの裏手を確認してこい」
「了解」
黒柳の命令を受けて、秋田はすばやくアパートの裏手へと向かった。
「ミング、駐車車両を全車確認してこい。慎重にな」
「了解しました」
二人に指示を出すと、黒柳は胸ポケットからタバコを取り出し、山景荘に背を向けた。あらかじめ佐々谷実の住む二○二号室と思われるあたりの部屋に目星をつけておき、タバコに火がつかなくて苦闘しているふりをしながら、突然振り向いて部屋を見上げた。窓際にいた者がすぐに動いて隠れるのを、黒柳は見逃さなかった。
直後に秋田が戻って来た。
「部屋は上下六部屋で、二○二号室はその真ん中。北側は玄関で、窓はここからも見えるあそこしかありません」
と、報告をした所で、秋田が怪訝な顔を浮かべて「あれ? 黒柳さん、禁煙止めたんですか?」と尋ねた。
「ああ。今は禁煙中だった」黒柳は面倒臭そうに返事をした。
やがて和田も巨体を揺らしながら戻ってきた。
「駐車場にある全ての車には誰も乗っていませんでした。エンジンも冷たかったです」
と、報告をした所で「あれ? 黒柳さん、禁煙止めたんですか?」と、秋田と同じセリフを言った。
「ああ。いや、まあどうでもいい。行くぞ」黒柳は投げやりに答えると、秋田をアパート窓側の路上に残して、和田と共に二○二号室へと向かった。
部屋の前に立つと、背後の丘を見上げた。このアパートの名前はサンキョウ荘。山を景色とする荘を意味するのだろうが、おそらくはアパート北側の目の前にあるこの丘のことを山としてつけた名前だろう。丘景荘、オカキョウ荘、オカケイ荘では、ちょっと語呂が悪いからかな? と、黒柳は考えた。
この丘から先は、青川区最大の原生林と公園が広がり、東は東青川小学校、西は沼神中学校と沼神町へと続いている。もっと北へ行くと西梅川に出る。西梅川から下流へ行くと、青川と合流する。西梅川の対岸は全てS県だ。
黒柳が頷くと和田も頷き、和田が二〇二号室のインターホンを押した。
部屋のドアを開けた人間を見て、和田は一瞬硬直した。というのも、その人物はサングラスをかけていたからだ。何故家の中でサングラスを?
「失礼します。青川署の和田という者ですが。佐々谷実さんでしょうか」
グローブのように大きい手の平の先に、開いた警察手帳をつまんで見せた。
「はい」
しゃがれた声だ。遺体で発見された佐々谷誠の父親である佐々谷実は、六十六歳にしては老け込んで疲れが滲んでいる。妻を息子に殺されるというつらい過去を持つと、声までも早く老け込むものなのだろうか。
「息子さんの誠氏について、少しお話を伺いたいのですが。よろしいでしょうか?」
サングラスで表情が伺えないから正確には分からないが、少なくとも和田の目には、佐々谷実が動揺したようには見えなかった。
佐々谷実は頷くと、無言で二人を部屋に入れた。