青川河川敷 遺体発見現場 2
高橋と平岩が更衣室代わりに使われている警備車両に乗り込むと、奥に和田警部補が座っていた。灯油ストーブの送風口に手をかざしたまま、毛深い体を震えさせている。青川署一の猛者も、冬の川の冷たさには勝てないらしい。
「おづかれさまです! ミングさん」
「やあ平岩君。あ、替えのくつスたならそこの段ボールの中にあるよ」
「押忍! ありがとうございます!」
平岩と和田の二人が強烈な東北訛りで会話している。
「お疲れさまです、和田警部補」
「やあお疲れ。えっと、君は寺先の子?」
「いえ。東青川です。応援で来ました高橋と申します」
「そうかい。大変だったね。ストーブで暖まりなよ」
和田は高橋に対しては訛りの無い喋り方だ。どうやら平岩と高橋で使い分けているらしい。
和田は冬眠から起きた熊のように、もぞもぞと尻だけで動き場所を空けた。
「僕の隣、座れるよ」
「いえ。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
わずかに言葉を交わしただけだが、高橋は和田の本質的な優しさを感じ取った。胸や腕だけを見たら外国人レスラーのように筋肉が盛り上がっているが、太い眉毛と澄んだ目、穏やかな東北弁は、会話している者に癒しを与える。
高橋と平岩は靴と靴下を脱ぐと、備品のタオルで足を拭き、支給品の靴下を履いた所でズボンを干して一息つくことにした。
「お体は大丈夫でスか」平岩が心配そうに和田に声をかけた。
「ああ。ちょっと流れてきた流木に当たっただけだあ。この通り」和田はシャツをめくりあげて背中を見せた。左脇腹の後ろあたりが赤く腫れている。
「さすがっス。やっぱり鍛え方が違いますね」平岩が熱く和田に語りかけ続ける。
「ハハハ。ありがとう」
高橋は以前平岩と二人で非番の日に焼肉を食べた時の会話を思い出していた。平岩はA県の出身で、和田はI県だ。同じ東北出身の先輩警官として、平岩は和田のことをリスペクトしていると熱く語っていた。
「いやあ、オラも早くミングさんくらい立派な刑事になりたいです」露骨に媚びるような感じで平岩が言った。
「まるで私が立派じゃないかのような言い分だな」
「い?」
いつのまにか、平岩の真後ろにある警備車両の出口に、前田巡査部長が立っていた。
「部長、気配消して近づくのやめてください。というか、今着替え中っすよ俺たち」高橋と平岩はあわてて生乾きのズボンを履き、和田はタオルを腰に巻いた。
「やかましい。いつまで経っても戻って来ないから、貴様を置いて署に戻ろうと思ったのだがな。わざわざ迎えに来てやったんだ。感謝されても文句を言われる筋合いは無い」前田は傲岸不遜に言い放つ。
「翼、頼むよ。なんとか言ってやってくれよこの人に」平岩が涙目になりながら、高橋に頼みこんできた。
「えっと、お疲れさまです前田部長。お元気そうですね」高橋はいつものように柔らかい微笑みを浮かべて挨拶した。
「ああ。お疲れ、高橋。君は相変わらず無駄なほど爽やかだな」
「よく言われます。僕としては普通にしているだけなんですけどね」
二人のやり取りを見た平岩が「あれ? 二人は面識あるの?」と、口をはさんだ。
「ええ。先日の二一五号線の事故の時に。僕も前田さんも当直で、事故処理をしました」
「ああ。君が一番に駆けつけたのだったな。あの目撃者を宥めておいてくれたのは助かった。おかげでその後の聴取が楽だったよ」
「清潔なハンカチを渡して、コートを貸しただけですよ。もっとも後で、警察官が私物を簡単に貸すなって、交番の先輩には怒られましたけどね」
高橋が現場に駆けつけた時、トラックに跳ねられた老婆に対して、目撃者のサラリーマンは半ばパニックになりながら救命処置を施していた。道路に流れた老婆の血がコートの裾を汚し、手のひらも彼女の吐しゃ物で汚れていた。さりげなく汚れたコートを預かって、寒いでしょうと代わりに高橋のコートを肩にかけてあげた。それだけで目撃者は落ち着きを取り戻して立ち去りにくくなると計算した上での行為だった。
「君は平岩と同年代だったよな」
「はい。歳は二十四で同じです」
「なるほど。高卒でT都の警官になった平岩と同い年ということは、君は四年制大学卒だな。おい平岩、少しは彼を見習ったらどうだ。おまえが勝っているのは髪型の面白さしか無いぞ」前田が警棒で平岩の制帽をひっかけて取ると、帽子に押さえこまれていた平岩の髪がぼわっと広がり、頭の大きさが一・五倍になった。
「勘弁してくださいよ部長。ていうか、俺の評価されている部分、髪型だけですか」
平岩はとてつもない癖毛だ。何もしていないのに髪がアフロのように膨らむ。制帽を被ると蟹が足を広げたような形になる。
「遠慮なく誇れよ。その癖毛のおかげで、今こうして立派な警察官になれたんじゃないか」
「え? それどういうこと?」高橋の後ろにいた和田が、前田の話に食いついてきた。
前田はニヤニヤと嫌らしく笑いながら平岩を見ている。平岩の口から喋らせたい様子だ。
平岩は話したくない雰囲気だが、尊敬する和田に尋ねられては答えないわけにはいかない。「中学生の時に修学旅行でT都に来たんですけどね。そこで暴走族が髪型見て絡んできたんです。何パーマかけてんだって。その時に助けてくれた警察官に憧れて、地元のA県じゃなくてT都の警察官になり、暴走族の撲滅に力を尽くそうって考えたんです」
それは高橋も初耳だった。平岩にそんな過去があったとは。
二人でブルーシートを持っていた時は死体を見ることができずに青い顔をしていたが、平岩の目的が暴走族撲滅の取り締まりなら、たしかに死体を目にする機会も少なくて幽霊に憑りつかれたりする心配もいらない。
「へえ。じゃあ今後は生活安全課に行きたいんだ」
「いや、去年までいたんですけどね……」
横にいる前田の小さな顔についた口が、耳まで裂けてきた。賄賂を受け取った政治家のようなイメージだ。
前田の邪悪な顔と平岩の乳をもらえない子猫のような態度を見ただけで、高橋と和田は早く切り上げるべき類の話だなと悟った。
「ああ、言いたくないならいいわ、平岩君。なんがごめんね」毛深い手を合わせて、和田が平岩に謝った。
和田のフォローに、高橋も乗ることにした。「うん。話したくないこともあるよね。前田部長も、あまり平岩さんをいじめないであげてください」
「高橋、これはいじめているわけじゃない。私から彼への愛のムチだ」
何に対してのムチなのだろうと、高橋は思った。少なくとも、前田が平岩に対してムチ以外の何かをあげている姿を、高橋は一度も見た覚えが無い。
平岩が移動になった経緯については、高橋は東青川交番の先輩である降谷から既に聞き及んでいた。実際はこうである。平岩は五年前、警察学校を卒業して都内の交番へと配属された。ところが、交番勤務を終えて移動した青川署管内には、暴走族が存在しなかったのだ。せっかく希望通りに生活安全課へと配属されたのに、やりがいを見出せなくて腐りかけていた。そこを前田に目を付けられ、交通課に連れていかれたというのが真相である。以来、平岩は前田から下僕のようにこき使われ続けている。
平岩が徐々に涙目になっていくのを見て、和田が故郷の近い者のよしみで助け船を出した。「前田君、時々はアメも与えてあげてね」
「ミングさん、彼にはまだ早い」
青川署内では最も小柄な彼女だが、存在感と態度だけは誰よりも大きい。
和田警部補もまた、青川署では大物だ。最初から希望して警視庁へと来た平岩とは違い、和田はI県で実績を積んだ後に、その膂力を買われて警視庁へと招聘されたのだ。経歴だけならエリートコースであり、周囲から一目置かれている。彼をミングさんと呼んで良いのは、同じ刑事課かそれ以上の上官、それに同郷で特別に可愛がられている平岩くらいだ。前田の肩書きは巡査部長とはいえ、歳は平岩や高橋と一つしか違わない。
十歳以上も年下の部下の女性にあだ名で呼ばれるのは、不快ではないのかと、高橋は心配した。
「ははは。平岩君、僕には彼女を止めることは無理だなあ」太い眉毛が情けなく垂れ、和田は早々に白旗をあげた。
これが和田の欠点でもある。同僚や部下だけではなく事件の加害者に対しても怒ることができなくて、組織の規律が緩む。だからこそ出世が止まっているとも言える。威厳が全く無い。
頼りにした和田の頼りにならない姿を見て、平岩の肩が落ちる。
高橋は会話の間にできた一瞬を突いて、話の流れを断ち切って平岩を救うために、事件に関しての質問をしてみた。「和田さん。さっき引き上げた遺体ですが、どんな印象ですか?」
「ううん」和田は逆立った短髪の頭をガシガシと撫でて考えた。「濁流の中を揉まれたみたいだからね。あちこちに小さい傷があったけど、流される時に川底の岩で擦れたように見えたかな。あと、頭部に裂傷っぽいのが見えたけど、あれは殴られたようにも見えるし、橋から落ちた時に頭をぶつけたようにも見える。衣服がほとんど脱げちゃってたから、財布も身分証明書も見つかっていない」
「室内で殺害された後に遺体が捨てられたから、衣服が無かった可能性は?」
「半々かな。あの濁流だから、落ちたら流れているうちに服が脱げて流されてもおかしくない。今の段階じゃどちらか断定できないね」
「物取りに殺されたって線は?」
「首にかけていたネックレスが、意外と高級そうだったな。プラチナかな? あれは。十万円くらいするんじゃないかって鑑識の人が言ってたね。もちろんイミテーションの可能性もあるけど。物取りだったらあれは奪うんじゃないかな。それと、左手薬指に指輪も残っていたな」
「ミングさんの印象じゃ事件事故どっちですか?」着替えが終わり、身だしなみを整えた平岩が続く。
「事故に見える気がするね。いや、これは僕の願望かな。先入観はまずいな」和田はあははと笑った。「とりあえずは、遺体を署に運んで鑑識が調べている間に、河川敷に争った形跡が無いかを探すよ。警察犬と一緒に県境まで歩いてみるかな。散歩する人に聞きこみつつ」
興味無さそうに三人の会話を聞いていた前田が「なるほど」と言い、パンと手を打ち鳴らした。着替えの終わった平岩と高橋を見て椅子から腰をあげた。「ご苦労様です。さて、我々はそろそろ戻ることにします。この後も頑張って下さいミングさん」
高橋と平岩も含めて、三人で和田に敬礼をして、警備車両から出ようとした時、前田の後ろのドアが開いた。
ふり向いた前田の頭に誘導棒の持ち手部分が振り下ろされ、ゴツンと鈍い音が響いた。前田の目から星が飛んだように見えた。
「先輩警官をあだ名で呼ぶんじゃない。このバカタレ」
「い、痛いですよ白戸主任」
前田を殴ったのは、交通課の女帝と呼ばれる白戸主任だった。交通課一筋四十年。働きながら四人の子供を産んで育てた鉄人婦人警官には、警察庁次長の娘という肩書など微塵も通用しない。
「いつまでも無駄話してないで、早く戻って申し送りして帰りなさい」
白戸はコツコツと前田の頭を叩きながら言う。
「分かりました。って、そんなに叩くと背が縮んじゃいます」
「じゃあ思いっきり叩いてコブにしてあげようか。そうすれば背が伸びるよ」白戸がニタリと怖い笑みを浮かべると、誘導棒を振りかぶりながら前田を睨み付けた。
「勘弁して下さい」
頭を守ろうとした前田に制帽が被せられた。
「それと、制帽はいつもきちんと被りなさい。こうやっていつ誰に殴られるか分からないんだから。いい?」
「はい」乱れた前髪を気にしつつ、前田はおとなしく制帽の向きを整えた。
青川署のじゃじゃ馬として悪名高い前田だが、白戸の前では借りてきた猫のようになる。前田の手綱を握れるのは白戸だけだなと、高橋は思った。
青川署交通課勤務
白戸警部補
「まったく。最近の若い子は」パトカーに乗り込む交通課の二人と、原付に跨り走り出した交番の新人を見ながら、白戸は和田に愚痴る。
「いやあ。でも彼女は優秀ですよ。目ざといし仕事が案外几帳面です」和田がにこやかに前田を擁護した。
「優秀なのは認めるけどね。仕事を一度で覚えるし、要領もとてつもなく良い」
前田は本来ならば既に希望通り私服刑事になっていてもおかしくない逸材だ。
しかし、前田が初めて配属されたここ青川区の刑事課には、今はまだ空きが無い。
他の区で良ければいくらでも刑事のポストに就けるのだが、本人が今から他の区に行くのは面倒だから嫌だと拒否し、青川署で刑事になる事を望んだ。そのため、刑事課の人間は、父親の権力を使って強引に椅子を奪われるのではないかと皆ビクビクしている。
そのような青川署の現状も、あと数ヶ月で定年の白戸主任にとってはどこふく風だった。
「周りが皆、あの子に対して遠慮しすぎなのよね。へこへこびくびくしてるから増長しちゃうのよ」
「前田さんは、弁えるべき所はきちんと引いているようにも見えますけどね」
「引いているとも言えるけど、要領よく逃げているとも言えるわね。あの才能を仕事のやる気にちょっとでも振り分けてくれりゃ、良い警察官になるのに」