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東青川交番勤務 高橋翼巡査 1

 第二部 一月初旬

 築三十年以上経つちっぽけな交番。その奥にある鏡の前に立ち、高橋翼たかはしつばさ巡査は自分を見つめた。制帽とネクタイに手を当てて曲がっていないかチェックすると、そばにかけてあるコートを手に取る。だが、今日は外が平年より暖かいことを思い出すと、コートを再びハンガーにかけた。

降谷ふるやさん、巡回行ってきます」

「ああ。気を付けてな」

 交番前で両手を後ろに組み、立ち番をしている先輩巡査に声をかけると、すぐ横に停めてある白い自転車にまたがってこぎ始めた。

 すると十メートルと走らずに通行人から声をかけられた。近所で一人暮らしをする年配の女性だ。

「あら、ターくんあけおめ。今年もまたいい男だねえ」さりげなく高橋の手を握り、指を絡めながら手の甲を擦ってくる。

「あけましておめでとうございます。膝の具合はどうですか?」

「さっきまではシクシク痛んでたんだけどね。ターくんの顔見たら吹っ飛んじゃった」その場で腿上げを始めて、ニカッと微笑んだ。奥歯の金歯がギラリと光る。

 その姿を見て高橋は爽やかに笑った。「あまり無理しないでくださいね。お孫さん達に心配かけちゃいけませんよ?」

「アイアイサー。その代わりうちの孫、嫁に貰ってあげてよね」

「考えておきます」高橋の笑顔は少しだけ困り顔になった。

 すぐ後ろに立つ降谷巡査がくくくと笑い声をあげる。甘いマスクの高橋は女性からよく声をかけられる。戸惑う姿を見るのが楽しいようだ。

 おととし警察学校を卒業して、ここ都内青川区東青川交番に配属されて一年ちょっと。下町特有の親しげな住民たちに囲まれ、高橋翼巡査は充実した毎日を過ごしていた。

 午前の巡回ではお年寄りたちに声をかけられ、午後の巡回では子供達を見守る。近くに小学校があるため、下校時刻は積極的に道に注意を払っている。東青川交番の管轄地域は、道幅の狭い所も多いため、子供の交通事故を最も警戒しなければならない。

 ただ、今日は一月四日。まだ冬休み期間中であり、子供の姿はほとんど見かけない。

 交差点に差し掛かり、自転車のブレーキをかけると「ギギッ」と音が鳴った。昨日は雨の中を巡回したため、オイルが流れ落ちたのだろうか。交番に戻ったら手入れをしなければいけないなと、高橋は頭の片隅にメモした。

 その時声をかけられた。

「タカちゃん、自転車が泣いてるよ。こっち来な、油差してやるから」

 すぐ横にある保田ほた自転車店の主人が手招いている。

 巡回時間にかなり余裕があるため、高橋は厚意に甘えることにした。

「こんにちはホタさん。お願いできますか?」高橋は店先で自転車から降りてストッパーをかけた。

「おう。すぐ終わるから待ってな」保田は手の汚れを腰にかけた手ぬぐいで拭くと、店の奥へと整備用具を取りに行った。


 保田自転車店ほたじてんしゃてんは、先代店主が店を開いてから四十年以上もこの場所で営業していると、降谷巡査から聞いていた。近くの小学校の子供達は自転車がパンクすると大抵ここに持ち込むので、店主は赴任九ヶ月の高橋以上に、東青川交番近辺に住む住人達の居住実態を把握している。

「先ずは地域住民との交流だ。できるだけたくさん、顔と名前を覚えてこい。そうすれば雰囲気にそぐわない不審者を一目見て分かるようになる。下町の人たちは皆、人懐っこい。すぐに覚えられるさ。手始めにあそこの自転車屋で立ち話でもしてこい」と、勤務初日の巡回前に降谷巡査から指示された。

 高橋は初めて保田自転車店を訪れた時、『ホタ』という苗字を『ヤスダ』と読んでしまった。

 その時店主は唇をちょっと曲げて「ホタだよホタ」と、訂正してきた。

 初日の巡回から戻りそのことを話すと、

「やっぱりヤスダって読んじゃうよな。若い世代だと、モー娘で保田って有名だし」と、笑って言われた。「保田さん、自分の名前が好きじゃないんだよね。先代が子供達からホタテなんてあだ名付けられてたから、しばらく自転車屋継ぎたくなかったんだってさ」という由来を教わった。


「どうだい。例の事故のバアさん。何か分かったかい」

「いえ。さっぱりです」

 年末に近くの国道で、老婆がトラックに跳ねられ亡くなるという痛ましい事故が起こった。目撃した会社員の証言やパジャマ姿だったことから、近くに住む認知症の高齢者だろうと見当を付けて聞き込みを続けているのだが、年が明けても手がかりが何もない。

「家族の誰かが捜索願いを出してくれれば、すぐに確認できるのですが。もしも一人暮らしだったら、もうしばらく時間がかかりそうですね」

 トラックに跳ねられたが、遺体の損傷は少なかった。身元を証明する物は一切所持していなかったため、今は歯の治療履歴や近くの病院の診療履歴などを調べて、時間をかけて身元を割り出している最中だ。

「ふん。やれやれ。タカちゃんも大変だね。チビどもの面倒見たり、どこぞのバアさまの面倒見たり」自転車のメンテナンスをこなしながら保田がつぶやく。

「それが僕の仕事ですから」微笑みを浮かべながら返した。

「ああ、バアさんで思いだしたが、あそこの白雪姫のとこのかあちゃん、昨日、目のあたり腫らしてたな」

 白雪姫? 高橋は考えてすぐに思い当たった。「ああ、氏川うじかわさんのお宅のことですか?」たしか、玄関のところに小人の木製人形を数体飾っている。

「うん。あそこの姉ちゃん、少女趣味のくせしてキレやすいからな。ちょっと様子見に行ってやってくれよ」

 まだ結婚していない女性がいると聞いたことはあるが、白雪姫に例えられているとは。それもまた近所の小学生が付けたあだ名なのだろうか。子供は相手を配慮すること無く、言われて傷つくあだ名をつける。

「わかりました。あ、ところで代金のほうは?」

 保田はわずかに不機嫌そうな顔をした。「こんなのタダでいいよ。この程度で金を取るほど器のちっちゃい男だと思わんでくれや。さあ、さっさと行った行った」武骨な黒い手で追い払う仕草をした。

「ありがとうございます」保田店長の人柄を少し理解できた気がする。

 高橋は深く頭を下げると、軋まなくなった自転車を漕いで氏川邸へと向かった。



 高橋がレンガの壁に囲われた比較的大きな家の前まで来た時、家の中からガチャンと何かが割れる音がした。自転車を止めて耳を澄ますと、中からかすかに女性の泣き叫ぶ声が聞こえる。あわてて玄関前の階段を駆け上がった。途中でわきに佇む小人の人形を蹴り倒してしまったが、それを無視してチャイムを鳴らした。

 しばらく待ったが返事が無い。更にもう一度チャイムを鳴らして、ドアをトントンと何度か叩いた。やがてすりガラスの向こうで人が動く姿が見えて「はい」と奥から女性の声が聞こえた。

「こんにちは。警察です。お宅の前を通りがかった時に大きな音が聞こえたのですが、ちょっとドアを開けてもらえますか?」

 しばらくためらったかのような間を置いた後、「お待ちください」とか細い声が聞こえた。

 ドアの向こうでは人の気配があったが、開ける様子が無い。どうやらドアスコープから外を覗こうとしているようだ。だが、玄関用のしめ飾りが邪魔をして、外を見ることができなくなっている。

 やがて諦めたのだろう。玄関の鍵を開ける音がカチャリと鳴ると、わずかにドアを開けて、中から年配の婦人が半分だけ顔を出した。六十歳から七十歳といったところだろうか。

「あの、すみません。ちょっとお皿を割ってしまったもので」

 婦人は目線を合わせず、早口でまくしたてた。様子がおかしい。

「氏川さん、お話を聞きたいので、ドアチェーンを外してもらえますか?」

 氏川婦人は気まずそうな顔をして考えていたが、高橋がじっと黙って待っていると根負けしたようだ。チェーンを外してドアを開けると、痛々しい顔が覗く。隠していた顔の左側の頬が腫れていて、目の周りが赤い。打撲跡に見える。

「頬が腫れてますね。何があったのか話して頂けますか?」

「いえ、ちょっと前に階段で転んだだけです」

 頬を手のひらで隠しながら、半身になって隠そうとしている。

「大丈夫ですので。お騒がせしてどうもすみません」

 氏川婦人は頑なな態度で話を終わらせようとしてくる。

 高橋は迷った。もう少し詳しく話を聞きたいのだが、婦人が話してくれなければどうしようもない。

「大丈夫だって言ってるんだから。もういいでしょ。帰ってくれませんか?」

 突然、居間のほうから小太りの女性が出てきた。歳は四十を超えているくらいだろうか。上は赤いニットに、下は白いフリルのついたスカートを穿いている。

 ははん。彼女が保田店主の言っていた白雪姫かと、高橋は瞬時に察した。

「失礼ですが、お嬢様でしょうか」

「はい。そうですけど」高橋の顔を見つめたまま、女性が少し頬を赤らめて答えた。

「そうですか。いえ、強盗か何かが暴れているのかと思いましてね。大丈夫でしたらそれでいいんです」柔らかい笑みを浮かべて、場を和ませようと試みた。

 すると女性の顔はみるみる赤くなっていき、スカートの端をいじり始めた。高橋に話しかけられ照れているらしい。

「あ、それと、階段のところにあった小人の人形、あれマスカットランドで売ってる人形ですよね」T県にある遊園地で売られている有名な人形だ。「階段を上がってくる時につまずいて壊しちゃったので、弁償しますよ」

「はあ。いえ、安いものですので。わざわざ弁償して頂かなくても」女性が恐縮している。

「いえいえ。友人にあそこでアルバイトしている者がいるので、安く手に入るんですよ。小人の人形って華やかで良いですよね。僕もああいった小さくてかわいいの好きですよ」

 小太りの女性がはにかんで笑顔を見せた。

 あの趣味はおそらく彼女の趣味のはずだ。褒められて悪い気はしないだろうと高橋は考えた。

「では、これで失礼します。氏川さん、あの壊れた人形は僕が持ち帰って捨てておきますので」高橋は氏川婦人の手を引いて玄関から連れ出し、ドアを閉じて階段のところまで連れてきた。

「あら。別に壊れていませんわね、これ」氏川婦人は倒れた人形を指さし不思議な顔をしている。

 高橋は氏川婦人の耳のそばに顔を近づけ、「人形のことは、またお宅に伺うための口実です。本当は何があったんですか?」と尋ねた。

 一瞬驚いた顔をした氏川婦人は、諦めた様子で呟いた。

「娘にお見合いの話を持ってきたのですが、嫌がられまして。しつこく言ったのが気に食わなかったみたいで」頬を抑えながら、呻くように言った。

 高橋はさっき見た小太りの女性の外見を思い出した。そこそこの年齢らしいから、結婚の話題を出されるのは嫌がるだろう。ちょっと頭に血が上った程度で、大事ではないと判断した。「わかりました。また後日伺いますので、その時までに落ち着かれてたら良いですね」

 高橋が声をかけると、氏川婦人も平静さを取り戻したようだ。「ご親切にありがとうございます」と、深くお辞儀を返してきた。

 高橋は階段を降りて、家の前にとめていた自転車に乗ると、レンガの壁の向こうにある居間の窓から視線を感じた。

 これで、後日高橋が再び氏川邸を訪れるまでは、小太りの彼女もむやみに暴れるような真似はしないだろうと考えながら、氏川邸を後にした。


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