静・豊・幸
…彼は幼稚園の頃から、玄関に掛けられた額に書かれた、力強い「和心」の墨字を見上げていることがよくありました。
そして彼の記憶に、その「和心」という二文字は色強く刻まれていました。
学校から下校した5月のある日、彼は玄関先で彼の帰りを待っていた、祖母の真澄美から「ひいおばあちゃんが呼んでるから。一緒にいらっしゃい」と呼ばれました。
そして彼は、曽祖母の斗紀の部屋へと、祖母と一緒に向かいます。
中庭の松の枝を手入れしている長谷川誠さんをチラリと見ながら、縁の回廊を歩き進みました。
回廊は右に折れ、また左に折れ、その先の離れへ続く渡り廊下を渡って、ようやく曽祖母の部屋に到着。
曽祖母のいる部屋の障子の前で祖母は正座し、両手は膝の上で重ねて揃え、少し頭を下げました。
彼も祖母を見習い、祖母の隣に正座しました。
祖母は曽祖母に、彼をお連れしたことをお伝えすると、曽祖母の「どうぞ。お入りなさい」の小さな声が聞こえました。
祖母は障子を開けました。そして彼を見て「一人で行ってらっしゃい」と、そう彼を促しました。
曽祖母は15畳の部屋の真ん中にひとり座り、木製の座卓に向かって筆を持って、何やら書き物をしています。
私の座卓の前に座りなさいと彼を目の前へ呼び、彼に筆を持たせて「心」という字を書いてみなさいと言いました。
そして彼の「心」の字を見て、曽祖母は彼に優しく諭しました。
『…翔。あなたは自身の心の乱れを払い、心を落ち着かせなさい。その為に毎日、自分にとって最も幸せなことを思い振り返り、幸せを実感しなさい。
毎日本を読み、心を癒す楽曲を聴き、自然や風景を見、感じて自身の集中力を高めなさい。
そして字を習いなさい。自分自身が納得できるまで、字を何度も何度も書き直し、学びなさい。
…心の状態は書筆に最も現れるものです。字を美しく書く為には…心を静め、心を豊かにし、心に幸せを感じることが必須です。
心の「静・豊・幸」…それが「和心」なのです…。』