東青川交番勤務 高橋翼巡査 2
高橋は今日も通常の巡回コースから大きく迂回して、国道のそばを通ってから戻ることにした。先日の老婆の事故現場の様子を見るためだ。
国道二一五号線は、首都圏を囲む環状道路である。ここ青川区は都内最東端に位置しており、北のS県や東南のT県と面している。都と県の境を流れる川に沿って県境も蛇行しているため、橋を渡れば三つの都県を数百メートルで縦断できる道路となっている。そのわずかな区間を含んだ地域が、東青川交番の管轄地域だ。
過去に幾度となく水害に見舞われていたため、長く人の住みにくい場所であったが、戦後の堤防整備により安全が確保されると、徐々に人が住むようになっていった。
都内を通っているといっても、実態はT県とS県を結ぶ幹線道路であり、スピードを出すトラックばかりだ。そのため、見通しは良いが重大事故も起こりやすい道路である。
高橋が事故現場に差し掛かった時、見たことのない少女を見つけた。情報提供を求める看板のすぐそばで、両手を組んでお祈りをしている。事故の日の後、事故現場には近隣の住民と思われる人々が花を供えていた。彼女もそのうちの一人だろうか。
「こんにちは。お疲れさまです」
トラックの走行音と、全く軋まずに走るようになった自転車のせいで、気配を感じ取ることができなかったのだろう。突然後ろから声をかけてしまったため、少女は「ひっ」と驚きの声を上げた。
「あ、驚かせてしまってすみません。東青川交番の者です。ご近所の方ですか?」
声を柔らかくして、にこやかに話しかけたのだが、少女の緊張が解けた様子は全く無い。かなり怖がらせてしまったようだ。ポケットに手を入れて猫背になっている。
高橋は細身だが、身長は百八十センチを超えている。対して目の前の少女の身長は百五十センチ程度か、もしかしたら足りていないかもしれない。黒っぽいスカートに痛んだ革靴。着ているコートは明らかに安物で、袖は着古しているのか痛んでいる。つば広帽子を目深に被っていて、目線がわずかしか見えなかった。
「いえ、その、はい」少女はチラリと高橋に視線を合わせると、すぐに逸らして俯いた。
人と話をするのが苦手なのだろうか。なにか避けられている感じがする。
高橋は少し気になり、近くに自転車を止めると、花の前にしゃがみこみ手を合わせた。そしてそのまま少女の顔を見上げて覗き込んだ。すると、今度はしっかりと目が合った。透き通るような白い顔に、うっすらと口紅が引いてある。高橋と同じ歳くらいだろうか。大学生か専門学校生かもしれない。
「失礼ですが、こちらで亡くなられた方のお知り合いの方ですか?」
「いいえ。存じ上げません」少女のように見えた女性は、高橋の目を見ないで答えた。居心地悪そうにしている。
「すると、知らない人なのにお祈りしていたのですか?」
高橋の言葉を悪く捉えたようだ。女性は不愉快な表情を浮かべ、「亡くなられた方のご冥福をお祈りすることは、いけないことでしょうか」と、悲しそうにつぶやいた。
見た目とは違う大人っぽい話し方に高橋は少し動揺した。「気に障ったのならすみません。謝ります」制帽を取り、立ち上がって頭を下げた。「そちらの看板にも書いてある通り、ここで事故に遭い亡くなられた方の情報を探しているんです。どんな小さなことでも良いので、なにか知っていることがあるのなら教えていただけないかと思って、つい失礼な物言いになってしまいました。ごめんなさい」
「……いえ。こちらこそすみません」女性は軽く頭を下げた。
そして事故現場の道路を数秒見ると、「失礼します」と高橋に言い、足早に歩き去っていった。
「また姫がご乱心しちゃったか」高橋が巡回の報告を済ませると、降谷巡査は二人分の湯飲み茶碗を置きながら苦笑いを浮かべた。
「またって言うことは、以前にもあったんですか?」
「以前というか、毎年恒例の年末年始イベントだなあれは。氏川さんとこのお嬢さんはK県で教師やってるんだ。ほれ、親父さんが商店街の副会長やってるから、学生の頃から良いお見合い話がいくつか舞い込んでてな。それが嫌でわざと離れたK県で仕事することに決めたんだとさ。で、あの少女趣味だろ。ずっと周囲から浮きっぱなしで、気付いたら四十超えちゃってたと。親父さんは諦めちゃったみたいだが、お袋さんがまだ頑張っててな。帰省する度に見合い話を持ってくるんだとさ。姫の学校の冬休みが明けるまで、喧嘩が続くんだ」
楽しそうに降谷が語る。彼は東青川交番に勤めて四年目になるので、地域事情は高橋よりもはるかに詳しい。氏川夫人には殴られたような跡があったが、降谷の言葉を信じて、緊急性の低い事案と判断することにした。
「この人形は、うまいこと考えついたな。それを口実に使えば、またあの家に足を運んでも姫を刺激しないで済むもんな」降谷が小人の人形を持ち上げながら言った。
「制服を着た警察官が何度も尋ねては、ご近所で良くない噂が立ったりしますからね。次は目立たないように勤務時間外に私服で行くつもりです」
「これ、新しいの買ってくの? T県のマスカットランドで売ってるんだろ?」
「大学の頃の後輩がランドに就職したんです。安く手に入れてもらってきます」
「ふうん」降谷は高橋を珍しい生き物でも見るかのような目で見た。「まあ、姫の学校は、あと数日で冬休みが終わるから、行くなら急いでな。母ちゃん殴らないようにしっかり釘刺しておいてくれよ」
「わかりました。友達は今日も働いてるはずなので、電話して取り置きしてもらって、今日の夜に受け取り、明日の当直前にもう一度伺います」
「そうか。張り切ってるな。氏川さんのお見合いリストにお前が並ぶ日も近いか」
高橋は飲みかけのお茶を少しこぼした。「よしてくださいよ。僕は単に夫人の身を案じているだけですからね」
「ハハハ。冗談だよ冗談。と、そうだ、大事なこと忘れてた。ランドで思いだしたよ」降谷は机の引き出しからメモ帳を取り出した。
「ええと、これだ。例の交通事故のガイシャの身元が分かったよ。T県に住む七十代の女性。名前が長谷川信代、二一五号線を渡ってすぐのアパートに一人暮らしで、家族はいないそうだ。年末で海外に旅行していた管理人が昨日戻ってきて、長谷川さん宅の郵便受けに新聞が溜まっているのを見て不審に思った。チャイムを鳴らしても返事が無く、中で倒れているのを心配して、鍵を開けて確認したが誰もいない。暖房を使っていた形跡も無い。んでもって、新聞で見た事故死した老婆がその人じゃないかと心配して通報してきた。そこの管理人と、同じアパートに住む面識のある住人が青川署に来て、安置されていた遺体を確認。ついでにガイシャの部屋にあった財布から免許証も見つけてきて、それも持ってきてくれてた。本人で間違い無い」
「そうですか」高橋は降谷の話に相槌を打ち、事故のことを思い返した。
最初に現着したのは当直だった高橋で、混乱している通報者のサラリーマン男性を宥めるのに骨が折れた。被害者の老婆は道路の真ん中あたりでトラックに跳ねられたらしく、体は対向車線に倒れていた。頭や胸を打っていて即死状態だったが、対向車に巻き込まれず、遺体が比較的きれいだったことは幸運といえるだろう。
「認知症、なんでしょうね」高橋はぽつりと呟いた。
「だろうな。そうじゃなきゃ、十二月の夜中にパジャマで出歩こうなんて思わないだろうさ」
しかも、わざわざ隣県から橋を渡ってきている。距離が数百メートルとはいえ、かなり寒かったはずだ。正気な人の行動ではない。
以前に読んだ認知症高齢者の徘徊事案報告書は、十キロ以上の距離を歩いたケースも載っていた。それを考えると特異な事件とはいえない。
「遺体を確認した友人の男性が言うには、ガイシャは昔、結構有名なスポーツ選手だったんだってさ。高齢でも体力はかなりあったそうだ。現に、第一発見者のサラリーマンも、すごい勢いで走ってる姿を見たり、掴みかかられた時の力が普通じゃなかったって言ってる。ガードレールもひとまたぎで飛び越えたらしいしな。まあ、後は隣県で荼毘に付して終わりかな。身内がいないらしいから、跳ねてしまったトラックの運転手もそれほど困る事にはならないさ」
「身内、居ないんですか」高橋は顎に手を当てて考え込んだ。
「どうした? 何かあったのか?」
「いえ。事故現場にあった花瓶の中の花、菊の花に混じってカーネーションが一本あったんです」
「カーネーション?」
「ええ。カーネーションってあれ、母の日に送る花ですよね。一般的に」
降谷は首をひねった。「ううん。よく分からんが、近所の人が捧げた花だろう? 多分、家の中に飾ってて、余っていた花を適当に持ってきただけで、深い意味は無いんじゃないのか?」
「まあ、そうなんですかね」言葉とは裏腹に、高橋は背中のかゆい部分に手が届かないような、もどかしい感じがした。
「さあ、終わったことはもういい。気分を切り替えて仕事仕事!」
降谷の号令を受けると、高橋は二つの湯飲み茶碗を手に取り、ぬるくなったお茶を台所に捨てた。スポンジを手に取り茶碗を洗いながらも、両手を重ねて祈りを捧げる、つば広帽子の彼女の姿が心から離れなかった。