千枚のガラスに映る緑と青と
中森由宇の乗るバスが通る道の先に、丸太の家がある。
残念ながら、このバスは左に曲がって、あの家の前は、通らない。
高校、大学と同じバスで、駅に向かう。
のん気な学生生活が終わりに近づくと、あの家を見ている暇は無くなった。
どさくさ紛れに、就職が決まった。
入社式、研修、それぞれの部門への配置。
春の嵐が吹き抜けていった。
広報部門に、配属されたのはこの後。
写真部員だった由宇でも、勝手の違う事だらけで、会社のアピールポスター制作なんて仕事は、雲をつかむようだった。
印刷する紙、一枚から選ぶのだが、その数の多さに、頭がクラクラする。
姉の、毎日同じ事務、なんてのは、聞いても、何の足しにもならなかった。
覚える事が多いし、毎回、やる事が違った。
社内報の写真選びも、感覚が違いすぎて、へこんでいた。
四面楚歌なんて、頭によぎる。
率先力になるような地力が無いのを自覚した。
それからは、お茶くみでも、テーブルセッティングでも、言われた事が、出来るよう努力した。
社外のお使いに、行かされる様になったのは、梅雨の最中だった。
「中森、これを先方に届けて。
サンプルだからな。
直しはないはずだし、まあ気楽に、行ってこい。
そしたら、直帰していいぞ。」
谷口先輩から、紙筒を渡された。
「雨に濡らすなよ。」
「はい。
あの、直帰って、何でしょうか。」
紙筒を受け取りながら、疑問を聞く。
「あーっと、研修では、教えないか。
用事が終わったら、そのまま帰宅して良いって、事さ。
あのスケジュール版に、書いていけば、良いから。
相手を待たせない様に、早めに、な。」
谷口が顎で指した方を見ると、自分の欄だけ、真っ白だ。
他の人のを見て、今日の日付の場所に、直帰、と、書いた。
「行ってきます。」
自分の机から、ビニール袋をだして、紙筒を包み、ロッカーに急いだ。
こんな時間に、会社を出るのは初めてだったから、何だか嬉しい。
雨も楽しく思える。
由宇は、お気に入りのレインコートと傘で、会社をあとにした。
行き先は、自宅の近くだった。
時間が読める。
それでも、行った事の無い場所だったので、迷ってしまった。
やっぱり、無理と、ナビに、先導してもらって、うなだれた紫陽花の咲く公園を回って、着いたのは、あの丸太の家だった。
由宇の乗るバスはここには行かないのだから、迷うはずだ。
ドキドキしながら、呼び鈴を押す。
しばらくしてから、返答があり、会社名を告げると、やがて、ドアが内側に開いた。
柔らかなモスグリーンのワンピースの女性が、立っていた。
玄関から、ここの階が見渡せる開放的な空間が広がっている。
「お待ちしてました。
傘はあちらの傘立てに、コートは、ここに下げて下さいね。
どうぞ、土足で、お上がり下さい。」
えって、由宇は、固まってしまった。
外は雨だったのだ。
今は庇の下だが、かなり雨に降られて、靴は汚れていた。
「ああ、気がつかなくて、今、スリッパ、お持ちしますね。」
生成りの無地のスリッパが、出された。
「すみません。
使わせて頂きます。」
ペコリと頭を下げて、靴からスリッパに、履き替えた。
「これを、引いて、どうぞ。」
差し出された新聞紙の上に、靴を並べた。
ようやく、用事が済ませられる。
名刺を交換して、挨拶がすんだ。
モスグリーンのワンピースの女性は、佐藤諒子と、名刺に書いてあった。
紙筒は、玄関前でビニールから、出しておいたので、そのまま、先方に渡せた。
「中を確かめますから、こちらに腰掛けていて下さいね。」
無骨な感じの木のベンチに、長座布団が、ひかれている。
その端に、由宇は、チョコンと腰掛けた。
「どうぞ、少し時間がかかりますから、待って下さいね。」
奥から出てきた白のシャツとベージュの長いスカートの女性が、珈琲を由宇の前のテーブルに、置いてくれた。
「珈琲で、よいですか。
苦手なら、緑茶もありますけど。」
「ありがとうございます。
頂きます。」
雨で冷えた身体に、珈琲が嬉しい。
人心地ついてから、由宇は、部屋の中を見ていた。
ガラスの天板に、キラキラしたちいさな家が立っている。
家も木もガラス板で、薄く小さく緻密だった。
白いシャツの女性は、河島奈美さんといい、マグカップに、自分の珈琲を入れて、前の椅子に座った。
「初めての方ですよね。」
「はい、そうです。
ここは、ガラス工房なんですね。」
「そうなんです。
ほら、吹きガラスじゃありませんから。
おかげで、涼しく作業してます。」
「あの、作品、見ても、良いですか。」
「どうぞ、触らないで下さいね。
かなり薄いガラス板なんです。」
ガラスのテーブルの上のガラスの天板に、薄いガラスの街並みが並んでいる。
「ここからみてください、ホラ、わかります。」
かがんで、天板の高さに目線を持っていくと、家並みに色が浮かんだ。
「きれい、薄い青や緑に見えます。」
「そうでしょう。
重なりから色彩が産まれるんです。
これは、貴女の会社のポスターに使ったものなんですよ。」
目線を変えると、色は生きてる様に変化して行く。
重なりの多い場所との違いがわかる。
板ガラスは、何枚も同じ型を重ねて、色と命を生み出していた。
「1枚、1枚には、色なんてなんですよ。
瓶のぞきの青って、知ってますか。
ペールアクアって、呼ばれる色です。
水を張った瓶にひと筋浮かぶ青のことなんですが、ここの作品はガラスでそれを生むのです。
1枚のガラス板が10枚で青を生み、その倍で緑を宿らしてるのが、わかります。」
由宇は、頷きながら、ジッとガラス板の町並みを見ていた。
冷たいガラス板が、色を産んでいる。
「まあ、奈美さんたら、ガラス信者を増やしてるの。
キリがないでしょう。
空の青を捕まえる様な物なんですもの。」
いつの間にか、諒子さんが、背後に立っていた。
「すみません、見とれちゃって、私。」
3人は、それぞれ元の場所に戻り、腰を下ろした。
社のポスターも、素敵なアングルで、ガラスの街を使っていた。
由宇は、私ならどう撮るかな、と、考えていた。
奈美さんが、暖かい緑茶を入れてくれた。
「とても良い写真ですから、問題なくお使いください、と、お伝えください。
良い、作品に成りました。」
「ありがとうございます。」
由宇も、これを社のイメージとして使うことが嬉しい。
「ガラスを扱うので、土足なんですよ。
作品を作ってる最中は、キラキラした物がそこらに落ちてるんです。
さあ、雨も止んだ様ですわ。
お気をつけつけて、おかえり下さい。」
由宇はお礼を言い、コートと傘を持ち、靴を履いて、丸太の家をあとにした。
下って行く道の途中で、自分の家が見えた。
真っ直ぐには、道はつながっていない。
紫陽花の咲く公園を回って、歩く。
紫陽花の雨を含んだ花弁の重なりのひとつひとつを見てるうちに、いつものバス通りにでた。
そのからバス停二つ分歩けば、家だ。
バス停に映る夕陽の色が、影とコントラストを出している。
由宇は、あの街並みがてっきり、パソコンで作られた物だとおもっていた。
目線を動かすと、あの町並みは、色を変え、型を変える。
あの薄さ小ささが、不思議な色を生み出し、街に命を与えているのを、感じた。
由宇の中で、ガラスの街並みが輝きだしていた。
翌年、中森由宇は、あのポスターを撮ったカメラマンのいる、写真スタジオの助手になっていた。
写真の世界で、生きがいを見つけたのだ。
あの事務仕事に嫌気がさしていた姉も、今はカフェで働いていて、生き生きしていた。
ランチの食べ歩きでつちかった舌で、野菜たっぷりのパフェなんか、作っている。
由宇の作品は、まだまだ世には、出ていないが、いつかあのガラスの街並みを撮りたいと、思っていた。
由宇の部屋には、あの日のポスターが、貼ってある。
青と緑と透明なグラデーションを重ねて作られた町並みが、優しく描かれている。
ほんの僅かな青に、あの日、命と生きがいを見つけたのだった。
今は、ここまで。




