第二話
目を覚ました時、ライナの胸には何の感情も残っていなかった。
驚きもない。恐れもない。今さらあの夢に何かを揺さぶられることなど、もうないのだろう。何万回も見てきた。幼い頃から、ずっと。なぜあんな夢を見るのか考えたこともあるし、誰かに相談したこともある。けれど、答えは一つも見つからなかった。
だからもう、考えることすらしなくなっていた。
ただ、疲れる。
それだけだった。
寝台から起き上がると、寝間着が肌に張りついて気持ち悪い。額から首筋、背中にかけて汗がびっしょりと滲んでいた。これもいつものことだ。夢の内容より、起きた後のこの消耗のほうがよほど現実味がある。
ライナは小さく息を吐き、そのままシャワー室へ向かった。
ぬるい水を浴びながら、ぼんやりと壁を見つめる。今日から故郷へ帰る。学年末。留年が決まり、学院に残る理由もなくなった。胸の奥に重く沈んだものは、夢のせいではないのだろう。
身支度を終えて部屋に戻ると、小さな包みが机の上に置かれていた。見覚えのある包み紙に、ライナはほんのわずかだけ目を細める。
イワ屋さんのパンだ。
学院のすぐ近くにある、小さなパン屋。姉が気を利かせて配送で届けてくれたのだろう。封を開けると、ふわりと香ばしく優しい匂いが広がった。何度食べても飽きない、好きな味だ。
「……姉さんらしいな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、一つ手に取る。
柔らかい生地を噛みしめると、少しだけ肩の力が抜けた。自分の好きなものを、きっと当たり前みたいに覚えていてくれる。そのことが、ありがたくて、少しだけ苦しい。
朝食を食べ終えて、荷物をまとめる。そうして部屋を出る時、ライナはいつも通り正面には向かわなかった。
寮の裏口を使い、さらに学院へ向かう時も正門ではなく、裏手の壊れたフェンスの穴を抜ける。
そうしなければならない理由は単純だった。
視線があるからだ。
落ちこぼれ。留年生。できそこない。
わざわざ口にされなくても、向けられる目だけで十分にわかる。正面から歩けば、それだけ多くの視線を浴びることになる。だから人の少ない道を選ぶのは、もう習慣になっていた。
フードを深く被ったまま、ライナは石畳の道を進んだ。
やがて見えてくるのは、街の中でもひときわ大きな石造りの建物だった。高い塀に囲まれたその場所には、いくつもの棟が整然と並んでいる。ホーク学院。魔導科のほかに騎士科や呪術科など、さまざまな学科を抱える大きな学院だ。貴族や軍の出身者が多く、平民の姿はそう多くない。
校舎へ入る。二階のいちばん手前が職員室だ。扉の前まで来たところで、中から生徒が一人出てきた。
シアンだった。
目が合った瞬間、相手の口元がわずかに歪む。露骨な嘲笑だった。
「……なんだ、名家の落ちこぼれか」
ライナは何も言わなかった。ただわずかに身を引き、道を空ける。
シアンはその態度に小さく舌打ちをした。
「別に。通るだけだ」
吐き捨てるように言って、ライナの肩を避けるようにして横を通り過ぎていく。
それだけだった。
ライナは少しだけ唇を結び、シアンの背が角を曲がって見えなくなるのを待ってから、職員室の扉を開けた。
中では教師たちが慌ただしく動き回っていた。学年末らしい騒がしさだ。その中で、自分の担任であるアンナは山積みの書類に目を通していたが、ライナに気づくとすぐに手を止め、椅子を引いて向き直った。
「ライナ君」
その声には、いつだって少しだけ柔らかさがあった。
「おはようございます、先生」
「おはよう。体調はどう? ちゃんと眠れてる?」
眠れているか、と聞かれて、ライナは少しだけ困ったように笑った。毎晩あの夢を見るとは言わない。言ったところで、どうにもならないことを知っているからだ。
「大丈夫です。問題ありません」
「本当に?」
「はい」
アンナはすぐには頷かなかった。だが、それ以上は踏み込まない。踏み込めない、という方が正しいのかもしれない。
「……そう。何か心配事があったら、いつでも相談してね」
「ありがとうございます」
心配事なら山のようにあった。
留年したこと。周りの視線。故郷に帰ること。家族に会うこと。これから先のこと。考えれば考えるほど、胸の内には黒いものが積もっていく。
けれど、そのどれもを言葉にはしなかった。
言葉にしたところで、軽くなる気がしなかったからだ。
アンナは書類を脇へ寄せてから、改めて口を開いた。
「今日から故郷に戻るのよね」
「はい」
「そう……」
アンナはライナの顔を見つめ、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あまり落ち込みすぎないで。自分を責めすぎる必要もないわ」
慰めの言葉なのだとわかっていた。心配してくれているのもわかっていた。けれど、その言葉が素直に胸へ落ちるほど、今のライナは器用ではない。
「……ありがとうございます」
それでも礼を言うと、アンナは小さく微笑んだ。どこか安心させるような笑みだったが、ライナはその優しさに甘えきれなかった。
必要なやり取りを終え、ライナは職員室を出た。
寮へ戻り、荷物を持って、いよいよ学院を離れる。もう見慣れたはずの廊下も、石造りの階段も、中庭の景色も、今日はどこかよそよそしく見えた。
寮の玄関を出ようとしたところで、不意に声が飛んできた。
「こそこそするな、ライナ」
振り返ると、寮長のデレナが腕を組んで立っていた。
堂々とした長身の女で、その目つきは鋭い。初めて会った生徒なら怯むだろうが、ライナはもう慣れていた。
「……デレナさん」
「また裏から出ようとしていただろう」
図星を突かれ、ライナは曖昧に笑った。
「別に、そういうわけじゃ……」
「嘘をつけ」
ぴしゃりと言い切られて、言葉が止まる。
デレナは一歩近づくと、真っ直ぐにライナを見た。
「お前はもっと堂々としていればいい。胸を張れ。お前はそんなに弱いやつじゃない」
またその言葉だった。
ライナは曖昧に笑うしかなかった。それが励ましだということも、デレナなりの気遣いだということもわかっている。けれど、だからといって、はいそうしますと変われるほど簡単ではない。
「……ありがとうございます」
結局、返せたのはそれだけだった。苦笑いすら、いつものことだ。
デレナはそれ以上無理に何かを言わせようとはしなかった。ふっと息を吐いてから、肩をすくめる。
「まあいい。気をつけて帰れ」
「はい」
「それと――」
デレナはほんの少しだけ口元を緩めた。
「また来い。次はもう少し、ましな顔でな」
ライナは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「善処します」
そんな軽口を返せたことに、自分でも少し驚いた。
寮を離れ、荷車に揺られて学院のある街を後にする。故郷セインまでは一週間ほどかかる長旅だ。
車輪が土を軋ませる音を聞きながら、ライナは何度も外を眺めた。見慣れない街並みが消え、緩やかな丘を越え、野を抜け、森の脇を通り過ぎていく。時間だけがゆっくりと流れていった。
その道中で、ライナは何度も故郷のことを思い出した。
小さな頃、家の前で走り回ったこと。窓から差し込む夕方の光。食卓を囲んだ時間。誰かの笑い声。焼きたてのパンや煮込みの匂い。特別なことではない、ごくありふれた記憶ばかりが、妙にはっきりと胸に浮かんだ。
同時に、父のことも思い出した。
自分を責めるなとは言わなかったくせに、何も責めもしなかった人。あの静かな見送りが、かえって胸に残っている。
自分は結局、何一つ期待に応えられなかったのではないか。
そんな思いが、旅のあいだ何度も胸を掠めた。
それでも、故郷へ帰ること自体は嫌ではなかった。申し訳なさはある。気まずさだってある。けれど、それ以上に、あの家へ帰ることをどこかで楽しみにしている自分がいた。
そうして幾日もの旅を越えた先、ようやくセインの町が見えてきた。
懐かしい景色だった。
町の外れに建つ二階建ての木の家は、夜になっても暖かな光に包まれている。窓から漏れる橙色の明かりは、遠目に見ただけで胸の奥をじんわりと温めた。
ライナは荷車を降り、しばらくその家を見上げていた。見慣れたはずの明かりが、妙に胸に沁みた。
荷物を持ち直し、玄関へ向かう。一歩一歩、足が重いような、けれど勝手に急いているような、不思議な感覚だった。
扉の前に立つ。
ひとつ息を吸って、ライナは戸を開けた。
「ただいま」




