朽ちない約束 -寅次郎相合い傘-
函館のラーメン屋に入ったとき、私は心のどこかで「まさか」と思った。でも、それはいつもの気まぐれな期待だった。人生はそう簡単にドラマチックな再会なんて用意してくれない。大きな窓からは冷たい雨が見える。カウンター席で手を温めながらラーメンを啜る私にとって、この街はただの通過点に過ぎないはずだった。
「リリーさん…?」
声が聞こえた瞬間、スープの湯気が急に重くなった気がした。ゆっくりと振り返ると、そこには懐かしい顔があった。旅先で偶然再会することの不思議さに、心がざわめいた。
「寅さん!」
思わず声が上がる。変わらない笑顔と、少しだけ増えたシワ。だけど、その目には昔と同じ優しさがあった。
「おい、リリー!久しぶりだな!」
寅さんの弾けるような声がラーメン屋の狭い空間に響く。隣にいる兵頭さんと名乗る男は、少し気まずそうに私を見ていた。
「偶然ね、本当に。でも…寅さん、ちょっと太った?」
私がそう言うと、寅さんは豪快に笑った。
「旅ばっかりしてるから、どこでも食っちゃ寝してんだよ!いやー、それよりお前、元気だったか?相変わらず綺麗だな!」
その言葉に胸がぎゅっと締め付けられる。冗談みたいに聞こえるけれど、寅さんの言葉には嘘がない。昔からそうだった。だからこそ、彼に何度も心を揺さぶられてしまう。
ラーメン屋を出ると、雨はさらに激しくなっていた。寅さんが傘を広げ、何の迷いもなく私に差し出す。
「ほら、相合い傘しようぜ。な?これくらいはいいだろう。」
その優しさが、時に意地悪に思える。
「寅さん、何でいつもそうなの?」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
「ん?何がだよ?」
彼は不思議そうに首を傾げる。その無邪気さがまた、胸を刺す。
「何でもないわ。」
笑顔で誤魔化すけれど、本当は聞きたかった。どうしてあの時も、今も、私の心に触れたまま、手を離すの?どうして、何も約束してくれないの?
ホテルのロビーで一緒に座った時、寅さんがぽつりと呟いた。
「リリー、お前さ、俺なんかに付き合ってたら、幸せになれないよ。」
その言葉が何より切なかった。
「寅さん、それ本気で言ってるの?」
彼は少し俯いて、雨の音を聞いていた。
「俺は…こういう人間だからよ。お前のために、ちゃんと…なんかしてやれる自信がねぇんだ。」
「そんなの、私が決めることでしょ?」
心の底からそう思った。でも、彼が背負っている何かが、私には分かりきれない。そういう男なのだ、寅さんは。
夜が更け、別れ際に寅さんが傘を差し出してきた。
「これ、持ってけよ。まだ雨降りそうだしな。」
「いいの。寅さんが使いなさいよ。」
断る私の手を強く押し戻して、彼は無理やり傘を渡してきた。
「大丈夫だ、俺は濡れるの慣れてるから。」
その言葉にまた、心が揺れる。
「寅さん、また会える?」
気づけばそんな言葉が口をついていた。
「さぁな。でも、人生ってのは面白ぇもんだからよ。またどっかでバッタリってこともあるかもな。」
雨の中、傘を差して歩く私の後ろ姿に、寅さんが何を思ったのかは分からない。でも、私は分かっている。寅さんは、ずっとあの場所に立っている。そして私は、それでも彼を好きになる自分を止められないのだ。
またいつか、彼に会えるかもしれない。そんな希望を胸に、旅を続ける。それが私たちの「相合い傘」だったのかもしれない。