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霹靂の魔法使い  作者: 雄丸田
プロローグ

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3/12

第三話

 扉を開けた瞬間、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。


「ライナ……っ」


 そう声を上げた次の瞬間には、もう抱きしめられていた。


 強く、それでいて優しい腕だった。細いように見えるのに、不思議としっかりとした温もりがある。勢いよく飛びつかれたことにライナは一瞬だけ目を丸くしたが、胸元に顔をうずめるようにして抱きしめられているうちに、張りつめていたものが少しずつほどけていくのを感じた。


「おかえりなさい、ライナ」


 母、マリアの声は、思わず泣きたくなるほど柔らかかった。


「……ただいま、母さん」


 自分でも驚くほど、素直にその言葉が出た。


 家の奥から、穏やかな男の声が響く。


「おかえり、ライナ」


 顔を上げると、居間の奥にロイが立っていた。大きな体を無理に誇示することもなく、けれどそこにいるだけで場を落ち着かせるような空気を持っている。その表情は静かで、目元にはいつものように優しさがあった。


「父さん……ただいま」


「ああ」


 短い返事だったが、それだけで十分だった。


 その穏やかな顔を見た途端、ライナは胸の奥に抱えていた言葉を思い出した。帰ってきたら話さなければならないことがある。学院でのこと、自分がどれほど情けない状態だったか。きちんと自分の口で話すべきだと思っていた。


「父さん、俺……話が――」


 言いかけたところで、不意に腹の虫が盛大に鳴いた。


 沈黙が落ちる。


 次いで、マリアがふふっと吹き出した。


「もう、ライナったら。話はあとでもいいでしょう? 晩ごはん、ちゃんと用意してあるのよ」


 恥ずかしさに耳まで熱くなる。ライナは目を逸らし、ロイはわずかに口元を緩めた。


「まずは食べよう。長旅のあとだ」


「……うん」


 そう答えた時には、さっきまでの張りつめた覚悟も少しだけ肩透かしを食らっていた。


 けれど、それでよかったのかもしれない。


    ◇


 一年以上ぶりに囲む家の食卓は、驚くほど賑やかだった。


 焼きたてのパンの香り。煮込みの湯気。木の皿が触れ合う小さな音。学院の食堂では味わえない、慣れ親しんだ匂いと空気がそこにはあった。


「これ、母さんのシチュー……」


「そうよ。あなた、昔から好きだったでしょう?」


「……うん」


 ひと口食べた途端、じんわりと身体の奥まで温かさが染みていった。懐かしい味だった。口に入れた瞬間に、昔の記憶まで一緒に戻ってくるような味だ。


 マリアはあれこれと皿を勧め、ロイは穏やかにそれを見ている。どちらも重い話には触れなかった。けれど、その沈黙は避けているというより、今はただ帰ってきたことを喜ぼうとしてくれているように思えた。


 学院では、食事の時間さえ気が休まらないことがあった。誰が何を言うわけではなくとも、視線があるだけで喉が詰まることもあった。けれど今は違う。パンをちぎる音も、マリアの笑い声も、ロイドがときおり挟む相槌も、どれもが当たり前のようでいて、ひどく愛おしかった。


「そうだ、明日は市場に行くの。ライナも一緒にどう?」


 マリアが明るく言う。


「市場?」


「ええ。あなたが帰ってきたんだもの、少しはいい物も買いたいじゃない」


「そんな、大げさだよ」


「大げさじゃありません」


 きっぱり言い切られて、ライナは思わず笑ってしまう。


「……じゃあ、行く」


「よかった」


 嬉しそうに頷くマリアを見ていると、胸の奥の重たいものがほんの少しだけ薄くなる気がした。学院でのことも、今この時間だけは遠いところへ押しやられていた。


 食事が終わる頃には、ライナは自分がどれほど緊張して帰ってきたのかさえ忘れかけていた。


 マリアが食器を片づけ始めると、ロイが静かに立ち上がる。


「ライナ。少し、書斎へ来なさい」


 その声音は穏やかなままだった。


 けれど、今度こそ逃げられないのだとわかる。


「……うん」


 ライナも立ち上がり、ロイのあとに続いた。


    ◇


 書斎の空気は、昔と何も変わっていなかった。


 壁一面の本棚。紙と革の匂い。机の上に整然と並んだ書類と道具。窓のそばに置かれたランプの明かりが、落ち着いた橙色で部屋を照らしている。


 ロイが椅子に腰かけ、向かいを示した。


「座りなさい」


 ライナは言われた通り腰を下ろした。


 沈黙が落ちる。


 話さなければ、と思う。自分の口で。ちゃんと。そう決めていたはずだった。けれど、いざロイの前に座ると、喉の奥がひどく狭くなったように感じた。


「父さん、俺……その……」


 最初の一言が出ない。


 何から話せばいいのかわからなかった。どれだけ情けなかったか、どこまで言えばいいのか。考えれば考えるほど、言葉は絡まっていく。


「俺、あの……」


 そこで、ロイが静かに言った。


「全部聞いているよ」


 ライナは顔を上げた。


「え……」


 ロイは少しだけ間を置いてから、穏やかな声で続けた。


「辛かったか?」


 責めるような響きは少しもなかった。ただ、ライナの胸の内だけを確かめるような問いだった。


 ライナは何も言えなかった。


 全部知っている。その一言だけで、胸の中に押し込めていたものが少し揺れる。自分が隠していたつもりのことも、取り繕おうとしていたことも、ロイにはもう届いていたのかもしれない。驚きと戸惑いと、ほんの少しの安堵が入り混じって、うまく息ができなかった。


 ロイは、ライナをまっすぐ見た。


「だから、不安にならなくていい」


 その言葉に、ライナの指先がわずかに震えた。


「私は、お前を信じているから」


 それがどういう意味なのか、ライナにはわからなかった。


 こんな自分の何を信じられるのか。何もできなかった自分に、まだ何かあるというのか。その真意は読み切れない。それでも――その言葉が、胸のどこか深いところに静かに届いた。


 責められると思っていたわけではない。けれど、きっとどこかで、失望されるのではないかと恐れていた。


 なのにロイは、責めることも失望することもなく、信じていると言った。


 ライナはぐっと唇を引き結んだ。そうしないと、今にも声が揺れそうだった。じわりと目の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲む。


「……うん」


 やっとのことで返した声は、かすかに掠れていた。


 ロイはそれ以上、無理に励まそうとはしなかった。ただ穏やかな目でライナを見ていた。その静けさが、かえってありがたかった。


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