プロローグ
第一部 十二月下旬
「お客さん、そろそろ着きますよ」
運転手に声をかけられ、男は目を開けた。
単調に並ぶ街路灯の奥に泥のような川が見える。橋を越える時に道路の継ぎ目で車がガタガタと揺れて目が冴えた。
「そこでいいですよ」男がアルコール臭い口からくぐもった声を出すと、運転手はウインカーを出して左車線に寄った。カチカチとプラスチックを打ち鳴らすような音が車内に響く。空いた右車線を大型のトラックが追い抜いて行った。
「千五百二十円になります」
サイドブレーキを引くと、運転手が首だけを後部座席に向けながら言った。
脱ぎ捨ててあった背広の内ポケットから財布を取り出し、代金を渡す。「ありがとうね」
男は礼を言いタクシーから降りる。途端に寒さで体が震えた。酔いが急速に冷めるのを感じながら、急いで背広とコートを着込む。
男は愛する我が家へと向かって、のたのたと歩く。腹をさすりながら数時間前の出来事を思い浮かべ始めた。
今日の忘年会で飲んだ酒は実にうまかった。若手が見つけてきた初めて入る店だったが、シメに食べたアンコウ鍋の雑炊が絶品だった。会社の近くにまだまだ知らない穴場の店があるなんて感動した。再来週の新年会もぜひ同じ店でやってほしい。
以前に会社の飲み会で午前様となった時、家の前までタクシーで乗り付けたらドアの開閉音で女房が起きてしまい、散々小言を言われた。
それ以来、帰宅が深夜になった時は、ちょっと離れた国道で降りて、そこから家まで歩くのが常となっていた。
「うっ。寒い」砂ぼこり混じりの寒風を受けて、男は軽い尿意を感じた。
足を速めた時、前方に奇妙な人を見つけた。
「キヨシ! キヨシっ!」
チェック柄の上着とパンツを履いた老婆が、髪を振り乱して叫んでいる。あれはパジャマじゃないか? 歩道上とはいえ、夜中の国道で何をやっているんだ?
老婆は男と目が合うと、すごい速さで走り寄ってきた。
「キヨシ! あんたキヨシだろう?」手首に掴みかかり、目をギラギラさせながらぐいぐい引っ張ってくる。
「ちょっと、ちょっと待ってください。違いますよ」必至な形相の老婆の手を優しく引き離そうとした。だが、老婆の指はコートをしっかり掴んで放してくれない。「あなたどちらさんですか?」
「キヨシじゃない? あんたキヨシじゃないの?」
老婆の顔が激怒しているかのように歪む。いや、悲しみの表情だろうか。
「ええ。違いますって」
男がきつく言い放つと、老婆はゆっくり手を下げた。
厄介なことに巻き込まれたと、男は内心舌打ちをした。この人、どう見ても頭がボケている。徘徊老人というやつじゃないのか。深夜にこの寒空の下、パジャマ姿で息子か孫でも探している様子だ。普通じゃない。
「キヨシ。ああ、どこ行ったの。どうして家にいないの」老婆は背を向けると再び走り始めた。
「ちょっと、おばあちゃん」
錯乱している老婆を放っておくわけにもいかない。男が追いかけて止めようと判断した瞬間、本格的に膀胱が危機を訴え始めた。「うう。まずい」さっさと家に帰ってトイレに行きたい。どうしよう。
そういえば、道をかなり戻った所に交番があったはず。おまわりさんに一声かけて帰ればそれでいいだろ。
善は急げ。男は老婆に背を向けて交番を探し始めた。
その時、老婆の目に国道の向こう側を歩く人の姿が映った。
ガードレールを跨いで超えた老婆には、迫りくるトラックのヘッドライトは目に入っていなかった。