第九話
リビングへ入ると、朝の光が窓から差し込んでいた。台所の方からは、朝食の支度をしているらしいマリアの物音が聞こえてくる。
ライナは冷蔵棚からミルクでも出そうとして、ふと手を止めた。
何かがある。
いつも綺麗に整えられているはずのテーブルの上に、そこにあるべきではないものが置かれていた。
封筒だった。
ただの封筒。けれど、その紙質も、大きさも、角張った形も、嫌になるほど見覚えがある。
学院の書類が入っている時の封筒だ。
それを認識した瞬間、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
実家に帰ってきたのは、少し休みたかったからだ。考えなくていい場所にいたかったからだ。学院のことも、自分がうまくいかなかったことも、何もできなかった自分のことも、全部少しだけ遠ざけたかった。
なのに、どうして忘れたくても忘れられないものは、こうして何度でも目の前に現れるのか。
「……はあ」
思わず小さく息が漏れる。
嫌なものを見つけてしまった時の、あのうんざりする感じがじわじわ広がっていく。
それでも、ライナはその封筒へ手を伸ばした。
「おはよう、ライナ」
背後から静かな声がして、ライナははっと振り返る。
ロイが、書斎の方から出てきたところだった。
「……おはよう、父さん」
ロイは穏やかな目でライナとテーブルの上の封筒を見た。そして、ほんの少しだけ間を置いてから言う。
「気づいたか」
「嫌でもな」
自分でも思った以上に棘のある声が出た。だが、ロイは咎めることなくただ静かに立っている。
「学院は嫌いか?」
その問いに、ライナは答えられなかった。
嫌いだ、と言ってしまえば簡単なのかもしれない。そう言えばきっと、父も母もその言葉をひとつの答えとして受け取るだろう。戻らない道だって、そのまま本当にできてしまうのかもしれない。
けれど、それを口にすることがなぜかできなかった。
嫌な思い出ばかりだ。うまくいかなかったことばかりだ。なのに、「嫌いだ」と断じてしまうのも違う気がした。
いや、違うというより――そう言った瞬間に、何かが本当に決まってしまうのが怖いのかもしれなかった。
沈黙だけが落ちる。
ロイはそれ以上追及せず、封筒に視線をやった。
「それを持って、ついてきなさい」
「……え」
「少し話そう」
言い方は穏やかだったが、拒みにくい静かな強さがあった。
ライナは迷った末、封筒を手に取った。




