第十話
書斎には紙とインクの匂いが満ちていた。見慣れた本棚、整えられた机、窓から差し込む柔らかな光。落ち着くはずのその部屋で、ライナはどこか居心地の悪さを感じていた。
ロイは椅子に腰かけ、向かいの席を示した。
「座りなさい」
ライナは素直に従った。手の中の封筒だけが妙に重い。
少しの沈黙のあと、ロイが口を開いた。
「私が、お前に学院を勧めた理由を覚えているかい」
「……才能があるかもしれないから、だろ」
「そうだ」
ロイは頷いた。
「だが、それだけじゃない」
ライナは顔を上げる。
「ライナ。お前は昔から、簡単に諦める子ではなかった。転んでも悔しがって、また立っていた。誰かが困っていれば放っておけないし、自分で決めたことには不器用なくらい真っ直ぐだった」
そんなふうに言われて、ライナは居心地悪そうに視線を逸らした。
「買いかぶりすぎだよ」
「そうは思わない」
ロイの声はやわらかい。それでも、不思議と逃げられない声音だった。
「私は、お前の可能性を信じている。だから学院を勧めた」
可能性。
その言葉が、今のライナには少し苦かった。
「……でも、何もできなかった」
気づけば、言葉が零れていた。
「頑張ったつもりだった。ちゃんとやろうって思ってた。けど、全然駄目で……周りはできるのに、俺だけできなくて。落ちこぼれみたいになって」
喉の奥が詰まる。
ロイは静かに頷いた。
「全部、吐き出してみなさい」
「……別に、そんな」
「いいから」
優しく促される。それがかえって、堪えていたものを揺らした。
ライナはぎゅっと封筒を握りしめた。
「俺、あそこにいると、自分がどんどん嫌になるんだよ」
声が少し震えた。
「周りはすごい奴ばっかりで、当たり前みたいにできることが、俺にはできない。フェリックスだって名前を見ただけで、勝手に期待されるし……それで何もできなかったら、余計に惨めで」
止まらなくなる。
「できないのが嫌なんじゃない。できない自分を、みんなに見られるのが嫌なんだ。見られて、比べられて、がっかりされて……そういうのが、嫌で」
視界が少し滲んだ。
「頑張っても駄目で、何をしても足りなくて……だったら最初から期待なんてされない方が楽だって、何回も思った」
俯く。ぽたりと、膝の上に小さな雫が落ちた。
情けない。こんなふうに吐き出したかったわけじゃないのに。
「俺……ほんとは、悔しかった」
絞り出すように言う。
「悔しいのに、どうにもならなくて。だから、嫌だった。あそこにいると、自分が空っぽみたいに思えて……」
そこでようやく言葉が途切れた。胸の奥から無理やり引きずり出したものが、一気に身体を重くする。
ライナは顔を伏せたまま、さらに肩を縮めた。
しばらくして、ロイが静かに口を開いた。
「フェリックスという名は、確かに重い」
ライナはぴくりと肩を揺らす。
「それだけで、お前を見ようとする者もいるだろう。お前自身ではなく、名に期待する者もいる」
ロイの声は穏やかだった。
「だが、ライナ。お前はその重さに潰れるだけの人間じゃない」
ライナはゆっくりと顔を上げた。涙で滲む視界の向こうで、ロイはやわらかく微笑んでいた。
「お前には、それを乗り越えられる力がある」
「……そんなの、ない」
不貞腐れた子どものような声が出た。
「俺に、そんな力あるわけないだろ」
「あるさ」
迷いのない返答だった。
ロイはまっすぐにライナを見る。
「ライナ。私は、お前を信じているよ」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
慰めではない。励ましとも少し違う。ただ、そこにある真っ直ぐな信頼だった。
だからこそ、熱かった。
自分でも触れられずにいた心の奥へ、まっすぐ届いてしまうくらいに。
ライナは涙の残る目で、ロイを見つめ返した。
何かを言おうとして、結局言葉にならない。
ロイは立ち上がり、軽く肩を叩いた。
「さあ、そろそろ昼時だ。母さんとテアが待っている」
その声音は、もういつもの父親のものに戻っていた。
「続きは、また必要になった時に話せばいい」
ライナは小さく頷いた。




