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声なき歌姫と呪われし公爵〜婚約破棄された私を拾ったのは、人の心が読める冷徹公爵様でした〜

作者: 九葉

きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射している。

王宮の夜会は、着飾った貴族たちの虚栄心と欲望でむせ返るようだった。


そんな喧騒の中心で、わたくし、リディア・フォン・クラウゼルは、たった一人、断罪の嵐に晒されていた。


「リディア! この場で貴様との婚約を破棄する!」


金糸銀糸で彩られた豪奢な刺繍の向こう側で、わたくしの婚約者――この国の第一王子であるイーサン殿下が、高らかにそう宣言した。

その隣には、潤んだ瞳で殿下を見上げる男爵令嬢、ソフィア様が庇護欲をそそるように寄り添っている。


(あぁ、やっぱり。知ってた)


わたくしは声を発することなく、ただ静かに目の前の茶番劇を見つめていた。

表情筋を完璧に固定し、貴族令嬢として叩き込まれた無表情の仮面を貼り付ける。


けれど、心の中は別だ。


(知ってた、知ってたけど! まさか国王陛下主催の夜会で、こんな衆人環視の中でやらかしてくれるとは! 殿下の頭の中は、お花畑か何かでいらっしゃいますの!?)


イーサン殿下は、満足げにソフィア様の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように続けた。


「もはや貴様は、我が国の至宝ではない! “声なき歌姫”など、次期国王の妃としてふさわしくないのだ!」


“声なき歌姫”。

それが、今のわたくしを指す言葉。


かつて、わたくしの歌声は「女神の奇跡」とまで謳われた。

けれど、三年前のある事件を境に、わたくしはこの美しい声を失った。

歌うことはおろか、日常の会話さえもできなくなったのだ。


周囲から聞こえてくるのは、あからさまな嘲笑と、ねっとりとした同情の囁き。


「まぁ、クラウゼル侯爵令嬢が…」

「歌えなくなっては、もはや何の価値もございませんものね」

「それに比べて、ソフィア様の可憐なこと…」


(聞こえていますわよ、皆様。えぇ、存じ上げております。今のわたくしに価値などないことくらい。ですが、せめてもう少し隠す努力をしていただけませんこと?)


心の中で毒づきながら、わたくしはイーサン殿下の隣に立つソフィア様を観察する。

レースの扇で口元を隠し、眉を下げて困ったようにこちらを見ている。


(うわぁ、完璧な“悪役にいじめられる可憐なヒロイン”ムーブ。あの扇の陰で、きっとほくそ笑んでいるのでしょうね。わたくしにはお見通しですわ)


イーサン殿下は、そんなソフィア様の姿に完全に心を奪われているご様子。


「ソフィアこそ、私の心を癒やしてくれる唯一の天使だ。リディア、お前のような欠陥品とは違う!」


(欠陥品! よくもまぁ、十年間も婚約者だった相手に言えたものですわね。あなたの頭の中身の方がよっぽど欠陥品だと思いますけど!)


怒りを通り越して、もはや呆れてしまう。

そもそも、わたくしが声を失った原因の一端は、殿下、あなたにあるというのに。

三年前、魔物に襲われたソフィア様を庇って崖から落ちたわたくしを、あなたは助けにも来ず、彼女を抱きしめて震えていただけではありませんか。


それを今さら蒸し返したところで、意味はない。

声の出ないわたくしに、弁明の機会など与えられていないのだから。


わたくしは無言で、ただカーテシーをしようとした。

婚約破棄、謹んでお受けいたします、と。

これ以上、醜態を晒すのはごめんだ。さっさとこの場から立ち去りたい。


しかし、イーサン殿下はそれを許さなかった。


「待て! まだ話は終わっていない! 貴様はソフィアに嫉妬し、夜会で彼女のドレスを汚すという暴挙に出た! その罪、万死に値する!」


(はぁ!?)


思わず、心の声が裏返る。

ソフィア様が着ている純白のドレスの裾には、確かにワインの染みがついていた。

けれど、それは彼女自身が、先ほどわたくしとすれ違いざまにわざとぶつかってきて、自分でワインをこぼしたものではないか。


(濡れ衣もいいところですわ! というか、ドレスの染みくらいで万死!? あなたの国の法律はどうなっているんですの!?)


ソフィア様は、わたくしの方を見て、ふるふるとか弱く首を振る。


「殿下、おやめくださいまし…。リディア様も、きっとわざとでは…」


(どの口がそれを言うか、この白々しい大根役者め!)


イーサン殿下は、そんな彼女の言葉でさらにヒートアップしたらしい。


「黙れ! リディア! 潔く罪を認め、この場から去るがいい! 二度と私の前にその忌々しい顔を見せるな!」


わたくしは、ぐっと拳を握りしめた。

侮辱には慣れている。嘲笑にも耐えられる。

けれど、父であるクラウゼル侯爵が、すぐ近くの輪の中で、助け舟一つ出さずに冷たい目で見ているのを見た時、さすがに心が軋む音がした。


(お父様まで…。えぇ、えぇ、わかっておりますわ。クラウゼル家にとって、歌えないわたくしはもう用済みですものね)


四面楚歌。孤立無援。

誰もわたくしの味方はいない。

誰もわたくしの真実の声を聞いてはくれない。


涙が滲みそうになるのを、必死にこらえる。

ここで泣いたら、本当に負けだ。

わたくしは、クラウゼル家の誇りを失ったわけではない。


ゆっくりと踵を返し、この屈辱的な場所から去ろうとした、その時だった。


「――待たれよ」


低く、静かで、それでいて有無を言わさぬ威圧感を秘めた声が、会場のざわめきを切り裂いた。


人々が一斉に声の主へと振り返る。

その視線の先に立っていたのは、一人の男性だった。


夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、凍てつく冬の湖面を思わせる銀灰色の瞳。

寸分の隙もなく着こなされた漆黒の軍服は、彼の怜悧な美貌をさらに際立たせている。


アシュレイ・ヴァルキュール公爵。


王家に連なる血筋でありながら、誰とも馴れ合わず、常に人を寄せ付けないオーラを放つ孤高の存在。

そのあまりの冷徹さと、彼に関わった者が次々と不幸に見舞われるという噂から、「呪われし公爵」と陰で呼ばれている人物だ。


彼が、なぜここに?


アシュレイ公爵は、誰にも目をくれず、ただまっすぐにわたくしだけを見つめていた。

まるで、すべてを見透かすような、深い、深い瞳で。


イーサン殿下が、不快げに眉をひそめる。

「これは、ヴァルキュール公爵。いったい何用かな? これは私とリディアの問題だ」


「元、リディア嬢の問題だろう、殿下」


アシュレイ公爵は、表情一つ変えずに言い放った。

その言葉には、ピシャリと相手を黙らせる冷たい響きがあった。


「先ほどの婚約破棄宣言、この場にいた者すべてが聞き届けた。よって、彼女はもはや殿下の婚約者ではない」


「それがどうしたと言うのだ!」


「ならば、問題ないはずだ」


アシュレイ公爵は、ゆっくりと歩みを進め、わたくしの隣に立った。

そして、わたくしに向かって、そっと手を差し伸べる。

骨張った、美しい手だった。


会場中の誰もが息を呑んで、その光景を見守っている。


わたくしも、何が起きているのか理解できず、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。


すると、アシュレイ公爵は、イーサン殿下と、その隣で呆然とするソフィア様を一瞥し、こう言ったのだ。


「殿下がご不要というのなら、彼女は私がいただこう」


その声は、夜会の喧騒を完全に支配した。

わたくしの心の声さえも、その瞬間、ぴたりと静まり返っていた。



夜会の喧騒を置き去りにして、ヴァルキュール公爵家の紋章が刻まれた馬車は、静かに夜の王都を進んでいく。

カタン、カタン、と規則正しく響く車輪の音だけが、重厚な沈黙を支配していた。


わたくしの向かいに腰掛けているアシュレイ・ヴァルキュール公爵は、窓の外に広がる夜景に視線を向けたまま、一言も発しない。

その完璧な横顔は、まるで彫刻家が一分の隙もなく作り上げた芸術品のようだった。


(……いや、気まずい! 気まずすぎますわ!)


助けていただいたことには、もちろん感謝している。

あのままあの場所にいたら、わたくしの精神はズタズタに引き裂かれていたことだろう。

けれど、なぜ? どうしてこの方は、わたくしを助けてくださったの?


(「私がいただこう」って、どういう意味ですの!? まるで市場で野菜でも買うかのようなノリでしたけど!? わたくし、売られてませんわよ!?)


心の中で嵐のようなツッコミを繰り返していると、不意に、アシュレイ公爵がこちらに視線を向けた。

銀灰色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。


「……うるさい」


(えっ)


一瞬、思考が停止する。

わたくし、声なんて一言も発しておりませんけれど?


「心の声が、だ」


公爵は、まるでわたくしの疑問に答えるかのように、淡々と続けた。


(こ、心の声が、聞こえてる!?)


背筋が凍りつくとは、まさにこのこと。

顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。

先ほどまで脳内で繰り広げていた、殿下への罵詈雑言や公爵様への失礼なツッコミの数々が、すべてこの方に筒抜けだったということ……?


(終わった……。わたくしの貴族令嬢としての人生、完全に終わりましたわ……)


がっくりと項垂れるわたくしを見て、アシュレイ公爵は小さく溜息をついた。


「案ずるな。他の者にも聞こえているわけではない。それに……」


彼は少しだけ言葉を切り、夜の闇よりも深い瞳で、再びわたくしを見つめた。


「君の心の声は、不快ではない」


(……へ?)


不快ではない、とは?

むしろ、あれだけ騒がしく毒づいていたのだから、不快極まりないはずでは?


疑問符だらけのわたくしを乗せた馬車は、やがて壮麗な公爵邸の門をくぐった。

馬車を降りると、完璧な所作で執事が出迎えてくれたが、主人の突然の客人に驚いた様子は見せなかった。プロフェッショナルである。


通されたのは、暖炉の火がぱちぱちと音を立てる、落ち着いた雰囲気の客間だった。

勧められるままにソファに腰を下ろすと、目の前にアシュレイ公爵が座る。


「さて、リディア嬢。単刀直入に言おう」


公爵は、まるで重要な取引でも始めるかのように、真剣な眼差しで切り出した。


「私には呪いがかかっている。人の心の声が聞こえる、という呪いが」


それは、まことしやかに囁かれていた噂そのものだった。

けれど、本人の口から直接聞くと、その言葉の重みはまるで違う。


「聞こえるのは、悪意や欲望に満ちた声ばかりだ。常に濁流のような雑音が頭の中に流れ込んでくる。おかげで、私はもう何年も、人を信じるということを忘れていた」


彼の表情に、初めて深い疲労と苦悩の色が滲んだ気がした。

この美しい人は、ずっとそんな地獄の中で生きてきたというのだろうか。


「だが、君は違った」


銀灰色の瞳が、わたくしを捉える。


「夜会で君が、イーサン殿下に婚約を破棄された時だ。周囲の者たちの嘲笑や侮蔑、殿下の自己中心的な怒り、男爵令嬢の狡猾な優越感……。いつもの悍ましい不協和音が、私の頭を苛んでいた」


彼は一度目を伏せ、そして続けた。


「だがその中で、君の心の声だけが、まるで澄んだ音楽のように聞こえたんだ」


(おんがく……?)


「そうだ。驚き、呆れ、怒り、そして諦め。様々な感情が渦巻いているのに、不思議と淀みがない。むしろ、心地よい旋律のように、私の苦痛を和らげてくれた」


アシュレイ公爵は、そう言って、ふ、とほんのわずかに口元を緩めた。

それは、わたくしが今まで見たどんな宝石よりも、心を揺さぶる美しい微笑みだった。


「だから、助けた。いや……衝動的に、手に入れたくなった、と言うべきか。あの不協和音の中から、君という音楽を」


(……わたくし、楽器か何かにジョブチェンジいたしましたの!?)


あまりに詩的で、突拍子もない告白に、心のツッコミが追いつかない。

けれど、彼の言葉に嘘がないことだけは、なぜか分かった。

彼は、わたくしの家柄でも、かつての歌声でもなく、声なき心の声そのものに価値を見出してくれたのだ。

生まれて初めてのことだった。


わたくしが呆然としていると、公爵はテーブルの上に置かれていた美しい銀のトレイをこちらに差し出した。

その上には、上質な紙と、インクの入ったペンが用意されている。


「声が出せぬ君のために、これを用意させた。何か聞きたいこと、言いたいことがあれば、ここに書くといい」


その細やかな心遣いに、胸がじんと熱くなる。

わたくしは震える手でペンを取り、インクをつけた。


そして、紙の上に、流れるような文字を綴っていく。


『どうして、わたくしの心の声だけが、そのように聞こえるのでしょうか?』


公爵は、わたくしが書き終えるのを待って、静かに紙を覗き込んだ。


「分からん。だが、おそらく君の魂が、本来持つ響きなのだろう。君が歌っていたという“女神の奇跡”は、あるいはその魂の響きを声に乗せていただけなのかもしれない」


わたくしは、はっと顔を上げた。

そんなこと、考えたこともなかった。

声を失って、わたくしのすべては失われたのだと思っていたから。


『公爵様は、わたくしにどうして欲しいのですか?』


次の質問に、彼は少し考えるように黙り込んだ。

暖炉の火が、彼の端正な顔に陰影を落とす。


「……しばらく、この屋敷にいればいい。君の実家であるクラウゼル侯爵家には、私から話を通しておこう。もっとも、彼らが君をどう思っているかは、夜会での態度を見れば明らかだが」


その言葉は事実だった。

今頃、父は厄介払いができて清々しているかもしれない。


『ご迷惑では?』


「迷惑かどうかは、私が決めることだ」


彼はきっぱりと言い切った。

その揺るぎない態度が、心細かったわたくしの心を強く支えてくれる。


「君がここにいてくれるだけで、私の呪いは和らぐ。むしろ、礼を言うのは私のほうだ。君の“音楽”が、私に久しぶりの静寂をくれた」


静寂。

それは、声が出せないわたくしにとって、絶望の同義語だった。

けれど、この人にとっては、救いなのだ。


私たちは、なんてちぐはぐなのだろう。

一方は、声が出せない孤独を抱え、もう一方は、声が聞こえすぎる孤独に苛まれている。

正反対のようで、どこか似ているのかもしれない。


わたくしは、最後に一つだけ、ずっと気になっていたことを書いた。


『わたくしは、うるさくありませんでしたか? 心の中で、たくさん失礼なことを……』


これを書くのは、かなりの勇気が必要だった。

もし「あぁ、うるさかったぞ」なんて言われたら、穴を掘って埋まりたい気分だ。


アシュレイ公爵は、わたくしが書いた文章に目を落とし、初めて声を出して、小さく笑った。

それは夜の静寂に響く、低く心地よい音色だった。


「あぁ。なかなか賑やかで、楽しませてもらった」

「特に、イーサン殿下を『お花畑』と評したあたりは、見事だったな」


(〜〜〜〜っ!!!)


わたくしは顔から火が出るような羞恥で、両手で顔を覆った。

もうおしまいだ。この国で生きていけない。


そんなわたくしの様子を見て、アシュレイ公爵はさらに楽しそうに目を細めた。


「心配するな、リディア。私は、君のそういうところも、気に入っている」


その優しい声と、穏やかな銀灰色の瞳に見つめられて、わたくしの心臓が、トクン、と大きく跳ねた。


呪われた公爵と、声なき歌姫。

奇妙で、ちぐはぐな二人の、静かな夜が、こうして始まったのだった。




アシュレイ様の屋敷での日々は、まるで夢のように穏やかだった。

今までわたくしが過ごしてきた、息を潜めるような毎日とは何もかもが違う。


アシュレイ様は、わたくしの心の声が聞こえることを、もはや煩わしい呪いではなく、特別な絆のように感じてくれているようだった。


『今日の紅茶はアールグレイですね。良い香りです』


わたくしが筆談用の紙にそう書くより早く、アシュレイ様が「君の好きな茶葉だ」と言って微笑む。


『新しい楽譜が届きましたのね! ぜひ聴いてみたいです』


わたくしが心で思っただけで、アシュレイ様が「君のために取り寄せた」と、無愛想ながらも嬉しそうにピアノに向かう。


言葉はなくても、誰よりも深く心が通じ合っている。

そんな不思議で温かい関係が、凍てついていたわたくしの心を、ゆっくりと溶かしていった。


アシュレイ様の心の声は、わたくしには聞こえない。

けれど、時折わたくしを見つめる銀灰色の瞳が、隠しきれないほどの熱を帯びていることに、わたくしは気づいていた。

その優しい眼差しに、何度心臓が跳ね上がったか分からない。


このまま、時が止まってくれればいいのに。

そんな儚い願いを抱いてしまうほど、わたくしは満たされていた。


しかし、幸福というものは、いつだってそれを妬む者によって打ち砕かれる運命にあるらしい。


その報せは、ある晴れた日の午後、唐突にもたらされた。


「リディア・フォン・クラウゼル嬢に、王家より召喚命令が下されました」


アシュレイ様の執事が、苦渋に満ちた表情で告げる。

その内容は、あまりにも理不尽で、悪意に満ちたものだった。


「来る新月の日に開かれる公開審問会への出廷を命ずる、と。容疑は……三年前に発生した、ソフィア・ド・ブリル男爵令嬢への殺人未遂、および王太子殿下への反逆罪、でございます」


(……は?)


血の気が、すぅっと引いていく。

三年前の事件。わたくしが声を失った、あの崖での出来事。

ソフィア様を殺そうとした? わたくしが?


冗談ではない。

あれは、魔物に襲われたソフィア様を庇い、わたくしが崖から突き落とされた事件だ。

それを、こともあろうに、わたくしが加害者だと?


「……あの女狐め」


隣にいたアシュレイ様が、地を這うような低い声で呟いた。

その瞳には、今まで見たこともないような、燃え盛る怒りの炎が宿っていた。


「殿下を唆し、我々への当てつけのつもりか。くだらん嫉妬心で、ここまで人を貶めるとは」


アシュレイ様の心の声が聞こえる能力をもってすれば、誰が嘘をついているかなど、火を見るより明らかだろう。

しかし、彼の能力は、法廷での証拠にはなり得ない。


公開審問会。

それは、事実上の公開処刑の場だ。

王太子殿下の婚約者であるソフィア様が「被害者」として証言台に立てば、声を発することのできないわたくしに、勝ち目など万に一つもなかった。


クラウゼル侯爵家も、すでにソフィア様側に付き、わたくしを断罪する声明を発表していると聞いた。

もはや、わたくしは国と家族、その両方から見捨てられた罪人なのだ。


審問会までの数日間、アシュレイ様は手を尽くしてくれた。

夜も眠らずに書斎に籠もり、あらゆる法的手段、政治的圧力を駆使して、この茶番を止めさせようと動いてくれていた。

けれど、相手は次期国王であるイーサン殿下だ。彼に与する貴族たちの妨害は熾烈を極め、状況は一向に好転しなかった。


そして、運命の日は、やってきてしまった。


***


王宮の大広間は、異様な熱気に包まれていた。

わたくしは、被告人として、その中央にたった一人で立たされている。

四方から突き刺さるのは、好奇と侮蔑に満ちた視線、視線、視線。

三ヶ月前の夜会で受けた屈辱が、悪夢となって蘇る。


玉座には国王陛下、そしてその隣には、勝ち誇った顔のイーサン殿下と、悲劇のヒロインを完璧に演じきっているソフィア様が座っている。


「では、これより、リディア・フォン・クラウゼルの罪を問う審問会を始める!」


厳かな宣言と共に、ソフィア様が用意した偽りの証人たちが、次々と嘘の証言を並べ立てていく。


「私は見ました! リディア様がソフィア様の背中を押すのを!」

「以前からリディア様は、ソフィア様に嫉妬し、陰湿ないじめを繰り返しておりました!」


(嘘……! 嘘よ、そんなこと!)


心の中で叫んでも、わたくしの声は誰にも届かない。

喉が張り裂けそうなくらい、何かを叫びたいのに、ひゅう、と空気が漏れる音しかしない。

悔しさと無力感で、涙が滲む。


やめて。お願いだから、もうやめて。


わたくしは、傍聴席の最前列にいるアシュレイ様を見た。

彼は、握りしめた拳が白くなるほど力を込め、唇を噛み締めながら、ただじっとこちらを見つめていた。

その銀灰色の瞳が、痛いほどに歪んでいる。


(アシュレイ様……)


彼の心の声が聞こえた気がした。

『すまない』『私が不甲斐ないばかりに』『君を、守れなかった』

そんな、悲痛な叫びが。


違う。あなたは、悪くない。

わたくしこそ、ごめんなさい。

あなたを、こんな醜い争いに巻き込んでしまって。


すべての証言が終わると、ソフィア様が立ち上がり、涙ながらに訴え始めた。


「わたくし……もうリディア様を許したいのです。ですが、殿下の未来のため、この国の安寧のため、真実を明らかにしなければならないと……!」


(どの口が……! どの口がそれを言いますの!? この、世紀の大嘘つき!)


イーサン殿下が、満足げに頷き、立ち上がる。

いよいよ、判決が下されるのだ。


「リディア・フォン・クラウゼル! 貴様の罪は明らかである! よって、貴様から貴族の身分を剥奪し、終生、北の修道院へ幽閉することを命ず――」


その、断罪の言葉が言い渡されようとした、瞬間だった。


「待たれよ」


静かだが、鋼のような意志を宿した声が、広間に響き渡った。

アシュレイ様だった。

彼は、制止を振り切って前に進み出ると、わたくしの隣に立った。


「この審問は茶番だ。彼女は無実だ」


「公爵! 証拠でもあるのか!」

イーサン殿下が、嘲るように言い放つ。


「証拠なら、ここにある」

アシュレイ様は、わたくしの手を取り、その銀灰色の瞳で真っ直ぐにわたくしを見つめた。


「私が、彼女を信じている。彼女の魂の響きが、真実だと叫んでいる。それ以上に、確かな証拠がどこにある!」


その言葉は、雷のように、わたくしの心を撃ち抜いた。

涙が、堰を切ったように頬を伝う。


アシュレイ様……。

ああ、この人は、本当に。

わたくしの、心の声を聴いてくれている。

世界中の誰もがわたくしを嘘つきだと罵っても、この人だけは、わたくしの魂を信じてくれる。


それだけで、もう、十分だった。

たとえこの後、どんな罰が下されようとも。


でも。

もし、もしも、神様がいるのなら。

一度だけでいい。

もう一度だけ、わたくしに、声をください。


この人に、「ありがとう」と伝えたい。

この人のために、真実を歌いたい。


そう、強く、強く願った、その時だった。


喉の奥が、灼けるように熱くなった。

心の奥底で、何かが砕ける音がした。

そして――。


わたくしの唇から、光の粒子と共に、旋律が溢れ出した。


「―――ぁ……ぁあ……」


それは、言葉ではなかった。

三年間、ずっと忘れていた、歌。


わたくしの魂そのものが奏でる、聖なる調べ。


歌声は、大理石の広間に響き渡り、シャンデリアを震わせ、そこにいるすべての者の心に染み込んでいく。


すると、人々は見た。

歌声が見せる、幻を。三年前の、真実の光景を。


魔物に襲われ、恐怖に叫ぶソフィア様。

身を挺して彼女を庇い、魔物に立ち向かうわたくし。

崖から落ちそうになったわたくしの手を、ソフィア様が振り払い、突き落とす瞬間を。

そして、その一部始終を見ていながら、腰を抜かして震えているだけの、イーサン殿下の情けない姿を。


「あ……あ……いやぁあああああっ!」


真実を突きつけられたソフィア様が、金切り声を上げて耳を塞ぐ。


歌声の力は、それだけでは終わらない。

偽証を行った者たちの口が、意思とは関係なく、真実を語り始める。


「わ、私は、男爵令嬢に金で雇われて嘘を……!」

「申し訳ございません! すべて、ソフィア様の指示で……!」


次々と暴露される真実。

大広間は、阿鼻叫喚の渦に叩き込まれた。


嘲笑は、驚愕へ。

驚愕は、怒号へと変わる。

その矛先は、玉座の上で青ざめている、イーサン殿下とソフィア様に、真っ直ぐに向けられていた。


形勢は、完全に、逆転したのだ。


わたくしは、最後の音を紡ぎ終えると、糸が切れたように、ふらりと体を傾けた。

その体は、アシュレイ様の強い腕が、優しく、しかし力強く、抱きとめてくれた。


「……リディア」


耳元で、彼の安堵に震える声が聞こえる。

わたくしは、彼の胸に顔を埋め、三年ぶりに、自分の声で、言葉を紡いだ。


「……アシュレイ、様……」


それは、まだ掠れて、か細い声だったけれど。

確かに、わたくしの声だった。


わたくしの歌声が白日の下に晒した真実は、あまりにも衝撃的で、王宮を、ひいては国全体を揺るがす大スキャンダルとなった。


公開審問会は、史上最悪の茶番劇として幕を閉じた。

いや、幕を開けた、と言うべきか。

真の断罪の舞台の、幕が。


ソフィア・ド・ブリル男爵令嬢は、その場で衛兵に取り押さえられた。

わたくしの歌声が作り出した幻影と、偽証者たちの自白という動かぬ証拠を前に、彼女は狂ったように叫び続けたという。

「私が王太子妃になるのよ!」と。

結局、王家への反逆罪、殺人未遂、偽証罪、その他もろもろの罪状により、彼女は爵位を剥奪され、一家共々、国境の果ての鉱山へ送られることになった。

二度と、王都の土を踏むことはないだろう。


そして、元婚約者であるイーサン殿下。

彼は、三年前の事件の真相を知りながら隠蔽し、無実の婚約者を貶めようとしたその愚かさと非道さを、国王陛下から厳しく断罪された。

王太子位は剥奪。

代わりに、謹慎という名の元、領地の片隅にある離宮へと送られた。

彼が次期国王として返り咲く日は、永遠に来ない。


(自業自得、ですわね)


わたくしは、公爵邸のテラスで温かいハーブティーを飲みながら、数日前の出来事を静かに振り返っていた。

まさに、「ざまぁ」としか言いようのない結末。

胸がすくような思いがする一方で、彼らの愚かしさには、一抹の哀れみすら感じてしまう。


「何を考えている?」


背後から、低く優しい声がした。

振り向くと、そこにはアシュレイ様が立っていた。

その銀灰色の瞳は、春の陽光を浴びて、穏やかに輝いている。


「……少しだけ、昔のことを」


わたくしは、まだ少し掠れる声で、そう答えた。

声を取り戻してから、アシュレイ様とこうして直接言葉を交わせるのが、嬉しくて、少しだけくすぐったい。


「そうか」

彼は短く答えると、わたくしの隣に腰を下ろした。


「クラウゼル侯爵から、面会の申し込みが何度も来ている。どうする?」


父の名前に、わたくしの心は微かに揺れた。

手のひらを返したように、今さら父親面をしようとしているのだろう。

けれど、もう、わたくしの心は動かない。


「お断りいたします。わたくしにはもう、家族はおりませんから」


きっぱりと告げると、アシュレイ様は「そうか」とだけ言って、わたくしの髪を優しく撫でた。

その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように、慈しみに満ちている。


「君さえよければ、私が君の新しい家族になろう」


(……へ?)


あまりにさらりと言われた言葉に、思考が止まる。

新しい、家族?

それは、つまり、どういう……。


「リディア」


アシュレイ様が、まっすぐにわたくしを見つめる。

その真剣な眼差しに、心臓が大きく音を立てた。


「君の心の声は、今も私にとって、世界で一番美しい音楽だ。だが、今は、君自身の声で紡がれる言葉が、何よりも愛おしい」


彼は、わたくしの手を取り、その手の甲に、そっと唇を寄せた。


「私の呪いは、君と出会って、祝福に変わった。他人の悪意に満ちた声が聞こえても、君の清らかな声が、そのすべてを浄化してくれる」


「アシュレイ、様……」


「だから、リディア。これからの人生、私と共に歩んではくれないか。私の隣で、君の歌を、君の言葉を、私だけに聞かせてほしい。……君を、愛している」


それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、甘く、誠実な愛の告白だった。

心の声が聞こえる彼だからこそ、その言葉に一片の嘘もないことが、痛いほどに伝わってくる。


涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだった。


わたくしは、震える声で、けれど、はっきりと答えた。


「……はい。喜んで」

「わたくしも……アシュレイ様、あなたを、お慕いしております」


その瞬間、アシュレイ様の腕が、力強くわたくしを抱きしめた。

彼の胸に顔を埋めると、トクン、トクン、と、幸せな鼓動が伝わってくる。


***


後日。

「声なき歌姫」の奇跡の物語は、瞬く間に国中に広まった。

そして、その歌姫が、あの「呪われし公爵」と婚約したというニュースは、人々をさらに驚かせた。


私たちの婚儀は、王宮ではなく、ヴァルキュール公爵領にある、湖のほとりの古い教会で、ささやかに行われた。


純白のドレスを纏ったわたくしを見て、アシュレイ様は息を呑み、「……綺麗だ」と、心の声と寸分違わぬ言葉で囁いてくれた。


誓いの言葉と共に、指輪を交換する。

そして、誓いの口づけ。


唇が触れ合った瞬間、わたくしは感じた。

アシュレイ様の中から、長年彼を苦しめ続けた呪いの残滓が、すうっと消えていくのを。

そして、彼の満ち足りた、穏やかな心の声が、愛の歌のように、わたくしの魂に直接響いてきたのを。


――ありがとう、リディア。私の、唯一の光。


わたくしは、世界で一番幸せな笑顔で、夫となった人を見つめ返した。


呪われた公爵と、声なき歌姫。

二つの孤独な魂は、こうして一つに結ばれた。


これから先、私たちの前には、どんな未来が待っているだろう。

きっと、楽しいことばかりではないかもしれない。

けれど、二人でいれば、どんな困難も乗り越えていける。


彼の隣で、わたくしはこれからも歌い続けるだろう。

愛する人ただ一人のために。

私たちの未来を祝福する、幸せの歌を。


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