青川署交通課勤務 前田巡査部長 平岩巡査 1
「ガシャッ」
「ん?」
巡回中のパトカーを運転する平岩巡査の耳に、何かがぶつかる音が聞こえてきた。
「部長、今のなんすかね」
「何も聞こえなかった。あたしの耳には衝突音なんて聞こえなかった」足を組み、雨で増水した川面を見つめながら、助手席の前田美理亜巡査部長は面倒くさそうにつぶやいた。
「いや、衝突音って言っちゃってるじゃないすか」平岩はパトカーを左に寄せ、サイドブレーキを引いた。
「おいおい平岩くん。勘弁してくれよ。キミの仕事に対するやる気の無さと面白い髪型を、私は何よりも高く買っているのだよ。その才能を発揮するべきはいつなの? 今でしょ」前田が腕時計をトントンと指さしながら、平岩に対してため息交じりにぶつぶつ文句を言ってきた。
なんだっけこの時計と平岩は考えた。シャガールとか、そんな名前の高給ブランドだったはずだが思い出せない。
「まあ、このまま帰って当直を終えたい所なんすけどね。ほら、あのあたり」
平岩の指さす先には、河川敷で体操をしている老人たちがいた。わらわらと寄ってきて、しきりにこちらを気にしている。
「ほら。見られちゃってるじゃないすか。このまままっすぐ帰っちゃったら、抗議の電話とか投書とかされたりしちゃうんじゃないすかね。パトカーが事故を無視して行っちゃたぞ。けしからん! みたいな」
助手席の前田は気怠そうに老人たちを見つめていたが、やがて大きなため息を吐いた。
「はあ。やれやれ。老人ってのはどうしてああ野次馬根性が強いのかね」
前田はダッシュボードの上に置いてあった制帽を被ると、指で「行け」と指示を出した。
パトカーから降りた前田と平岩は、重い足を引きずりながらパネルバンの横に立った。後ろの部分がコンビニ店頭のガラス部分に突っ込んでいて、蜘蛛の巣状にひびが入っていた。コンビニの制服を着た経営者と思わしき男性が、運転席にいる高齢男性と話をしている。怪我は無いようだ。
「ああ、もしもし。警察っす」平岩が経営者らしき男性の後ろから、運転席にいる高齢男性に声をかけた。
「ひい! あ、すっ、すみません」
平岩が運転席の死角からいきなり話しかけられたためか、運転手を驚かせてしまったようだ。
「今すぐ出しますんで!」
「待って、待っておっちゃん。落ち着いてって」
店長らしき人物の制止を無視して、運転席の高齢男性が車を動かそうとした。声は怯えきっていて、逃げるつもりではないようだ。
ところが事故の直後で少し混乱しているらしい。高齢男性はアクセルを一気に踏み込んでしまった。車高の低いパネルバンの下部が車止めに乗っかっており、後輪駆動のタイヤがキュルキュルと空回りをしてゴムの焦げた臭いがコンビニの駐車場に広がる。パネルバンの前の道路は車が行き交っており、奥にあるガードレールを突き破れば段差のある河川敷まで真っ逆さまだ。
「まずい! 下がるっす!」
平岩がコンビニ店長の手を引いた瞬間、小柄な前田が猫のようにパネルバンの窓から運転席へと飛び込んだ。前田は頭を老人の足元へと潜り込ませると、右手でフットブレーキを押し込みながら左手でサイドブレーキを引いた。
「平岩! エンジン!」
前田に怒鳴られ、平岩は素早くパネルバンの窓から手を差し入れてエンジンキーを捻った。
平岩は目の前にある、細いが筋肉のついた太腿と、丸出しになっている紫の下着を見つめながら、車の振動が徐々に小さくなっていくのを確認した。
「いやあ、すみません。おかげで助かりました」コンビニ経営者らしき男は前田に頭を下げた。胸に『店長 野崎』と書かれた名札を付けている。
「いえ。これが警察の仕事ですから」手のひらについた泥を払いながら、当然のことだという風に前田は言った。
「で、なにがあったのか一応説明してもらえますか? あの様子を見たら、大体察しはつきますが」
平岩がパネルバンを運転して安全な位置に停めようとしている。駐車場の隅では運転手の老人が携帯電話を取り出して、かなり取り乱しながらなにかをしゃべっていた。
「はい。あちらのお客様がうちで買い物をしまして。それで、あのパネルバンで出ようとしたところ、ギヤをバックに入れたままアクセル踏んじゃったみたいで、ガラスに突っ込んじゃいました。それでパニックになっちゃってたところに、お巡りさんたちが来てくれたんです」
予想通りだと前田は思った。老人は明らかに運転に不慣れだった。
高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違えによる事故はとても多い。
「怪我人はいませんか?」
「いえ。お客さんは誰もいなかったし、商品も全て無事です。幸いな事に損害はあのガラスだけです」
「朝から災難だったね。もうちょっと待っててもらえるかな」
店長を店内へ促して、事故を起こした老人の元へと歩く。携帯を切った老人は、足を軽く引きずりりつつ、頭を何度も下げながら前田へと歩み寄った。
「どうもすみません。本当にご迷惑をおかけしまして」
「いや、いいよ。足は大丈夫ですか?」
「はい。ああ、これ別に事故で怪我したわけじゃなく、元々痛めてるだけなんで」老人は右ひざをさすっている。
「そうですか。頭痛や吐き気は?」
「いえ。それも全く」
「わかりました。とりあえず免許証を拝見します」
老人はパネルバンへと踵を返した。車を調べていた平岩とすれ違い、助手席の荷物を探している。
前田は平岩に大丈夫だと目配せをして、パトカーへと向かわせた。
「これです」
優良運転者免許証、通称ゴールド免許だ。五年間無事故無違反で発行される。
運転技術の低さから考えると、ペーパードライバーなのだろう。名前は篠博。昭和二十二年生まれ。今は六十九歳か。
「車両保険には入っていますか?」
「はい。ああ、とはいってもこの軽トラは借り物なんで、わたしが入ってるわけじゃないですけど」
「借り物。どなたから借りているのですか?」
「わたしの住んでるアパートの大家さんからです」
老人は目線を下に向けてオドオドと答えた。すっかり背が縮こまって、身長百五十三センチの前田よりも小さく見える。
免許証の住所は、このコンビニから車で数分といった距離だ。
パトカーから出てきた平岩巡査を前田は手招きで呼び寄せ、制服の袖を引っ張り、「車両登録はこの住所で間違い無いか?」と尋ねた。
「ええ。間違い無いっすね。盗難届も出てなかったっす。それと、荷台も調べたけど何もありません」するとそこまで言ってから、目を凝らして免許をよく見た。「でも、所有者の名前が違うっすね」
「ああ、それはいい。借り物だそうだ。とりあえずパトカーの中で二人で待っててもらえるか?」
「わかったっす」
平岩と老人がパトカーの後部座席に乗り込むのを見送るると、前田は店内へと進み、野崎店長を呼び出した。
「すまないが、事故直前の買い物の様子と、事故の瞬間の映像を確認させてくれないか」
「ああ、はい。奥にどうぞ」
事務所に入ると、野崎は複数あるモニターの前に座り、キーボードを叩きマウスを動かした。
「これです。ここを動かせば時間を巻き戻したりできます」
野崎から席を譲ってもらい、前田はモニターを見つめた。篠が車を止めて、店内でペットボトルの水だけを買い、再び車に乗り込んで発進しようとした時にガラスに突っ込み、すぐに平岩と前田が駆け付けた。不審な点は無い。
前田は野崎に礼を言い、店の外に出ると、思案しながら現場を歩いて見回した。
けが人は誰もいない。ガラスにひびが入っただけで、大きな損害も無い。パネルバンのぶつかった部分や車止めに乗り上げた下部にも傷は残っていない。数人集まっていた野次馬も今はもう誰もいない。何よりも重大な事実は、前田と平岩の当直が明ける時間にあと数分と迫っている点だ。
「平岩」手招きで二人を呼び寄せる。
「店長」店のドアを開け野崎を呼ぶと、アルバイトの女性に声をかけて野崎が出てきた。
事故の加害者と被害者の二人をガラスの前に立たせると、前田はひとつ咳払いをして腰に手をあてた。
「さて、まず篠さん」
「は、はい」
「我々警察としては、これからあなたを逮捕して、青川警察署で厳しい取調べをやらなければなりません」
前田が出せる限界の低い声で、脅しつけるように言うと、篠は今にも泣きだしそうな顔をした。
「野崎さんも、今すぐに警察署のほうに出向いて、数時間かけて調書の作成に協力して頂かねばなりません」
心底嫌そうな顔をしながら、野崎は「うわぁ」とため息をついた。
「だがしかし。幸いにもこの事故で、けが人は誰一人いません。損害は実質的にガラスだけで、車にも損傷は無い。しかも、その車は大切な借り物だそうで」わざと野崎に向けて言った。気の毒そうな目を篠に向けている。
「そこで提案です。これからお二人で交渉して、篠さんがガラス代金をちょっと色をつけて支払って終わらせてはどうでしょう。これならわざわざ事件としてお二人の時間を取る必要も無く、篠さんのアパートの大家さんを怒らせることも無い」
前田の言葉により、篠の目の色が燃えるように変化した。
「ええ。ぜひともお願いします。お金はありますので、損害の二倍、いや三倍の代金を支払わさせていただきます!」
「いやいや、ガラス代金だけで結構ですよ。うちとしてもこれから忙しい時間なんで、願ったりです」必死な表情の篠を見て苦笑いしながら、野崎店長は答えた。
「決まりですね。それと篠さん」
「は、はい」
「店長さんと交渉が終わったら、どなたかに代行運転を頼んでお帰り下さい。そして、教習所で高齢者講習を受けるまで運転しないようにして下さい。駐車場への出し入れ程度で慌てるようでは、今後の運転は非常に危険です」
「はい! はいはい。それはもう必ず」篠は鶏のように激しく頭をコクコクと振っている。
「じゃあ、そういうことで。宜しいですか? 店長さん」
「はい。問題ないです」
前田はニッコリと微笑むと、二人の手を取って強引に握手させた。
「よし。今後何か困ったことが起こったら、青川署交通課の平岩か前田に電話をください。それでは」
「部長、いいんすか?」
平岩はバックミラーに映る二人を見ながら、助手席の前田に言った。
「あん? 貴様、あたしに意見するつもり?」前田は制帽をダッシュボードの上に置き、バックミラーの角度を変えて、髪型を直し始めた。
前田が足を組み外を眺め始めたのを確認してから、平岩はさりげなくバックミラーを元に戻した。
「いや、あの二人のことはあれで良いっすけどね」平岩がアクセルを踏みこみつつ言い淀む。
「じゃ何のことだよ」
「紫のパンツは服務規程違反じゃないっすか?」
平岩は前田に左肩をがっしと掴まれた。指がスパイクで踏みつけられたかのように食い込む。
「痛い! 痛いですよちょっと。運転中ですよ?」
「そういえばパパが言ってたよ。真森村の駐在所に空きができて困ってるってな。おまえ明日から行く?」
真森村とはT都最西端に位置する、廃村一歩手前の過疎化が進んだ村だ。名前の通り森の真ん中にある。
「いえ。あ、間違いです。何も見てません」平岩は額に脂汗をにじませながら、口を滑らせたことを後悔した。
前田美理亜巡査部長は、見た目が小さく勤務態度も最悪だが、警察庁次長の前田警視官を父親に持ち、幼いころから合気道の英才教育を受けてきたじゃじゃ馬だ。腕力だけではなく頭もキレる。たちの悪いことにその事を隠そうともしない、むしろ立場を積極的に利用して青川署全体を手中に収める暴君だ。決して怒らせたりしてはならない。
「貴様はもう少し賢いと思ったのだがな。私が警部補になったら右腕として引き上げてやろうと思っていたのに。残念だよ」
「いえ。ほんとすみません。まじすみません。調子にのりすぎました」
前田警視官は人事権にも影響力を持つ。冗談抜きで本当に飛ばされかねない。なんとかこの話題を終わらせようと、平岩は脳みそをフル回転させた。
「そういえば部長、なんで警部補になりたいんすか? いや、早く刑事になりたがってるってのは聞いたことありますけど。部長ほどの頭なら、キャリアになってもっと上狙えたそうじゃないっすか」
以前に噂で聞いたことがある。この人は家柄と格闘だけじゃなく学力もすさまじいらしい。都内の有名なカタカナのナントカ女子大を優秀な成績で卒業したとか。父親が父親だから、キャリアとして採用されてもおかしくなかったはずだと。
「刑事になれば私服が着られるからな」前田は事もなげに言い放った。
「え? それだけ?」
「ああ。制服なんて無粋な物、着たくもない」ダッシュボードの上にある制帽を指で弾いた。「出世にも全く興味が無い。というか出世なんかしたくない。私服刑事になりたかった。ただそれだけだ」
前田はそれっきり黙り込み、窓の外に顔を向けて目をつぶり寝る体勢に入った。これ以上は話す気が無いようだ。
誤魔化しきった。何とか真森村に飛ばされることは無さそうかなと平岩が安堵した時、信号待ちの対向車に見知った顔を見つけた。
「あれ? あの人」
平岩の独り言が聞こえて、眠りかけていた助手席の前田が片目を開ける。
「あれ、この前の交通事故死したおばあさんと同じアパートに住んでるっていう爺さんっすね」
平岩の視線の先を前田が追うと、色黒で大柄な迫力のある老人がミニバンの助手席に肩を縮ませて座っているのを見つけた。向こうも前田の視線に気付いたようだ。鋭い目つきでじっと見つめている。
「ん? あれは……」
前田は大柄な老人よりも、むしろ横にいる女性が気になった。
「どうかしましたか?」
「うん。いや、あの運転手どこかで見た気がする」
運転手は小柄な女性だ。隣の老人と比べると大人と子供ほどの差がある。顎を上げて背伸びをしながら運転しているようだ。
信号が青になり、そのまますれ違った。
「かわいらしい人でしたね」
「貴様黒いのが好みか」
「爺さんのことじゃなくて」
バックミラーには、コンビニのある道へと折れて遠ざかるミニバンの後ろ姿が見えた。
「まあいい。思い出せないってことはその程度のことだろう」
「え? なんのことすか」
「なんでもない」そう言って、前田は帽子をアイマスク代わりに顔に乗せた。
「着きましたよ部長。やれやれ。かなり遅れちゃいましたね」
平岩の声を聞き、前田は数分間の浅い眠りから覚めた。どこでもすぐに眠れて、わずかな休息でも回復できるのが前田の長所だ。
青川署駐車場の狭い駐車スペースにパトカーを停車して、シートベルトを外そうとした時、当直明けの二人に容赦ない無線の声が襲い掛かった。
「寺先の青川河川敷で水死体を発見。巡回中のパトカーは応援に向かって下さい」